~危険なプロットを観て~どのくらいの間合いで世界を描きますか?
小説のネタって、どうやって皆様は考えついているのでしょうか? 私は結構日常生活から拾っています。職場や電車や喫茶店などで人がしている会話、見えた風景そこから膨らませていく事が多いです。
そんな私が観て、ドキドキしてしまったのがフランス映画「危険なプロット」です。
薄っぺらで幼稚な文章しか書けない生徒にウンザリしていた『文章表現』の講義をしている教師が、一人の生徒が書いた「週末の出来事」についての作文を読みその文章に惹かれてしまいます。その内容はその少年から見たクラスメイトとその家族の姿。その子の才能に惚れ込み教師は生徒を個人的に指導をし共に物語を創りあげていくが……という物語。
この物語が恐くて面白いのは、その生徒は実際に目の前にモデルがあり実際起こった事を元に文章を書くという事しか出来ないという部分。したがって創作物世界と同時に隣でリアルな世界が同じほぼ同じ姿で存在すること。少年は文章を書くためにその家族と実際に交流してその生活に介入して自分の描く物語を作り上げていく、そしてその教師は少年に文章を通してその家族の世界を覗き見しつつ、その描写や表現についてアレコレと評して少年により突き詰めた世界を描かせようとする。少年が描いている世界と、実在する少年にクラスメイトの世界、そして俯瞰して少し離れた所からみている教師から見た視点が絶妙に織りなし乱れていく所が最高に見ていて痺れる内容になっています。
この物語は教師による生徒の紡ぐ物語へのダメだしも「確かにそうかも」と自分の作品への参考になるのですが、それ以上に私が観ていて色々考えさせられたのは物語との距離感。
この作品の中に出てくる物語は、映画の中においてはノンフィクションで実在する家族と作者である生徒のやり取りを描いています。そしてその作者と物語の登場人物ととなっている生徒の教師である男が読者。本来ならば、この三者は異なる世界を生きる者な筈なのにこの世界では同じ世界に生き、誰もが物語に介入して動かせる立場にあります。
それ故に背徳な要素となり、危険なプロットとなっていきます。
本来ならばこの映画の生徒と教師のように、作者・読者は物語やそのキャラクターに対しても好き勝手言えて傲慢であっても良いものです。しかし、作者=主人公であり、読者=創作物の中の一キャラクターであると、例え現実≠創作世界で多少の脚色があってもそこが自分の世界と密接につながっているこの作品。物語や登場人物を愛しながらも何処か上目線で好き勝手にその世界をみて動かしてしまう自分自身の姿を感じてしまうのは私だけなのでしょうか?
また、二人がその世界を客観視しながらも、同時にのめり込んでいるその位置感が絶妙に描かれてます。
改めて、私と作品との距離感、お気に入り作品を読む時のその作品との距離感というモノを考えたくなる映画でした。
登場人物と作者って、どのくらいの距離感で付き合っていくのが丁度良いものなのでしょうね?