「君を愛するつもりはない」と言う夫に、泣き縋って無理難題を押し付けたら家出されました。なぜかしら?
「君を愛するつもりはない」
初夜の寝室で、私の夫となったばかりの男は、開口一番そう言い放った。
思わず、口から「はあ、左様でございますか」と気の抜けた言葉がまろびでそうになる。
しかしその言葉は、私の天才的なひらめきによって、見事に反転した。
「そんな……! 絶対に嫌ですっ」
私はまるでこの世の終わりのような表情を作って、盛大に拒否してみせた。
若干わざとらしい気がしないでもないが、こういうのは勢いが大事だ。多分。
「俺が知らないとでも思ったか?」
「何をですかっ」
私をろくに見ていないことが功を奏したのか、夫は私の芋演技にどうやら気づいていないらしい。
彼は国一番の美男子と名高いご尊顔を、実に嫌そうに歪めて言った。
「“男たちを手玉にとる悪女”なんだろう? 愛されたいのなら、他の男の元に行けばいい」
「っ……!」
咄嗟に顔を両手で覆って俯くことで、込み上げる笑いを誤魔化した。
肩の震えは隠しようがないので、一旦諦めよう。
私はひっそりと深呼吸をして呼吸を整えると、バッと顔を上げて夫を睨みつけた。
「あなたは私の夫です! ならば毎日夕刻には必ず帰宅し、玄関で私を抱きしめて口付けをするべきですっ」
突き放すような言葉にもめげない私の、唐突な要求に夫の口の端がぴくりと歪んだ。
「……は?」
「そして夕食では必ず、お互いに食べさせ合うのです! あーん、と!」
「あー……なんだって?」
「そして夜は毎晩欠かさず! 腕枕で眠るのです! それが夫婦というものでしょう!?」
言い切ってから、私は再び両手で顔を覆って盛大に泣き真似をしてみせた。
指の隙間から様子を窺うと、夫は化け物でも見るかのような目を私に向けている。
「とにかく、夫婦ごっこは他を当たれ」
それだけ吐き捨てると、夫はベッドの上で盛大に駄々をこねる新妻の私を残し、部屋を出て行ってしまった。
◇◇◇
なぜ私がこのような奇行に走ったかというと、それには深いわけがある。
私、セシル・ヴァレンヌはそこそこ名門伯爵家出身のお嬢様だ。
蝶よ花よと育てられてすくすくと成長した私は、しかし親が求めるような淑女にはなれずにいた。
そんな私に、ことあるごとに両親は繰り返しこう言い聞かせた。
淑女は走らない。
淑女は日に焼けない。
淑女は猟銃を持たない。
淑女はドレスに返り血をつけない。
淑女は、淑女は、淑女は。
耳にタコができるほど聞いたその言葉が、私は大嫌いだった。
——だから、男に走ったのだ。
……いや、この言い方だと語弊があるな。
より正確にいうと、こっそり狩猟仲間を作ったのだ。
私と同じ年頃の次男坊やら三男坊の、婚約者のいない貴族たち。
家督を継がない彼らは、暇と体力を持て余していた。
だから健全に野山を駆け回り、鹿を追いかけ、川で釣った魚をその場で焼いて食べ、日が暮れるまで馬を走らせていたわけだが。
ある時期から、社交界で妙な噂が流れ始めた。
——ヴァレンヌ伯爵令嬢は、殿方を何人も侍らせ、手玉にとっている悪女だ、と。
初めてその噂を聞いた時は、口に含んでいたワインを吹き出しそうになった。
手玉にとるどころか、しょっちゅう「セシル、君が最も位が高いから!」と獲物の処理を押し付けられているのだが。
悪女というのは、先陣を切って鹿の臓物を引きずり出し、猟犬たちにくれてやる女を指す言葉だっただろうか。
まあ、それは置いといて。
噂というのは、躍起になって訂正して回る方が、面白おかしく広められてしまうものだ。
だから私は早々に悪女(笑)として生きることを決め、その後も普通に彼らと遊び回ったわけだが。
