幽霊が視える婚約者は不要ですか? ―貴方が切り捨てた私の『目』、隣国の王太子には必要だそうです―
【お知らせ】
この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
「君との婚約は、本日をもって破棄する」
王宮の大広間に、第二王子エドワードの声が高らかに響き渡った。
シャンデリアの光が降り注ぐ華やかな夜会の中心で、私——リーゼル・フォン・ヴァイスブルクは、数百人の貴族たちの視線を一身に浴びていた。
(ああ、やっぱりこうなったのね)
驚きはなかった。むしろ、ようやくこの日が来たという安堵の方が大きい。
「君のような不気味な女を王族に迎えるわけにはいかない」
エドワード殿下は、金色の髪を揺らしながら私を見下ろしている。その整った顔には、隠しきれない嫌悪感が浮かんでいた。
「幽霊と会話する狂人など、王家の恥だ。いや、人として異常というべきか」
周囲からざわめきが起こる。扇で口元を隠しながらも、好奇と蔑みに満ちた視線が私に突き刺さる。
(ええ、ええ。知っていますとも。私が『化け物』だということは)
十五年間、嫌というほど聞かされてきた言葉だ。今さら傷つくほど、私の心は柔らかくない。
「そうですか、承知いたしました」
私は静かに頭を下げた。
「——え?」
エドワード殿下が目を見開く。どうやら、泣いて縋りつくとでも思っていたらしい。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします。殿下の御英断に感謝申し上げます」
「か、感謝だと?」
「ええ。殿下ほどのお方に、私のような者は相応しくございませんもの」
表情を変えずに答える私に、エドワード殿下の顔が歪んだ。
(本当は『ようやく解放される』と叫びたいくらいなのだけれど)
五年間の婚約期間、殿下が私に向けたのは嫌悪と無関心だけだった。顔を合わせるたびに「気味が悪い」と言われ、社交の場では存在しないもののように扱われた。
そんな婚約に、執着する理由などない。
「まあ、やっぱり狂人は狂人ね。普通の反応すらできないなんて」
甘ったるい声が割り込んできた。エドワード殿下の傍らに寄り添う、蜂蜜色の巻き毛の女性——セレスティア・モーリン男爵令嬢。
殿下の愛人であり、今夜の茶番劇の首謀者。
「ねえ殿下、こんな化け物と婚約していたなんて、本当にお気の毒でしたわ」
セレスティアは殿下の腕に絡みつきながら、翡翠色の瞳で私を見た。その目には、勝ち誇った喜びが満ちている。
「これでようやく、殿下は呪いから解放されるのですわね」
(呪い、ね)
私は無表情のまま、心の中で小さく笑った。
(あなたこそ、殿下に取り憑いた呪いのようなものだと思うけれど)
セレスティアの背後に、彼女には見えない影がちらついている。借金取りの怨念か、あるいは彼女が踏み台にしてきた誰かの残留思念か。
——見ようと思えば見えてしまう。それが私の『目』。
「リーゼル」
不意に、背中に冷たい小さな手が触れた。
振り返らなくても分かる。幼い少女の幽霊——エリスが、私の傍らに寄り添ってくれている。
「大丈夫。平気よ」
声に出さず、唇だけで答える。
エリスは悲しげな顔で私を見上げていた。亜麻色の髪を二つ結びにした、十歳くらいの少女。私がまだ幼い頃から、ずっと傍にいてくれた唯一の友達。
「お前のような異常者がいなくなって清々する」
エドワード殿下がとどめとばかりに吐き捨てた。「二度と私の前に姿を見せるな」
「かしこまりました」
私は最後にもう一度頭を下げ、踵を返した。
背中に突き刺さる嘲笑と囁き。『やっぱり狂人だった』『幽霊が見えるなんて気味が悪い』『王家に相応しくない』——。
(ええ、そうね。私は狂人で、化け物で、気味の悪い女)
だけど。
(それでも、ようやく自由になれる)
五年間の檻から解放される喜びを噛み締めながら、私は大広間を後にしようとした。
その時だった。
「失礼」
低く、静かな声が私を呼び止めた。
「少しよろしいだろうか」
振り返ると、見知らぬ男性が立っていた。
漆黒の髪に、深い紺碧の瞳。整いすぎた顔立ちと、威厳に満ちた佇まい。
——隣国ヴェルデシアの紋章をあしらった礼服。
(この方は……)
「貴女の『視える目』について、詳しくお聞きしたい」
男性は穏やかに微笑んだ。だが、その瞳は氷のように冷たく、私を見透かすように見つめている。
「私はルシアン・エル・ヴェルデシア。隣国の王太子だ」
周囲がざわめく。エドワード殿下の顔が驚愕に染まるのが、視界の端に映った。
「その『目』——我が国では、国宝級の価値がある」
王太子の言葉が、夜会の喧騒を切り裂くように響いた。
傍らでエリスが、どこか嬉しそうに微笑んでいる。
まるで、この瞬間を待っていたかのように。
◇◇◇
「『霊視の巫女』をご存知だろうか」
ルシアン殿下は、私を夜会の喧騒から離れたテラスへと導いた。
月明かりの下、彼の整った横顔が青白く照らされている。『氷の王太子』という異名に相応しい、感情の読めない美貌だった。
「……存じ上げません」
「我が国には古くから、死者の魂と対話し、王家を守護する巫女がいた」
ルシアン殿下は庭園を見下ろしながら、淡々と語り始めた。
「霊視の巫女は、死者の声を聴き、その未練を晴らす。時には王家の先祖の知恵を借り、時には暗殺者の怨霊から王族を守る。国にとって、かけがえのない存在だった」
(死者の声を聴き、未練を晴らす——)
それは、まさに私が密かに続けてきたことだった。
「しかし百年前、最後の巫女が亡くなって以来、その血筋は途絶えた。以来、我が国は巫女を探し続けている」
殿下の紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。
「貴女の噂は、我が国にも届いていた。幽霊が視え、彼らと会話できる伯爵令嬢がいると」
「……噂、ですか」
(まさか、隣国にまで『狂人』の評判が広まっているなんて)
私は自嘲の笑みを浮かべそうになるのを堪えた。
「私の能力は、この国では『呪い』か『狂気』として扱われております。殿下もご覧になったでしょう」
先ほどの婚約破棄の場面。数百人の貴族の前で『化け物』『狂人』と罵られる私の姿を。
「見た」
ルシアン殿下は頷いた。
「愚かな光景だった」
「……え?」
「国宝級の才能を持つ女性を、『気味が悪い』という理由だけで切り捨てる。あの王子には、宝石と石ころの区別もつかないらしい」
殿下の声には、静かな軽蔑が滲んでいた。
(この方は……私を愚かだと言っているのではない?)
