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第8話
帰還者
夜の新東京。
工業区は昼とは別の街になる。昼間は大型トラックと作業員で騒がしい場所だが、夜になると機械は止まり、広い道路には風と鉄の匂いだけが残る。
古い倉庫の外壁に取り付けられた照明が、鈍い白い光をコンクリートに落としていた。
その暗い通りを、一台の車が低い音を立てて走っていた。
ガンメタのボディ。
トヨタ・スープラ。
電子モーターが主流になったこの時代では珍しい、燃焼エンジンの低い唸りが夜の空気を震わせる。
久世玲はハンドルを片手で握り、もう片方の手でシフトレバーを軽く触れた。アクセルをわずかに踏み込むと、エンジンが低く応える。義手の指先に伝わる振動を確かめるように、ほんの少しだけ速度を落とした。
フロントガラスの内側に、義眼のインターフェースが淡く浮かぶ。
倉庫街の簡易地図。
赤い光点がひとつ。
エニマの声が車内に響いた。
「隊長ォ」
久世は前を見たまま答える。
「何」
「事件だよ」
「内容」
「違法義体取引。武装あり。場所は前方二百メートル」
久世は小さく息を吐く。
「いつもの仕事ね」
スープラはゆっくり減速し、倉庫街の影の中へ滑り込んだ。
街灯の光がボディを一瞬だけ照らし、すぐに闇に溶ける。
久世は倉庫群から少し離れた場所で車を止めた。
エンジンを切る。
途端に、世界が静かになる。
遠くで風に揺れる鉄板が鳴る音が聞こえた。
久世はドアを開ける。
冷たい夜風が頬を撫でる。
工業区特有の匂いが鼻に入る。
油。
鉄。
古い機械。
久世はポケットに手を入れ、煙草を取り出しかけた。
指が止まる。
「……」
小さく息を吐く。
煙草をポケットに戻した。
「仕事が先」
二丁拳銃を取り出す。
金属の重みが手に馴染む。
スライドを引く。
カチン。
小さな金属音。
久世は倉庫街へ歩き出した。
足音を殺しながら、影と影の間を進む。
古い倉庫の外壁は錆びていた。鉄板の継ぎ目から風が入り込み、かすかな振動音を立てている。
エニマの声。
「目的の倉庫、前方」
久世は立ち止まる。
倉庫の扉。
半開き。
中から白い光が漏れている。
人の声。
金属がぶつかる音。
久世は壁に身体を寄せる。
ゆっくりと顔を出す。
倉庫の中。
棚。
コンテナ。
輸送箱。
そして。
義体パーツ。
腕。
脚。
人工筋肉。
神経接続ユニット。
床には分解された義体の胴体が転がっている。
違法改造だ。
その周囲に男たちが立っていた。
銃。
義体の腕。
粗雑な改造。
久世は小さく呟く。
「五人」
エニマが言う。
「六人」
久世の眉がわずかに動く。
「奥」
「うん」
倉庫の奥、棚の影にもう一人いる。
久世は拳銃を構える。
深く息を吸う。
ゆっくり吐く。
靴底がコンクリートに触れる。
一歩。
倉庫の中へ踏み込む。
その瞬間。
男が振り向いた。
「誰だ」
久世の右手が動く。
閃光。
パンッ
銃声が倉庫の鉄壁に反響する。
弾丸が男の肩関節を撃ち抜いた。
金属の破断音。
義体の腕がぶら下がる。
男が床に倒れる。
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「侵入者だ!」
銃が上がる。
倉庫の空気が一気に変わった。
銃口が一斉に上がる。
久世はもう動いていた。
床を蹴る。
身体が低く滑る。
