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幽霊が視える婚約者は不要ですか? ―貴方が切り捨てた私の『目』、隣国の王太子には必要だそうです―

作者: uta
掲載日:2026/03/20

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

「君との婚約は、本日をもって破棄する」


王宮の大広間に、第二王子エドワードの声が高らかに響き渡った。


シャンデリアの光が降り注ぐ華やかな夜会の中心で、私——リーゼル・フォン・ヴァイスブルクは、数百人の貴族たちの視線を一身に浴びていた。


(ああ、やっぱりこうなったのね)


驚きはなかった。むしろ、ようやくこの日が来たという安堵の方が大きい。


「君のような不気味な女を王族に迎えるわけにはいかない」


エドワード殿下は、金色の髪を揺らしながら私を見下ろしている。その整った顔には、隠しきれない嫌悪感が浮かんでいた。


「幽霊と会話する狂人など、王家の恥だ。いや、人として異常というべきか」


周囲からざわめきが起こる。扇で口元を隠しながらも、好奇と蔑みに満ちた視線が私に突き刺さる。


(ええ、ええ。知っていますとも。私が『化け物』だということは)


十五年間、嫌というほど聞かされてきた言葉だ。今さら傷つくほど、私の心は柔らかくない。


「そうですか、承知いたしました」


私は静かに頭を下げた。


「——え?」


エドワード殿下が目を見開く。どうやら、泣いて縋りつくとでも思っていたらしい。


「婚約破棄、謹んでお受けいたします。殿下の御英断に感謝申し上げます」


「か、感謝だと?」


「ええ。殿下ほどのお方に、私のような者は相応しくございませんもの」


表情を変えずに答える私に、エドワード殿下の顔が歪んだ。


(本当は『ようやく解放される』と叫びたいくらいなのだけれど)


五年間の婚約期間、殿下が私に向けたのは嫌悪と無関心だけだった。顔を合わせるたびに「気味が悪い」と言われ、社交の場では存在しないもののように扱われた。


そんな婚約に、執着する理由などない。


「まあ、やっぱり狂人は狂人ね。普通の反応すらできないなんて」


甘ったるい声が割り込んできた。エドワード殿下の傍らに寄り添う、蜂蜜色の巻き毛の女性——セレスティア・モーリン男爵令嬢。


殿下の愛人であり、今夜の茶番劇の首謀者。


「ねえ殿下、こんな化け物と婚約していたなんて、本当にお気の毒でしたわ」


セレスティアは殿下の腕に絡みつきながら、翡翠色の瞳で私を見た。その目には、勝ち誇った喜びが満ちている。


「これでようやく、殿下は呪いから解放されるのですわね」


(呪い、ね)


私は無表情のまま、心の中で小さく笑った。


(あなたこそ、殿下に取り憑いた呪いのようなものだと思うけれど)


セレスティアの背後に、彼女には見えない影がちらついている。借金取りの怨念か、あるいは彼女が踏み台にしてきた誰かの残留思念か。


——見ようと思えば見えてしまう。それが私の『目』。


「リーゼル」


不意に、背中に冷たい小さな手が触れた。


振り返らなくても分かる。幼い少女の幽霊——エリスが、私の傍らに寄り添ってくれている。


「大丈夫。平気よ」


声に出さず、唇だけで答える。


エリスは悲しげな顔で私を見上げていた。亜麻色の髪を二つ結びにした、十歳くらいの少女。私がまだ幼い頃から、ずっと傍にいてくれた唯一の友達。


「お前のような異常者がいなくなって清々する」


エドワード殿下がとどめとばかりに吐き捨てた。「二度と私の前に姿を見せるな」


「かしこまりました」


私は最後にもう一度頭を下げ、踵を返した。


背中に突き刺さる嘲笑と囁き。『やっぱり狂人だった』『幽霊が見えるなんて気味が悪い』『王家に相応しくない』——。


(ええ、そうね。私は狂人で、化け物で、気味の悪い女)


だけど。


(それでも、ようやく自由になれる)


五年間の檻から解放される喜びを噛み締めながら、私は大広間を後にしようとした。


その時だった。


「失礼」


低く、静かな声が私を呼び止めた。


「少しよろしいだろうか」


振り返ると、見知らぬ男性が立っていた。


漆黒の髪に、深い紺碧の瞳。整いすぎた顔立ちと、威厳に満ちた佇まい。


——隣国ヴェルデシアの紋章をあしらった礼服。


(この方は……)


「貴女の『視える目』について、詳しくお聞きしたい」


男性は穏やかに微笑んだ。だが、その瞳は氷のように冷たく、私を見透かすように見つめている。


「私はルシアン・エル・ヴェルデシア。隣国の王太子だ」


周囲がざわめく。エドワード殿下の顔が驚愕に染まるのが、視界の端に映った。


「その『目』——我が国では、国宝級の価値がある」


王太子の言葉が、夜会の喧騒を切り裂くように響いた。


傍らでエリスが、どこか嬉しそうに微笑んでいる。


まるで、この瞬間を待っていたかのように。


◇◇◇


「『霊視の巫女』をご存知だろうか」


ルシアン殿下は、私を夜会の喧騒から離れたテラスへと導いた。


月明かりの下、彼の整った横顔が青白く照らされている。『氷の王太子』という異名に相応しい、感情の読めない美貌だった。


「……存じ上げません」


「我が国には古くから、死者の魂と対話し、王家を守護する巫女がいた」


ルシアン殿下は庭園を見下ろしながら、淡々と語り始めた。


「霊視の巫女は、死者の声を聴き、その未練を晴らす。時には王家の先祖の知恵を借り、時には暗殺者の怨霊から王族を守る。国にとって、かけがえのない存在だった」


(死者の声を聴き、未練を晴らす——)


