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臨界レコード― Dead Men Tell No Tales  作者: 優未緋


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第5話 臨界拡張


雨上がりの夜は、街の輪郭を余計に鋭くする。

濡れたアスファルトは街灯の白を拾い、白を拾いすぎて、影のほうが薄くなる。影が薄いと、人は安心する。安心して、油断する。油断があるから、事故は事故の顔をして歩ける。


集合住宅の並ぶ一角。

自動販売機の光が、妙に元気だ。虫の羽音がその光に吸われていく。遠くで犬が一度だけ吠え、すぐ黙る。空気は冷たく、匂いはまだ湿っている。雨が残した匂いに、排気の薄い甘さが混じっている。EVのモーター音は、夜の背景に溶け込むように低い。


ニュースは、そういう夜を選ぶ。


『—深夜の速報です。湾岸区北部の住宅地で、義体機構を利用する複数名に同時異常が確認されました。現在、原因は調査中。関係各所が対応にあたっています—』


画面の下には、いつものように「映像提供:区防災局」のテロップ。

現場は映さない。映せない。映す必要がない、という顔をしている。


久世は端末を伏せた。

タバコの火は点けない。まだ吸う時間じゃない。まだ、吸う理由がない。


義眼の奥で、エニマが小さく音を立てる。子どもが喉を鳴らすみたいな、あの癖。


「隊長、同時って……嫌な言い方だね」


「嫌な言い方ほど正確だ」


久世は旧い二人乗りの車に乗り込んだ。ドアを閉める音が、夜にきちんと響く。金属の音がする車は、嘘をつかない。嘘をつかない音は、久世の神経を少しだけ落ち着かせる。


キーを回す。

一拍。

低いエンジン音が腹に来る。振動がシートを伝って、背中に押し当てられる。電子の静けさじゃない。機械の、正直なうるささ。


「相変わらず古い」


「私は古いメカが好きなだけだよ」


言いながら、久世はハンドルを切った。濡れた路面がタイヤの下で微かに鳴る。音があると、速度が分かる。速度が分かると、距離が測れる。距離が測れると、撃つときに迷わない。


——迷わない。

その言葉が、今夜は少し重い。



相良からの連絡は、早かった。早いというより、既に動いていた。


「久世」


音声は短く、温度が低い。相良の声はいつもそうだ。冷たく聞こえるが、冷たいわけではない。冷たい声しか出さないだけだ。


「複数地点。まだ報道に乗ってない。…死者は未確認だが、時間の問題だ」


久世はウインカーを出し、曲がる。曲がる動作を丁寧にする。丁寧にすると、余計なことを考えずに済む。


「本来なら警察案件だろ」


「そうだ」


相良は否定しない。否定しないことが答えだ。


「だが“事故”の匂いが濃い。企業は既に動いている。区の救急も動いている。…君の出番だ」


久世は短く息を吐く。


「観察、か」


相良は一瞬黙った。黙る間は、言葉よりも重い。


「……君がそう言うなら、そうだ」


「モデルは」


「量産型。脚部強化。ロットが偏っている」


久世はアクセルを少し踏み込む。旧車の鼻先が僅かに浮く。夜が後ろへ流れる。


「場所を送れ」


「送る。…久世」


「なに」


「余計な火種は作るな」


久世は笑わなかった。


「作る気はないよ」


そして、切った。



現場へ近づくほど、音が増える。

救急のサイレン。区の警備ドローンのプロペラ音。人の声。集合住宅の窓が開き、閉まる音。夜は静かに見えるくせに、近づくと騒々しい。


住宅街の路地に入った瞬間、久世の義眼が“違和感”を拾った。

派手なものじゃない。派手なら、誰でも気づく。違和感は派手じゃないところにある。


歩道の縁石。

そこに、配送用の小型EVトラックが斜めに止まっている。止まっているというより、止められた。ハザードが点滅している。点滅のリズムが少し乱れている。電圧が揺れているのかもしれない。


その横で、男が立っていた。

配送の制服。雨で濡れて色が濃い。背中に会社ロゴ。靴は作業用。足元には段ボールが二つ落ちている。落ち方が雑だ。彼が雑に落としたわけじゃない。身体が言うことを聞かなくなったときの落ち方だ。


男の脚部は義体。膝下が金属と樹脂で組まれている。今の時代、珍しくない。珍しくないからこそ、恐ろしい。


男は動いていない。

動いていないのに、止まってもいない。


——音がする。


ギリ。

パチ。

ギリ。

火花が小さく散る。足首のジョイント部。負荷が逃げられず、無理に回されている。回されているのに、動きが遅れている。遅れて、補正が遅れて、補正が遅れているのに、補正だけが全力で追いつこうとしている。