そんな私にも、去年の秋ごろ、とうとう縁談が舞い込んできた。
縁談を申し込んできた変わり者の名前は、レオナール・アルディン辺境伯。
女嫌いのくせに、数多くの令嬢の初恋を盗んできたと評判の男だ。
彼は国境警備のため、我がヴァレンヌ伯爵領が誇る、質の高い軍馬に目をつけたらしい。
こうして、妻である私の評判が最悪であることを除けば、完璧な政略結婚が成立したのだが——
流石の私も、辺境伯夫人となったからには、大人しくするつもりだった。
辺境伯が求めるのは妻の役割を忠実に果たす、淑女だろうから。
だけど、愛するつもりはないと宣言された瞬間に、ふと気づいてしまった。
——もし、この男が屋敷に寄り付かなくなったら、私はまた狩猟に行けるようになるのでは? ということに。
要するに私は、自由が欲しかったのだ。
◇◇◇
私の目論見は見事に成功し、翌日から夫は守備隊の宿舎に住まいを移した。
連絡はたった数行の手紙。
しかし、私はその手紙を何度も読み返し、深いため息をついて達成感を噛み締めた。
「……奥様」
顔を上げると、侍女のマルグリットが痛ましいものを見る目を私に向けている。
「あまりお気を落とされませんよう」
「え?」
「旦那様は、決して奥様を軽んじておられるわけではないのです! ただ、実直なお人柄ゆえに、職務に没頭しすぎてしまうところがございまして……」
実直?
私にはただの嫌味な男にしか見えなかったが、マルグリットが嘘をついているようにも見えない。
「そ、そうね……あまり無理をしていないと良いのだけれど……」
なんと答えたら良いのか分からず、私は当たり障りのない言葉を並べた。
ここで、家出するように仕向けたのは私だから、気を落とすどころか喜んでいます、なんて告げたら、きっとマルグリットに軽蔑されてしまう。
それだけは避けたい。
まだ出会ったばかりだが、年長者らしい落ち着きと包容力を感じる彼女のことが、私はとても好きになってしまったのだ。
——しかし、それから三日ほど経つ頃には、早くもこの判断が間違っていたかもと思い始めた。
新婚の夫の帰りを、無事を祈りながら健気に待つ妻。というイメージは、たった三日ですっかり屋敷中に浸透してしまったらしい。
結婚当日のお祝いムードはどこへやら。
屋敷は完全に喪に服したような空気になっている。
たどたどしくも辺境伯夫人の仕事をこなしている私がふと手を止めると、横からすかさず淹れたての紅茶と茶菓子が差し出される。
机の上には日替わりで色とりどりの花が飾られ、屋敷の主人は不在だというのに、誕生日だっけ? と疑問に思うほど豪華な毎日の食事。
使用人たちが一丸となって、傷心中の新妻を励まそうとしてくれているのが、痛いほど伝わってくる。
やめてほしい。
私のか弱い良心が悲鳴をあげてしまうので、本当に、心の底からやめてほしい。
何度本音を口にしようかと思っただろうか。
しかし、その度に、善良で心優しい彼らのがっかりした顔が頭をよぎってしまい。
私は言葉を呑み込み、曖昧に微笑むことしかできなかった。
◇◇◇
ところで。
私が当主を追い出した以上、彼の不在により滞りそうな業務は、当然私ができるだけなんとかしなければいけない。
せっかく自由を謳歌するために夫を追い出したのに。
夫の不在の穴埋めをするために、仕事に追われていてはなんの意味もない気がする。
私は窓の外に広がる森に視線を向けて、深くため息をついた。
ああ……輿入れの際に連れてきた愛馬の顔を、もう何日見ていないだろうか。
暴れずに、大人しくしていてくれるといいのだけど。
「奥様、差し出がましいことを申し上げますが」