それは、まさに私が密かに続けてきたことだった。


「しかし百年前、最後の巫女が亡くなって以来、その血筋は途絶えた。以来、我が国は巫女を探し続けている」


殿下の紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。


「貴女の噂は、我が国にも届いていた。幽霊が視え、彼らと会話できる伯爵令嬢がいると」


「……噂、ですか」


(まさか、隣国にまで『狂人』の評判が広まっているなんて)


私は自嘲の笑みを浮かべそうになるのを堪えた。


「私の能力は、この国では『呪い』か『狂気』として扱われております。殿下もご覧になったでしょう」


先ほどの婚約破棄の場面。数百人の貴族の前で『化け物』『狂人』と罵られる私の姿を。


「見た」


ルシアン殿下は頷いた。


「愚かな光景だった」


「……え?」


「国宝級の才能を持つ女性を、『気味が悪い』という理由だけで切り捨てる。あの王子には、宝石と石ころの区別もつかないらしい」


殿下の声には、静かな軽蔑が滲んでいた。


(この方は……私を愚かだと言っているのではない?)


信じられない思いで、私は殿下を見上げた。


「貴女の『目』は呪いではない」


ルシアン殿下は断言した。


「それは——祝福だ」


息が止まった。


祝福。


生まれてから二十年、一度も言われたことのない言葉。


家族からは「気味の悪い子」と疎まれ、使用人には避けられ、婚約者には「狂人」と蔑まれてきた。この『目』のせいで、私は人として扱われたことがなかった。


なのに。


「我が国に来ないか」


殿下が手を差し出した。


「『霊視の巫女』として、貴女を迎えたい。その能力に相応しい敬意と待遇を約束する」


月光の下で差し出された手。


それは、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のようだった。


「……なぜ」


私の声は、思わず震えていた。


「なぜ、私なのですか。私の能力が本物かどうかも、まだご確認されていないでしょう」


「確かに」


殿下は小さく頷いた。


「では、一つ頼みがある」


「頼み?」


「私の亡き母の霊と、話をしてほしい」


その瞬間、殿下の瞳に初めて感情が揺れた。


氷のように冷たかった紺碧の目に、押し殺した悲しみと、微かな希望が宿る。


「母は十年前に病で亡くなった。最期の言葉を聞くことができなかった。それが、ずっと心残りだった」


「……」


「貴女の能力が本物なら、母の言葉を聞かせてほしい。もし偽物なら、それまでのことだ」


殿下の声は平静を装っていたが、その奥に必死さが滲んでいるのが分かった。


この人は、ずっと母君の死を悼んでいるのだ。


私は目を閉じ、意識を集中させた。


——そして、感じた。


殿下の傍らに、優しく微笑む女性の姿を。


「……いらっしゃいます」


「本当か」


殿下の声が、僅かに震えた。


「銀髪に、殿下と同じ紺碧の瞳。白いドレスを召されています。とても穏やかな笑顔で、殿下を見つめていらっしゃいます」


殿下が息を呑む気配がした。


「母は……何と言っている?」


私は、亡き王妃の言葉に耳を澄ませた。


「『ルシアン、ずっと見守っていましたよ』と」


「……」


「『あなたが自分を責めていることは知っています。でも、母の病はあなたのせいではありません。最期に会えなかったことも、気に病まないで』」


殿下は無言だった。だが、その瞳に涙が滲んでいるのが、月明かりの下でもはっきりと見えた。


「『私の分まで、幸せになりなさい。愛する人を見つけて、笑顔で生きて』」


王妃の霊は、優しく微笑みながらそう告げた。


「『エリスのことも、心配しないで。あの子はちゃんと——』」


私は思わず言葉を止めた。


エリス。


今、確かにそう聞こえた。


傍らに寄り添う少女の幽霊——私の唯一の友達の名前が。


「どうした?」


「い、いえ……」


動揺を隠しながら、私は続けた。


「『エリスのことも心配しないで。あの子はちゃんと導かれています。だから安心して』……そうおっしゃっています」


ルシアン殿下は、長い沈黙の後、深く息を吐いた。


「……信じよう」


その声は、先ほどまでの冷徹さが嘘のように、温かく震えていた。


「貴女は本物だ。そして——」


殿下は改めて私を見つめた。涙の跡が残る目で、それでも毅然と。


「貴女を、必ず我が国へお連れする。必要とあらば、正式な手続きを踏んで」


「正式な手続き?」


「外交交渉でも、求婚でも」


「きゅ、求婚!?」


思わず声が裏返った。


殿下は真顔だった。


「冗談ではない。貴女ほどの才能を持つ女性を、あの愚かな王子に渡すわけにはいかない」


(この方、本気でおっしゃっているの……?)


混乱する私の傍らで、エリスがくすくすと笑っている気配がした。


「とりあえず今夜は、これで失礼する。近いうちに、正式な使者を送らせてもらう」


ルシアン殿下は一礼して踵を返した。


「ああ、それと」


去り際に振り返り、殿下は微かに——本当に微かに——口元を緩めた。


「先ほどの婚約破棄の場面、貴女の対応は見事だった。あの愚か者の顔を見たか? 予想通りに泣き縋らない貴女を見て、完全に狼狽えていた」


「……お気づきでしたか」


「貴女は、見かけよりずっと強い」


殿下は月光に照らされながら、静かに告げた。


「その強さを、正しく評価する場所がある。覚えておいてほしい」


足音が遠ざかっていく。


私は呆然と立ち尽くしていた。


「リーゼル」


エリスが私の袖を引いた。透き通った顔には、どこか嬉しそうな笑みが浮かんでいる。


「……エリス、あなた」


さっき王妃が言った名前。この子の名前。


(まさか——)


