〰もらとりあむタマ子〰シンプルに世界を描くという事
『もらとりあむタマ子』という作品は、前田敦子が熱演している事で注目されている映画です。確かに前田敦子演じるタマ子は秀逸で、このぐうたらで女を捨てているようなダメっ子が途轍もなく素晴らしい。この映画全体に漂う独自の空気感を生み出し、そんな困ったくらい出来の悪い娘という存在を優しく受け入れ包み込んだ空位があるからこそ、観ていてなんとも心温まる愛しい作品へとなっています。
確かに前田敦子の演技は素晴らしいですが、私はそれ以上にこの作品に感心したのは世界の見せ方。この物語は前田敦子演じるニートの娘タマ子と、優しく日々真面目に生きる父親二人の秋から翌年夏までの生活を静かに描かれたもの。甲府のスポーツ用品店を舞台に他愛なく、親子の食事風景、ダラダラ過ごすタマ子の姿、お父さんの家事している様子、用品店に訪れる人とのやり取りを、淡々と見せています。しかし一見代わり映えしない風景の中にも季節感だったり、タマ子やお父さんの心の動きだったりを繊細に描いています。またスゴい所は表現したいものを見せる為に、親子と周りの人のトーンを明らかに変えて見せており、余計な要素を与えてテーマを暈さない為の徹底ぶり。タマ子にとって身近な相手程キャラが濃く、遠い程薄く描いています。
分かりやすい例では、実家に遊びにくる姉一家は家族であっても声だけの出演。離婚で、離れているタマ子の母親は正月には電話が鳴るだけで表現され、その後携帯で話している時最初はタマ子側の声しか表現されていないのに、タマ子がハッと何かを感じた瞬間母の声が流れてきます。父親の恋人? と言う存在もタマ子がその存在を警戒して逃げている時は顔が画面から見えず、タマ子が向き合う覚悟を決めた途端にその姿を現す。と言った感じで明確に意図を持って表現されています。
見せる所は繊細に丁寧に書き、余計なモノはバッサリカット。このシンプルさが見事としか言い様がありません。
ついつい余計なモノを混ぜ混みがちな私だけにこの表現の仕方、見習わなければならないといけませんね。