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第6話 国家の目
湾岸工業区の夜は、湿っている。
潮の匂いが、鉄の匂いと混ざる。
古びた倉庫群の隙間を通り抜けた風が、トタン板をわずかに震わせた。
カン、と乾いた音。
その音はすぐに暗闇に溶ける。
ガレージのシャッターは半分だけ開いていた。
外のネオンが細い帯になり、コンクリートの床を横切っている。
その光の中に、車が一台。
ガンメタのボディ。
低く、長いシルエット。
トヨタ・スープラ。
ボンネットはまだわずかに温かい。
昼間走ったエンジンの熱が、金属の奥に残っていた。
ガレージの奥。
工具台の前に立つ女。
久世玲。
片手にマルボロの箱。
箱を軽く振ると、中の紙巻きが小さくぶつかり合う音がする。
一本だけ指で引き出す。
唇に咥える。
ポケットからジッポを取り出す。
金属の蓋を親指で弾く。
カチン。
小さな火花。
炎が立つ。
久世はタバコの先を火へ近づける。
吸う。
火が赤く灯る。
煙が肺へ落ちる。
ゆっくり吐き出す。
白い煙は天井へ昇り、鉄骨の影へ絡みながら消えていった。
久世はスープラを見た。
静かな夜。
遠くの高速道路を走る車の音だけが、かすかに聞こえる。
「……静かだな」
独り言のように呟く。
その瞬間。
視界の右端に、青い点が灯った。
義眼HUD。
エニマのアイコン。
「隊長」
子供の声。
久世は煙を吐く。
「なんだ」
「通信」
「ちょっと変」
HUDの端に、データ波形が走る。
緑のラインが不規則に震えていた。
ノイズ。
エニマが解析している。
「都市ネットワーク」
「パケットが増えてる」
久世は灰皿へ灰を落とす。
灰が崩れる。
「いつから」
「三分」
エニマが続ける。
「それと」
少しだけ声が低くなる。
「暴走」
久世の目がわずかに細くなる。
「場所」
HUDに地図が出る。
赤い点。
品川コンテナヤード。
久世はタバコを灰皿へ押し付ける。
火が消える。
煙が細く上がる。
「またか」
「うん」
「今回は四」
久世は工具台へ手を伸ばした。
拳銃。
SIG P226。
一丁持つ。
スライドを引く。
カシャン。
弾薬確認。
もう一丁。
同じ動作。
弾倉を軽く叩く。
金属が小さく鳴る。
ホルスターへ戻す。
久世はスープラへ歩く。
靴底がコンクリートを擦る。
ドアを開ける。
シートへ体を落とす。
キーを回す。
セルモーター。
次の瞬間。
直列6気筒エンジンが唸った。
低い。
太い。
この都市では珍しい音。
エニマが言う。
「やっぱりこの車うるさい」
久世はハンドルを握る。
「好きなんだ」
アクセルを踏む。
シャッターが上がる。
夜の空気が流れ込む。
スープラが道路へ出る。
湾岸道路。
ネオンがフロントガラスを滑る。
速度が上がる。
80。
100。
120。
街の光が線になる。
遠くに赤い点滅。
警察車両。
コンテナヤード。
そして。
銃声。
パンッ。
パンッ。
エニマ。
「隊長」
「もう始まってる」
久世はアクセルをさらに踏み込む。
エンジンが唸る。
スープラがコンテナヤードの入口へ突っ込む。
ブレーキ。
タイヤが甲高く鳴く。
車体が横に流れる。
停止。
ドアが開く。
久世が外へ出る。
夜の風。
火薬の匂い。
警官の怒鳴り声。
「撃つな!」
「まだ市民だ!」
コンテナの影。
そこに一人の男がいた。
作業服。
そして義体。
東亜重工の量産モデル。
だが。
動きが壊れている。
肩が不自然に震えていた。
関節が細かく跳ねる。
ギギギギ、とモーターの過負荷音。
男の口から、短い呼吸が漏れる。
人間の部分が、まだ残っている。
しかし。
次の瞬間。
男が走った。
警官へ向かって。
警官が後ずさる。
「来るな!」
久世の銃が抜かれる。
パンッ。
銃口の閃光。
弾丸が肩へ当たる。
火花。
しかし男は止まらない。
拳を振り上げる。
久世は横へ滑る。
パンッ。
二発目。
膝関節。
金属が弾ける。
脚が崩れる。
それでも男は腕で這う。
コンクリートを爪で削りながら。
「……制御完全に死んでる」
エニマ。
「神経信号崩壊」
その瞬間。
コンテナの影が動いた。
別の義体。