問いかけようとした時、大広間から喧騒が聞こえてきた。夜会に戻らねばならない。


「後で話を聞かせて」


私は小さく呟き、再び『伯爵令嬢』の仮面を被った。


だが心の奥では、不思議な予感が渦巻いていた。


私の人生は、今夜を境に大きく変わる。


そんな確信が、胸の奥で静かに灯っていた。


◇◇◇


夜会から戻った私を迎えたのは、マリアの厳しい視線だった。


「お嬢様」


栗色の髪を一つに結った侍女は、いつもと変わらない落ち着いた声で私を呼んだ。だが、その茶色の瞳には隠しきれない心配が滲んでいる。


「夜会で何があったのですか。お顔の色が——」


「婚約破棄されたわ」


私はあっさりと告げた。


マリアの表情が、一瞬だけ強張る。


「……そうですか」


「驚かないのね」


「驚いてはおります」


マリアは私の外套を受け取りながら、淡々と答えた。


「ただ、予想はしておりました。あの殿下とモーリン令嬢の仲は、宮廷では周知の事実でしたから」


「さすがマリアね。私より情報通だわ」


「茶話会で得た情報でございます。お嬢様もたまには参加なされば——」


「遠慮するわ。『化け物』が来ると、皆さん気まずそうにするもの」


私は自嘲気味に笑った。


マリアは無言で私を見つめた。その瞳に、悲しみが揺れる。


「お嬢様」


「大丈夫よ、マリア。傷ついてなんかいないわ」


「嘘をおっしゃらないでください」


厳しい声だった。


「私はお嬢様が幼い頃から傍におります。お嬢様がどれほど傷つきながら、それでも平気なふりをしてきたか、知っております」


「……」


「どうか、私の前だけでは本当のお気持ちを」


マリアの声が、僅かに震えた。


私は目を伏せた。


マリア・ヘルツ。私が物心つく前から仕えてくれている、唯一の味方。


他の使用人が私を避け、家族が私を疎む中で、彼女だけは変わらず傍にいてくれた。『幽霊が視える』という私の告白を、否定も恐怖もせずに受け入れてくれた、たった一人の人間。


