出会いと事件
〈長い戦乱の世が終わり、ホードガレイは統一された。それに伴ってオータット伝説も修正が迫られている。それはつまり、従来の諸侯が語り継いでいたような自分たちの種族の優越性ばかりを記録した我田引水なものでもなく、ましてや人間オータットを悪魔めいたものとして描くのでもなく、客観的な学問の光を当て、新たな時代に生きる全ての人々の指針となるものである。本書がその助力になれば、これほど喜ばしいことはない。
――タニク・ポッ『オータ伝説小論』〉
〈エッセは小さな小窓から流れてくるタイムの匂いに、ほうきを動かす手をとめました。一体なぜでしょう? エッセは今までこんなよい香りを嗅いだことがありません。あの恐ろしいお義母さまが持っている香水の匂いでもありません。なのにエッセはそれがとても懐かしく、勇気を与えてくれるものに感じたのです。
しかし勇気がわいてきたところで、エッセに何ができるのでしょう? エッセは親を知らない、ただの貧しい娘なのです。
――ファッソー『小公女エッセ』〉
丁字路の町、シャンバンハ。この街から南西に行けば巡礼路の起点・コバトに到り、北東のかなたを目指して行けば聖地でもある王都ダルダション。そしてさらに、ここから南東に行けば最近になってセメント産業が賑わいだしたハイヤ県の県都、ハイヤに行きつく。
さて、そのハイヤの街からやって来た三人連れの旅行者が、街の玄関口にある大きな居酒屋のカウンターで、多くの「ダルダションへの巡礼者」に混じり、待ちぼうけを喰らっていた。店内を照らす、質の悪いフロギストンの薄緑がかった光が、陰険な雰囲気を醸し出している。陽が沈んでからは土砂降りの夕立で、視界も足場も悪く、とてもこれから出発できそうもない。今年の内陸部は異常気象で、一向に雨期が終わらないのだ。
三人組の最年長であり、保護者でもある医師のスタンソは、あせっていた。彼はいつでも出発できるようアルコールをひかえ、タバコばかりを消費していた。これからハイキングにでも行くかのような服装をした彼の胸にはヒモの通された、鉛の硬貨がぶら下がっている。彼は太陽が出ている間は外出ができない、吸血族だった。この一族が夜中に出歩くこと自体は、さほど珍しくない。――しかし、彼の連れはというと、夜中に出歩かせるには、少々場違いな人々だった。
傍らにいる『イ』は、日付けが変わる前での旅立ちをすっかりあきらめているのか、スタンソの金で、きつい酒を何杯も飲んでいく。彼女はトンという少数種族の娘で、岩石質のざらついた肌と、実際に岩石ほどはある異常な体重を持つ。そのせいで椅子に座ることが出来ず、さっきから立ちっぱなしなのに、身体の方もかなり丈夫で、なおかつウワバミなため、その健脚がふらつくことはない。――もっとも、万が一倒れられても、重すぎてだれも宿まで運べないのだが。そしてそんな無骨な形質とは不釣り合いな艶やかな髪と、大理石の女神像のように整った顔、視線が自然と超然となる、白目のない黒真珠のような眼を持っていた。
『イ』の旅装束はトン族に定められた純白の服で、まるで雪山へゲリラ戦に行くような格好だ。頭も同じく真っ白のスカーフで覆い、後ろへ几帳面に編んだ髪を下げている。腰には祈りの数を数えるヒスイの数珠までぶら下げている。こんな清潔な格好で杯を重ねているのだから非常に滑稽だが、これはトン族に与えられた悪徳が「背信」だからで、巡礼の際には己の潔白を証明するため禁欲的な純白の服を着ていなければならないのだ。
さて、『イ』の腰には十歳には届いていないであろう魔族の少女が、しっかとしがみついていた。ボロボロの翼肢に、柳の枝のように細く、変形した両脚には変形した骨を矯正するアルミ製の器具を付けている。アルミはまだまだ高価な金属だが、軽くて長旅にも耐えられるので、スタンソが奮発して買ったのだ。
旅装束をまとった少女は存外理知的な顔つきをしており、スタンソが初めてであったときには全くまともな言葉を離さなかったのだが、『イ』の教育のおかげで、かなりの言葉を操れるようにはなった。しかし人見知りがすさまじく、今は周囲の客にすっかり怯え、保護者から一寸も離れようとしない。スタンソと『イ』においしそうな料理――山羊の乳を染み込ませて焼いたパンに、ジャムをかけたもの――を見せられても、一切手をつけようとしなかった。
この娘も『イ』とおそろいの白い服を着ている。栗色をした髪はまっすぐになっているが、数日前まで彼女の髪はぼさぼさで、なおかつ虱まみれだった。それを綺麗にまとめたのは他ならぬ『イ』で、その甲斐甲斐しい介助のおかげで、少女は寡黙なこの娘にだけ心を開いていた。少女は極度の近視で、スタンソから買ってもらった黒縁眼鏡を、かなりの悶着の末、ようやくかけてくれていた。
少女の名前は、エッセと言った。――本当の名前なのかどうかは、怪しいものだったが。
スタンソはハイヤにある自由学校の専任医師で、『イ』もそこで住みこみで働く職員だった。自由学校というのは単なる福祉施設ではない。ハイヤ県と隣接三県の中で、芸術音楽を学べる唯一の教育機関なのだ。かつて起きた閏年戦争とその後の空位時代には諸侯や豪商たちが文芸・美術・音楽を保護し、それぞれを志す若者たちのための教育機関を整えていたのだが、宰相ヌガンが王政復古により国土を統一し、富国強兵政策に着手するとそれらの学校に逆風が吹いた。トップダウン方式の教育制度改革によりそれらの私学校は接収・統廃合され、政府の方針に乗っ取った国立大学と、宗教学校の二つにへと編成された。この改革はあまりに実学一辺倒で、各大学に設置された学部は法学部・工学部・商学部・農学部・医学部の五学部のみ。文学・芸術は社会を堕落させる元凶として、首都にある数校でしか教育が許可されなかった。
それに不満を示した各地方の有力者たちが新たに設立したのが自由学校だった。ここでは廃校になった私学校を修繕し、芸術・スポーツの教育に力を注ぐとともに、種族の壁を超えた新しい教育の模索を行ったのである。宰相は意外なことに、この教育復興運動を黙認した。丁度いい庶民のガス抜きとしてみなしたからである。とくに「ハイヤ自由学校」では、工業化を急ぐあまりおざなりになった児童福祉に関する研究も行っていた。人間にとって幼児期・青年期の豊かな環境がどれほど重要かを啓蒙するのである。医師スタンソの家系も地域貢献の一環としてこの学校に多額の資金援助をしているばかりでなく、彼も個人的に児童の健康などについて幾度となく助言を授けていた。そんな彼らの活動が実を結び、ハイヤ市内の識字率はここ十年で、低所得層も含め80%を超えた。
しかしそんな成果を耳にして、問題を抱えた子供たちが無責任に次々と連れてこられてもいた。口減らしとして殺される代わりに、毛布にくるまれ校門前に捨てられた赤子、大黒柱が死に、一家離散の憂き目に遭い流れ着いた子供、警察の連中はたいてい虐待から保護され、幼くしてこの世の地獄を全部味わった子供を連れてくる。スタンソはそういう子供の診察もし、それと平行して虐待を行った親族を告発するための書類を作成したり、子供たちの里親探しに奔走したりもしていた。しかしこれでも一昔の、子供の命が家畜一頭より安かった時代よりはましなのだった。
エッセもそんな門前に捨てられた少女の一人にすぎないはずだった。だが、彼女の身体に不審な点が多すぎることを自由学校の校長で、スタンソの親友であるソペアが気付いたのだ。
スタンソは彼女――ソペアの案内で、上手く西日から避けられる、校舎の中庭に案内された。
中庭の真ん中には噴水があり、四方にはベンチまでしっかりと備え付けられているというのに、その少女は『イ』に膝枕されつつ、ぼろ雑巾のようなものにくるまっていた。