物思いに耽っていると、家令のバルトが気遣わしげに話しかけてきた。
「屋敷に篭ってばかりでは、気も塞ぎましょう。少し外の空気を吸われてはいかがですか」
「えっ……」
「窓から見えるあの森は、代々アルディン辺境伯家の者だけが出入りを許されている森です。川もございますし、気兼ねなく散策できるかと」
「ば、馬車ではなく、馬に乗って行ってもいいかしら……?」
まさしく、これは千載一遇のチャンス。
恐る恐る私が尋ねると、バルトはにっこりと微笑んで言った。
「もちろんでございます。奥様がお連れになったレーヌも、首を長くして待っているそうですよ」
「……そうね。レーヌのためにも、少し散策してこようかしら。レーヌのために」
レーヌのためを強調する私に、バルトは深く頷く。
この屋敷の使用人たち、みんないい人すぎないか。
厩番に伝えてくる、とバルトが部屋をあとにしたので、私は慌てて鞄を引っ張り出した。
そして、奥深くに隠していた、宝物を取り出す。
「ああ……まさか、また貴方達を活用できる日がくるなんて……!」
実家に置いておいても処分されてしまうから、と持ってきた狩猟服と猟銃。
これらはみんな、狩猟仲間たちに婚約者ができてグループを抜ける時に、感謝の印として贈られたものだ。
曰く、私のおかげで令嬢達を見る目が変わった、と。
野うさぎすら狩れないか弱い彼女達は、守られるべき存在なのだと、私を見て気づいたらしい。
おかげでまったくモテない次男坊以下の男達が、「女性を丁重に扱う紳士」などと評判になり、あっさり婚約者を得た。
一方で、私に着せられた、男を次々と手玉に取っては捨てる女、という汚名はなぜかますます強固なものになったわけだが。
まあ、それも今となってはいい思い出だ。
私は狩猟服に袖を通し、ブーツの紐を締め、髪を一つにまとめてから、猟銃を肩に担ぐ。
ふと窓ガラスを見ると、久しぶりに見る“私”が笑っていた。
玄関ホールへと続く階段を降りていると、ホールにバルトの姿が見えた。
彼は私に気づいて何か言おうとしたようだが、そのまま動きを止めてしまった。
ただ視線だけが、ゆっくりと上下している。
「お待たせ」
「……奥様」
「何かしら?」
「そのお召し物は、一体——」
「ヴァレンヌの女の正装よ」
我ながら、よくまあ真顔で言えたものだと思う。
バルトは私の言葉を聞くなり、深々と頭を下げた。
「左様でございましたか。不勉強で失礼いたしました」
……ごめんなさい。
これはヴァレンヌの女(母)から、こっぴどく叱られてきた装いです。
私は内心で何度も謝罪をしながら、何食わぬ顔をして厩へと向かった。
◇◇◇
私がご機嫌なレーヌの背に揺られて屋敷に戻ったのは、あたりがすっかり夕焼け色に染まった頃だった。
バルトは蹄の音を聞きつけたのか、見送りの時と寸分違わぬ姿勢で玄関に立っている。
どうやら心配させてしまったらしく、彼は帰ってきた私を見てほっとした表情を浮かべた。
「ただいま、バルト」
「お帰りなさいませ、奥様」
「これ、料理長に渡してくれる? 今日の夕飯に間に合うといいのだけれど」
「……あの、まさか、このうさぎ」
バルトは馬上から渡したうさぎを恭しく受け取りながら、冷や汗をかいている。
「遠乗りのついでに、狩ってきたの。血抜きはしてあるから安心して」
「血っ……それも、奥様が、なさったのですか」
「ヴァレンヌの女ならみんなできるわ」
一度ついた嘘だからか、ごく自然にそんな言葉が出てきた。
なんだか、口にすると、それが本当のことのように思えてくるから不思議だ。
その晩、料理長のジェルヴェが腕を振るったうさぎの赤ワイン煮は、舌に全神経を集中させてしまうほど美味しかった。