「……少しだけ」


私は小さく呟いた。


「少しだけ、ほっとしたわ」


「ほっと、ですか」


「ええ。これでもう、殿下の嫌悪の目に晒されなくて済む。『いつ狂人の本性を現すか』と監視されなくて済む」


五年間の婚約生活。それは、私にとって緩やかな地獄だった。


「でも——」


私は窓の外を見つめた。月が煌々と輝いている。


「不思議な方に会ったわ」


「不思議な方?」


「隣国の王太子殿下。私の『目』を、祝福だとおっしゃったの」


「……まあ」


マリアが目を見張った。


「信じられなかった。二十年間、誰にも言われたことのない言葉だったから」


私は自分の手を見つめた。幽霊に触れることができる、この忌まわしい手を。


「この『目』が呪いじゃないなんて、考えたこともなかった」


「お嬢様……」


「でもね、あの方は本気だったわ。私の能力を、国宝級だとおっしゃった。我が国に来ないかと」


マリアは黙って聞いていた。


「正直、まだ信じられないの。でも——」


私は小さく笑った。


「少しだけ、期待してもいいのかしら」


長い沈黙の後、マリアが口を開いた。


「お嬢様が幸せになれるのなら」


その声は、珍しく感情がこもっていた。


「相手が誰であろうと、私は賛成いたします。ただし——」


マリアの瞳が、鋭く光った。


「その王太子殿下がお嬢様を傷つけるおつもりなら、相手が王族であろうと許しません」


「マリア……」


「私は傍で見てきました。お嬢様がどれほど優しい方か。どれほど人の痛みが分かる方か。どれほど——愛されるべき方か」


マリアの声が、僅かに震えた。


「それを分からない愚か者は、たとえ王族でも容赦いたしません」


私は思わず笑みを漏らした。


「ありがとう、マリア」


「何がおかしいのです」


「いいえ。あなたに出会えて、本当によかったと思っただけ」


マリアは少し照れたように目を逸らした。


「当然のことを言ったまでです。さあ、今夜はもうお休みください。明日からまた、色々と動きがあるでしょうから」


「そうね」


私は寝室に向かいながら、ふと振り返った。


「マリア」


「はい」


「もし私が、この国を出ることになったら——」


「お供いたします」


間髪入れずの返答だった。


「お嬢様がどこへ行かれようと、私は傍に参ります。それが私の——」


マリアは言葉を切り、静かに微笑んだ。


「私の、唯一の願いですから」


その夜、私は久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。


エリスが枕元で見守る中、私は夢を見た。


知らない国の、知らない宮殿。


そこで私は、誰かに手を引かれて歩いている。


振り返ると、紺碧の瞳が優しく微笑んでいた。


——それが正夢になるとは、この時の私はまだ知らなかった。


◇◇◇


翌日の午後、私は庭園の片隅で一人の幽霊と向き合っていた。


「エリス」


名前を呼ぶと、亜麻色の髪の少女は困ったように微笑んだ。


「ばれちゃった?」


「昨夜、王妃様があなたの名前をおっしゃったわ。『エリスのことも心配しないで』って」


エリスは透き通った体で、花壇の縁に腰かけた。生前は病弱で外に出られなかったと言っていたけれど、こうして日差しの中にいる姿は、どこか嬉しそうだった。


「ルシアン殿下の妹君——だったのね」


「うん」


エリスは小さく頷いた。


「お兄様と一緒に流行病にかかったの。お兄様は助かったけど、私は駄目だった」


「……それなのに、どうして私の傍にいたの?」


私は十年前のことを思い出していた。


屋敷の離れに閉じ込められていた幼い私。家族に疎まれ、友達もなく、ただ幽霊たちだけが話し相手だった頃。


ある日、迷子のように泣いていた少女の幽霊を見つけた。それがエリスだった。


「お母様と離れ離れになっちゃったの」


幼いエリスは泣きながら言った。


「迷子になって、知らない場所に来ちゃった」


私は彼女の手を取り、一緒に遊んだ。幽霊でも構わなかった。私には、見える者がいる方がずっと嬉しかったから。


「あなたは、お母様を探しに行かなかったの?」


「探したよ。でも見つからなかった」


エリスは首を傾げた。


「それに、リーゼルを見つけちゃったから」


「私を?」


「うん。リーゼルは、私が視えたでしょ? それに、一人ぼっちで泣いてた」


私は黙った。確かに、あの頃の私は泣いてばかりいた。家族に『化け物』と呼ばれるたびに、使用人に避けられるたびに、声を殺して泣いていた。


「放っておけなかったの」


エリスは微笑んだ。


「私も一人ぼっちだったから。だから、一緒にいようって思った」


「……エリス」


「でもね、本当の理由は別にあるの」


少女の瞳が、不意に大人びた光を帯びた。


「リーゼルなら、お兄様を幸せにできるって思ったから」


「え?」


「お兄様、私とお母様が死んでから、ずっと悲しそうだった。霊視の巫女を探しているって噂を聞いた時、私、思ったの。もしリーゼルがお兄様に会えたら、きっと——」


エリスの言葉に、私は絶句した。


「あなた、まさか——最初から私を殿下に引き合わせるつもりだったの?」


「うーん、そこまではっきりじゃないけど」


エリスは照れたように笑った。


「でも、昨日お兄様に会えて良かった。お母様の言葉も伝えられたでしょ?」


私は呆然とエリスを見つめた。


この子は、十年もの間私の傍にいて、ずっと待っていたのだ。私と殿下が出会う日を。


「ありがとう、リーゼル」


エリスが言った。


「私の願い、叶えてくれて」


「願い?」


「お兄様に、お母様の言葉を届けること。それが、私の未練だったの」


——未練。


幽霊がこの世に留まる理由。それを晴らせば、彼らは安らかに旅立てる。


私は何度も、迷える魂の未練を晴らしてきた。それが私の、密かな生きがいだった。


「じゃあ、あなたは——」


消えてしまうの?


その言葉が、喉元まで出かかって止まった。


「まだだよ」


エリスは首を振った。


「もう一つ、願いがあるの」


「もう一つ?」


「お兄様を、リーゼルに託すこと」


少女は真っ直ぐに私を見つめた。


「お兄様は、私とお母様を失ってから、誰も傍に置かなくなった。傷つくのが怖いから。でも、本当はすごく寂しがり屋なの」


「……」


「リーゼルなら、お兄様の心を開けると思う。リーゼルは、傷ついた人の気持ちが分かるから」


エリスの言葉が、胸に染み込んでくる。


「だからお願い。お兄様を、幸せにしてあげて」


私は、何も答えられなかった。


殿下のことはまだよく知らない。昨夜会ったばかりだ。


でも——


(あの方の瞳の奥に、深い悲しみが見えた)


母と妹を失い、誰も傍に置かず、孤独に生きてきた王太子。


それは、私自身の姿と重なる気がした。


「約束は、できないわ」


私は正直に答えた。


「でも——殿下が私を必要としてくださるなら、精一杯お傍にいる」


「うん」


エリスが微笑んだ。透き通った笑顔が、陽光の中でキラキラと輝く。


「それで十分だよ、リーゼル」


◇◇◇


その日の夕方、屋敷に使者が訪れた。


ヴェルデシア王国からの正式な書状。


内容は、リーゼル・フォン・ヴァイスブルク嬢を『霊視の巫女』候補として、王都へ招待するというものだった。


私の新しい人生が、動き始めようとしていた。


◇◇◇


書状を受け取った翌日、私は父の書斎に呼び出された。


「入りなさい」


重々しい声に従い、扉を開ける。


書斎には、ヴァイスブルク伯爵——私の父カールが、厳しい顔で座っていた。白髪交じりの灰色の髪と、深い皺が刻まれた顔。かつては精悍だったであろう面影が、今は疲労と苦悩に蝕まれている。


「座れ」


「はい」


私は父の向かいに腰を下ろした。


「ヴェルデシアからの書状、読んだ」


父は手元の書類に目を落としながら言った。


「『霊視の巫女』候補として招待する、とある。お前の能力を買っているらしい」


「はい」


「……信じられんな」


父が顔を上げた。その目に、複雑な感情が渦巻いている。


「お前のあの……『体質』が、他国では価値があるというのか」


体質。父はいつも、私の能力をそう呼んだ。決して『能力』とも『才能』とも言わない。まるで病気か欠陥のように。


「そのようです」


私は淡々と答えた。


「リーゼル」


父が私の名を呼んだ。珍しいことだった。普段は『お前』か、せいぜい『娘』としか呼ばない。


「お前は——行きたいのか?」


「行きたいです」


即答だった。


父の眉が僅かに動いた。


「この国では、私は『化け物』『狂人』です。家族からも、社交界からも、婚約者からも」


(あなたからも)


その言葉は、飲み込んだ。


「でも、あちらでは違います。私の『目』は呪いではなく、祝福だと言われました。国宝級の価値があると」


「……祝福、か」


父が低く呟いた。


「生まれてから二十年、一度も言われたことのない言葉でした」


私は静かに続けた。


「だから、行きます。たとえお父様がお許しにならなくても」


「リーゼル!」


父が声を荒げた。


「父親に逆らうつもりか!」


「逆らうつもりはありません。ただ、私にも選ぶ権利があるはずです」


私は真っ直ぐに父を見つめた。


「私はずっと、お父様のお言葉に従ってきました。離れに閉じ込められても、社交界で孤立しても、望まない婚約を強いられても」


「それは——」


「お父様にとって、私は『気味の悪い子』だったのでしょう。家名に傷をつける存在。厄介払いしたい娘」


言葉が、堰を切ったように溢れ出る。


二十年間、押し殺してきた感情。表に出さないよう、必死で蓋をしてきた想い。


「でも、私はお父様の道具ではありません。私には、私の人生がある」


「……」


父は黙った。その顔に、見たこともない表情が浮かんでいた。


驚き。困惑。そして——後悔?