信じられない思いで、私は殿下を見上げた。
「貴女の『目』は呪いではない」
ルシアン殿下は断言した。
「それは——祝福だ」
息が止まった。
祝福。
生まれてから二十年、一度も言われたことのない言葉。
家族からは「気味の悪い子」と疎まれ、使用人には避けられ、婚約者には「狂人」と蔑まれてきた。この『目』のせいで、私は人として扱われたことがなかった。
なのに。
「我が国に来ないか」
殿下が手を差し出した。
「『霊視の巫女』として、貴女を迎えたい。その能力に相応しい敬意と待遇を約束する」
月光の下で差し出された手。
それは、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のようだった。
「……なぜ」
私の声は、思わず震えていた。
「なぜ、私なのですか。私の能力が本物かどうかも、まだご確認されていないでしょう」
「確かに」
殿下は小さく頷いた。
「では、一つ頼みがある」
「頼み?」
「私の亡き母の霊と、話をしてほしい」
その瞬間、殿下の瞳に初めて感情が揺れた。
氷のように冷たかった紺碧の目に、押し殺した悲しみと、微かな希望が宿る。
「母は十年前に病で亡くなった。最期の言葉を聞くことができなかった。それが、ずっと心残りだった」
「……」
「貴女の能力が本物なら、母の言葉を聞かせてほしい。もし偽物なら、それまでのことだ」
殿下の声は平静を装っていたが、その奥に必死さが滲んでいるのが分かった。
この人は、ずっと母君の死を悼んでいるのだ。
私は目を閉じ、意識を集中させた。
——そして、感じた。
殿下の傍らに、優しく微笑む女性の姿を。
「……いらっしゃいます」
「本当か」
殿下の声が、僅かに震えた。
「銀髪に、殿下と同じ紺碧の瞳。白いドレスを召されています。とても穏やかな笑顔で、殿下を見つめていらっしゃいます」
殿下が息を呑む気配がした。
「母は……何と言っている?」
私は、亡き王妃の言葉に耳を澄ませた。
「『ルシアン、ずっと見守っていましたよ』と」
「……」
「『あなたが自分を責めていることは知っています。でも、母の病はあなたのせいではありません。最期に会えなかったことも、気に病まないで』」
殿下は無言だった。だが、その瞳に涙が滲んでいるのが、月明かりの下でもはっきりと見えた。
「『私の分まで、幸せになりなさい。愛する人を見つけて、笑顔で生きて』」
王妃の霊は、優しく微笑みながらそう告げた。
「『エリスのことも、心配しないで。あの子はちゃんと——』」
私は思わず言葉を止めた。
エリス。
今、確かにそう聞こえた。
傍らに寄り添う少女の幽霊——私の唯一の友達の名前が。
「どうした?」
「い、いえ……」
動揺を隠しながら、私は続けた。
「『エリスのことも心配しないで。あの子はちゃんと導かれています。だから安心して』……そうおっしゃっています」
ルシアン殿下は、長い沈黙の後、深く息を吐いた。
「……信じよう」
その声は、先ほどまでの冷徹さが嘘のように、温かく震えていた。
「貴女は本物だ。そして——」
殿下は改めて私を見つめた。涙の跡が残る目で、それでも毅然と。
「貴女を、必ず我が国へお連れする。必要とあらば、正式な手続きを踏んで」
「正式な手続き?」
「外交交渉でも、求婚でも」
「きゅ、求婚!?」
思わず声が裏返った。
殿下は真顔だった。
「冗談ではない。貴女ほどの才能を持つ女性を、あの愚かな王子に渡すわけにはいかない」
(この方、本気でおっしゃっているの……?)