思わずため息をつくと、そわそわと様子を伺っていたジェルヴェが、すかさず声をかけてくる。
「お気に召しませんでしたか……?」
「まさか! 毎日食べたいくらい美味しいわ。あなたの腕は最高ね、ジェルヴェ」
「お、奥様……!」
こんなに美味しく調理してもらえるなら、次はもっと大物を仕留めないと。
そうしたら、きっと屋敷の使用人たち全員に振る舞うことができる。
私が何気なくそんな話をすると、ジェルヴェは破顔した。
「それは腕がなりますね! ……奥様がこんなにも私たちのことを考えてくださっていると知ったら……旦那様も、きっとお喜びになるでしょうね」
「そう、かしら?」
「もちろんです! 旦那様は、私たち使用人のこと、それは大切にしてくださる方ですから」
ジェルヴェは誇らしげに胸を張っている。
先日のマルグリット同様、嘘を言っているようには見えないが、にわかには信じがたい。
「旦那様は、どんな方なのかしら?」
「そうですね……誠実、実直、寛大……旦那様を表す言葉はいくつもございますが、一言で言うとすれば——」
ジェルヴェは少し考えて、それからふっと顔を綻ばせた。
「よく見ていてくださる方、でしょうか」
「よく、見ていてくれる……?」
少なくとも、私のことはろくに見ていなかったけれど。
納得のいかない顔をしている私に、ジェルヴェは苦笑いをした。
「実は、この屋敷では長く狩猟肉の料理が禁じられておりました」
「えっ!?」
「先代の奥様が、品がないとお厭いになりまして……」
そんな屋敷に狩猟肉を持ち込んでしまったのか、私は。
けれど、長く禁じられていたと言う割に、ジェルヴェの肉料理は一級品だった。
「先代当主様のあとを追うように大奥様がお亡くなりになったあと、旦那様は一度だけ厨房にお越しになり、こうお尋ねになったのです。“お前の得意な料理はなんだ”と」
「それで?」
「私が野うさぎの赤ワイン煮込みですとお答えしましたら、翌日——」
そこで、ジェルヴェは少しだけ言葉に詰まった。
目元にうっすらと、涙が光っている。
「厨房に一羽の野うさぎが届きました。旦那様が自ら撃たれたものだと、後日聞かされまして……」
それから、ジェルヴェはとうとう泣き出してしまった。
私は思わず立ち上がると、恐る恐る、男泣きするジェルヴェの背中をさすった。
「ジェルヴェ……」
「旦那様は本当に、本当に……ご立派な方なのです」
「そうね、あなたたちを見ているだけで、それは私にもよく伝わってくるわ」
「ほんの少し、言葉が足りないところがおありなだけでっ」
周りの使用人たちが皆、ジェルヴェにつられて涙ぐむ中。
私だけは、“言葉が足りない”という彼の言葉に初夜のやりとりを思い出し、乾いた笑みを浮かべてしまった。
◇◇◇
こうして、勝手に免罪符を手に入れた気になった私は、堂々と狩猟に行くようになった。
午前中は屋敷の中で、バルトに助けてもらいながら辺境伯夫人の仕事を。
そして午後、その日の仕事が片付いたら、レーヌにまたがって森へ行き。
日が暮れる前には必ず戻って、その日狩った獲物をジェルヴェへ直接渡しに行く。
実に完璧な毎日だ。
使用人たちは、せっせとジェルヴェに狩猟肉を渡す私を見ても、眉をしかめない。
それどころか、心細さを必死に隠して、留守にしている夫の役割までこなそうとしている健気な奥様、なんて美談に仕立て上げてくれる。
しかし、またしても不思議なことに、周囲から全力でそんな扱いをされていると、次第にそれが本当のことのように感じてくるのだ。
……あれ、私は人格者の夫の帰りを健気に待つ、か弱い若奥様だった?