そしてもう一体。
さらに一体。
四体。
警察が完全に下がる。
久世は小さく息を吐く。
「多いな」
その時。
コンテナの奥で。
爆発のような音がした。
ドンッ。
義体の一体が宙を舞う。
鉄の壁へ叩きつけられる。
コンテナが歪む。
警官たちが一斉に振り向く。
暗闇の奥。
そこに立っている男。
長身。
重い足音。
コンクリートが沈む。
霧島太一。
霧島は歩いてくる。
暴走義体が一体、唸りながら突進する。
霧島は止まらない。
拳を掴む。
骨のような音。
関節が逆方向へ曲がる。
霧島は短く言う。
「危険」
そのまま男を持ち上げる。
そして。
叩きつけた。
ドンッ。
衝撃。
コンクリートが蜘蛛の巣のように割れる。
霧島の足が、一歩だけ前へ出た。
それだけだった。
だが、その一歩で空気が変わる。
警官たちが息を呑む音が、コンテナヤードの広さの中で妙に近く聞こえた。
さっきまで「暴走義体にどう対処するか」で混乱していた現場が、一瞬だけ別の混乱に変わる。
――何だ、あれは。
そういう種類の沈黙だった。
叩きつけられた義体はまだ動いていた。
肩のジョイントが割れ、胸部装甲がへこみ、片腕が変な方向へ折れているのに、脚だけが痙攣するみたいに跳ねる。立とうとしている。立ち上がるというより、倒れることを拒否している。義体の制御がそうさせているのか、残った神経信号が身体を前へ押そうとしているのか、もう見分けがつかない。
ギギ、ギギギ、と嫌な音が続く。
久世は右手の銃を低く構えたまま、その音を聞いていた。
「……無理に起こしてる」
エニマが応じる。
「関節制御、もう限界」
「同期率がおかしい」
「どれくらいだ」
「九十四……九十五……いや、もっと上がる」
久世の目が細くなる。
民間義体でその数字は高すぎる。
日常動作のための義体が、戦闘用の負荷に近いところまで引き上げられている。脳が先に焼ける。脳が焼ける前に心臓が跳ねる。心臓が持ちこたえても、義体の関節が先に悲鳴を上げる。どのみち、まともには終わらない。
「隊長」
エニマの声が少しだけ鋭くなる。
「まだ三体、動いてる」
その言葉に合わせるように、コンテナの陰で一つの影が揺れた。
次の瞬間、二体目の義体が警察車両のフロントへ突っ込む。
バン、と鈍い衝撃音。
ボンネットが折れ、フロントガラスにひびが走る。車体が横に滑る。警官が悲鳴を上げて後退した。三体目は別方向へ走り、積み上げられた小型コンテナへ肩からぶつかった。コンテナが揺れ、上に積まれていたプラケースがまとめて崩れ落ちる。中から工具や樹脂パーツが散らばり、硬い床を跳ねて甲高い音を立てた。
四体目は、さっき久世に膝を撃たれた男だった。
片脚を引きずりながら、それでもなお前へ出る。歩き方ではない。関節の補助駆動が一歩ごとに身体を押し出し、そのたびに上半身が遅れて追いつく。頭が揺れる。肩が揺れる。口元から荒い呼吸が漏れる。まだ男の意識がどこかに引っかかっているのが分かる。
「止まれ」
若い警官が叫んだ。
声が上ずっている。
「止まれ!」
止まるわけがない。
本人に命令しているのか、義体に命令しているのか、自分でも分かっていない声だった。
男は振り向いた。
焦点の合わない目。
しかし、声には反応している。
その瞬間、霧島が動いた。
速い、というより、間がない。
立っていた位置から、そこへ着くまでの過程が消えて見える。
重いはずの完全義体の身体が、一度だけ深く沈み、次の瞬間には男の懐へ入っていた。
霧島の左手が伸びる。
男の喉元ではなく、鎖骨の少し下。義体外装と生体側の境目に近い位置を掴む。右手は折れた義体脚の付け根へ。
「危険」
短く言う。
その一言の直後、霧島は両腕に力を込めた。
メリ、という嫌な音がした。
生身の音ではない。
金属フレームが軋み、人工筋肉束が一斉に張り詰めて裂ける音だ。男の身体が半回転する。義体脚が根元から外れかける。火花が散った。男が声にならない息を吐く。霧島はそのまま身体をひねり、男を横へ投げた。
ドンッ。
男の身体がコンテナ側面に激突する。
鋼板が内側へへこみ、衝撃が鈍く響く。跳ね返った身体が膝から崩れる。だがまだ止まらない。腕だけで立ち上がろうとする。