混乱する私の傍らで、エリスがくすくすと笑っている気配がした。
「とりあえず今夜は、これで失礼する。近いうちに、正式な使者を送らせてもらう」
ルシアン殿下は一礼して踵を返した。
「ああ、それと」
去り際に振り返り、殿下は微かに——本当に微かに——口元を緩めた。
「先ほどの婚約破棄の場面、貴女の対応は見事だった。あの愚か者の顔を見たか? 予想通りに泣き縋らない貴女を見て、完全に狼狽えていた」
「……お気づきでしたか」
「貴女は、見かけよりずっと強い」
殿下は月光に照らされながら、静かに告げた。
「その強さを、正しく評価する場所がある。覚えておいてほしい」
足音が遠ざかっていく。
私は呆然と立ち尽くしていた。
「リーゼル」
エリスが私の袖を引いた。透き通った顔には、どこか嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「……エリス、あなた」
さっき王妃が言った名前。この子の名前。
(まさか——)
問いかけようとした時、大広間から喧騒が聞こえてきた。夜会に戻らねばならない。
「後で話を聞かせて」
私は小さく呟き、再び『伯爵令嬢』の仮面を被った。
だが心の奥では、不思議な予感が渦巻いていた。
私の人生は、今夜を境に大きく変わる。
そんな確信が、胸の奥で静かに灯っていた。
◇◇◇
夜会から戻った私を迎えたのは、マリアの厳しい視線だった。
「お嬢様」
栗色の髪を一つに結った侍女は、いつもと変わらない落ち着いた声で私を呼んだ。だが、その茶色の瞳には隠しきれない心配が滲んでいる。
「夜会で何があったのですか。お顔の色が——」
「婚約破棄されたわ」
私はあっさりと告げた。
マリアの表情が、一瞬だけ強張る。
「……そうですか」
「驚かないのね」
「驚いてはおります」
マリアは私の外套を受け取りながら、淡々と答えた。
「ただ、予想はしておりました。あの殿下とモーリン令嬢の仲は、宮廷では周知の事実でしたから」
「さすがマリアね。私より情報通だわ」
「茶話会で得た情報でございます。お嬢様もたまには参加なされば——」
「遠慮するわ。『化け物』が来ると、皆さん気まずそうにするもの」
私は自嘲気味に笑った。
マリアは無言で私を見つめた。その瞳に、悲しみが揺れる。
「お嬢様」
「大丈夫よ、マリア。傷ついてなんかいないわ」
「嘘をおっしゃらないでください」
厳しい声だった。
「私はお嬢様が幼い頃から傍におります。お嬢様がどれほど傷つきながら、それでも平気なふりをしてきたか、知っております」
「……」
「どうか、私の前だけでは本当のお気持ちを」
マリアの声が、僅かに震えた。
私は目を伏せた。
マリア・ヘルツ。私が物心つく前から仕えてくれている、唯一の味方。
他の使用人が私を避け、家族が私を疎む中で、彼女だけは変わらず傍にいてくれた。『幽霊が視える』という私の告白を、否定も恐怖もせずに受け入れてくれた、たった一人の人間。
「……少しだけ」
私は小さく呟いた。
「少しだけ、ほっとしたわ」
「ほっと、ですか」
「ええ。これでもう、殿下の嫌悪の目に晒されなくて済む。『いつ狂人の本性を現すか』と監視されなくて済む」
五年間の婚約生活。それは、私にとって緩やかな地獄だった。
「でも——」
私は窓の外を見つめた。月が煌々と輝いている。
「不思議な方に会ったわ」
「不思議な方?」
「隣国の王太子殿下。私の『目』を、祝福だとおっしゃったの」
「……まあ」
マリアが目を見張った。
「信じられなかった。二十年間、誰にも言われたことのない言葉だったから」
私は自分の手を見つめた。幽霊に触れることができる、この忌まわしい手を。
「この『目』が呪いじゃないなんて、考えたこともなかった」
「お嬢様……」
「でもね、あの方は本気だったわ。私の能力を、国宝級だとおっしゃった。我が国に来ないかと」
マリアは黙って聞いていた。
「正直、まだ信じられないの。でも——」
私は小さく笑った。
「少しだけ、期待してもいいのかしら」
長い沈黙の後、マリアが口を開いた。
「お嬢様が幸せになれるのなら」
その声は、珍しく感情がこもっていた。
「相手が誰であろうと、私は賛成いたします。ただし——」
マリアの瞳が、鋭く光った。
「その王太子殿下がお嬢様を傷つけるおつもりなら、相手が王族であろうと許しません」
「マリア……」
「私は傍で見てきました。お嬢様がどれほど優しい方か。どれほど人の痛みが分かる方か。どれほど——愛されるべき方か」
マリアの声が、僅かに震えた。
「それを分からない愚か者は、たとえ王族でも容赦いたしません」
私は思わず笑みを漏らした。
「ありがとう、マリア」
「何がおかしいのです」
「いいえ。あなたに出会えて、本当によかったと思っただけ」
マリアは少し照れたように目を逸らした。
「当然のことを言ったまでです。さあ、今夜はもうお休みください。明日からまた、色々と動きがあるでしょうから」
「そうね」
私は寝室に向かいながら、ふと振り返った。
「マリア」
「はい」
「もし私が、この国を出ることになったら——」
「お供いたします」
間髪入れずの返答だった。
「お嬢様がどこへ行かれようと、私は傍に参ります。それが私の——」
マリアは言葉を切り、静かに微笑んだ。
「私の、唯一の願いですから」
その夜、私は久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。
エリスが枕元で見守る中、私は夢を見た。
知らない国の、知らない宮殿。
そこで私は、誰かに手を引かれて歩いている。
振り返ると、紺碧の瞳が優しく微笑んでいた。
——それが正夢になるとは、この時の私はまだ知らなかった。
◇◇◇
翌日の午後、私は庭園の片隅で一人の幽霊と向き合っていた。
「エリス」
名前を呼ぶと、亜麻色の髪の少女は困ったように微笑んだ。
「ばれちゃった?」
「昨夜、王妃様があなたの名前をおっしゃったわ。『エリスのことも心配しないで』って」
エリスは透き通った体で、花壇の縁に腰かけた。生前は病弱で外に出られなかったと言っていたけれど、こうして日差しの中にいる姿は、どこか嬉しそうだった。
「ルシアン殿下の妹君——だったのね」
「うん」
エリスは小さく頷いた。