義体が、転ぶことを拒否している。


拒否し続けると、生体が壊れる。


久世は車を路肩に寄せ、ドアを開けた。

冷たい空気が頬を撫でる。濡れた匂いが、焦げの匂いと混じる。焦げは、もうここにある。


「隊長、あれ…脚の制御、ズレてる」


エニマの声が少し低い。子どもっぽい声が低くなるとき、エニマは真面目だ。


「見りゃ分かる」


久世は腰のホルスターから二丁拳銃を抜いた。抜く動作は速いが、雑じゃない。指の位置。引き金の角度。安全。安全という言葉は、この世界では形だけだ。形だけでも守る。


周囲を見る。

路地の奥、もう一人。

あちらも脚部義体。立ち止まり、壁に手をついている。膝が震えている。震えているのは恐怖じゃない。制御が震えている。制御が震えると、関節が鳴く。


さらに、少し先の交差点。

警備ドローンが旋回している。区の警備員が声を張り上げているが、声が届いていない。届く前に、義体が勝手に動く。


同時多発。

これが“拡張”だ。


久世は男に近づいた。配送業者の男。目は開いている。焦点が合っていない。合っていないのに、瞬きだけが妙に規則的だ。瞬きの規則性は、生体がまだ生きている証拠でもあるし、義体が生体のリズムを勝手に整えている証拠でもある。


男の口が動く。声が出ない。出ないのではなく、息が追いついていない。脚部が呼吸のリズムを奪っている。


「……っ」


喉が鳴り、唾が飛ぶ。飛んだ唾が唇に残る。残る唾が、妙に生々しい。生々しさがあるから、この死は重い。


久世は銃口を下げたまま、距離を詰める。

撃てる距離。撃って止まる距離。止めても、死ぬ距離。


「隊長、ロット一致。第3話の…と似てる。けど…」


「けど?」


エニマが言葉を探す。子どもが言葉を探すみたいに。


「整ってる」


久世は小さく息を吐いた。


「前より、壊れ方が整っている」


それは進化だ。

悪意の進化。


脚部のジョイントが火花を散らす。火花は小さい。小さいくせに、男の皮膚がそれを感じているのが分かる。顔の筋肉が微かに引きつる。痛みだ。痛みは生きている証拠だ。生きている証拠があるのに、生き残れない。


久世は視線を動かした。男の視線がずれている。

ずれた視線の先——集合住宅の玄関。


ドアが、ほんの少し開いている。

隙間。

その隙間から、小さな影。


子供。

顔の上半分だけ。目だけ。夜の光を反射している。


久世の目が、ほんの一瞬だけ細くなる。

細くなったのは怒りでも哀れみでもない。

照準の世界が、ほんのわずかに狭まっただけだ。


その瞬間。


配送業者の脚部が、転倒回避のために逆補正をかけた。

人間の膝なら折れる角度。義体なら折れない。折れないから、折れないところまでやる。折れないまでやって、折れるのは生体だ。


男の胸が一度大きく跳ねた。

心拍が跳ねる。跳ねた心拍が次の拍を作らない。血圧が暴れる。暴れる血圧が脳に酸素を送れない。送れない瞬間、眼球の焦点がふっと外れる。外れた焦点が戻らない。


久世の指は、引き金にかかったままだった。

圧はかかっていた。撃てた。撃てたのに、撃つ必要が消えた。


——0.5秒。


0.5秒足りなかった。

足りなかったのは弾じゃない。弾はある。技術もある。判断もある。

足りなかったのは、ただの時間だ。


男の膝が崩れた。義体が崩れたのではない。生体が落ちた。義体は最後まで立とうとする。立とうとする義体が、倒れる生体を引きずる。引きずられる身体が、床にぶつかる音がする。濡れた路面に、鈍い音が落ちる。