『イ』がスタンソたちに気付いてこちらに首を向け――白目がないのでどこを向いているのか、わからないが――少女もすこし顔を上げてじっと彼らの方を見つめる。『イ』の服の端をぎゅっと握りしめ、近づいてくる大人の一挙手一投足を子細に観察していた。そこから少し離れたところでは、車椅子が横倒しになったまま放置されている。
「ごめんなさいね、その子、起こしてしまったかしら?」ソペアにそう尋ねられて、『イ』は首を横に振った。
「それじゃあ練習が疲れてしまったのかしら。――さ、コルドラン先生をお連れしたわよ」
スタンソを一瞥したあと『イ』はうなずいて、その魔族の少女を抱き起こした。スタンソがぼろ布だと思っていたのは少女の翼腕で、身体の方はちゃんと、清潔そうな古着をまとっている。
「この服はこの子のものかな?」
「わたしのお下がりです」『イ』が淡々と応える。その声はいかにもこの一族らしい、蓄音器に蓄えられたコマドリの歌みたいな響きだった。
少女はスタンソを間近に見るなり、そそくさと保護者の影に隠れた。防光服をまとって黒づくめのスタンソを、あからさまに警戒し、『イ』の肩と腕をぎゅっと力いっぱい握りしめている。
「怖がる必要はないわ。この人はお医者さん、オ・イ・シャ・サ・ン、……わかるかしら?」
少女は微動だにしない。皮膚病を患っているのか、カサついた顔の肌から充血した眼玉が二つ、こちらを睨んでいる。
「ひょっとして言葉がわからないのかね?」
「そういうわけではなさそうなんだけど」ソペアは肩をすくめた。「怒るといくつか言葉を喋るけど、罵倒の言葉ばかりで……」
スタンソはうなる。今までその小さく尖がったお耳に入ってきた言葉が、罵詈雑言ばかりだったということだ。
「しかし、こんな風に抱きつかれているんじゃあ診察なんてできん。『イ』、ちょっとこの子を膝の上でじっとさせておいてくれないか」
そう言われたトン族の娘は慎重かつ強引に少女を引っ張り出す。少女は獣のように呻くが、ばたつかせる手足には力がこもっていない。なので『イ』の剛腕の前に、いともたやすく屈服した。
がんじがらめにされた少女はスタンソを見上げる。怒っているというより、怖がっているらしい。全身を見ると意外と大きい子だ。角が最近になって抜け落ちてしまったらしく正確な数値は出せないが、年齢は九歳くらいだろうと踏んだ。
スタンソはまず、顔から少女を診立てた。その猫のような金色の瞳を持った目は血走ってはいるが、眼病にはかかっていない。次に彼は少女の口を開かせようとした。
「お嬢ちゃん、こんな風にお口は開けられないかな? こう、『エーッ』って」
彼は上下の鋭い犬歯を見せてまで実演してみせたが、かえって彼女を怖がらせてしまった。仕方なく『イ』が後ろから半ば強引に口を開かせる。
「失せろ! 誰に養ってもらってるんだ無駄飯食い! クソッタレ!」少女は知っているわずかな言葉を挙げて抵抗する。スタンソは唾の飛沫を浴びながら口の中をのぞいた。……『イ』の世話のおかげだろう、どれも綺麗に磨かれている。さらに幸いなことに、殴られて折れたような歯もない。ただし、生え替わる前の乳歯がずいぶんと多かった。
「顔はもう結構、はい、お疲れさん」疲れたのはむしろ、スタンソの方だった。彼がつかんでいた手を放すと、少女は顔を『イ』の胸にうずめる。
「そのままでいいから、背中をめくってくれ。聴診器をあてるぞ」
言われた通り『イ』は少女の背中を露わにした。――それを見ると、スタンソの口から「おお……」という呻きが漏れる。ずっと荒野で寝起きしていたかのように、古い擦り傷でびっしり覆われ、その中にまるでホコリで隠されたかのような、古い刺青が埋もれていた。
「……地図? いや、国旗か?」
ホードガレイの紋章である四芒星旗――五芒星の頂点一つを切除し、ホードガレイ内に棲む五民族の融和を説いている。しかし、なんでこれが少女の背中に?
「国粋主義者が彫り込んだのか? この子はアナーキストの子か?」
「わからない……」ソペアは弱々しく、大きな角の生えた頭を横に振る。
実に痛ましいことだが、聴診器を丹念に当てても、呼吸音におかしな具合はない。肺病に罹ってるということはないようだ。
次に両腕を診る――。虐待されていた子供はとっさに身をかばうため、手足にたくさん傷がつくのだ。『イ』は少女の右手首をつかみ、昆虫標本のように横へゆっくりと引き延ばす。少女の方は、されるがままだ。さらにスタンソも折りたたまれていた偽指と皮膜を慎重に広げ、子細に観察した。
五本の主指に生えた平爪も『イ』の手入れだろう、きちんと切り揃えてはいたが、栄養失調なのか所々伸長が止まったような紫色の縞模様がついていた。
「翼にも栄養状態が悪かったしるしがあるな……」スタンソは三本の膜偽指をみせながら説明する。
「まずは外側の第一偽指、ここだけ平べったく、でこぼこしているだろう? これはカルシウム不足で骨がもろくなり、一度何かのはずみで折れたのが自然治癒したものだ。
そしてここの皮膜を見たまえ。ボロボロと穴があいている。典型的なたんぱく質欠乏の症状だ。末端の膜からこうして穴があきはじめるわけだが、ここまでひどいのは初めてだな。こちらの膜も、相当危ない。皮膜の色もかなりに悪い」
「この子の皮膚病も、栄養失調のせい?」ソペアが訊ねる。
「そうだな、間違いない」
左の腕も確認すると、そちらもほぼ似たような状態だった。別に魔族の翼は太古に跳び回っていた祖先の名残りに過ぎないので、どんなにボロボロでも日常生活に支障はない。とはいえ、直視するのがたまらなく辛い。次は足を見せてくれとスタンソは『イ』に言う。彼女は少女が履かされていたスカートをめくった。ここでスタンソは、この少女の置かれていた環境の全体像をはっきりつかんだ。
「……この娘、監禁されていたんだな。それもかなり長いこと。どやら『生かさず殺さず』というような扱いだったらしい」
「やっぱりそうだったのね……」ソペアもため息を吐く。筋肉のほとんどついていない両足は不自然な格好でずっと押し込められていたためか弓なりに歪み、左右で形と長さが若干異なっていた。足の裏には土踏まずがなく、爪も巻いてしまっている。この年齢ならある程度の矯正して歩かせることは可能だが、普通の子のように、元気よく走り回ることは難しいだろう。
それらの身体的特徴より、さらに明確な監禁の証左は、左足首にあった足かせの跡だった。それはつい最近まで彼女を縛っていたらしく赤黒いアザになり、一部は化膿して体液がにじみ出ていた。
「まさか脚の先を切らなきゃならないということは、ないかしら……」ソペアが心配そうに訊く。
「いや、その心配はない。……しかし念のため塗り薬を処方しよう。産褥熱対策につかうやつだが、皮膚病にもよく効く。それを塗って、清潔な包帯を巻いておく。出来るかね?」スタンソは『イ』に訊ね、彼女はハッキリうなずいてみせた。それを確認すると、彼は放置されたままの車椅子が気になりだした。
「あそこに転がっているのは、この子のか?」彼はそれをあごでそれを示す。
「ええ、あまりじっと座ってくれなくて、ちょっと難渋してたところなの」
スタンソはしかめっ面をした。
「いきなり椅子の上にじっとさせておくなんて無理だぞ。どのくらいの長さかは知らんが、この子は長いこと人間社会から切り離されて生きてきたというわけだ。そういう児童に通常のルールを教え込むのには人も時間も、普通の子の何倍の量がかかる。歩行が困難なら、まずは脚に器具を取り付けて、何ヶ月かは這いつくばらせておくしかない。特にこの歳にまで成長してしまった子は……。君も専門家なんだから、わかるだろ? とにかく時間がかかるんだ」
「ええ、私もあせりは禁物だってことはわかってる。だけど……」ソペアの言動は煮え切らない。
「どうしても歩かせなければならない事情があるのか? こんな弱り切った子に?