「お兄様と一緒に流行病にかかったの。お兄様は助かったけど、私は駄目だった」
「……それなのに、どうして私の傍にいたの?」
私は十年前のことを思い出していた。
屋敷の離れに閉じ込められていた幼い私。家族に疎まれ、友達もなく、ただ幽霊たちだけが話し相手だった頃。
ある日、迷子のように泣いていた少女の幽霊を見つけた。それがエリスだった。
「お母様と離れ離れになっちゃったの」
幼いエリスは泣きながら言った。
「迷子になって、知らない場所に来ちゃった」
私は彼女の手を取り、一緒に遊んだ。幽霊でも構わなかった。私には、見える者がいる方がずっと嬉しかったから。
「あなたは、お母様を探しに行かなかったの?」
「探したよ。でも見つからなかった」
エリスは首を傾げた。
「それに、リーゼルを見つけちゃったから」
「私を?」
「うん。リーゼルは、私が視えたでしょ? それに、一人ぼっちで泣いてた」
私は黙った。確かに、あの頃の私は泣いてばかりいた。家族に『化け物』と呼ばれるたびに、使用人に避けられるたびに、声を殺して泣いていた。
「放っておけなかったの」
エリスは微笑んだ。
「私も一人ぼっちだったから。だから、一緒にいようって思った」
「……エリス」
「でもね、本当の理由は別にあるの」
少女の瞳が、不意に大人びた光を帯びた。
「リーゼルなら、お兄様を幸せにできるって思ったから」
「え?」
「お兄様、私とお母様が死んでから、ずっと悲しそうだった。霊視の巫女を探しているって噂を聞いた時、私、思ったの。もしリーゼルがお兄様に会えたら、きっと——」
エリスの言葉に、私は絶句した。
「あなた、まさか——最初から私を殿下に引き合わせるつもりだったの?」
「うーん、そこまではっきりじゃないけど」
エリスは照れたように笑った。
「でも、昨日お兄様に会えて良かった。お母様の言葉も伝えられたでしょ?」
私は呆然とエリスを見つめた。
この子は、十年もの間私の傍にいて、ずっと待っていたのだ。私と殿下が出会う日を。
「ありがとう、リーゼル」
エリスが言った。
「私の願い、叶えてくれて」
「願い?」
「お兄様に、お母様の言葉を届けること。それが、私の未練だったの」
——未練。
幽霊がこの世に留まる理由。それを晴らせば、彼らは安らかに旅立てる。
私は何度も、迷える魂の未練を晴らしてきた。それが私の、密かな生きがいだった。
「じゃあ、あなたは——」
消えてしまうの?
その言葉が、喉元まで出かかって止まった。
「まだだよ」
エリスは首を振った。
「もう一つ、願いがあるの」
「もう一つ?」
「お兄様を、リーゼルに託すこと」
少女は真っ直ぐに私を見つめた。
「お兄様は、私とお母様を失ってから、誰も傍に置かなくなった。傷つくのが怖いから。でも、本当はすごく寂しがり屋なの」
「……」
「リーゼルなら、お兄様の心を開けると思う。リーゼルは、傷ついた人の気持ちが分かるから」
エリスの言葉が、胸に染み込んでくる。
「だからお願い。お兄様を、幸せにしてあげて」
私は、何も答えられなかった。
殿下のことはまだよく知らない。昨夜会ったばかりだ。
でも——
(あの方の瞳の奥に、深い悲しみが見えた)
母と妹を失い、誰も傍に置かず、孤独に生きてきた王太子。
それは、私自身の姿と重なる気がした。
「約束は、できないわ」
私は正直に答えた。
「でも——殿下が私を必要としてくださるなら、精一杯お傍にいる」
「うん」
エリスが微笑んだ。透き通った笑顔が、陽光の中でキラキラと輝く。
「それで十分だよ、リーゼル」
◇◇◇
その日の夕方、屋敷に使者が訪れた。
ヴェルデシア王国からの正式な書状。
内容は、リーゼル・フォン・ヴァイスブルク嬢を『霊視の巫女』候補として、王都へ招待するというものだった。
私の新しい人生が、動き始めようとしていた。
◇◇◇
書状を受け取った翌日、私は父の書斎に呼び出された。
「入りなさい」
重々しい声に従い、扉を開ける。
書斎には、ヴァイスブルク伯爵——私の父カールが、厳しい顔で座っていた。白髪交じりの灰色の髪と、深い皺が刻まれた顔。かつては精悍だったであろう面影が、今は疲労と苦悩に蝕まれている。
「座れ」
「はい」
私は父の向かいに腰を下ろした。
「ヴェルデシアからの書状、読んだ」
父は手元の書類に目を落としながら言った。
「『霊視の巫女』候補として招待する、とある。お前の能力を買っているらしい」
「はい」
「……信じられんな」
父が顔を上げた。その目に、複雑な感情が渦巻いている。
「お前のあの……『体質』が、他国では価値があるというのか」
体質。父はいつも、私の能力をそう呼んだ。決して『能力』とも『才能』とも言わない。まるで病気か欠陥のように。
「そのようです」
私は淡々と答えた。
「リーゼル」
父が私の名を呼んだ。珍しいことだった。普段は『お前』か、せいぜい『娘』としか呼ばない。
「お前は——行きたいのか?」
「行きたいです」
即答だった。
父の眉が僅かに動いた。
「この国では、私は『化け物』『狂人』です。家族からも、社交界からも、婚約者からも」
(あなたからも)
その言葉は、飲み込んだ。
「でも、あちらでは違います。私の『目』は呪いではなく、祝福だと言われました。国宝級の価値があると」
「……祝福、か」
父が低く呟いた。
「生まれてから二十年、一度も言われたことのない言葉でした」
私は静かに続けた。
「だから、行きます。たとえお父様がお許しにならなくても」
「リーゼル!」
父が声を荒げた。
「父親に逆らうつもりか!」
「逆らうつもりはありません。ただ、私にも選ぶ権利があるはずです」
私は真っ直ぐに父を見つめた。
「私はずっと、お父様のお言葉に従ってきました。離れに閉じ込められても、社交界で孤立しても、望まない婚約を強いられても」
「それは——」
「お父様にとって、私は『気味の悪い子』だったのでしょう。家名に傷をつける存在。厄介払いしたい娘」
言葉が、堰を切ったように溢れ出る。
二十年間、押し殺してきた感情。表に出さないよう、必死で蓋をしてきた想い。
「でも、私はお父様の道具ではありません。私には、私の人生がある」
「……」
父は黙った。その顔に、見たこともない表情が浮かんでいた。
驚き。困惑。そして——後悔?