「私は行きます」


私は立ち上がった。


「お父様のお許しがあればなお良し。なくても、構いません」


扉に向かって歩き出す。


「待て」


父の声が、私を呼び止めた。


「リーゼル」


振り返らなかった。


「お前は——母に似ている」


予想外の言葉に、足が止まった。


「私が妻を愛していたことは、知っているな」


「……はい」


「妻が死んだ時、私は壊れた。そして、妻を奪ったお前を——」


父の声が震えた。


「許せなかった」


私は息を呑んだ。


母は、私を産んですぐに亡くなった。それは知っていた。でも、父がそれを私のせいだと思っていたことは——


「愚かだった」


父が呟いた。


「お前のせいではない。分かっていた。分かっていたのに——」


長い沈黙が流れた。


「行け」


「え?」


「お前の好きにしろ。私は——お前を縛る資格がない」


振り返ると、父がうなだれていた。その肩が、僅かに震えている。


「お父様……」


「行け。早く」


父は顔を上げなかった。


私は何かを言おうとして、やめた。


二十年分の確執は、一度の会話で解けるものではない。でも——


「お気遣い、感謝いたします」


それだけ言って、私は書斎を出た。


扉を閉める直前、父が何かを呟いたような気がした。


聞こえなかったふりをして、私は歩き出した。


(いつか、話せる日が来るかもしれない)


今はただ、前に進むことだけを考えよう。


私を待っている人が、いるのだから。


◇◇◇


出発の日は、穏やかな春の朝だった。


馬車が屋敷の前に用意され、ヴェルデシアからの使者たちが慇懃に控えている。


「お嬢様」


マリアが、私の荷物を持って現れた。いつもより少しだけ、目が赤い気がする。


「泣いていたの?」


「滅相もございません」


マリアは澄ました顔で否定したが、声が僅かに震えていた。


「マリア」


「はい」


「ついてきてくれるのよね?」


「当然でございます」


マリアが顔を上げた。その瞳に、決意の光が宿っている。


「お嬢様がどこへ行かれようと、この私がお傍に参ります。それが——」


「あなたの願い、でしょう?」


私は微笑んだ。


「知っているわ。ありがとう、マリア」


「……もう」


マリアは困ったように眉を下げた。


「お嬢様にそう言われると、調子が狂います」


「あら、素直に受け取ってくれないの?」


「不慣れなだけでございます」


私たちは顔を見合わせて、小さく笑った。


「リーゼル」


エリスが、私の袖を引いた。


「楽しそう」


「そう?」


「うん。リーゼル、最近よく笑うようになった」


言われて気づいた。確かに、この数日、私は前よりも笑っている気がする。


「そうかもしれないわね」


「お兄様に会えるから?」


「……どうかしら」


否定も肯定もできなかった。


ルシアン殿下のことを考えると、胸の奥がざわつく。嫌な感覚ではない。むしろ、温かい。


(不思議な方だわ)


あの夜、月光の下で差し出された手。

『お前の目は呪いではない。祝福だ』という言葉。


私を初めて、人として見てくれた人。


「リーゼル嬢」


使者の一人が声をかけてきた。


「準備はよろしいでしょうか」


「ええ」


私は馬車に向かって歩き出した。


その時、屋敷の二階の窓が目に入った。


父がいた。


こちらを見ている。何か言いたげな顔で。


私は立ち止まり、深く一礼した。


父の肩が、僅かに揺れた気がした。


「行きましょう、マリア」


「はい」


馬車に乗り込む。柔らかな座席に腰を下ろすと、ようやく実感が湧いてきた。


(本当に、旅立つのね)


二十年間過ごした土地。幸せな思い出よりも、辛い記憶の方がはるかに多い場所。


でも——


「マリア」


「はい」


「少しだけ、寂しいわ」


マリアは優しく微笑んだ。


「それでいいのです。お嬢様は、優しい方ですから」


馬車が動き出す。


窓の外を流れる景色。見慣れた街並み。春の花が咲き乱れる庭園。


すべてが、ゆっくりと遠ざかっていく。


「さようなら」


私は小さく呟いた。


傍らでエリスが、透き通った手を振っている。


「バイバイ」


少女の笑顔が、陽光の中で輝いていた。


◇◇◇


国境を越えるまで、三日かかった。


ヴェルデシア王国に入った途端、空気が変わった気がした。


「お嬢様、見てください」


マリアが窓の外を指さす。


広大な草原。その向こうに聳える白亜の城。太陽の光を受けて、まるで宝石のように輝いている。


「あれが……」


「ヴェルデシア王宮でございます」


使者が恭しく説明した。


「ルシアン殿下がお待ちです」


胸が、高鳴った。


(また、会えるのね)


