第三話 没頭
俺は一度も、水晶板を起動していなかった。
見ない。
触らない。
考えない。
欲に逃げるたび、
自分が何年も立ち止まっていた事実を、
突きつけられる気がした。
だから、身体を動かした。
夜明け前、
空がまだ群青色のうちに家を出る。
村の外周を走る。
最初は五百メートルで息が上がった。
肺が焼ける。
足が笑う。
「……っ、はぁ……」
かつて“天才”と呼ばれた身体は、
怠惰によって、見事に凡人以下になっていた。
それでも、止まらなかった。
倒れそうになったら歩き、
歩けなくなったら、這った。
誰も見ていない。
褒める者もいない。
それでも続けた。
これは――罰だ。
才能を持ちながら、何もしなかった自分への。
午前は肉体。
丸太を担ぐ。
石を運ぶ。
魔力に頼らない。
魔法でやった瞬間、全部が嘘になる気がした。
だから、自分自身に高度魔法を使った。
魔力遮断。
本来は強敵に使う封印術式を、自分にかける。
魔力を使えない状態で、肉体だけを鍛える。
肺が裂ける。
腕が震える。
それでも続けた。
昼は座学。
埃をかぶった魔導書を開き、
基礎式を一行ずつ書き写す。
かつては暗記で済ませていた場所。
今は理解する。
なぜ、この式なのか。
なぜ、この順なのか。
才能に甘えて、見なかった場所を。
夕方は魔力制御。
水を、一滴。
それだけを宙に浮かべる。
揺れたらやり直し。
震えたら最初から。
ただ一滴と向き合った。
夜はまた、走った。
三日。
五日。
十日。
筋肉は裂け、
手の皮は剥け、
夜は痛みで眠れない日もあった。
それでも。
朝になれば、立ち上がった。
急がないと。
マリアの誕生日が近い。
あの男は、待っている。
三十日が過ぎた朝。
井戸端で、母さんが言った。
「……顔、少し締まったね」
それだけだった。
褒めもしない。
けれど、声が少しだけ柔らかかった。
父さんは何も言わず、
夕食の肉を一切れ多く皿に乗せた。
それで、十分だった。
期待じゃない。
失望でもない。
それでも。
胸の奥が、少し熱くなった。
三ヶ月が過ぎた。
村の外周を三十周しても、息は乱れない。
丸太は一人で担げる。
魔法も――戻り始めていた。
そして、その夜。
水滴が、微塵も揺れなかった。
風が吹いても。
指を離しても。
完璧な球体のまま、宙に留まる。
「……戻ってきた」
そのとき。
視界の奥が、歪んだ。
【本質看破:発動】
――対象:自己
【恐怖】
魔力が、見えた。
本来は一本の太い流れ。
だが、
途中で無数に枝分かれしていた。
魔力が、分散している。
枝の先にあるのは―
トラウマ。
「……そういうことか」
恐怖が、魔力を裂いていた。
俺は目を閉じる。
思い出す。
馬車の扉。
ミーナの横顔。
マリアの笑顔。
サラの俯いた顔。
守れなかった現実。
怒り。
悔しさ。
無力。
逃げない、恐怖を押し殺さない。
ただ、認める。
「俺は……怖い」
恐怖は消えない。
なら、捨てない。
恐怖の先にあるものを、掴む。
守りたい。
その感情だけを、魔力の中心に置いた。
枝が、収束する。
魔力が、流れる。
「……やっと、スタートラインだ」
才能に甘えたガキでもない。
逃げた臆病者でもない。
守る理由を持った魔法使い。
それが、今の俺だった。
なら――やることは一つ。
「……金を稼ぐ」
ミーナたちが連れていかれた理由は一つ。
この村が、貧乏だったからだ。
なら、
奪い返す。
モンスターを狩る。
危険地帯に入る。
力を、金に変える。
そして、
選択肢を買う。
「待ってろ、ミーナ」
そのときだった。
視線を感じた。
丘の上。
一人の少女。
短い髪。
背中の剣。
静かな魔力。
強い。
「……変な魔法使い」
少女は呟いた。
そして、俺を見ていた。