一体この子は何者なんだね? どんな事情がある? ……腰を落ち着かせて話そうか。洗いざらい説明してくれまいか、な?」
彼は目の届きやすい中央の噴水の脇に腰掛けた。ソペアもその横に座り、足を組む。
少女は不機嫌そうに『イ』の親指を噛んでいた。結構な力で噛みつかれているというのに、『イ』は別に痛がるわけでもなく、身体を前後に揺すりながら少女の背中をポンポンと叩いている。
「ええと、まずは何から話せばいいのか……」
「時間軸に沿って、一から話してくれ。まずはあの子、どういういきさつでここに来たんだ? ……タバコもひかえておこうか」
ソペアは部屋から着てきた自分の上着の裏側をまさぐった。その動きを見てかれは巻きたばこを取り出すが、彼女が渡したのはライターではなく、二つに折りたたまれた反古紙だった。スタンソは少しがっかりした。
「あの子は二日前、うちの校門前にうずくまってたのよ。よほど過敏症なのか、何の音も聞かないで済むよう、耳をふさいで、ね。それを朝一番に出勤してきたとある事務員が見つけて、そばに置かれてたその手紙も一緒に見つけたの」
彼は気を取り直してその紙片を開いて読んだ。タイプライターで打たれた文章は、こんな内容だった。
ハイヤ自由学校 学校長殿
この娘をダルダションへ、どんな形でもいいので乾の一月下旬までに送り届けて頂きたい。無理でしたら一週間以内にこの手紙と娘を処分してください。道中これ以上の旅が困難だと判断された場合も、同様の処理をお願い致します。娘のことも手紙のことも外部に漏らさぬよう、くれぐれもご内密に。
ダルダションに到着されましたら、レイサン通りのゴタク大尉にご一報をお願い致します。報酬その他についても同氏にご相談を。
追伸
かの娘はエッセとでもお呼びください。
「胸クソ悪い内容だな……」そう吐き捨てて、手紙をソペアにつき返す。
「ゴタク大尉という人物に心当たりはあるのか?」
「いいえ、全然」
「まったく、軍人か政府の連中が何を企んでるかは知らんが、自分たちの目的のためにこんな子供を利用するなんて実におぞましいことだ。軽々しく『処理』だ『処分』だ言いおって……。それにあの子の名前を『エッセ』にするというのも、実に悪趣味じゃないか。君もあの子も、舐められたものだな。虫唾が走る」
最後の『虫唾が走る』という熟語に少女は反応し、一瞬怯えた視線を向けた。
『エッセ』というのは、『小公女エッセ』というおとぎ話に登場するヒロインの名前だった。悪い義母にいじめられていたが、その正体は女王陛下の隠し子で、長い旅の果てに政敵と義母を葬り、王位へ就くという筋立てだった。要するに、この子には王族の後ろ盾がある、ということを仄めかしているわけだ。
「あなたはこの子、王族だと思う?」
「さーて、王族だって他の魔族と身体のつくりは一緒だろう。正直わからんね。
しかし、仮に王族だとしたら、身体をここまで痛めつけるものかね? どんな政治的駆け引きが動いているのかは知らんが、常識に照らし合わせて考えれば、ありえないと思う」
二人は少女に視線を戻す。彼女は『イ』の口を無理矢理開こうと、両腕で悪戦苦闘していた。さっきの診察のお返しというわけだ。少なくとも自己と他者を見分けることが出来る程度の理性があるらしいが、その行動に「囚われのお姫様」らしさを見出すことはできない。
「それで、これからどうするんだ? 紙切れに言われている通り、あの子をダルダションへ連れて行くのか、このまま自由学校で匿い続けるのか?」
「うーん……」
ソペアは首を傾げるばかりだ。――まったく、バフォメットというのは、肝心な時にばかり、優柔不断だ。
気まずい沈黙を、校舎の鐘が破る。少女はさっと顔を上げ、目を細めながら音の出所をしきりに気にしていた。
「どうもあの子、近眼のようだな」その様子を子細に観察して、スタンソは気付いた。
「別に私を睨んでいたわけではなさそうだ。……眼鏡を調達しておいてあげよう。
――で、医者としての忠告だが、しばらく様子を見ているのが一番だと思うんだ」
「……私は、ダルダションに連れて行ってあげたい」スタンソに促されるかたちで、ようやっとソペアは言い切った。
「本気か? 到底薦められないぞ」スタンソは言う。「ダルダションまで連れて行ったところでこのゴタクという男がこの娘を保護してくれる保証なんてない。そもそも我々の善意を利用して、とんでもない陰謀に引きずりこもうとしている可能性だってある」
「それもそうだけど、なんていうか……」
「なんだ?」
「……性なのよね」
「教育者としてか?」
「そうじゃなくて、一人の親としてよ」
「ああ、そういえば君の息子も一人、ダルダションで暮らしていたな」ソペアは三つ子の母親だった。みなとっくに成人しているが。
「しかし理由はそれだけじゃないだろ。この自由学校も、立場が悪いからな……」
ソペアは応えない。――実は半年前、ハイヤとは別の自由学校で、美術科のとある生徒が卒業作品展に出した油絵を「王室の打倒を暗喩したもの」だとされて逮捕されたのだ。その裁判はまだ続いている。
「しかしだね、それでこの手紙通りに動くと言うのはちょっと、遠回りというか、的外れなんじゃないか?」
「まあ、そんなのは取ってつけた理由は置いといて――」ソペアはひきとった。「この子にも、ちゃんと家族として迎えてくれる人のところで大きくなるべきだと思うの。たとえゴタク大尉が信用できない人物だとしても、ダルダションに行けばこの子の親について手がかりが得られるかもしれない。ひょっとしたら犯罪や人身売買に巻き込まれて、親から無理矢理引き離されたっていう可能性もあるし」
「では、もしこの子の育つべき家庭が見つからなかった場合は?」
「その時は次善策として、ダルダションの自由学校に入れるわ」
「うーん……」つまりダルダションに行ったところで、この娘が損をするということはないはずというわけだ。
「しかし問題は、ダルダションにまで行く道中だ。『戒めの道』を駅馬車で急いでも、最低一週間はかかる」
スタンソは、そうだ鉄道――と言いかけるが、この言葉も飲み込む。首都ダルダションと港湾都市コバトを結ぶ国土縦断鉄道は五年前から建設が進み、一部区間ではすでに運転が行われているのだが、全面開通にはまだ一年先だ。
それと、『イ』の前で〈蒸気機関〉という熟語を使いたくなかった。
「――ま、とにかく、もしお前が引率するとして、ひと月近くこの学校を空けておかなければならなくなるが、無理だろう。もうじき後期入学の試験問題づくりで大わらわなはずだ」
「そうね、その通り」ソペアはがっくり肩を落とした。「ということは、すぐに出発ということは難しいのね……」
「しかしそれだと、時間がないな」乾の一月下旬――あと一月とちょっとだ。
二人が沈黙するとそれを見計らい、『イ』は按摩の手を休めて彼らの方を向いた。
「コルドラン先生が連れていけばよいのですよ」
スタンソは思わず聞き返す。
「なんだって?」
「先生は吸血族です。夜陰に紛れて旅をしても、誰からも怪しまれません。資産もお持ちですし、万が一トラブルに巻き込まれた時には吸血族のコミュニティに潜りこんでしまえばいいのです。そして独身です」
「万が一死んでしまっても、だれも困らないとでもいいたいのか?」
『イ』はこの問いを無視した。
「――それと、医術の心得があった方が一緒に来てくれた方が、私も心強いです」
「あ、まさか君も行くのか? ダルダションまで?」
『イ』はコクンとうなずいた。
「まあ、この子が一番なついているのはあなただしね――。でもあなたのようなトン族が、都にいれてもらえるかしら?」
「おいおい、それよりも私の都合はどうなる?」スタンソは口を挟んだ。「ダルダションに行かなきゃならんような用事なんてないぞ?」
「スタンソ、あなた最後にバカンスを取ったのはいつ?」
「バカンス?」ソペアに話を振られ、条件反射的に思い出す。
「――そうだな。もう三年は行ってない。最後に行ったのは、確かツブカリだ」彼はここで、質問の意図を呑みこんだ。
「――次の休暇は巡礼の道にしろというのか。私には自分の罪を悔いあらためるなんていう、被虐的な趣味なんてないんだがな」
「いいじゃない。あなた、自分はまだ、そんなにふけこんでないって常々言ってたでしょう? この旅行でそれを証明してみなさいな」
この返しに、スタンソはつい苦笑する。そして、まあ行ってみてもいいかという気持ちで満たされていった。この小さな命を、こんなひどい目に遭わせた連中に、ひと泡吹かせてやるというのも悪くはなかった。彼だって若いころは今以上に喧嘩っ早く、大学では素行の悪い同窓相手にしょっちゅう決闘を吹っかけて、負けなしだったものだ。その日々の思い出の方が、例のバカンス――ツブカリの月夜の浜辺を独りで散歩したことよりも、鮮明に思い出すことが出来た。