「私は行きます」
私は立ち上がった。
「お父様のお許しがあればなお良し。なくても、構いません」
扉に向かって歩き出す。
「待て」
父の声が、私を呼び止めた。
「リーゼル」
振り返らなかった。
「お前は——母に似ている」
予想外の言葉に、足が止まった。
「私が妻を愛していたことは、知っているな」
「……はい」
「妻が死んだ時、私は壊れた。そして、妻を奪ったお前を——」
父の声が震えた。
「許せなかった」
私は息を呑んだ。
母は、私を産んですぐに亡くなった。それは知っていた。でも、父がそれを私のせいだと思っていたことは——
「愚かだった」
父が呟いた。
「お前のせいではない。分かっていた。分かっていたのに——」
長い沈黙が流れた。
「行け」
「え?」
「お前の好きにしろ。私は——お前を縛る資格がない」
振り返ると、父がうなだれていた。その肩が、僅かに震えている。
「お父様……」
「行け。早く」
父は顔を上げなかった。
私は何かを言おうとして、やめた。
二十年分の確執は、一度の会話で解けるものではない。でも——
「お気遣い、感謝いたします」
それだけ言って、私は書斎を出た。
扉を閉める直前、父が何かを呟いたような気がした。
聞こえなかったふりをして、私は歩き出した。
(いつか、話せる日が来るかもしれない)
今はただ、前に進むことだけを考えよう。
私を待っている人が、いるのだから。
◇◇◇
出発の日は、穏やかな春の朝だった。
馬車が屋敷の前に用意され、ヴェルデシアからの使者たちが慇懃に控えている。
「お嬢様」
マリアが、私の荷物を持って現れた。いつもより少しだけ、目が赤い気がする。
「泣いていたの?」
「滅相もございません」
マリアは澄ました顔で否定したが、声が僅かに震えていた。
「マリア」
「はい」
「ついてきてくれるのよね?」
「当然でございます」
マリアが顔を上げた。その瞳に、決意の光が宿っている。
「お嬢様がどこへ行かれようと、この私がお傍に参ります。それが——」
「あなたの願い、でしょう?」
私は微笑んだ。
「知っているわ。ありがとう、マリア」
「……もう」
マリアは困ったように眉を下げた。
「お嬢様にそう言われると、調子が狂います」
「あら、素直に受け取ってくれないの?」
「不慣れなだけでございます」
私たちは顔を見合わせて、小さく笑った。
「リーゼル」
エリスが、私の袖を引いた。
「楽しそう」
「そう?」
「うん。リーゼル、最近よく笑うようになった」
言われて気づいた。確かに、この数日、私は前よりも笑っている気がする。
「そうかもしれないわね」
「お兄様に会えるから?」
「……どうかしら」
否定も肯定もできなかった。
ルシアン殿下のことを考えると、胸の奥がざわつく。嫌な感覚ではない。むしろ、温かい。
(不思議な方だわ)
あの夜、月光の下で差し出された手。
『お前の目は呪いではない。祝福だ』という言葉。
私を初めて、人として見てくれた人。
「リーゼル嬢」
使者の一人が声をかけてきた。
「準備はよろしいでしょうか」
「ええ」
私は馬車に向かって歩き出した。
その時、屋敷の二階の窓が目に入った。
父がいた。
こちらを見ている。何か言いたげな顔で。
私は立ち止まり、深く一礼した。
父の肩が、僅かに揺れた気がした。
「行きましょう、マリア」
「はい」
馬車に乗り込む。柔らかな座席に腰を下ろすと、ようやく実感が湧いてきた。
(本当に、旅立つのね)
二十年間過ごした土地。幸せな思い出よりも、辛い記憶の方がはるかに多い場所。
でも——
「マリア」
「はい」
「少しだけ、寂しいわ」
マリアは優しく微笑んだ。
「それでいいのです。お嬢様は、優しい方ですから」
馬車が動き出す。
窓の外を流れる景色。見慣れた街並み。春の花が咲き乱れる庭園。
すべてが、ゆっくりと遠ざかっていく。
「さようなら」
私は小さく呟いた。
傍らでエリスが、透き通った手を振っている。
「バイバイ」
少女の笑顔が、陽光の中で輝いていた。
◇◇◇
国境を越えるまで、三日かかった。
ヴェルデシア王国に入った途端、空気が変わった気がした。
「お嬢様、見てください」
マリアが窓の外を指さす。
広大な草原。その向こうに聳える白亜の城。太陽の光を受けて、まるで宝石のように輝いている。
「あれが……」
「ヴェルデシア王宮でございます」
使者が恭しく説明した。
「ルシアン殿下がお待ちです」
胸が、高鳴った。
(また、会えるのね)
あの冷たく、それでいて温かい紺碧の瞳に。
馬車は王宮の門をくぐり、長い並木道を進んでいく。
やがて、王宮の正面に到着した。
「お待ちしておりました」
馬車を降りると、一人の男性が立っていた。
漆黒の髪、紺碧の瞳。相変わらず感情の読めない美貌。
ルシアン・エル・ヴェルデシア王太子殿下。
「ようこそ、我が国へ」
殿下は微かに微笑んだ。
「リーゼル嬢」
私は深く一礼した。
「お招きいただき、光栄に存じます」
顔を上げると、殿下の瞳が優しく細められていた。
「長旅で疲れただろう。まずは休んでくれ。明日から、本格的な話を——」
「殿下」
私は思わず言葉を遮った。
「一つだけ、確認させてください」
「何だ?」
「私は本当に、ここにいていいのですか」
殿下が目を瞬かせた。
「何を言っている」
「私は——『化け物』です。幽霊が視える狂人です。この国でも、いつか疎まれるのではないかと」
不安が、口をついて出た。