あの冷たく、それでいて温かい紺碧の瞳に。


馬車は王宮の門をくぐり、長い並木道を進んでいく。


やがて、王宮の正面に到着した。


「お待ちしておりました」


馬車を降りると、一人の男性が立っていた。


漆黒の髪、紺碧の瞳。相変わらず感情の読めない美貌。


ルシアン・エル・ヴェルデシア王太子殿下。


「ようこそ、我が国へ」


殿下は微かに微笑んだ。


「リーゼル嬢」


私は深く一礼した。


「お招きいただき、光栄に存じます」


顔を上げると、殿下の瞳が優しく細められていた。


「長旅で疲れただろう。まずは休んでくれ。明日から、本格的な話を——」


「殿下」


私は思わず言葉を遮った。


「一つだけ、確認させてください」


「何だ?」


「私は本当に、ここにいていいのですか」


殿下が目を瞬かせた。


「何を言っている」


「私は——『化け物』です。幽霊が視える狂人です。この国でも、いつか疎まれるのではないかと」


不安が、口をついて出た。


二十年間刷り込まれた自己否定。そう簡単には拭えない。


ルシアン殿下は、静かに私の前に歩み寄った。


「リーゼル嬢」


「はい」


「私が呼んだのだ。私が、貴女を必要としている」


殿下の声は、あの夜と同じように穏やかだった。


「貴女の目も、貴女の能力も、そして——」


一瞬、言葉が止まった。


「貴女自身も」


私は息を呑んだ。


殿下の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。そこには、嘘も偽りもなかった。


「ここが、貴女の居場所だ」


春の風が、優しく吹き抜けた。


エリスが、嬉しそうに笑っている気配がした。


私は——生まれて初めて、『居場所』という言葉の意味を知った気がした。


◇◇◇


ヴェルデシアでの生活が始まって、三ヶ月が過ぎた。


私は『霊視の巫女』候補として、王宮で様々な試験を受けていた。死者との対話、残留思念の読み取り、怨霊の鎮魂——どれも、これまで独学でやってきたことの延長だった。


「素晴らしい」


アルベルト国王陛下は、試験の結果を見て何度もそう仰った。


「百年ぶりの、本物の霊視者だ」


宮廷でも、私は温かく迎えられた。この国では、霊視の能力は敬意を持って扱われる。誰も私を『化け物』とは呼ばなかった。


「リーゼル」


ルシアン殿下も、日に日に私との時間を増やしていた。


「今日は庭園を案内しよう」

「この本を読んでみないか」

「夕食は一緒にどうだ」


不器用ながらも、殿下は私に寄り添おうとしてくれた。時々見せる優しい微笑みに、私の心は少しずつ溶けていった。


(これが、幸せというものなのかしら)


そう思い始めた矢先のことだった。


◇◇◇


「大変です、お嬢様!」


マリアが血相を変えて飛び込んできたのは、ある夜のことだった。


「何があったの?」


「本国から——お嬢様の故国から、急使が参りました」


「故国から?」


嫌な予感がした。


「王宮で、暗殺未遂事件が起きたそうです」


「暗殺……!?」


「被害者は第一王子殿下。命に別状はないそうですが、犯人は逃走中とのこと」


私は眉をひそめた。第一王子殿下——エドワードの兄君だ。


「なぜ、私のところにその知らせが?」


「それが……」


マリアは言いにくそうに続けた。


「犯人の特定に、お嬢様の能力が必要だと。残留思念を読み取れる者を、至急派遣してほしいとのことです」


「……私を?」


皮肉な話だった。


三ヶ月前、私は『化け物』として追い出された。今になって、その能力を頼るというのか。


「リーゼル嬢」


ルシアン殿下が現れた。その顔は、いつになく険しい。


「話は聞いた」


「殿下……」


「断っても構わない。貴女には、あの国に戻る義務はない」


殿下の声には、怒りが滲んでいた。私を追い出した国への怒りだ。


「でも」


私は首を振った。


「もし私の力で事件が解決できるなら——」


「リーゼル」


「私は、助けを求める声を無視できない性分なの」


それが、私という人間だ。


幽霊たちの声に耳を傾け、彼らの未練を晴らしてきた。困っている者がいれば、手を差し伸べずにはいられない。


ルシアン殿下は、長い沈黙の後、深く息を吐いた。


「……分かった」


「殿下?」


「貴女がそう決めたなら、私も同行する」


「え?」


「貴女を一人で、あの国に戻すわけにはいかない」


殿下の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。


「私が、貴女を守る」


胸が熱くなった。


「……ありがとうございます」


「礼を言うのは私の方だ。貴女の優しさに、いつも救われている」


殿下は照れたように目を逸らした。


不器用で、感情表現が苦手で、でも——とても優しい人。


(この方のために、私は何ができるだろう)


そう思った瞬間、自分の気持ちに気づいた。


私は——この方を、愛し始めている。


◇◇◇


故国の王宮は、三ヶ月前と変わらなかった。


華やかな外観。きらびやかな装飾。そして、私に向けられる好奇と侮蔑の視線。


「あれが『化け物』令嬢?」

「婚約破棄されたのに、のこのこ戻ってきたの?」

「隣国の王太子に取り入ったらしいわよ」


囁き声が、あちこちから聞こえてくる。


(変わらないわね、この国は)


私は無表情のまま、歩き続けた。


傍らには、ルシアン殿下がいる。その存在が、私の心を支えてくれていた。


「リーゼル・フォン・ヴァイスブルク嬢」


案内された部屋で、待っていたのは——


「……エドワード殿下」


金髪碧眼の第二王子が、苦々しい顔で立っていた。


「まさか、お前に頼むことになるとはな」


エドワードは吐き捨てるように言った。


「私も不本意です」


私は淡々と答えた。


「では、現場を案内していただけますか」


「……ふん」


エドワードは不機嫌そうに踵を返した。


ルシアン殿下が、私の傍らに並んで歩く。その存在感だけで、周囲の視線が変わるのが分かった。


(流石は隣国の王太子ね)


