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歴史学科卒の私がショックを受けた日本史 〜勝てば官軍、負ければ極悪人之家也〜  作者: まるちーるだ


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11/12

第9話 歴史学と考古学は、似て非なるもの

前回で終わらせるつもりが、何故か続いてしまいました。


ここまで書いたエッセイを、例の大奥事故現場検証に付き合ってくださった先輩に一通り読んでいただきました。


現在は教授をされている、あの先輩です。


ありがたいことに、


「やっぱりワンコの文章は分かりやすいな」


というお褒めの言葉をいただきました。


やったー!


……と、喜んでいたところ、続けて先輩からこう言われました。


「歴史学と考古学についても書いてみない?」


ええ。


先輩。


またワンコさんに課題を出しましたね?


というわけで、今回は歴史学と考古学のお話です。


歴史学と考古学。


どちらも過去を扱う学問です。


そのため、なんとなく似たものだと思われることもあります。


実際、同じ歴史系の分野として扱われることもあります。


ただし、入口が少し違います。


ざっくり言うと、歴史学は文字史料を読みます。


手紙。


日記。


命令書。


役所の記録。


寺社の記録。


後世の編纂物。


そうした「文字として残ったもの」を読み、


誰が書いたのか。


いつ書いたのか。


何のために書いたのか。


その人はどの立場だったのか。


他の史料ではどうなっているのか。


そういうことを考えていきます。


一方、考古学はモノを見ます。


遺跡。


遺構。


柱の穴。


土器。


瓦。


骨。


木材。


地層。


焼土。


出土品。


そうした「地面やモノとして残ったもの」から、過去に何があったのかを考えていきます。


つまり、どちらも過去を見ようとしている。


けれど、過去への近づき方が違う。


歴史学は、残された文字を疑いながら読む。


考古学は、残されたモノを疑いながら見る。


似ているようで、実はかなり違う分野なのです。


たとえば、こんな話があります。


特定を避けるためにかなりぼかしますが、ある国の国分寺に三重塔が建てられたとします。


そして、当時の記録にはこう書かれている。


「三重塔、建っております」


次の執政官の時代にも、


「三重塔、建っております。補修の必要はありません」


さらに次の時代にも、


「三重塔、建っております。問題ありません」


文章上は、三重塔はずっと建っていることになっているわけです。


歴史学は、その文章を読みます。


誰が書いたのか。


いつ書いたのか。


何のために書いたのか。


前後の記録とどうつながるのか。


「なるほど。少なくとも記録上では、この三重塔は長く存在したことになっているのだな」


と読むわけです。


ところが、ここで考古学が登場します。


考古学は、現物を見ます。


遺跡を調査します。


柱の穴。


建物の跡。


基壇。


瓦。


焼けた木材。


地層。


出土したもの。


必要であれば、残っている木材などの年代測定。


そういったものから、


「実際にそこに何があったのか」


を見ていきます。


すると、考古学の側からこう言われるわけです。


「これ、少なくとも三十年くらいでなくなっていますね」


歴史学、びっくりです。


「いや、文章では百二十年くらい建っていることになっていますが?」


考古学、冷静です。


「でも、遺構や年代を見る限り、百二十年そのまま建っていたとは考えにくいです」


歴史学、沈黙。


「……なるほど?」


ここから、歴史学はまた考えます。


では、なぜ文章には「建っている」と書かれ続けたのか。


本当に書いた人がそう信じていたのか。


現地を見ずに報告していたのか。


形式的な報告だったのか。


三重塔を建て直すとなると費用がかかるから、壊れていると報告したくなかったのか。


「建っています。補修の必要はありません」


と書いておけば、面倒な予算申請や責任問題を避けられたのか。


あるいは、補助や負担の問題があったのか。


つまり、


「壊れました」


と正直に書くより、


「建っています」


と報告した方が都合がよかったのではないか。


歴史学、急に人間の嫌な部分を見始めます。


ああ。


なるほど。


そういうことかもしれない。


文章に残っているからといって、それがそのまま現実を正しく写しているとは限らない。


一方で、遺跡から分かることだけで、当時の人間の意図や制度の都合まですべて分かるわけでもない。


文字には文字の強さがあります。


モノにはモノの強さがあります。


そして、文字にもモノにも、それぞれ限界があります。


歴史学が文字史料を読んで、


「この時点では三重塔が建っていたと報告されています」


と言う。


考古学が遺構を見て、


「でも現物を見る限り、この時点ではもうなかった可能性が高いです」


と言う。


そこで初めて、


「では、なぜそう報告されたのか?」


という別の問いが生まれる。


ここが面白いところです。


もちろん、実際の研究はこんなに単純ではありません。


もっと複雑です。


もっと地味です。


もっと慎重です。


発掘調査も簡単ではありません。


年代測定にも幅があります。


遺構の解釈にも注意が必要です。


文字史料の読み方にも、慎重さが求められます。


だから、


「文章が嘘で、考古学が正しい!」


という単純な話でもありません。


逆に、


「文章に書いてあるから、現物の結果より文字が正しい!」


という話でもありません。


どちらも過去に近づくための手がかりです。


ただ、見ているものが違う。


歴史学は、文字に残された人間の言葉を追う。