二十年間刷り込まれた自己否定。そう簡単には拭えない。
ルシアン殿下は、静かに私の前に歩み寄った。
「リーゼル嬢」
「はい」
「私が呼んだのだ。私が、貴女を必要としている」
殿下の声は、あの夜と同じように穏やかだった。
「貴女の目も、貴女の能力も、そして——」
一瞬、言葉が止まった。
「貴女自身も」
私は息を呑んだ。
殿下の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。そこには、嘘も偽りもなかった。
「ここが、貴女の居場所だ」
春の風が、優しく吹き抜けた。
エリスが、嬉しそうに笑っている気配がした。
私は——生まれて初めて、『居場所』という言葉の意味を知った気がした。
◇◇◇
ヴェルデシアでの生活が始まって、三ヶ月が過ぎた。
私は『霊視の巫女』候補として、王宮で様々な試験を受けていた。死者との対話、残留思念の読み取り、怨霊の鎮魂——どれも、これまで独学でやってきたことの延長だった。
「素晴らしい」
アルベルト国王陛下は、試験の結果を見て何度もそう仰った。
「百年ぶりの、本物の霊視者だ」
宮廷でも、私は温かく迎えられた。この国では、霊視の能力は敬意を持って扱われる。誰も私を『化け物』とは呼ばなかった。
「リーゼル」
ルシアン殿下も、日に日に私との時間を増やしていた。
「今日は庭園を案内しよう」
「この本を読んでみないか」
「夕食は一緒にどうだ」
不器用ながらも、殿下は私に寄り添おうとしてくれた。時々見せる優しい微笑みに、私の心は少しずつ溶けていった。
(これが、幸せというものなのかしら)
そう思い始めた矢先のことだった。
◇◇◇
「大変です、お嬢様!」
マリアが血相を変えて飛び込んできたのは、ある夜のことだった。
「何があったの?」
「本国から——お嬢様の故国から、急使が参りました」
「故国から?」
嫌な予感がした。
「王宮で、暗殺未遂事件が起きたそうです」
「暗殺……!?」
「被害者は第一王子殿下。命に別状はないそうですが、犯人は逃走中とのこと」
私は眉をひそめた。第一王子殿下——エドワードの兄君だ。
「なぜ、私のところにその知らせが?」
「それが……」
マリアは言いにくそうに続けた。
「犯人の特定に、お嬢様の能力が必要だと。残留思念を読み取れる者を、至急派遣してほしいとのことです」
「……私を?」
皮肉な話だった。
三ヶ月前、私は『化け物』として追い出された。今になって、その能力を頼るというのか。
「リーゼル嬢」
ルシアン殿下が現れた。その顔は、いつになく険しい。
「話は聞いた」
「殿下……」
「断っても構わない。貴女には、あの国に戻る義務はない」
殿下の声には、怒りが滲んでいた。私を追い出した国への怒りだ。
「でも」
私は首を振った。
「もし私の力で事件が解決できるなら——」
「リーゼル」
「私は、助けを求める声を無視できない性分なの」
それが、私という人間だ。
幽霊たちの声に耳を傾け、彼らの未練を晴らしてきた。困っている者がいれば、手を差し伸べずにはいられない。
ルシアン殿下は、長い沈黙の後、深く息を吐いた。
「……分かった」
「殿下?」
「貴女がそう決めたなら、私も同行する」
「え?」
「貴女を一人で、あの国に戻すわけにはいかない」
殿下の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。
「私が、貴女を守る」
胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは私の方だ。貴女の優しさに、いつも救われている」
殿下は照れたように目を逸らした。
不器用で、感情表現が苦手で、でも——とても優しい人。
(この方のために、私は何ができるだろう)
そう思った瞬間、自分の気持ちに気づいた。
私は——この方を、愛し始めている。
◇◇◇
故国の王宮は、三ヶ月前と変わらなかった。
華やかな外観。きらびやかな装飾。そして、私に向けられる好奇と侮蔑の視線。
「あれが『化け物』令嬢?」
「婚約破棄されたのに、のこのこ戻ってきたの?」
「隣国の王太子に取り入ったらしいわよ」
囁き声が、あちこちから聞こえてくる。
(変わらないわね、この国は)
私は無表情のまま、歩き続けた。
傍らには、ルシアン殿下がいる。その存在が、私の心を支えてくれていた。
「リーゼル・フォン・ヴァイスブルク嬢」
案内された部屋で、待っていたのは——
「……エドワード殿下」
金髪碧眼の第二王子が、苦々しい顔で立っていた。
「まさか、お前に頼むことになるとはな」
エドワードは吐き捨てるように言った。
「私も不本意です」
私は淡々と答えた。
「では、現場を案内していただけますか」
「……ふん」
エドワードは不機嫌そうに踵を返した。
ルシアン殿下が、私の傍らに並んで歩く。その存在感だけで、周囲の視線が変わるのが分かった。
(流石は隣国の王太子ね)
暗殺未遂事件の現場は、第一王子の私室だった。
部屋に入った瞬間、私は息を呑んだ。
——見える。
残留思念が、部屋中に渦巻いている。恐怖、憎悪、殺意。そして——
「セレスティア」
私は思わず呟いた。
「何だと?」
エドワードが振り返った。
「セレスティア・モーリン男爵令嬢の残留思念が、この部屋に残っています」
「馬鹿な!」
エドワードが声を荒げた。
「セレスティアは俺の傍にいた! この事件とは無関係だ!」
「殿下」
私は静かに首を振った。