久世はその動きを見て、銃口をわずかに上げた。
距離、十メートル弱。
コンテナの角。
霧島の位置。
警官二名の射線。
右側に散らばったケース。
足場は悪くない。
弾数。右に十二、左に十二。
撃てる。
「エニマ」
「右から二体、同期率九十六超え」
「生きてるか」
「生体反応あり」
「……厄介だな」
久世は左手の銃を二体目へ向けた。
その義体は警察車両のドアを引き剥がそうとしていた。
外装プレートがきしみ、ドアヒンジが悲鳴を上げる。車内の警官が逃げ遅れている。
「伏せろ!」
久世が怒鳴る。
叫ばれた警官は反射的に身体を引いた。
その瞬間、久世が撃つ。
パンッ。
閃光。
弾丸は義体の肘関節を打ち、火花と一緒に細かな金属片が散った。腕が跳ねる。ドアを掴んでいた手が外れる。しかし義体は即座に逆腕で車体を殴った。
バゴン、と鈍い衝撃。
フロントフェンダーが大きくへこむ。
「止めるよ」
エニマが言う。
「五秒」
「短くしろ」
「頑張る」
久世は走った。
コンテナの角を斜めに切り、警察車両へ。
靴底が濡れたコンクリートを擦る。散らばった樹脂パーツを一つ踏み、わずかに滑る。そのずれを足首で拾い、重心を戻す。右手の銃を下げ、左手の銃だけを残す。車体の陰へ身体を落とし、そこから義体の脚を見る。
量産型。
脚部補助トルク型。
工事・搬送用の強化モデル。
脚は太い。
だが膝裏の補助ラインは隠せない。
パンッ。
弾丸が膝裏へ入る。
義体が一瞬だけ膝をつく。久世はその反動で車体の陰から滑り出る。距離を詰める。上体を沈める。右手を上げる。
パンッ。
二発目。
今度は首の後ろ。頸部フレームの継ぎ目。
火花。
義体の頭が跳ねる。身体が前のめりに倒れる。倒れながらも腕だけが動き、地面を掻く。完全停止までは一拍ある。その一拍が怖い。怖いから久世はもう一歩近づき、銃口を下ろした。
パンッ。
三発目。
後頭部内部ユニット。
ようやく身体が沈黙した。
息を吐く間もなく、三体目が来る。
「隊長、上!」
エニマの声で久世は反射的に身を引いた。
頭上。
コンテナの天面から影が落ちる。三体目の義体が、普通ではあり得ない角度で飛びかかってきた。搬送用の脚部を無理に戦闘に回しているせいで跳躍が大きい。着地した瞬間に膝が壊れるような跳び方だ。
だが壊れる前に届けば、それでいい。
義体の足が久世の肩すれすれを通過する。
風圧。
次の瞬間、地面へ着地。
ドゴッ、と鈍い音。
コンクリートが砕け、細かな粉塵が弾ける。義体の右脚が膝から内側へ折れかける。なのに補助モーターが強制的に回り、無理やり立たせようとする。身体が震える。頭が揺れる。目は合わない。合わないのに、久世だけを見ているみたいに首が向く。
「それ以上は脳にくるぞ」
久世が小さく吐き捨てる。
義体は答えない。
答えられない。
だが、その身体は前へ出る。
久世は銃を構えた。
撃てる。撃てるが、近い。近すぎる。射角を外すと警察側へ抜ける。右に避ければコンテナ。左に避ければ開けるが、足元に破片。霧島は――。
霧島はもうそこにいた。
本当に、そこにいた、としか言いようがない。
さっきまで二体目の残骸のそばにいたはずの男が、いつの間にか久世と暴走義体の間へ立っている。
一歩。
たった一歩分、前。
霧島は何も言わない。
いや、言葉を探していないだけだ。
暴走義体が腕を振るう。
霧島の首がわずかに傾く。
拳が頬の横をかすめる。
風がコートの裾を揺らす。
その瞬間、霧島の右腕が上がる。
掌底ではない。拳でもない。指を半分だけ曲げた、掴みにいく動き。
義体の顔面を掴む。
グシャ、と鈍い音がした。
外装プレートが指の力でへこみ、視覚センサーが割れる。青白い火花が一瞬散る。霧島はそのまま義体の頭を横へ捻る。首の接続部が悲鳴を上げる。人工筋肉束が裂け、内部フレームが露出する。義体の身体が腕を振り回すが、霧島は離さない。
「停止しろ」
低く、短く言う。
命令ではない。確認みたいな口調だ。
当然、止まらない。
霧島はためらわずに力を込めた。
バキ、と今度は明確な破断音。
頭部ユニットと頸部フレームが完全にズレる。義体の身体から力が抜け、膝から崩れる。霧島は掴んでいた頭をそのまま地面へ叩きつけた。
火花。
破片。