周囲に恵まれ、厚かましい錯覚も板についてきたある日。
バルトが午前の仕事中、ポツリと私にとって悲報? 朗報? を口にした。
「旦那様は屋敷の様子をたいそう心配されていますので、もう間もなくお帰りになられるかと思いますよ」
「えっ!?」
せっかくの免罪符が取り上げられてしまうという焦りから、つい大きな声を出してしまった。
私を一気に無慈悲な現実へと叩きつけたバルトは、そんな私の焦りを、何か別のものと勘違いしたようだ。
「やはり、緊張されますか?」
「え、ええ……旦那様は私のことを、あまりよく思っていらっしゃらないようだから……」
咄嗟に話を合わせようとして、思わず本音が飛び出した。
バルトは私の言葉に一瞬だけ悲しげな表情を浮かべ、それから静かに首を振った。
「奥様。それは違います」
「違う?」
「ええ。……旦那様は、若い女性というものに、強い忌避感があるのです。決して、奥様を厭っているわけではないのです」
彼が女嫌いという話は有名だが。
バルトの口ぶりから察するに、私が思っていたよりも事態は深刻そうだ。
「旦那様が社交の場にお出でになるようになったのは、十九の年からでございます。先代ご夫妻を立て続けに亡くされて……辺境伯家の当主として、出ないわけには参りませんでしたから」
十九。
私が呑気に狩猟仲間と野山を駆け回っていた年に、彼はすでに当主として社交を始めていたのか。
その事実に、なぜかちくりと胸が痛んだ。
「後ろ盾のない、若い当主。しかも未婚で、あの見目の良さですから……あの方はあの日から、ご令嬢方の獲物となってしまわれたのです」
「獲物……」
「夜会の際に暗がりへ引きずり込まれかけたことは、一度や二度ではございません。二十歳の年には、寝室にご令嬢が潜んでおられたことも——」
「ひぃっ! し、寝室に!?」
暗闇に潜む見知らぬ他人なんて、想像しただけでおぞましい。
それも、もっとも私的な空間でそんなことをされたら、私なら一人で眠れなくなりそうだ。
「ええ……その晩からしばらくの間、旦那様は屋根裏の使用人部屋でお休みになっておりました」
「当主なのに?」
「ええ、当主なのに、です」
私は言葉に詰まった。
「以来、若い女性の姿を見ると気が休まらないようで……私どもからお願い申し上げて、この屋敷に若い女中を置くこともやめました」
そこまで聞いて、私は初夜で交わした会話を振り返ってみた。
彼は、こちらの顔をろくに見ないまま、愛するつもりはないと言い放った。
もしかしたら、あれは精神的な傷を何度も負ううちに染み付いた、防御反応だったのかもしれない。
……だからといって、無礼なことには変わりないけど。
◇◇◇
バルトの話を聞いて数日が経っても、胸の奥のなんとも言えないモヤモヤが消えない。
そんな調子だからか、レーヌを走らせているうちに、少し遠くまできてしまったらしい。
そうしてたどり着いたのは、小さな村だった。
畑の前で、村人が数人集まって天を仰いでいる。
作物が薙ぎ倒され、土がめちゃくちゃに掘り返されていた。
「これって——」
「ああ! 本当に来てくださった!」
「え?」
何やら興奮気味の村人が叫ぶと、わらわらと周囲に人が集まってしまった。
「まさか……領主様に嘆願書を出してからまだほんの数日だぞっ」
「だから言っただろ! 領主様ならなんとかしてくれるって!」
勝手に盛り上がる村人たちは、私に口を挟む隙を与えてくれない。
……畑の状況と会話の内容から察するに、猪の被害に困って領主である辺境伯——一応私の夫に、嘆願書を送ったのか。
大型の野生動物を平民が狩るのは、密猟に当たる。
だから自分たちで駆除することもできなかったのだろう。
しかし、猪か。
反撃してくるから危ないと、狩猟仲間にも止められていたけど——
「この村に犬は何頭いる? あと、槍を持てる人」
これから始まる狩りへの期待感で、先ほどまで感じていた、胸の奥のモヤモヤは綺麗さっぱり消失した。
◇◇◇
結論から言うと、狩りは最高だった。
犬を使いつつ、風下にいる私の方へと槍を持った男たちが猪を誘導し、木の上で待機していた私が、銃で眉間を撃ち抜く。
誰が欠けても、この狩りは成功しなかっただろう。
思わず時間を忘れて熱中し、無事猪を討ち取った後は皆で祝杯をあげた。
そして日が傾きかけた頃、ようやく我に返った私は、手ぶらで帰路に着いたのだった。
……猪肉なんて持ち帰ろうものなら、ジェルヴェたちに心臓が止まるほど心配されてしまいそうなので。
そう、すべては完璧のはずだった。
それが錯覚だったことに気づいたのは、それから数日後のことだった。
その日は、庭園の新芽を荒らされると庭師がぼやいていたため、鹿を撃った。
庭師は喜び、大物を前にジェルヴェは張り切り、私は上等な赤ワインを出してくれるというジェルヴェの言葉に歓喜する。