「残留思念は嘘をつきません。彼女はこの部屋に来た。そして——」
目を閉じ、思念を読み取る。
「誰かと密談していた。『計画通りに』『あの方さえいなくなれば』……そういう会話が残っています」
「嘘だ! お前は俺を陥れようと——」
「エドワード殿下」
ルシアン殿下が、冷たい声で割り込んだ。
「リーゼル嬢の能力は、我が国で厳密に検証済みだ。彼女が見たものは、真実だ」
「しかし——」
「認めたくない気持ちは分かる。だが、真実から目を逸らしても、何も解決しない」
ルシアン殿下の瞳が、鋭くエドワードを見据えた。
「愛人を庇いたいなら、まず事実を確認することだ」
エドワードは、歯を食いしばった。
◇◇◇
調査は迅速に進んだ。
私の残留思念の読み取りを皮切りに、衛兵たちがセレスティアの周辺を洗い始めた。
そして——三日後。
すべてが明らかになった。
セレスティア・モーリン男爵令嬢は、実家の莫大な借金を返済するため、裏社会と繋がっていた。暗殺計画の首謀者は別にいたが、彼女は王宮の内部情報を流していた。
「嘘よ! 私じゃない! エドワード様、信じて!」
衛兵に連行されるセレスティアが、エドワードに縋りついた。
「お願い、助けて! 私たちの愛は本物でしょう!?」
エドワードは——目を逸らした。
「俺は知らない」
「え……?」
「俺は何も知らなかった。お前が勝手にやったことだ」
冷たい声だった。
「エドワード様!?」
「連れて行け」
エドワードは衛兵に命じた。その顔には、責任逃れの必死さが浮かんでいた。
セレスティアの顔が、絶望に歪んだ。
「嘘……嘘よ……私のこと、愛してるって言ったじゃない……」
「黙れ」
エドワードは吐き捨てた。
「お前のような女と、本気で付き合うわけがないだろう」
衛兵に引きずられていくセレスティア。その悲鳴が、廊下に響き渡った。
私は、その光景を静かに見つめていた。
(これが因果応報というものね)
三ヶ月前、この女性は私を『化け物』と嘲笑った。今、彼女は自分が縋った男に見捨てられ、連行されていく。
同情はない。だが、空しさはあった。
「リーゼル」
ルシアン殿下が、私の肩に手を置いた。
「見事だった」
「……ありがとうございます」
「帰ろう。貴女の居場所へ」
私は頷いた。
振り返ると、エドワードが青ざめた顔で立っていた。
「待て」
私を呼び止める声。
「何か?」
「お前……最初から分かっていたのか。セレスティアが怪しいと」
「いいえ」
私は首を振った。
「私はただ、視えたものを伝えただけです」
「……」
「殿下がモーリン令嬢を見抜けなかったのは、私の能力とは関係ありません。ご自身の目が曇っていただけのこと」
静かに、しかし確実に。私は三ヶ月分の言葉を返した。
「『幽霊と会話する狂人』の言葉でも、真実は真実です。お忘れなきよう」
エドワードの顔が、屈辱に歪んだ。
私は一礼して、ルシアン殿下と共に去った。
背中に突き刺さる視線を、もう気にする必要はなかった。
◇◇◇
ヴェルデシアに戻る馬車の中で、私は窓の外を眺めていた。
故国の景色が、ゆっくりと遠ざかっていく。二度目の旅立ち。だが今回は、前回よりもずっと心が軽い。
「リーゼル」
ルシアン殿下が、向かいの席から声をかけた。
「何か考えているのか」
「いいえ、特には」
「嘘だな」
殿下は微かに笑った。
「貴女が窓の外を見つめている時は、何かを考えている時だ。もう三ヶ月、傍で見ているから分かる」
「……お見通しですね」
私も小さく笑った。
「少しだけ、複雑な気持ちでした」
「複雑?」
「故国で、私は『化け物』として扱われました。でも今回、その能力が役に立った」
私は自分の手を見つめた。
「結局、価値があるかどうかで人の扱いは変わるのだと。少し、虚しくなりました」
「リーゼル」
ルシアン殿下が、私の手を取った。
「え……」
「貴女の価値は、能力だけではない」
殿下の紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
「私が貴女を求めたのは、確かに霊視の能力があったからだ。だが——」
殿下の声が、僅かに震えた。
「今は違う」
「殿下……?」
「貴女の優しさが好きだ。傷ついた者に寄り添う姿が好きだ。理不尽に立ち向かう強さが好きだ」
言葉が、一つ一つ胸に響く。
「貴女の微笑みを見ると、心が温かくなる。貴女がいないと、城が寂しく感じる」
「……」
「これを、人は『愛している』と言うのだろう」
殿下が、私の手を握りしめた。
「リーゼル・フォン・ヴァイスブルク。私は貴女を愛している」
息が止まった。
「貴女の目も、心も、すべてが愛おしい。私の妻になってほしい」
沈黙。
馬車の車輪が、軽やかに回る音だけが聞こえる。
「殿下」
私は震える声で言った。
「私は——自分に自信がありません。二十年間、誰からも愛されなかった人間です」
「だから?」
「だから、殿下の愛情を受け止められるか、分からないのです」
正直な気持ちだった。
愛されることに慣れていない。誰かを幸せにできる自信がない。
ルシアン殿下は、優しく微笑んだ。
「私も同じだ」
「え?」
「母と妹を失ってから、私は心を閉ざした。誰も傍に置かなかった。傷つくのが怖かったから」
殿下の瞳に、悲しみが揺れた。
「でも、貴女に出会って変わった。貴女といると、心を開いてもいいと思える」
「殿下……」
「私たちは、似た者同士だ。だから——一緒に、愛し方を学んでいけばいい」