「……わかった。それじゃあ帰ったら、さっそく支度を始めよう。ソペアはダルダションの自由学校に連絡を取り、この子の戸籍抄本でもないか調べるよう伝えてくれ。電信はちょっと信用ならんから、『親展』の手紙を送りたまえ。その他の分厚い書類の中に潜りこませれば、逓信省の連中もチェックをためらうだろう。『イ』はその子の分の、……ええと」そういえば、まだ少女の呼び名が決まってない。
「やっぱり『エッセ』にするのか? それも私は気が進まないんだが――」
「あら、別におかしな名前じゃないし、私はこのままでいいと思うけど」
ソペアの意見を聞いて、スタンソは渋面をした。
「じゃあ『イ』、お前はどうだ? その子、『エッセ』という名前、気に入ると思うかね?」
そう訊かれた『イ』は少女を抱き起こす。彼女は少し癇癪を起こすが、『イ』は自分の額と、少女の狭い額をこつんとぶつけた。魔族の娘は少し驚いてぴたり泣きやむ。
「エッセ、思い出して。あなたには大切な使命があったの……」
『イ』は少女を再び寝かしつけるための子守唄のごとく、『小公女エッセ』の一節を暗誦する。トン族の言葉は、身の回りにあるものに魂を吹き込む、そんな不思議な力があるという。それはまんざら、迷信ではなさそうだ。足萎えの少女は、新しいおもちゃを与えられたかのようにニッコリと微笑み、『イ』も白い歯が見えるほど笑ってそれに応える
「これで決まったわね。本当の名前がわかるまで、この子の名前はエッセ」
『イ』は少女をぎゅっと抱きしめた。一方の『エッセ』は、まだそれが自分に授けられた名前だとは気付かず、きょとんとしている。
……そんな過程を経てスタンソと『イ』は用意周到に準備し、夜道を延々と歩き、巡礼路の本道にまでやって来た。電信を使ってハイヤに留まるソペアとも逐一情報をやり取りしてもいる。しかしこの子を受け渡すことになっている『ゴタク大尉』なる人物とは、未だに連絡は取れていない。――いや、実在する人物であり、王都の海軍省に勤めているらしいということまではつかめているのだが、彼の方から一向にコンタクトを取ろうとしてこないのだ。どうもダルダションに到着するまで知らぬ存ぜぬを貫こうと云う腹づもりのようだった。
外でビシィッと、雷が落ちる轟音が響いた。――と、同時に、エッセが雷以上に怖がる者どもが入店してきた。防水フエルトの合羽から水気がボタボタと滴らせたまま、屈強な軍人――全員ほぼ魔族――が五人ほど、破れかぶれのソファにドシンと腰掛ける。亭主は腰を屈めて、卑小な表情で注文を取りに行く。
彼らは『イ』がトン族だと云うことに気付くと、あからさまな嫌悪を向けた。彼女が怪しい挙動を見せないかとその眼を光らせて、彼女がお代わりを注文するたびにサーベルや懐に収めた短銃の安全装置をカチャカチャと鳴らして威嚇するのだ。きっと、エッセを閉じ籠めていた奴らも、こんな眼差しをしていたのだろう。巡礼客たちも、居心地悪げに肩をすくめ、こそこそと酒を飲み出す。
シャンバンハはコバト沿岸から上陸し、首都ダルダションに接近する敵軍を迎え撃つための、いわば最初の防壁だった。かつては商業発展、巡礼との間で街の未来は揺れていたが、国土縦断鉄道がシャンバンハではなくハイヤを通ることになってしまったため、ここ数年のうちにすっかり軍事色が濃くなってしまった。そして兵士たちはすっかり増長し、空回りする愛国心を発散させるため、トン族やバフォメット、さらには吸血族にまで容赦なく敵意を向けるようになっていた。たとえ相手が巡礼者だとしてもだ。最近では巡礼者をもてなす寺院や王立巡礼管理協会も、彼らとの軋轢に及び腰だ。
「おい、親父。おれの料理にハエが入ってたんだけどよ」
兵士の一人が空の皿を見せて難癖をつける。それに対し店主は卑屈な笑顔を見せて
「すいませんねえ、今日は店員が私だけなんで、なかなかキチンと料理に力が入らなくって」と、余計に彼らの癪に障りそうな言い訳を言う。その兵士は自らの力を見せつけたいのか、フンと鼻を鳴らすと、その皿を壁に飾ってあるタペストリーに向かって放り投げた。皿は粉々に砕けた。
嫌な世の中だ。かつての大空位時代のように、また国が分裂しないようにするための軍備増強を推し進めているはずが、軍人と銃後、マジョリティとマイノリティ、愛国者かオータの下僕、この国は勝手な色分けで、ばらばらに引きちぎれそうになっている。まったく馬鹿馬鹿しい、そう思って六本目のタバコに火をつけると、それを見計らったかのように雷が再び落ち、店のガラス戸が揺れた。これにはスタンソも驚いて肩をすくめる。エッセはとっさに耳を両手で塞ぎ、『イ』の服に顔を押し付けるが、肝心の、彼女の保護者はというと酔いがまわっているのか、なんとなくこの嵐を楽しんでいる様子だった。
ガチャリと店の戸が開き、外のひどい雨音が吹き込んでくる。入って来たのは二人連れの、ホードガレイにはほとんどいない、ヒト族の若者だった。彼らもびしょぬれの巡礼服をまとっている。
二人は戸口で担いでいた荷物を置き、雨具をばさばさと仰いで雨水をとばす。腰に下げている真鍮の鎖ががちゃがちゃと音を立てた。ようやく雨宿りができて安堵したのか、彼らの国の言葉で軽口を叩いていたが、若干茶色混じりの黒髪をした背の低い青年が、店の空気の異常さに気付いて口をつぐんだ。もう一人もそれに続いて笑みを浮かべたまま凍りつく。見ているスタンソの方がひやひやするような雰囲気だ。
彼らは雨具をくるくると丸めると、軍人たちの、殺意の混じった冷たい視線をくぐり抜け、こそこそとカウンター席、つまりスタンソたちの隣に座った。
「あの、何でもいいので軽食と、それから出来ればあったかい黒茶をお願いします……」
あの小さい方の若者が椅子の下に荷物を置き、巡礼の管理協会が発行する巡礼者手帳を見せつつ小声で言った。こうすると旅籠や飲食店で割引が効く。かなり流暢なホードガレイアだ。もう一人の、少し頬骨の出た長身の青年は
「あ、おれは麦酒もお願いしますね」
と付け足した。こちらは若干異国の訛りが混じっていたが、こんな針のムシロの最中、声色が堂々としていた。
スタンソはこの異国の青年達に興味を持ち、話しかけることにした。訳ありとは言え、自分たちも一応、巡礼者なのだ。同じ巡礼者同士は積極的に交流をしなければならない。そういう決まりだ。
「やあ、今この街に着いたところかね?」
そう話しかけられた小さい青年は、少しびくっとしたようだが、彼が軍人ではなく、同じ巡礼者とわかって安堵の表情を浮かべた。青年は行儀よく返事をする。
「はい、まずは管理協会の宿泊所で雨宿りしようと思ったんですけど満杯で、しばらくあっちこち入れるところを探したんですけどね……」それで街中歩き回り、この店にまで来たというわけだ。
「宿はもう取ったかな?」
「いえ、まだです。――多分取るのは難しいでしょう。こんな天気ですから」
「相部屋というのも考えられるがね。宿の方もここ数日で、色々と工夫するようにはしているからな」
「あなたはもう、泊まるところを見つけてあるんですか?」
スタンソはかぶりを振った。
「いや、私たちはこれから出発しようと思ってるんだ」
「えっ、おじさん、そりゃ無理だよ。夜間に街から出られなくなったってことぐらい、おれたちだって知ってるよ?」そう言ったのは背の高い青年だ。
「しかし私は、昼間の移動はきついんだ。わかるだろう?」
横の青年は少し考えた様子だったが、事情を飲みこんでうなずく。
「こんなことになるんだったら、もっと早く巡礼に出ればよかったですよ、ホント」青年はぼやき、出されたお茶を一口飲んだ。そして若干気持ちを落ち着けると、青年は一度、ホールの天井を不思議そうに見渡した。
「どうしたのかね?」
「あ、いえ」照れ臭げにはにかむ。「コバトとは建築方法が違うな、と思ったんです。ちょっと広すぎて、落ち着かなくて」
コバトは本来コシュ・カムという爬虫類人の街だったが、分裂時代に海の向こうのヒト族国家から租借され、住民の構成がヒト族と、ラッパ・カム――ヒトとコシュ・カムの混血――に移り変わっていた。建築様式もその時代の名残りが残り、柱を高く立たせて狭い土地にたくさんの小部屋を設けた家屋が多い。一方シャンバンハにまで来ると伝統的なホードガレイ式建築――すなわち建物の階数を二階三階までに制限して、その分一フロアごとの広さ、そして天井の高さをたっぷり確保する方式ばかりになる。天井では柱に頼らず大伽藍を生み出すため、アーチが龍の背中のようにのたうっていた。
「君たちはコバトの方から?」スタンソはなるべく小声で言ったが、神経質になっている兵士がそれを聞きつけてしまい、いっせいにカウンターを向く。青年たちも周囲を気にしながらうなずいた。
「こっちは逆に、早く出発してよかったですよ。出発があと一日遅かったら自分たち、コバトから出られなかったですし」
スタンソたちが話題にしているのは、数日前に起きた、コバト港でのフリゲート艦沈没事件だった。