なんとも素晴らしい喜びの輪だ。
私はウキウキしながら夕食の席へと向かったわけだが、そこで予想外の顔を見て、驚きのあまり転倒しそうになった。
「だ、旦那様……?」
「ああ」
「お帰りになっていたのですね」
「……あまり長く屋敷を空けるわけにはいかないからな」
相変わらず、私の顔をろくに見ない。
でもその理由を知ってしまった今、彼の態度に腹を立てる気にはなれなかった。
そうして微妙な空気の中始まった夕食は、いつもより豪華だった。
屋敷の主人が帰ってきたからだろうが、事前に知っていたのなら、教えて欲しかった。
恨みを込めて夫のそばに控えるバルトに視線を送るが、ご機嫌なバルトはそんな私の心中には気づいていないらしい。
「今日の夕食はやけに豪勢だな」
「実は、南の村からお礼の品が届きましたもので」
そう答えるバルトは、どこか誇らしげだった。
なぜだろう。心当たりはまったくないのに、なんだか嫌な予感がする。
「礼? なんの礼だ」
「猪でございます」
「っ! バ、バルト、その話は——」
私は慌てて制止しようとしたが、バルトが語る方が早かった。
「南の村が猪の食害に苦しんでおりまして、嘆願書が送られてきたのですが……奥様がすぐに向かわれて、犬と村の衆を指揮なさってご自身で仕留められたのです!」
やっぱりあの村か!
なぜか絶妙に美化されてしまっているその話を、夫は信じられなかったらしい。
眉を寄せて怪訝な表情をしている。
私も信じられないよ。
「……彼女が?」
「はい! 貴重な肉を村人たちが食べられるようにと、猪の肉はすべて村に下げ渡した上に、自分は領主様のご指示に従っただけだからと、最後までお名乗りになることはなかったそうですが」
「名乗っていないのだから、私がやったとは限らないんじゃないかしら!?」
面倒臭いことになりそうだからと、名乗らなかったことが功を奏した気がする!
意気揚々と反論する私に、バルトは優しく微笑みながら死刑宣告をした。
「奥様、猟銃を担いで黒毛の牝馬に跨るご婦人など、この領地に一人しかおられませんよ」
「うっ……」
反論の余地がない。
ぐうの音もでない私にトドメをさすように、ジェルヴェが誇らしげに主菜を運んできた。
「本日の鹿も、奥様が仕留められたものでございます」
善意しかないジェルヴェの言葉に続くように、バルトが付け加える。
「ご存知ありませんでしたか。ヴァレンヌの女性は、狩猟が得意なのですよ」
その一言に、私は思わず天を仰いだ。
私の両親とも社交をしている夫が、ヴァレンヌの女性について知らないはずがない。
先ほどから視線が痛いが、あいにく今は夫の顔を見ることはできそうにない。
「……どうやって仕留めたんだ」
「え?」
予想外の言葉に、間抜けな声が出る。
色々な心配が頭からすっぽ抜けて、夫の顔をまじまじと見つめると、夫は好奇心を抑えられない様子で、真っ直ぐに私を見つめていた。
「猪だ。木の上から撃ったのか」
「え、ええ。風下にある木に登って、近くまで追い立ててもらいました」
「よく不安定な足場で命中させたな」
「そうなんです! 実は反動で転がり落ちそうになって——」
気が付けば、私は悪女(笑)でもなく、面倒臭い新妻でもなく。
素の私になって、夢中で喋っていた。
夫も興味深そうに聞いてくれるものだから、ついつい楽しくなって喋り続け、喉の渇きを感じるたびにワインをあおった。
……それからのことは、正直なところ今すぐ記憶から消し去りたい。
いつまでも食堂にいては使用人たちが休めないからと、夫婦の寝室に場所をうつしたのだが。
そこでもひたすらワインを飲み続け、ぐだぐだになった私は完全に正気ではなかった。
「この屋敷の、使用人たちがっ、大好きなの……! みんな、私なんかにもすごく優しくて、温かくて……」
グラスを握りしめ、なぜか号泣している私の背中を、夫が大きな手で撫でてくれたことを覚えている。
もはや彼にとって、私は“若い女”ではなくなったのかもしれない。
「だから、お願いっ! 私のことは愛さなくていいから、ずっとずっとバルトたちの奥様でいさせてくださいっ」
そう叫んでから、なぜか勢いよくベッドに飛び込んだところで意識が暗転した。
◇◇◇
翌朝。
微睡の中、最初に感じたのは、不快感だ。
妙に枕が硬く、寝返りを打たなかったのか体が固まっているような感覚を覚えたのだ。
私は重たい瞼をなんとかこじ開けた途端、勢いよく体を起こして、そのままベッドから転がり落ちた。
「うわぁっ!」
「朝から元気だな」
床に這いつくばったまま見上げると、私が転がり落ちた原因が、ベッドに寝そべったままこちらを見ている。
——先ほどまで私の頭を乗せていた腕を曲げ、気怠げに肘をつきながら。
「な、な……なんで腕枕なんてしているんですかっ!?」
「君が望んだからだ」
なんだそれ! 誰がそんなこと言った!