不器用な言葉だった。でも、それが殿下らしかった。
「そんな私でも、いいのですか」
「貴女だからいいんだ」
殿下が、私の頬に手を添えた。
「リーゼル。返事を聞かせてくれ」
私は目を閉じた。
心の中で、エリスの声が聞こえた気がした。
『お兄様を、幸せにしてあげて』
「……はい」
目を開けると、殿下が息を呑む気配がした。
「私で良ければ。殿下の——ルシアン様の、妻になります」
殿下の顔が、見たこともないほど嬉しそうに輝いた。
「リーゼル……」
「その代わり、私も不器用です。迷惑をかけると思います」
「構わない」
「すぐに心を開けないかもしれません」
「待つ」
「時々、皮肉を言います」
「知っている」
殿下が笑った。初めて見る、無邪気な笑顔だった。
「それが貴女だ。すべて含めて、愛している」
馬車の窓から、春の日差しが差し込んでいた。
私は——生まれて初めて、心から笑った。
◇◇◇
婚約の儀は、ヴェルデシア王宮で盛大に執り行われた。
「リーゼル・フォン・ヴァイスブルク嬢を、我が国の『霊視の巫女』として、そして王太子妃として迎えることを宣言する」
アルベルト国王陛下の声が、大広間に響き渡った。
集まった貴族たちから、祝福の拍手が起こる。誰も私を『化け物』とは呼ばない。むしろ、尊敬と羨望の眼差しで見つめている。
(こんな日が来るなんて)
三ヶ月前の私は、想像もしていなかっただろう。
「リーゼル」
隣に立つルシアン——もう、殿下ではなく名前で呼ぶことになった——が、私の手を取った。
「緊張しているか」
「少しだけ」
「私もだ」
「嘘でしょう。氷の王太子が」
「貴女の前では、氷も溶ける」
ルシアンが、かすかに笑った。
「リーゼル」
マリアが、涙ぐみながら駆け寄ってきた。
「おめでとうございます。本当に——」
「ありがとう、マリア。あなたがいなければ、今の私はいないわ」
「もう……そんなこと……」
マリアは、ハンカチで目を押さえながら笑った。
「どうかお幸せに。心から、そう願っております」
「ええ。あなたも、ずっと傍にいてね」
「もちろんです。この命が尽きるまで」
マリアが深く頭を下げた。
◇◇◇
婚約の儀が終わり、私は一人、庭園に出た。
月が煌々と輝いている。あの夜と同じように。
「エリス」
名前を呼ぶと、少女の姿が現れた。
透き通った体が、月光の中でキラキラと輝いている。
「リーゼル」
エリスは微笑んだ。いつもより、どこか寂しげな笑顔だった。
「おめでとう」
「ありがとう」
私はエリスの傍に歩み寄った。
「あなたのおかげよ。あなたがいなければ、ルシアンと出会えなかった」
「私は何もしてないよ」
「嘘。十年間、ずっと傍にいてくれたでしょう」
エリスの瞳が、揺れた。
「リーゼル……」
「あなたがいたから、私は自分の能力を完全には嫌いになれなかった。あなたに会えることが、私の救いだった」
言葉が、涙と共に溢れ出る。
「だから、ありがとう。エリス」
少女の目から、透明な涙が流れ落ちた。
「私の願いは——」
エリスが言った。
「お兄様を、リーゼルに託すこと。それが、ずっと叶えたかったこと」
「エリス……」
「もう、大丈夫だよね?」
私は頷いた。
「ええ。約束するわ。ルシアンを、幸せにする」
「うん」
エリスが微笑んだ。今度は、心からの笑顔だった。
「ありがとう、リーゼル」
少女の体が、光を帯び始めた。
「お兄様をよろしくね」
「ええ」
「リーゼルも、幸せになってね」
「なるわ。絶対に」
エリスの体が、少しずつ透けていく。
「バイバイ、リーゼル」
「さようなら、エリス。天国で、お母様によろしく」
「うん——」
最後の言葉は、聞こえなかった。
少女の姿が、光の中に溶けていく。まるで、満天の星になるように。
私は、その光を見つめ続けた。
◇◇◇
「リーゼル」
背後から、声がした。
振り返ると、ルシアンが立っていた。
「ここにいたのか。探した」
「ごめんなさい。少し——」
私の頬を、涙が伝っていることに気づいた。
「泣いているのか」
「ええ。エリスが——」
言葉が詰まった。
ルシアンは、黙って私を抱きしめた。
「成仏したのか。妹が」
「……知っていたの?」
「あの夜、母の霊との対話の時に。察していた」
私はルシアンの胸に顔を埋めた。
「エリスは、ずっとあなたのことを想っていたわ。幸せになってほしいって」
「そうか」
ルシアンの声が、震えた。
「あいつは……最後まで、俺のことを心配していたのか」
「ええ。だから、私に託したの。あなたを幸せにしてって」
私は顔を上げた。
「だから——約束したの。あなたを、幸せにするって」
ルシアンが、優しく微笑んだ。
「それなら、私も約束する」
「何を?」
「貴女を、幸せにする。私の命が尽きるまで」
月光の下で、私たちは額を寄せ合った。
遠い空の向こうで、星が一つ、輝いた気がした。
エリスが、笑っている。
そんな気がした。
◇◇◇
こうして、私——リーゼル・フォン・ヴァイスブルクは、新しい人生を歩み始めた。
『呪い』だと思っていた能力は、『祝福』だった。
『化け物』だと蔑まれた私は、『国宝』として迎えられた。
そして、誰からも愛されないと思っていた私は、心から愛してくれる人を見つけた。
道のりは長く、まだ困難もあるだろう。
でも、もう一人じゃない。
隣には、ルシアンがいる。
マリアがいる。
そして、見守ってくれる死者たちがいる。
私は——幸せだ。
心から、そう思えた。
【終】