次の瞬間。
銃声。
パンッ
パンッ
パンッ
弾丸が棚を叩く。
鉄板に当たり、火花が散る。
久世は床を滑る勢いのまま柱の影へ身体を入れる。弾丸が背後の鉄壁を打ち抜いた。
ガンッ
乾いた衝撃音。
久世は柱の影から腕だけを出す。
右手の拳銃。
閃光。
パンッ
弾丸が男の膝関節を撃ち抜く。
金属が歪む。
関節が外れる。
男がその場で崩れ落ちる。
叫び声。
「撃て!」
銃声が重なる。
パンッ
パンッ
パンッ
パンッ
弾丸が倉庫の中を走る。
木箱が砕ける。
義体パーツが床に転がる。
人工筋肉のケーブルが引きちぎられる。
久世は柱を蹴る。
身体を回転させる。
着地。
同時に両手の拳銃を上げる。
パンッ
パンッ
二つの閃光。
弾丸が男の腕関節を撃ち抜く。
銃が床に落ちる。
カラン。
男が呻き声を上げる。
久世は一歩踏み込む。
距離。
三メートル。
男が胸の装甲を向けてくる。
厚いプレート。
改造義体。
久世は銃口をわずかに下げた。
パンッ
弾丸が腹部装甲に当たる。
火花。
衝撃。
男が一歩よろめく。
だが倒れない。
男が笑う。
「そんな弾で止まるか」
銃を構える。
その瞬間。
久世の左手。
パンッ
弾丸が首関節に突き刺さる。
金属音。
義体の神経接続部。
装甲の隙間。
男の身体が力を失う。
床へ崩れる。
倉庫の奥。
残り三人。
一人が重火器を持っていた。
太い義体腕。
改造型。
銃口が上がる。
久世の義眼に軌道予測が浮かぶ。
赤いライン。
弾道。
久世は身体を横に倒した。
ドガガガガッ
弾丸が棚を破壊する。
義体パーツが空中に舞う。
人工筋肉が引き裂かれる。
久世は床を転がる。
起き上がる。
拳銃を上げる。
パンッ
パンッ
パンッ
弾丸が男の脚関節を叩く。
金属音。
だが止まらない。
男が突っ込んでくる。
義体重量。
床が揺れる。
久世は一歩引く。
距離。
二メートル。
男の銃口が目の前に来る。
その瞬間。
ドォン
倉庫の空気が爆ぜた。
爆音。
衝撃。
男の身体が横に吹き飛ぶ。
棚に叩きつけられる。
木箱が砕ける。
義体パーツが空中に飛び散る。
久世は動きを止めた。
硝煙が倉庫に広がる。
煙の向こう。
カシャン
金属音。
ショットガンの排莢。
ゆっくりと足音が近づいてくる。
重いブーツ。
床に散らばった薬莢を踏みながら。
影が伸びる。
煙の中から男が現れる。
背が高い。
広い肩。
片手にショットガン。
Benelli M4。
男は銃をゆっくり構え直した。
棚の陰。
まだ動く義体が起き上がる。
ドォン
爆音。
義体の胸部装甲が砕ける。
金属片が空中に弾ける。
義体が床に叩きつけられる。
完全停止。
沈黙。
煙がゆっくり天井へ上がっていく。
男はショットガンを肩に担ぐ。
そして言った。
「相変わらず派手だな」
久世は銃を下げない。
目を細める。
「……黒瀬」
男は笑う。
「久しぶりだな」
エニマの声が響く。
「隊長ォ、この人誰?」
久世は拳銃を下ろす。
「久世隊」
一瞬の沈黙。
「元メンバーよ」
黒瀬は倉庫を見回した。
砕けた義体。
弾痕。
薬莢。
「相変わらず一人で始めるな」
久世は銃をホルスターへ戻す。
「遅いのよ」
黒瀬はショットガンを軽く振った。
「悪いな」
肩を回す。
「任務帰りだ」
久世の眉がわずかに動いた。
「義体戦争?」
黒瀬は短く答える。
「ああ」
煙がまだ倉庫の中に漂っていた。
倉庫の外。
夜の空気がゆっくり流れていた。