コバト港は銀大陸にあるホードガレイの旧植民地との貿易を行っている最大の拠点であるが、貿易量の増加と港湾機能が釣り合わなくなって港は毎日がランチキ騒ぎのようで、船の衝突などは日常茶飯事だった。そこに軍港としての機能が無理に付加されたのだから、その混乱に拍車をかけていた。そこでかの事件は起きた。
そのフリゲートは碇泊中、突如として爆発炎上、そして沈没した。数名いた船員は全員脱出して無事だったが、事故原因に関する情報が錯綜した。初めは側を通った商船がぶつかったという話だったが、小さいとはいえ軍艦を体当たりで沈められるような貨物船は入港しておらず、そもそも軍艦に体当たりして無事に逃げられるような船も存在しない。その後大規模な爆発音などの情報が出たため、テロの可能性があるとコバトは夜間の外出禁止令が出され、ダルダションを上回る発展を続けていたこの港は火が消えたようになった。そして巡礼路沿いは事件の収拾がつくまで夜間の移動が制限された。この街にいる兵士たちまでがピリピリしているのは、このせいだ。
「君たちはコバト生まれかね? そちらの青年は、違うようだが」
「ぼくたち二人とも、オタジアからの留学生なんです、コバト大学の。丁度乾期休みが始まったんで巡礼に出ました」要するに教養旅行――グランド・ツアーというやつだ。学士なら通過儀礼のようなものだ。
「それにしては流暢なホードガレイアだな」
「彼は独学ですけど、ぼくは小さいときから父に仕込まれてたんです。……あ、そうだ」
青年は懐を探った。
「父にこれを渡されたんでした。大学は将来の商売のの人脈づくりの場だからって」彼が取り出したのは、名刺だった。青年は自嘲気味に言う。「父はずっと祖父の跡をついでの仕事ばかりだったから、人間づきあいといえば、全部ビジネス関係なんですよ」
名刺にはジャスタ・プネスと書かれていた。――プネス。たしかこんな名前の交易会社があったような気がする。彼はそこの御曹司というわけか。
「ええと、ジャスタくん」
「オタジア風にヤシュタットと呼んでくれると光栄です」
「わかった、ヤシュタット。――それじゃあこっちが私の名刺だ」スタンソも胸ポケットから紙片を取り出した。
「はあ、スタンソさん、ハイヤのお医者様なんですね」
「吸血族はみんな高利貸しとでも思ってたんじゃないかね?」
「いや、まさか」
「それからこっちにいるのは『イ』、ハイヤの自由学校で働いている。こっちの娘は……、エッセだ」
『イ』はヤシュタットたちに関心があるのかないのか、相変わらず機嫌良さそうにはしていたが、会釈すらしない。彼女の大きな瞳では、ちらりと彼らを見たのかすらも判別しない。一方のエッセは、ヤシュタットの口元をじーっと眺めていた。こちらも怖がっているのか、興味を持っているのか、わからない。子供の心は、大人以上に分かりづらい。
「そっちの彼の名前は?」
「おれっすか? フシーオって言います」
彼は上唇に泡をつけながら応えた。
「フシーオ、陽気そうな名前だな。オタジアでもその発音かね」
「あー、そうっすね、はい」なんともだらしない話し方だ。大の大人として少々腹が立つが、スタンソも若いころはこんな話し方だったような気がする。
バァン――と、遠くの木か建物に雷が落ちる。旅立ちのタイミングがまた遠のいていく音だ。
「しかし若いのに巡礼か。関心なもんだな」
「言いだしっぺはおれです、おれ」
そう言って手を上げたのは軽率そうな男――改めフシーオだった。
ヤシュタットがすかさず引き取る。
「国元にいる彼のお母さんが生きている間に巡礼したいって言ってたそうなんですが、お歳もあるので」
「おいおい、なんでお前が言っちゃうんだよ」
「成る程、代理巡礼か。親孝行だな。ますます感心だ。……で、君は何の目的で?」
「ぼくですか? ぼくはですね……」若い学士は少し言葉を選んだ。
「半分彼の付き添いですが、強いて言えばまあ、見聞を広げるためですね」
「見聞かね?」
「あ、別に父の商売のためだけじゃないですよ? ……スタンソさんは、なぜ巡礼に?」
他人にこう訊かれた際の台本は、もう準備してある。……といってもソペアから言われたことをまんま繰り返すだけなのだが。
「まあ、休暇がてらこの子を――うちの医院で療養させていた子なんだが――をダルダションにまで送り届けるんだ。……しかし、私は夜間にしか歩けないのに、夜間の出発を見合わせなければならないから、ほとほと困っている」
「成る程、そうでしょうね」
スタンソは、このヤシュタットという若者には好意を抱いた。顔つきはまだ子供っぽさが残るがその物腰は柔らかく、銀大陸からきた他の巡礼者のようなせわしなさが感じられない。もっとも、商人のせがれなのだから、この態度はいざという時のための演技なのかもしれない。
ヤシュタットはふと、身体を傾げた。なにかなと思いスタンソも振り向くと、『イ』の影からエッセがこっそりと覗いている。
「あの子、ぼくを見てますけど……」
「ああ、君の口の中を見せてあげたらどうだ?」
「え?」
「口をこうやって、歯並びを見せてやるんだ、ホラ」
スタンソはまたエッセを怖がらせないように注意しつつ、両手の人差し指で口を広げる。ヤシュタットは戸惑いつつ、それを真似る。
……エッセはヤシュタットの口元を睨んでいたが、彼の口の中には小さな犬歯しかないことを確かめるとホッと安堵した様子だった。少し『イ』の服をつかんでいた手が緩む。
「あの子、今何歳ですか?」
「……多分一〇歳にはなってないだろう」
「?」ヤシュタットは腑に落ちなさそうな表情をした。
「色々ある子なんだよ。あと、あまり喋りが上手くないからな。話しかけたいときは、なるたけ平滑な言葉を使ってやってくれ」
「はあ……」
ヤシュタットはそれ以上追求しようとはしなかった。
「ねえ、ねえ、そっちのお姉さんはいくつ?」
アルコールがまわり、一層軽々しくなったフシーオは三人分の席を跳び越え、『イ』に話しかける。彼女はチラリと彼を見るが、また興味なさげにそっぽを向け、自分の世界に入っていった。フシーオはさすがに戸惑いを示した。
「トン族の流儀を知らないな、君たちは」スタンソは小さく笑う。
「まさか、あの方も言葉が不自由っていうわけじゃないでしょう?」ヤシュタットがこっそり耳元で訊ねる。それにスタンソは笑って返した。
「ああ、いざというときにしか話してくれないがね。私も出会ってから声を聞くまで、半年かかったからな」
本当は一週間でその声を聞けた。ヤシュタットはアハハと乾いた笑いをあげる。そして再び黒茶に口をつけようとしたが、
ドシン――という足元から腹にかけて突き上げるような音で顔面をビショビショにしてしまう。
「う、あちちちち……」
彼は慌てて口をぬぐおうとするが、被害が拡がるだけだ。それを見てエッセは微かに笑った。彼を指差しながら『イ』の顔を見上げる。『イ』も喉奥から笑みを漏らしてそれに答えた。
「お二人ともひとが悪いなあ」ヤシュタットはそう言いながら、店のマスターからお絞りをもらって手先と口を拭く。
「よっぽど近い所に落ちたっぽいな、雷」
フシーオが言う。しかし床はまだ小刻みに震えていた。
「いや、雷とはどうも様子が違う――」
近い所に落ちたはずなのに雷鳴はなく、それはいつまで経っても届かない。
「地震?」
「まさか! ここ一〇〇年間でそんなこと、ホードガレイでは起きてないぞ」
兵士たちもこの正体不明の揺れのせいで浮き足立ち始めた。巡礼者たちもそわそわする。――なんなんですかね? とマスターがぼそっとスタンソに話しかける。
また自分たちの旅の障害が一つ増えたような予感がした。……そしてそれはどうやら、的中したようだ。ばたんと荒々しく、店のドアが開いた。全身ずぶぬれになったコシュ・カムの兵士が、ワックスのかけられた床がビショビショになるのも気にせず、魔除けの像のような形相で踏み込んできた。――彼は通信兵だろうか、それとも将校だろうか。まるでドブネズミのような有様だが、さすがに背筋をしゃんと伸ばしている。その背中には紺色の制服を着た、二人の警官も控えていた。彼らも濡れネズミだ。
店にいた兵士たちは一斉に立ち上がり、背筋を正して彼を迎えた。『イ』の立ち姿と違い、酔いがまわってややふらついているので傍からみていると少しおかしい。
「シャンバンハの陸軍兵士諸君! 緊急の招集命令だ!」ずぶぬれの兵士が号令をかける。
「オゥ!」広いホールに、彼らの重い声が響き渡る。さっきの揺れよりも鼓膜に与える衝撃は大きい。大した迫力だ。
「ここにいる兵の数は何人だ?」手近にいた兵士に訊く。
「は、五人であります!」どうやらこの男は、彼らの上官らしい。
「では全員、直ちに駐屯地へ戻れ!」
「少尉殿、一体何があったのでありますか」
「駐屯地に戻った際に説明がある! さあつべこべ言わず、直ちに戻るのだ!」
そう一喝され、兵士たちは散開した。士官も踵を返して出ていき、警官が残った。