考古学は、地面やモノに残された痕跡を追う。


文字史料には、書いた人の意図があります。


立場があります。


都合があります。


時には虚偽や誇張や形式的な報告もあるかもしれません。


一方、遺物や遺構は、そこに何かがあった痕跡を残します。


けれど、それが何を意味するのかは、慎重に解釈しなければなりません。


柱の穴がある。


でも、それは何の建物だったのか。


焼けた跡がある。


でも、それは火災なのか、儀礼なのか、廃棄なのか。


瓦が出た。


でも、それはその建物で使われたものなのか、後から混ざったものなのか。


モノは黙っています。


文字は語りすぎることがあります。


歴史学は、語りすぎる文字を疑いながら読む。


考古学は、黙っているモノから声を聞こうとする。


どちらも大変です。


どちらも地味です。


どちらも過去に触れようとしているのに、触り方が違う。


だから、時にぶつかります。


歴史学「文章では百二十年建っています」


考古学「科学的に、少なくともその年数は無理です」


歴史学「なるほど、ではなぜそう書いた?」


考古学「それはそちらで考えてください」


歴史学「急に投げないでください」


もちろん、現実の先生方はもっと真面目に議論されます。


ワンコさんの脳内では、だいたいこんな感じになります。


歴史学と考古学は、協力するととても強いです。


文字史料だけでは分からないことが、発掘によって見えてくることがあります。


逆に、遺跡だけでは意味が分かりにくいものが、文字史料によって背景を持つこともあります。


たとえば、


「ここに建物があった」


ということは、遺構から分かるかもしれません。


けれど、その建物がどういう制度の中で建てられたのか。


誰が命じたのか。


どのような役割を持っていたのか。


なぜ維持されなかったのか。


誰が報告書を書いたのか。


そういうことは、文字史料から考えることができます。


逆に、文字史料に、


「立派な建物がありました」


と書かれていても、実際に遺構を見たら、


「あれ、思ったより小さいですね?」


となることもあるかもしれません。


文字史料、盛りましたね?


となるかもしれません。


人間、昔から盛ります。


報告書でも盛るかもしれません。


褒められたい。


怒られたくない。


お金を出したくない。


責任を取りたくない。


出世したい。


面倒を避けたい。


人間ですもの。


歴史学、結局ここに戻ってきます。


人間くさい。


とても人間くさい。


三重塔の話に戻ります。


仮に、文字史料では百二十年建っていたことになっている。


けれど、考古学的には三十年ほどでなくなっていた可能性が高い。


この時、


「どちらが正しいか」


だけで終わらせるのはもったいない。


なぜ、文字史料はそう書いたのか。


なぜ、現物はそうなっていたのか。


そのズレには、どんな制度や事情や人間関係があったのか。


そこを考えると、歴史は一気に面白くなります。


文章と現物が食い違う。


それは困ることでもあります。


でも同時に、めちゃくちゃ面白いことでもあります。


なぜなら、その食い違いの中に、人間の事情が見えるからです。


歴史学と考古学。


似ているようで違う。


文字を見る学問と、モノを見る学問。


でも、どちらも過去を知るためには大事です。


文字だけでは見えないものがある。


モノだけでは分からないものがある。


文字とモノが合わさることで、初めて見えてくるものがある。


ワンコさんは、歴史学科でそういう話を聞くたびに、


「歴史、面倒くさいな」


と思いました。


そして同時に、


「歴史、面白いな」


とも思いました。


文章に残っているからといって、全部そのまま信じていいわけではない。


モノとして残っているからといって、そこからすべてが分かるわけでもない。


だから比べる。


疑う。


考える。


別の可能性を探す。


その地味な作業の先に、


「もしかして、こういう事情があったのでは?」


という瞬間が来る。


その瞬間が、歴史学の面白さなのだと思います。


ちなみに、ワンコさんは考古学の専門家ではありません。


あくまで歴史学科で学んだ人間として、


「考古学って、歴史学と似ているようで入口が違うんだな」


と感じた話を書いております。


なので、ここで書いていることは、考古学の専門的な解説というより、


「歴史学側から見た、考古学との違いにびっくりした話」


くらいに受け取っていただけるとありがたいです。


歴史学は、文字を読む。


考古学は、モノを見る。


どちらも過去を相手にしている。


けれど、過去への触り方が違う。


そして、その違いがあるからこそ、同じ出来事を別の角度から見られる。


これは、とても大事なことだと思います。


歴史は、ひとつの入口だけで全部が見えるものではありません。


文字の入口。


モノの入口。


口伝の入口。


後世の編纂物の入口。


創作の入口。


それぞれの入口から入っていくと、見える景色が少しずつ違います。


だからこそ、履き違えないことが大事なのだと思います。


文字に書いてあること。


地面から出てきたこと。


後世に語られたこと。


創作で描かれたこと。


それぞれを分けて考える。


分けたうえで、つなげて考える。


歴史学、やっぱり面倒くさい。


でも、その面倒くささが面白い。


先輩。


課題を出してくださってありがとうございます。


またワンコさんは頭を抱えました。


次回は、歴史上の女性に貼られがちな「悪女」というラベルについてお話ししようと思います。


こちらは、大学時代の友人からのリクエストです。


まずは、あの呼び方から。


淀君。


ワンコさん、この呼び方がずっと気になっております。


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