子供が声を出す。

声は小さい。小さいのに、路地の空気を割る。


「……お父、さん……?」


久世は動かなかった。動けなかったのではない。動かなかった。

動くと、余計な火種が増える。


エニマの声が、今度は冷たい。


「……隊長。今の、0.48秒」


正確な数字。正確な残酷。

久世の喉の奥に、煙のない苦さが溜まる。


「覚えておけ」


久世は言った。自分に言ったのか、エニマに言ったのか分からない。


「記録する?」


「消すな」


エニマが短く「うん」と言う。

子どもの返事。だが中身は記録装置だ。臨界レコード。名前が、今夜は骨の中で鳴る。


脚部義体は、まだ動こうとしている。

動こうとして、膝が空回りし、火花が散り、道路に小さな焦げ跡を作る。焦げ跡は、すぐ消えない。雨上がりでも消えない。熱は残る。


久世は銃口を義体の膝関節へ向けた。

確認射撃。制御系の遮断。発砲は一発でいい。二発はいらない。二発は感情になる。久世は感情で撃たない。


パン、と乾いた音。

音が夜に跳ね、すぐ吸われる。

膝のジョイントが砕け、義体がようやく“転ぶ”。転ぶという自然な動作が、ここでは人工の成果になる。


子供が肩を震わせる。

母親らしい影がドアの隙間から伸び、子供の肩を掴み、引き戻す。引き戻す動作が必死だ。必死の中に、久世の姿が映る。映るが、久世はそれを受け取らない。受け取ると火種が増える。


救急が到着する。

白いライト。赤いライト。濡れた路面がそれを反射し、街が一瞬だけ別の色になる。別の色は夢に似ている。夢に似ているから、久世は視線を落とす。視線を落とすとき、義眼の中の世界が少しだけ安定する。


救急隊員が男の首元に手を当てる。

当てる手が、すぐ離れる。

離れる手は、言葉より早い。


「……心停止。搬送する」


言葉は淡々としている。

淡々としているから、現実だ。


区の警備員が慌てて無線を飛ばす。

上司へ。企業へ。行政へ。

言葉は飛ぶ。飛ぶ言葉の中で、男はもう何も言わない。言えない。死人に口なし。今日も世界はそれを正しさとして処理する。


エニマが小さく言う。


「隊長、周囲の異常、まだ続いてる」


久世は顔を上げた。

路地の奥のもう一人。壁に手をついていた男が、膝を折った。折り方が同じだ。整っている。整いすぎている。


「…拡張してる」


「拡張してるね」


エニマの声が揺れる。揺れるのは感情ではない。処理負荷だ。


「凍結できる?」


「できる……はず。けど……重い」


重い。

エニマが「重い」と言うのは珍しい。神代の研究区画で「疲れた」と言った声と同じ温度だ。あのときと違うのは、今は現場だということ。現場では、遅れが死になる。


「隊長、ログが…逆流してる」


「逆流?」


「……見られてる」


久世は銃を握り直した。

握り直すとき、指の関節が少しだけ痛む。義手に痛みはない。痛みがあるとすれば、それは自分の中の“誤差”だ。


救急車が去っていく。

去っていく背中に、子供の泣き声が追いつかない。追いつかない泣き声は、夜に置いていかれる。


ニュースは追いつく。

追いついたニュースは、こう言う。


『—今回の件は現在、サイバーテロの可能性も含めて調査中です。義体製造元は会見で「安全性に問題はない」と説明し、対象ロットの自主点検を発表しました—』


会見の映像。

頭を下げるスーツ。

“安全性に問題はない”。

言葉は正しい。だが正しさは、死人を起こさない。


久世は路地の端で立ち尽くしたまま、息を吸った。

吸った空気が冷たい。冷たいのに、焦げの匂いが混じる。匂いは記録だ。匂いはレコードだ。消せない。


エニマがもう一度言う。


「隊長、0.48秒」


久世は頷かなかった。

否定もしなかった。

ただ、目を逸らさない。


「……隊長、記録、残すよ」


「残せ」


「残して、どうする?」


久世はしばらく答えなかった。答える言葉を探したのではない。言葉を置く場所を探した。

言葉は置き場所を間違えると火種になる。


「後で考える」


「うん」


エニマの「うん」は、子どもの返事だ。

だが、子どもは記録しない。エニマは記録する。



遠く離れたどこか。

白い部屋でも、黒い部屋でもない。光が一定で、音が一定で、温度が一定な場所。

画面に並ぶ数値。波形。ログ。臨界到達率。


誰かが、淡々と呟いた。


「臨界到達率、更新」


カーソルが滑り、数値が変わる。

変わった数字は、喜びでも悲しみでもない。ただの結果だ。


「……許容範囲内」


画面の隅で、住宅街の路地が映る。

救急車の赤。濡れた路面の白。

銃声の音量。発砲角度。停止までの時間。


そして最後に、ひとつだけ太字で表示される。


0.48 sec


観測は終わっていない。

観測は、始まったばかりだ。

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