「今からここにいる客を対象に身元照会、身体検査、物品検査を行う!」
あごひげを生やした巡査が言った。残った巡礼客から口々に不満が漏れる。
「なんだよそれ」
「調子に乗るんじゃないよポリス」
「納得いかない。理由を言えよ」
彼らは次々と罵る。しかし、大声を出した中年の巡査はそれを黙殺し、年若い巡査たち――そのうちの一人は恐らく、魔族とヒト族との混血――に客の全荷物を集めるように命じた。
「それじゃ……、荷物を全部ここに集めて」彼もこの状況に怯え、戸惑っているようだ。スタンソはそれを観察し、(押せば動くな)と察した。
「お巡りさん、協力したいのは山々だが、ここにいるのは敬虔な巡礼者だ。自分の罪を洗い流したい人もいる。よほどのことがない限りそれを根掘り葉掘りするなんて、寺院に対する一種の冒涜だとは思わないかね」
「はあ、ああ……」巡査は曖昧に返事する。しかしそれを、
「これは国家の保安に関する、極めて高度な捜査だ。話すことは出来ん!」と、例の上司らしき警官が一喝する。そしてもう一人の若い巡査も黙々と巡礼者の荷物をひったくってゆく。――しかし、かの迷いを見せた巡査は、亭主のこの一言で、とうとうほだされた。
「そうだ思い出したよ。お前さん、カミヤンところの次男坊だろう? ――おれはまだこんなちっちゃいときしか見てなかったが、ここいらで混血の夫婦なんてあそこぐらいだし、目鼻がおふくろさんそっくりだ。大きくなっちまったなあ。
……お前さんもこの街の育ちで、言ってみりゃ巡礼者さんに喰わせてもらったようなもんだろ? お手柔らかに頼むよ、な?」
「貴様、それ以上いえば、公務執行妨害で――」
しかしかの次男坊は、ぽつりと白状した。
「実は、駐屯地の火薬庫が、爆発したんです」
「爆発? さっきの揺れのことか?」
「はい、火薬庫はここから三里先の――」
「古い懺悔堂だろう。それを軍用地を拡張するときに接収して使ってた、そうだな?」
「いや、私も詳しくは知らないんですけどね……」
「これ以上喋るな。これは軍事秘密だぞ」
「爆発の原因はなんだ。落雷かね、それとも火つけかね」スタンソも重ねて訊ねる。
「それも貴様らとは関係が――」またあの中年巡査が口を開くが、
「おいおい、懺悔堂ってことは巡礼路沿いに火薬庫があったのかよ」
「怖いわ、一歩間違えてたら巻き込まれてたってことじゃない、わたしたち」
「そもそも懺悔堂を火薬庫にするなんて、罰あたりだ」
「貴様ら、言わせておけば……」中年巡査はわなわなと震えだした。「巡礼者だからと大目に見ておれば図に乗りおって、一人ずつ徹底的に締め上げてやる。こっちには大儀と権限があるんだ。……まずはそこ、土人形の女だ」
そう指されたのは『イ』だった。彼女はきょとんとした顔をして、初めて巡査の方を向いた。
「貴様、私が店に入ってから一度も顔を合せなかったな。何かやましいことがある。そうだろう」そしてツカツカと靴音を立てながら近寄り、その腕をぐいと引く。――しかし彼女は動かない。
「な、貴様、抵抗する気か」
別に『イ』に抵抗する気などなかったはずだ。ただ挙動が遅れて、巡査が重すぎる彼女を動かせなかっただけである。
「お姉ちゃん!」エッセが叫ぶ。――『イ』は彼女に自分をそう呼ぶよう教え込んでいた。そのトン族の少女は灰色の顔色を変えることなく――傍から見れば非常にふてぶてしく――引きたてられていく。エッセも袖を必死につかむが、足がもつれて転倒する。この子は泣かない子供だった。
「ま、待って下さい。最後に入店したのはぼくらですよ? 怪しむのでしたらその人よりぼくらです。調べるならこっちからにしてください」そう言ったのはヤシュタットだ。
「おいおい」そう答えたのはフシーオ。
「大丈夫かね?」
「ぼくらただの学生ですから、やましいことなんてないですよ」少し笑いながら、スタンソの憂慮を手の平を振って遮る。
巡査はしばらく、死んだ魚を値踏みするような眼でヤシュタットとフシーオ、そして『イ』を見比べた。そして、彼らにこう命令したのだった。
「――では、貴様ら三人を、同時に取り調べる」
「え」
「何度も言わすな、お前ら全員、だ。まずは荷物の中身を出せ」
もう一人の若い警官に顎で指図する。その巡査は喰いかけの皿が乗ったテーブルを乱暴に薙ぎ払い、爆発の衝撃でも割れなかった店の皿が、ついに砕けた。この街育ちの巡査は板挟みにあい、苦虫をかみつぶしたような表情をして棒立ちしていた。
ヤシュタットは観念して、ザックを抱えて来てテーブルの上にそっと置く。『イ』も宿でまとめたばかりのリュックを開け、中身を放りだす。
「……おい、なんだ、この本は!」
「あ」
ヒゲの巡査が怒鳴る。――なんとヤシュタットと『イ』は、こげ茶色の表紙をした、同じ本を持っていたのだ。しかも二人とも、その本がよほど大事なのか、中身を濡らしてしまわないよう、水をはじく半透明の油紙でくるんでいた。表紙の金色の文字が、一文字二文字ほど読み取れる。これにはヤシュタットは驚いた。
「これはなんだ? 分裂主義者の暗号表か? それとも魔術の経典か? ん?」巡査は鬼の首を取ったかのような言いようだが、「魔術」という古ぼけた単語を出したため、スタンソは窮地だというのに、危うく吹き出しそうになった。彼は手柄を立てたという歓喜を、水を吸って縮んだ制服で無理矢理締め付け、押さえているようだ。――彼は部下の二人に中身を検分するように命じた。
二人の巡査は、水を吸った手袋を付けたまま本のページをめくる。スタンソは、青年が本のページが湿ってたわんでいくのを惜しそうに見つめているのを見つけたが、それよりも意外だったのは『イ』の表情だ。ヒゲの巡査に対して、怒りと軽蔑の入り混じった眼差しを向けている。瞳の色がどんどん深まっていき、井戸の底のようになる。我慢強い彼女がこんな感情を示すことほど驚くべきことはない。
「貴様、なんだその表情は!」
「……」そう怒鳴られても、彼女は余計寡黙になる。
「そんな態度をしていられるのも今のうちだぞ、この本の中身が明らかになればお前らの、陰謀も……」
「あのう、捜査官どの」巡査の一人がおずおずと声をかけた。「これ、オータに関する本です。学術書です」
「なに?」
「こちらもそうです、捜査官どの」
捜査官はぽかんと口を開けた。彼らにしてみれば困ったことになった。巡礼者が勇者オータの本を持っていても、別に不思議ではない。ヒゲの巡査は二人の部下から本を取り上げ、中身を見比べる。当然中身は一緒だ。彼は更にひっくり返し、メモが挟まってないか確かめるためしつっこく揺する。しかしページをどんなに振ろうが、しおりの一枚も落ちてこなかった。
「どうやらテロリストの暗号表ではなさそうですな、巡査殿」スタンソが椅子の上から指摘する。ヒゲは悔しそうに棒立ちして、肩を怒らせていたが、
「だ、だがな」と、ぶつぶつ声を漏らした。そして二冊の本を証文のように見せつけると、
「これはお前たちが、我が国を仇なす反動勢力だという動かぬ証拠たりえる。オータかぶれとは、許しておくわけにはいかない」
「あ、そ、そんな」
ヤシュタットは困惑した。ここにいた彼以外の人間の思いも同じである。ヒゲが今言ったことは巡礼、そしてこの街の歴史を全否定したようなものだからだ。当然、店内は騒然となった。彼の部下も一緒だ。
彼も部下たちの刺すような視線に気付いた。
「なんだ、貴様らその眼は。貴様ら、テロリストの肩を持つ気か」
「いえ、決してどういうわけでは……」
「なら貴様ら、そいつらを連行しておけ。それが終わればまたガサ入れを続けるぞ。まだ仲間がいるに決まってるからな。私はとりあえず、この決定的証拠を署長に届けてくる」
そう言って捜査官は本を傘にするような仕草をして、店から去ろうとした。
……彼の背中の服はビンと引っ張られ、捜査官はつんのめった。『イ』が足音もなく彼の背後に近寄り、引っ張ったのだ。
「……?」ヒゲはゆっくり振り向いた。
「その本、返してください」彼女はハッキリといった。
「はっは、とうとう馬脚を表わしたか。やはりやましいことがあるのだな。おい、こいつを取り押さえろ」
「は、はい」
警官たちからは『イ』の周りを囲うが、乗り気ではなく、覇気が感じられない。トン族には、たとえ二人掛かりで立ち向かっても敵わないことぐらい、ホードガレイでは常識だ。しかし彼は、所詮は女だと見くびっているのだ。ヒゲは二冊の本を重ねると、糸くずを取り除くかのように彼女の手を振りほどこうとした。――もちろん彼女は離さない。
「おい、こいつら現行犯逮捕だ。携行武器の使用を許可す――」
そう彼が言った刹那、『イ』は空いていた左手で本を積んでいた腕をつかみ、大の男が相手だというのに、相手を軽々と捻り上げた。捜査官は絞るような声でうめき、本をぼたぼたと落とし、咄嗟に踏んだ皿の破片がちゃらちゃらと鳴った。――そして『イ』は勢いづけて彼をテーブルに投げ落とした!