……私だ。
初夜の寝室で盛大に泣き真似をしながら、毎晩欠かさず腕枕で眠ると叫んだのは、他でもない私だ。
まさか現実になるとは、かけらも思っていなかったのに。
私が這いつくばったまま頭を抱えていると、夫はベッドから降り、私の目の前で膝をついた。
「セシル」
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
思わず抱えていた頭を上げると、真剣な表情の夫と、視線がぶつかった。
かつて、まともに視線を交わすことのなかったこの場所で、私たちはようやくお互いの顔を真正面から見ている。
「あの夜の非礼を、どうか詫びさせてくれ。俺が悪かった」
深く下げられた頭に、息を呑む。
「噂を鵜呑みにして、君を悪女だと決めつけ、勝手に身構え……目の前にいる君のことを、俺は何一つ見ていなかった」
「そ、そんな……私は別に——」
「君はあんなにも真剣に辺境伯夫人として皆と向き合っていたのに、俺は無責任にも逃げ出して……君のことを放置した」
夫——レオナールはどこまでも真っ直ぐで、誠実に私と向き合ってくれている。
そんな彼の姿に耐えられず、私は思わず声を上げてしまった。
「違うんですっ! ……わざとなんです。自由になりたくて、わざとあなたが嫌がるようなことを言って追い出したんです。だからあなたは何も悪くありません」
全てを白状してから、謝罪の言葉と共に、深々と頭を下げる。
するとレオナールは数拍の無言の後、声を上げて笑った。
「は、ははっ! そうか、だからあんなことを……」
「旦那様……?」
「“ヴァレンヌの女性は、狩猟が得意”だったか?」
「そっ、それは……!」
まずい。
なんだか色々とバレてしまった気がする。
「“毎日夕刻には必ず帰宅し、玄関で君を抱きしめて口付けをするべき”。そして、“夕食では必ず、お互いに食べさせ合う”んだったな」
「いえ、だからそれは——」
「腕枕も毎晩欠かさずだな。分かった。セシル、君への詫びに、必ず約束は守ろう」
完全に面白がっている!
こんな人だったか? と思いながら抗議の視線を送っても、レオナールはなぜか嬉しそうに笑うだけで。
「セシル」
「……なんですか」
「あの夜の俺の発言は、全面的に撤回させてほしい」
レオナールは相変わらず笑みを浮かべてはいるものの、その声は真剣だった。
「撤回、ですか」
「ああ。“君を愛するつもりはない”というのは、嘘になってしまったからな」
「なっ……!」
国一番の美男子と名高い男に真っ直ぐに見つめられ、こんなことを言われて。
それでも冷静でいられる乙女など、果たして存在するのだろうか。
少なくとも、私は無理だ。
——男を手玉にとる悪女だの、初恋泥棒だの。
私たちはこれまで、好き勝手にレッテルを貼られてきた。
そんな私たちが、近い将来「社交界一仲睦まじい夫婦」などと噂されることになるのだが。
それが真実かどうかは、黙秘させていただきたい。
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