そして静寂。
警官の一人が思わず後ずさるのが見えた。
無理もない。人間の動きに見えない。かといって機械の無機質さとも違う。もっと厄介なものだ。人間が中にいて、人間を捨てきっていないのに、外側だけが怪物の力を持っている。
高いところでサーチライトが一度回る。
白い光がコンテナの側面を滑り、霧島の横顔を一瞬だけ照らした。
無表情。
その光景を見ながら、久世はゆっくり銃口を下げた。
「……相変わらずだな」
霧島は視線を久世へ向ける。
「仕事だ」
必要なことだけ。
本当に、それだけしか言わない。
遠くで無線が鳴る。
『救急、前へ! 前へ出ろ! 暴走体三、停止! 四も停止確認!』
『負傷警官二名! 搬送急げ!』
『公安に連絡は――』
『もう来てる!』
その「もう来てる」を聞いて、久世は鼻で笑いそうになった。
公安でも警察でもない。こっちは、呼ばれて来る前に動いている。
エニマの声が少し遅れて響く。
「……止まった」
「全部」
久世は深く息を吐いた。
火薬の匂いが喉に残る。鉄の匂いも、潮の匂いも、今は全部火薬の下にいる。
ホルスターへ銃を戻す。
右。左。順番に。
ポケットからマルボロを出す。
一本。咥える。
ジッポの蓋を開く。
カチン。
火を点ける。
煙を吸う。
肺へ落ちる煙の苦さが、ようやく心拍の速さを現実へ戻す。
「異常だ」
霧島が言った。
久世は煙を吐く。
「知ってる」
「国家が動く」
「好きにしろ」
「君も動いている」
久世は霧島を見た。
昔からこいつはこうだ。無駄な感情は見せないくせに、たまに言うことだけはまっすぐすぎる。
「仕事だ」
久世が答えると、霧島はわずかに視線を外した。
肯定も否定もない。
その時。
義眼HUDの端で青い点が明滅した。
エニマ。
「隊長」
「ログ、出た」
「見せろ」
視界の中央に半透明の文字列が浮かぶ。
Observation continued
一行目。
久世は煙を吐いた。
予想していた言葉だ。だから驚かない。驚かないが、腹の奥の嫌な冷たさは消えない。
次の行。
Subjects detected
その下に、ゆっくりと文字が出る。
Kuse
Kirishima
久世の目が細くなる。
「……見てるな」
霧島が横から画面を見る。
「誰だ」
「観測者」
「確証は」
「ない」
久世はそう答えて、少しだけ間を置いた。
「だが、いる」
霧島は何も言わない。
その沈黙は否定ではなかった。考えている沈黙だ。国家の側にいる男が、国家の外の何かを測っている顔。
エニマがさらに続ける。
「隊長」
「まだ終わってない」
「何が」
「通信のノイズ」
HUDの右端で波形が震える。
さっきより細く、深いノイズ。
都市全体のどこかから、こちらを撫でるみたいに流れてくる信号。
新東京市。
二千五百万の都市。
交通網。監視網。義体制御。通信。記録。
そのどこかじゃない。
その全部のどこか。
久世は夜景の方を見た。
遠くに並ぶ高層ビルの窓が、無数の目みたいに光っている。
警察の赤色灯。
倉庫の白色灯。
湾岸道路を流れる車のヘッドライト。
都市は明るい。
明るすぎる。
明るいくせに、見えないものが多すぎる。
「隊長」
エニマが小さく言う。
「この街、見てるよ」
久世は答えない。
その代わり、煙をゆっくり吐いた。
白い煙が夜の空気にほどけていく。
背後では、救急隊が担架を運び、警官が無線を飛ばし、曲がったコンテナにスポットライトが当たり続けている。
さっきまで暴走していた義体たちは、今はただの残骸だ。
だが、あれを残骸にしたものは、まだどこにも倒れていない。
霧島が言う。
「また来る」
短く、断定するように。
久世は視線を戻す。
「だろうな」
「次は」
霧島が少しだけ言葉を切った。
「数が増える」
久世は煙を吐く。
「面倒だ」
「君は、そう言いながら来る」
久世は少しだけ口元を歪めた。
「仕事だからな」
霧島はそれ以上何も言わなかった。
救急車のドアが閉まる音。
遠くでクレーンの警告灯が一度だけ点滅する。
海風がコンテナの隙間を通り抜け、火薬の匂いと潮の匂いを混ぜた。
そして、その全部の上から、都市の光が静かに降りている。
どこかで。
本当にどこかで。
Λは観測していた。