「おい『イ』、やり過ぎだ!」スタンソはとうとう立ちあがって彼女を咎めた。……彼女はもう目的を果たせたため、もはやそのヒゲ男に関心を持ってない。ぷいと振り向くと、喉を広げて床に落ちた本を拾い上げ、ページが欠けてないか確かめている。
「貴様ら、ぜ、全員国家反逆罪で――」そう言う捜査官は息も絶え絶えだ。外ではまた雷が落ちる。彼にそんな罪状を告げる権威があるのかどうか、と疑問に思う間もなく、今度は稲光とは違う、ぱん、ぱん、ぱんという乾いた爆発音がした。――もちろん、火薬庫が吹き飛んだ時の轟音とも違う。
その音を聞くと、ヒゲの捜査官は慌てふためいて立ち上がり、一呼吸置いて
「……行くぞ」
とだけ言い残して店から立ち去った。『イ』の方を向くわけでもなく。二人の巡査も一度は後ろを向くが、無言のままその後を追った。入口の戸についたベルが連続して鳴る。
「ありゃあ、街に出た警官や軍人を一斉に招集する緊急用の花火だよ」店内が静かになったのを見計らい、亭主が説明する。
「どうやらホントの犯人が見つかったってことかしらね。よかったわ」客の一人が言った。
「でもよ姉ちゃん、あんたちょっと喧嘩売るのは危なかったんじゃないか? これから巡礼にいけなくなるかもしれない」その連れと思わしき男性が心配の色を浮かべた。
「でも本が戻ってよかったですよ」ヤシュタットが、ホッと胸をなでおろし「あ、そうだ、すっかり散らかしちゃいましたね」と、『イ』から返された本を小脇に抱えながら割れた皿を拾いだした。
「ああ、ああ、いいよお客さん。店を綺麗にするのは店のモンの役目だし」
「そうそう、そもそも悪いのは虎の威を借りたあいつらポリなんだから」客の一人も彼の肩を持つ。
「そうは言ってもぼく、散らかってるのが気になっちゃうんです。――ほら、君も手伝ってくれよ」
呼ばれたフシーオは少し面倒くさげに席を立ち、
「よく言うよ、自分の部屋ん中、古本で散らかり放題にしている癖に」そう悪態をつきつつも、一緒に破片を拾い始める。
最後は店の親父が箒とちり取りで細かい欠片の一つまで片付けた。そして巡礼客の一人が何のお礼かはよくわからないが、一杯のブランデー分のお金を置いて店からぞろぞろ引きあげて行く。
外の雨は、いつのまにか霧雨になっていた。スタンソたちは軍人も警官も、雷も収まった店で再び飲み直す。
「いやあ、不思議な偶然ってあるものですね。まさか同じ本をお供に旅をしていたなんて」ヤシュタットも若干饒舌になった。彼はたった一杯の酒でもう酔っていた。医師としてこれ以上飲ませないようにしようと、スタンソは誓った。
スタンソとヤシュタットの間には、例の本が置かれている。『イ』は自分の方のをさっさと片付けてしまった。
「この本は君の大事なものかね」
「そうです。この国の方針にそぐわない内容だそうで、出版社ごと潰されて新品だと手に入らないんだそうで」
「ほう」
「それで、馴染みになった古本屋で見つけて、店の親父さんから売り込まれて、結構高かったけど生活費ちょっと削って買いました。これ読まなかったら巡礼には出なかったでしょうね。すごく面白いですよ」彼はフシーオに誘われて旅に出たが、この本のことを思い出すまであまり乗り気ではなかったという。
「私が読んでも構わないかな」
「ええ、そりゃあ、もう」
フシーオはパラパラとページをめくる。留学生が読むものだから平滑な旅行ガイドかと思ったら、内容はホードガレイの各民族ごとに、破壊者オータ――オタジア風に発音すればオータット――の伝説を介錯し、それを己の信仰と結び付けたのかが多方面から考察され、まとめられていた。この国の歴史の教科書に書かれているのはもっぱら、マジョリティである魔族とコシュ・カムの史観に基づいていたから、書かれている内容はスタンソでも新鮮だった。
ヤシュタットはこの本を古本屋の親父に薦められて買ったときの話を詳細に語り出した。彼は何とも気持ち良さそうに喋る。立て板に水、といった感じだ。
この本は三五年前に出版されたのだが、その時代、この国は五年前に内戦が終結して自由な気分に満ち溢れていた。海外からは様々な新しい思想や学問が入り、ようやく全ての種族が手と手を取り合って生きていこうという空気が熟成されていた。スタンソもその時代に青春を謳歌した世代だ。その時代彼は酒場に入り浸り、異国から巡業してきた楽団をしょっちゅう聴きに行っていたものだ。
さて話は本の内容に及んだ。湖のほとりにある王都ダルダシオーン――ホードガレイ式の発音ではダルダション――は、この港湾都市コバトとおよそ二〇〇里の陸路で結ばれており、その街道を魔族と五支族は「戒めの道」、そしてヒト族は「オータット(オータ)の道」と呼んでいた。この道は二都市間の重要な交易路の一つであるほか、宗教的な巡礼路としても機能していた。海の向こうに暮らすヒト族にとっては救国の英雄であり、独立運動の父オータットを偲ぶために。そしてホードガレイの人々は、オータットが付け込んだ、自分の属する種族の悪徳を懺悔するため、この街道を踏破するのだ。
ホードガレイが存在するこの金大陸は、黄土山脈という山岳地帯で、広大かつ寒冷な北部大陸と温暖で乾燥した南部亜大陸に分断されている。一五〇〇年前まで南部に住むのはほぼヒト族だけに限られていたが、北部の魔族たちは高山を越えて豊かな南部へと闖入を始め「ホードガレイ王国」を建国、かつてとある聖人が弾圧の果て客死したという謂れのある湖畔のほとりに王都を築いた。――ここに巡礼の原型が生じた。
時代は巡って、ホードガレイは順調に国土を広げていき、ヒト族の生活圏を侵していった。およそ二〇〇年もすると金大陸からはヒト族が絶滅した。ホードガレイはその後も栄華を極め、およそ五〇〇年後に大航海時代を迎えると、海峡を挟んだ銀大陸諸国――もう一つのヒト族の大陸で、ヤシュタットとフシーオの故郷――の大半を植民地にした。銀大陸からは砂糖・銀・銅・そしてヒト族原住民が奴隷として輸出され、ホードガレイの経済を潤していった。
そんな銀大陸の植民地支配はおよそ三〇〇年で終わった。たくさんの奴隷を積み、コバトへ向かう商船のなかに勇者オータットが紛れ込んでいたのだ。彼が何者なのか、そして銀大陸にいたときの経歴はなんなのかも、信憑性のある記録は一切残っていない。ホードガレイに滅ぼされた銀大陸王朝の末裔だとも、プランテーションで働いていた、ただの無教養な奴隷だとも伝えられていたが、どれも確証がない。
ともかくホードガレイに連れてこられた時点のオータットは間違いなく奴隷だったのだが、彼はコバトの奴隷市場を抜けだし、市のど真ん中でヒト族の大規模な蜂起を扇動した。騒乱を縫って彼は市内から脱出し、その足でダルダションに向けて行軍を開始した。彼の歩いた正確なルートすら判然としていないが、恐らく街道沿いに進んで行ったのだろうと思われる。彼は道中の街々で民族同士の不和の種をばら撒き、その足跡にはヒト族奴隷の蜂起、吸血族からの財産没収を目論んだ異端尋問、トン族のジプシーへの残忍な拷問、内乱、梟首、ニセの勅諭、虚言、疫病、黒魔術などなど、目を覆いたくなるような百鬼夜行が生じた。
「この街だとね――」話を聞いていた店の親父がひきとった。「オータットは地面に杖をつきたててまじないを唱えて、街中にある食い物をいっぺんに腐らせちまったんだとさ。蔵にたっぷり麦を蓄えていた金持ちが、毒になったパンを喰って真っ先に死んだんだそうだよ」簡潔にまとまった話だった。観光客相手に、主人はう言う話を何べんもこしてきたのだろう。
「当時は流行り病がありましたからね。それが誤伝したんじゃないでしょうか」ヤシュタットはそう応え、オータットの魔術師説をやんわり否定した。
さて、上陸から二カ月後、オータットは首都ダルダションに肉薄した。しかし市街はすでに戒厳令が敷かれ、ヒト族は一切の立ち入りを阻止された。それでもオータットは王都に潜入したのである。――別に彼の姿が王都内部で目撃されたわけではなかったが、市内で様々な恐慌が立て続けに起きただけでも傍証としては十分だった。市街では兵士も市民も関係ない、血生臭い諍いが数え切れないほど発生した。一週間にも及ぶ混乱の果て、この街からは隣人愛と信頼が消えた。やがてそれは一人の所出不明な魔族の男によって、政府打倒の巨大なうねりになった。その男は「奴隷の反乱は王族が御家人の私有財産を侵し、隷従させるための陰謀だ。国王を殺せ!」と声高に訴え、性別も階級も違う魔族と五支族の大衆を率いて王宮に乱入した。長引く内乱で疑心暗鬼に囚われられていた近衛兵たちは、あっさり任務も王族も捨てて遁走した。反乱者たちは容易く王の間にたどり着き、時の国王・コスジオン沈黙王はこの怒りと猜疑心に憑かれた国民たちを、威厳をもって迎えた。
どっしりと落ち着く王の威厳に、反乱者たちはたじろぎ、騒乱は引くかと思われた。――しかし、群衆の中から一人の男が進み出た。この首都騒擾をアジった、あの魔族の男だ。