久世は倉庫の壁にもたれ、ポケットから煙草を取り出す。箱の底を軽く叩くと一本だけ飛び出す。それを指で挟み、口にくわえた。
ライターを取り出す。
火。
小さな炎が一瞬だけ久世の顔を照らす。
煙を吸う。
肺の奥までゆっくり入れてから、長く吐いた。
白い煙が夜の空気に溶けていく。
背後で金属音。
黒瀬が倉庫から出てくる。
ショットガンを肩に担ぎ、ポケットを探る。潰れた紙箱を取り出し、中から太い煙草を一本抜いた。
無銘の軍用タバコ。
口にくわえる。
ライター。
火。
吸う。
煙が濃い。
久世が横目で見る。
「まだそれ吸ってるの」
黒瀬は煙を吐く。
「慣れてる」
煙が夜に重く漂う。
しばらく沈黙。
遠くで鉄板が風に鳴る。
黒瀬が言った。
「よく場所がわかったな」
久世は煙草を指に挟んだまま答える。
「相良のおっさんから」
黒瀬が小さく笑う。
「相変わらずだな、あの人」
煙を吐く。
少し沈黙。
黒瀬がふと視線を横に向けた。
「……まだ行ってんのか?」
久世は煙を吐く。
夜空を見上げながら言う。
「たまにね」
黒瀬は小さく頷いた。
「そうか」
しばらく黙る。
煙が流れる。
黒瀬が言った。
「後で俺も顔でも見に行くかな」
久世は少しだけ笑う。
「石川、喜ぶよ」
黒瀬は肩をすくめる。
「起きたらな」
風が吹く。
煙が流れる。
黒瀬が言う。
「神代は?」
久世は煙を吐く。
「まだピンピンしてるわよ」
黒瀬の顔が少し明るくなる。
「そうか!」
煙を吸う。
「早く一緒に酒でも飲むかな」
久世が横目で見る。
「私は誘わないの?」
黒瀬は一瞬だけ止まり、それから笑った。
「それは隊長殿も来るかい」
わざとらしく敬礼の真似。
久世は煙草を軽く振る。
「もう隊長じゃないわよ」
黒瀬は煙を吐く。
「俺の中じゃまだ隊長だ」
久世は何も言わない。
煙を吐く。
少し沈黙。
久世が言った。
「あっちはどうだったの?」
黒瀬は空を見る。
煙を吐く。
少し間。
「……地獄だな」
煙を吸う。
「義体同士の戦争ってのは」
煙を吐く。
「人間の戦争よりうるさい」
久世。
「そう」
黒瀬は肩を回す。
「装甲の音がな」
「銃よりでかい」
煙が夜に流れる。
黒瀬が言う。
「でも終わった」
「だから戻ってきた」
久世は煙草の火を見つめる。
赤い光が小さく揺れている。
黒瀬が倉庫の方を見る。
「凛と蒼は?」
久世は煙を吐く。
「まだ見つかってない」
黒瀬は少し黙る。
「……そうか」
風が吹く。
鉄板が鳴る。
黒瀬が煙草を落とし、靴で踏み消した。
「じゃあ」
ショットガンを肩に担ぎ直す。
「またやるか」
久世は煙草を吸う。
煙を吐く。
「黒瀬」
「何」
久世は言った。
「最初からそのつもりでしょ」
黒瀬が笑う。
「バレてたか」
久世は煙草を落とす。
靴で火を消す。
倉庫街の夜は静かだった。
遠くのネオンが淡く揺れている。
久世が言う。
「神代、喜ぶわよ」
黒瀬は笑った。
「エニマ見たらあいつ発狂するな」
エニマの声。
「聞こえてるよ?」
黒瀬は少し驚いた顔をする。
「これがエニマか」
久世はスープラの方へ歩き出す。
黒瀬が後ろからついてくる。
「……隊長」
久世は振り向かない。
「何」
黒瀬が言う。
「久世隊、また動くんだろ」
久世は少しだけ笑った。
夜の工業区。
古いスープラのエンジンが静かに目を覚ます。
低い音が、ゆっくりと夜の街へ溶けていった。