暗殺未遂事件の現場は、第一王子の私室だった。


部屋に入った瞬間、私は息を呑んだ。


——見える。


残留思念が、部屋中に渦巻いている。恐怖、憎悪、殺意。そして——


「セレスティア」


私は思わず呟いた。


「何だと?」


エドワードが振り返った。


「セレスティア・モーリン男爵令嬢の残留思念が、この部屋に残っています」


「馬鹿な!」


エドワードが声を荒げた。


「セレスティアは俺の傍にいた! この事件とは無関係だ!」


「殿下」


私は静かに首を振った。


「残留思念は嘘をつきません。彼女はこの部屋に来た。そして——」


目を閉じ、思念を読み取る。


「誰かと密談していた。『計画通りに』『あの方さえいなくなれば』……そういう会話が残っています」


「嘘だ! お前は俺を陥れようと——」


「エドワード殿下」


ルシアン殿下が、冷たい声で割り込んだ。


「リーゼル嬢の能力は、我が国で厳密に検証済みだ。彼女が見たものは、真実だ」


「しかし——」


「認めたくない気持ちは分かる。だが、真実から目を逸らしても、何も解決しない」


ルシアン殿下の瞳が、鋭くエドワードを見据えた。


「愛人を庇いたいなら、まず事実を確認することだ」


エドワードは、歯を食いしばった。


◇◇◇


調査は迅速に進んだ。


私の残留思念の読み取りを皮切りに、衛兵たちがセレスティアの周辺を洗い始めた。


そして——三日後。


すべてが明らかになった。


セレスティア・モーリン男爵令嬢は、実家の莫大な借金を返済するため、裏社会と繋がっていた。暗殺計画の首謀者は別にいたが、彼女は王宮の内部情報を流していた。


「嘘よ! 私じゃない! エドワード様、信じて!」


衛兵に連行されるセレスティアが、エドワードに縋りついた。


「お願い、助けて! 私たちの愛は本物でしょう!?」


エドワードは——目を逸らした。


「俺は知らない」


「え……?」


「俺は何も知らなかった。お前が勝手にやったことだ」


冷たい声だった。


「エドワード様!?」


「連れて行け」


エドワードは衛兵に命じた。その顔には、責任逃れの必死さが浮かんでいた。


セレスティアの顔が、絶望に歪んだ。


「嘘……嘘よ……私のこと、愛してるって言ったじゃない……」


「黙れ」


エドワードは吐き捨てた。


「お前のような女と、本気で付き合うわけがないだろう」


衛兵に引きずられていくセレスティア。その悲鳴が、廊下に響き渡った。


私は、その光景を静かに見つめていた。


(これが因果応報というものね)