「そちが我が民をたばかったのかね」と、王が普段は滅多に開かれることのないその重い口を開いた瞬間、男はなんと、自身の角をもぎ、両腕に巻きつく翼膜を引きちぎった! それはすべて布と象牙でできた飾り物で、彼はただのヒト族だった。
「おれこそがオータットだ! 羽根飾りのうらみだ!」
男はそう叫ぶと、恐慌の中そのまま玉座めがけて突進した。そして王に抱きつき、隠し持っていた短刀で心臓をえぐる――。王は深紅の衣をまとっていたが、それでも噴き出すおびただしい量の鮮血は隠せない。
王は絶命した。どこからともなく火の手が上がり、王宮は炎に包まれた。その炎はダルダション市内にも燃え移り、大火となった。ある皇太子はこの炎に焼かれ、ある王女は暴徒によって嬲られたのちに殺され、王族は全員、歴史から姿を消した。ここにホードガレイ第一王朝は滅び、泥沼の閏年戦争が起きた。――それこそ後に四世紀以上続く、大割拠時代の始まりである。その間多くの諸侯国が離合集散、繁栄と滅亡を繰り返したが、一度とて国を統一しようという気運は盛り上がらなかった。
さて第一王朝の滅亡に乗じて、銀大陸にあったホードガレイの植民地は相次いで独立を宣言したが、社会をまとめる理念がないままの独立だったため、こちらでもあっという間に内戦が始まった。ヤシュタットとフシーオの故郷オタジアは早く騒乱が収まった方だが、銀大陸も五大陸間の経済発展競走から出遅れることとなった。
さて、勇者オータットはその後どうなったのか。彼にまつわる数々の伝説、そしてそれの解釈は、ヒト族、魔族、そしてホードガレイ五支族ごとにてんでバラバラで、それは彼の死に際についても同じだった。ヒト族の伝承によると、沈黙王を討ち取った彼はその血染めの短剣で自らの喉を突いて果てたと説明しているが、吸血族の伝承ではとっさに跳びかかったトン族の青年に押し潰されたと記しており、魔族は王の遺骸から溢れた炎に身を焦がされたと言っていた。しかしどの伝説でも、彼が最後に吠えた「羽根飾りのうらみ」の意味は伝えていなかった。――とにかく、彼のホードガレイ侵攻と、それによる騒乱で、巡礼に新たな意味が加えられた。魔族もヒト族も五支族も、勇者が暴露した種族の業を悔い改め、許しを得るためそれぞれの悪徳のシンボルを身につけて旅に出る。ヤシュタットたちヒト族は奴隷時代の「盲従」の証である鎖をつけ、スタンソたち吸血族は恐慌に乗じて金儲けに走った「拝金」を意味する鉛のメダルをぶら下げているというわけだ。
スタンソは話に耳を傾けながら、そっと頁をめくる。彼の眼に、見開きで刷られた銅版画が写り込んだ。それは勇者オータットが、ダルダシオーンへの大街道、つまり巡礼路を杖を突きながら歩いていく様が描かれていた。その後ろ姿はなんとも誇らしいが、後ろへ伸びた長い影からは、血走った眼がいくつもこちらを睨み返し、凶悪そうな牙がのぞく口がせせら笑っていた。銀大陸人にとっては英雄でも、ホードガレイ人にしてみれば、彼は悪魔そのものだっただろう。スタンソの思い描くオータット像もそんな感じだった。
「やはり君も、オータは好きかね」さっきまでの状況では、そんなことは訊けない。しかしヤシュタットの返事は、ほんの少し意外なことに、「好きではありません。むしろ嫌いです」というものだった。
「おいおい、それでも誇り高きオタジア人かよ。親父さんがそれ聞いたら勘当されるぜ?」フシーオがヤシュタットの背中を調子よくばんと叩く。ヤシュタットの軽い身体は吹き飛ばされ、ベッドのシーツみたいに、カウンターにひっかかった。
「いっつぅ……、でも、好きになる要素なんてないでしょう。ぼく、留学するまでホードガレイを、一種の理想郷として見てたんです」
「理想郷かね、それはありがとう」
「だって、そうでしょう? 六つの種族が同じ言語を使っているけれど、よく見ればそれぞれが異なった風習を持って、国の中でお互い尊重しつつ歴史を紡いできた。銀大陸にはヒト族しかいませんから、これが不思議で、愛おしいんです」青年は顔を恥ずかしげに赤らめた。彼は古いおとぎ話と、現実の国家をごっちゃにしているのではと思ったが、まあ、今はどうでもいいことだ。
青年は一転、真面目な顔つきになった。
「でも今のホードガレイは何かが違います……。種族ごとに疑心暗鬼に取りつかれて、信じるべきは国家と女王陛下だけみたいな雰囲気になってる。ぼくらはずっとコバトにいましたが、あそこもひどいものです。ラッパの人は街の公職に就くことはおろか、まともな教育すら受けられません。だから女性は身体を売るしかないし……」
「軍港になったせいだな。混血人は外国かぶれの裏切り者というわけだ」
「まあつまり、この国に現在まで続く不寛容の種を播いた張本人はオータットってわけじゃないですか。だから尊敬するわけにはいきません。たとえ彼がいなかった場合、ぼくらがまだ奴隷だったとしても」そう言って彼は杯を置いた。「すいません、ちょっと熱っぽくなっちゃって……」
「いや、面白い話だったよ。やはり話をするなら若い者とするのが一番いい。たとえその内容が他愛もない愚痴でも、未来が見えるよ」
「未来ですか」
「ああ、年寄りの嘆きの裏には必ず、『まあ私にはもう関係ないことだけど』という思いがにじんでしまうからな」
スタンソは同じ本を持っていた『イ』とも話をさせたいが、肝心の彼女はノートを取り出し、カリカリと書きものを始めていた。彼はそんな二人を、眼だけで追い、考えた。
「……そうだ、これは妙な縁だ。君たちなら頼めるかな」
「なんです?」
「私の代わりに、この二人の旅についてやってくれないか? 私はこの街で足止めされてしまうかもしれないからな」
「え、別に構いませんよ、なあ」
「まあ、いいんじゃないか? 野郎二人きりの旅も味気ないし」二人は快諾した。巡礼中に知り合った人と親しくなり、共に旅を行うというのは当たり前なことで、断る理由も必要もない。
「でもあなたはどうするんですか? 巡礼はここで終わりですか?」
「いやいや、この子を無事に送り届けると契約をしたからね。何とかして手段を見つけて君たちに追いつくよ。……そうだ、私の名刺の裏を見たまえ」
ヤシュタットは紙片に再び眼を落とし、めくった。そこには月の紋章と、〈汝の血を分け与えよ〉と書かれた標語が刻まれていた。
「『福血会』――、これはなんですか?」
「それは我ら吸血族が入会している、――まあ、商工会兼サロンの印だ。私と連絡が取りたければそこを訪ねればいい。大きな街には必ずあるし、献血をすれば物品で施しも得られるよ。現ナマは理念上出せないがね。……そうだ、まずはさっきまでの騒ぎで君と『イ』がこれ以上追及されないよう手を打っておこうか」
「え、そんなことまで出来るんですか」
スタンソは片目をつむり、それ以上聞くなと合図した。
「まあ、とりあえずご厚意には甘えさせてもらいます」
「そうかね、それじゃあ今日の所は宿を探すことにしようか。ご主人、しめに何かスープでも頼む。全員分でな」
主人は素早く、湯気の立つ茶色い透き通ったブイヨンスープを持ってきた。中には黄緑色をした葉菜がぷかりと浮いていた。『イ』はエッセが飲みやすいよう、予め息をかけて冷ます。この娘はようやく、この店に入っての初めての食事を摂った。彼女のために用意された皿は、白い陶器のマグカップだった。
それを飲みきってからスタンソは亭主にお勘定を払い――ヤシュタットの「いいですって、ぼくらが食べた分は自分で払います」を聞かなかったことにして――ついでに親父に今からでも受け入れてくれる宿泊施設はないかと訊ねた。親父はしばらく思案していた。
「あ、だめだよそんなの食べちゃ!」
しかしそれはヤシュタットの声でぷつりと中断した。スタンソが振り向くと、口を両手でぎゅっと押さえつけたエッセと、おろおろと青ざめた顔をしたかの青年が見えた。
「あっ、この子……、また光りものを飲んじゃったか」スタンソが近寄るが、その瞬間にはもう、彼女の保護者がその手を引き離し、両人差し指で口をこじ開けた。エッセはもうあきらめたのか、それともひどくは怒られないと気付いているのか、目元をいたずらっぽく輝かせながら、舌を出した。――その上で、麦酒の王冠がてらてらと輝いていた。
この娘には盗癖というか、カラスのように金属製の小物をくすねては、口の中に隠してしまう癖があった。今まで「自分の所有物」というものを一切与えられてこなかった反動であろう。
「君たちには悪いが――」スタンソがいう。「この子がおかしなものを飲み込まないよう、眼を離さないでいてくれんかね?」
そして、その監視対象とされた少女は、まん丸な王冠を持っていてもいいとわかったらしく、ご満悦そうに彼女の保護者にもたれかかる。そんな彼女の頭を、『イ』が軽く叩いた。
「トン」というのはペルシア語で「土」っていう意味です、確か。