三ヶ月前、この女性は私を『化け物』と嘲笑った。今、彼女は自分が縋った男に見捨てられ、連行されていく。


同情はない。だが、空しさはあった。


「リーゼル」


ルシアン殿下が、私の肩に手を置いた。


「見事だった」


「……ありがとうございます」


「帰ろう。貴女の居場所へ」


私は頷いた。


振り返ると、エドワードが青ざめた顔で立っていた。


「待て」


私を呼び止める声。


「何か?」


「お前……最初から分かっていたのか。セレスティアが怪しいと」


「いいえ」


私は首を振った。


「私はただ、視えたものを伝えただけです」


「……」


「殿下がモーリン令嬢を見抜けなかったのは、私の能力とは関係ありません。ご自身の目が曇っていただけのこと」


静かに、しかし確実に。私は三ヶ月分の言葉を返した。


「『幽霊と会話する狂人』の言葉でも、真実は真実です。お忘れなきよう」


エドワードの顔が、屈辱に歪んだ。


私は一礼して、ルシアン殿下と共に去った。


背中に突き刺さる視線を、もう気にする必要はなかった。


◇◇◇


ヴェルデシアに戻る馬車の中で、私は窓の外を眺めていた。


故国の景色が、ゆっくりと遠ざかっていく。二度目の旅立ち。だが今回は、前回よりもずっと心が軽い。


「リーゼル」


ルシアン殿下が、向かいの席から声をかけた。


「何か考えているのか」


「いいえ、特には」


「嘘だな」


殿下は微かに笑った。


「貴女が窓の外を見つめている時は、何かを考えている時だ。もう三ヶ月、傍で見ているから分かる」


「……お見通しですね」


私も小さく笑った。


「少しだけ、複雑な気持ちでした」


「複雑?」


「故国で、私は『化け物』として扱われました。でも今回、その能力が役に立った」


私は自分の手を見つめた。


「結局、価値があるかどうかで人の扱いは変わるのだと。少し、虚しくなりました」


「リーゼル」


ルシアン殿下が、私の手を取った。


「え……」


「貴女の価値は、能力だけではない」


殿下の紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。


「私が貴女を求めたのは、確かに霊視の能力があったからだ。だが——」


殿下の声が、僅かに震えた。


「今は違う」


「殿下……?」


「貴女の優しさが好きだ。傷ついた者に寄り添う姿が好きだ。理不尽に立ち向かう強さが好きだ」


言葉が、一つ一つ胸に響く。


「貴女の微笑みを見ると、心が温かくなる。貴女がいないと、城が寂しく感じる」


「……」


「これを、人は『愛している』と言うのだろう」


殿下が、私の手を握りしめた。


「リーゼル・フォン・ヴァイスブルク。私は貴女を愛している」


息が止まった。


「貴女の目も、心も、すべてが愛おしい。私の妻になってほしい」


沈黙。


馬車の車輪が、軽やかに回る音だけが聞こえる。


「殿下」


私は震える声で言った。


「私は——自分に自信がありません。二十年間、誰からも愛されなかった人間です」


「だから?」


「だから、殿下の愛情を受け止められるか、分からないのです」


正直な気持ちだった。


愛されることに慣れていない。誰かを幸せにできる自信がない。


ルシアン殿下は、優しく微笑んだ。


「私も同じだ」


「え?」


「母と妹を失ってから、私は心を閉ざした。誰も傍に置かなかった。傷つくのが怖かったから」


殿下の瞳に、悲しみが揺れた。


「でも、貴女に出会って変わった。貴女といると、心を開いてもいいと思える」


「殿下……」


「私たちは、似た者同士だ。だから——一緒に、愛し方を学んでいけばいい」


不器用な言葉だった。でも、それが殿下らしかった。


「そんな私でも、いいのですか」


「貴女だからいいんだ」


殿下が、私の頬に手を添えた。


「リーゼル。返事を聞かせてくれ」


私は目を閉じた。


心の中で、エリスの声が聞こえた気がした。


『お兄様を、幸せにしてあげて』


「……はい」


目を開けると、殿下が息を呑む気配がした。


「私で良ければ。殿下の——ルシアン様の、妻になります」


殿下の顔が、見たこともないほど嬉しそうに輝いた。


「リーゼル……」


「その代わり、私も不器用です。迷惑をかけると思います」


「構わない」


「すぐに心を開けないかもしれません」


「待つ」


「時々、皮肉を言います」


「知っている」


殿下が笑った。初めて見る、無邪気な笑顔だった。


「それが貴女だ。すべて含めて、愛している」


馬車の窓から、春の日差しが差し込んでいた。


私は——生まれて初めて、心から笑った。


◇◇◇


婚約の儀は、ヴェルデシア王宮で盛大に執り行われた。


「リーゼル・フォン・ヴァイスブルク嬢を、我が国の『霊視の巫女』として、そして王太子妃として迎えることを宣言する」


アルベルト国王陛下の声が、大広間に響き渡った。


集まった貴族たちから、祝福の拍手が起こる。誰も私を『化け物』とは呼ばない。むしろ、尊敬と羨望の眼差しで見つめている。


(こんな日が来るなんて)


三ヶ月前の私は、想像もしていなかっただろう。


「リーゼル」


隣に立つルシアン——もう、殿下ではなく名前で呼ぶことになった——が、私の手を取った。


「緊張しているか」


「少しだけ」


「私もだ」


「嘘でしょう。氷の王太子が」


「貴女の前では、氷も溶ける」


ルシアンが、かすかに笑った。


「リーゼル」


マリアが、涙ぐみながら駆け寄ってきた。


「おめでとうございます。本当に——」


「ありがとう、マリア。あなたがいなければ、今の私はいないわ」


「もう……そんなこと……」


マリアは、ハンカチで目を押さえながら笑った。


「どうかお幸せに。心から、そう願っております」


「ええ。あなたも、ずっと傍にいてね」


「もちろんです。この命が尽きるまで」


マリアが深く頭を下げた。


◇◇◇


婚約の儀が終わり、私は一人、庭園に出た。


月が煌々と輝いている。あの夜と同じように。


「エリス」


名前を呼ぶと、少女の姿が現れた。


透き通った体が、月光の中でキラキラと輝いている。


「リーゼル」


エリスは微笑んだ。いつもより、どこか寂しげな笑顔だった。


「おめでとう」


「ありがとう」


私はエリスの傍に歩み寄った。


「あなたのおかげよ。あなたがいなければ、ルシアンと出会えなかった」


「私は何もしてないよ」


「嘘。十年間、ずっと傍にいてくれたでしょう」


エリスの瞳が、揺れた。


「リーゼル……」


「あなたがいたから、私は自分の能力を完全には嫌いになれなかった。あなたに会えることが、私の救いだった」


言葉が、涙と共に溢れ出る。


「だから、ありがとう。エリス」


少女の目から、透明な涙が流れ落ちた。


「私の願いは——」


エリスが言った。


「お兄様を、リーゼルに託すこと。それが、ずっと叶えたかったこと」


「エリス……」


「もう、大丈夫だよね?」


私は頷いた。


「ええ。約束するわ。ルシアンを、幸せにする」


「うん」


エリスが微笑んだ。今度は、心からの笑顔だった。


「ありがとう、リーゼル」


少女の体が、光を帯び始めた。


「お兄様をよろしくね」


「ええ」


「リーゼルも、幸せになってね」


「なるわ。絶対に」


エリスの体が、少しずつ透けていく。


「バイバイ、リーゼル」


「さようなら、エリス。天国で、お母様によろしく」


「うん——」


最後の言葉は、聞こえなかった。


少女の姿が、光の中に溶けていく。まるで、満天の星になるように。


私は、その光を見つめ続けた。


◇◇◇


「リーゼル」


背後から、声がした。


振り返ると、ルシアンが立っていた。


「ここにいたのか。探した」


「ごめんなさい。少し——」


私の頬を、涙が伝っていることに気づいた。


「泣いているのか」


「ええ。エリスが——」


言葉が詰まった。


ルシアンは、黙って私を抱きしめた。


「成仏したのか。妹が」


「……知っていたの?」


「あの夜、母の霊との対話の時に。察していた」


私はルシアンの胸に顔を埋めた。


「エリスは、ずっとあなたのことを想っていたわ。幸せになってほしいって」


「そうか」


ルシアンの声が、震えた。


「あいつは……最後まで、俺のことを心配していたのか」


「ええ。だから、私に託したの。あなたを幸せにしてって」


私は顔を上げた。


「だから——約束したの。あなたを、幸せにするって」


ルシアンが、優しく微笑んだ。


「それなら、私も約束する」


「何を?」


「貴女を、幸せにする。私の命が尽きるまで」


月光の下で、私たちは額を寄せ合った。


遠い空の向こうで、星が一つ、輝いた気がした。


エリスが、笑っている。


そんな気がした。


◇◇◇


こうして、私——リーゼル・フォン・ヴァイスブルクは、新しい人生を歩み始めた。


『呪い』だと思っていた能力は、『祝福』だった。

『化け物』だと蔑まれた私は、『国宝』として迎えられた。

そして、誰からも愛されないと思っていた私は、心から愛してくれる人を見つけた。


道のりは長く、まだ困難もあるだろう。


でも、もう一人じゃない。


隣には、ルシアンがいる。

マリアがいる。

そして、見守ってくれる死者たちがいる。


私は——幸せだ。


心から、そう思えた。


【終】

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