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第4話 白の残像
声が先に来た。
距離を連れてこない声だった。
「隊長!」
石川の声だと分かった瞬間には、もう遅い。分かったという判断が形になる前に、身体のどこかが勝手に前へ出ようとする。現場の空気は湿っていて、鼻の奥に焦げた匂いが居座っている。鉄と樹脂が焼ける匂い。警告灯の赤が、視界の隅で脈打っている。
足元は滑る。油膜か、雨か、汗か。違いを確かめる余裕はない。
あるのは音だけだ。乾いた発砲音。耳の奥を叩く衝撃。誰かの息が乱れる。無線の割れた声。金属が擦れる音。ギリ、と短い摩擦。あの音だ。嫌な音が、なぜか今ここにもある。
「隊長!」
石川の声がまた来る。今度は近い。近いのに、輪郭がぼやけている。
久世は視線を上げる。石川が見える。見えるはずだ。だが石川の輪郭だけが、雨粒越しみたいに揺れている。揺れているのは目ではない。世界が揺れている。
次の瞬間、声が変わった。
同じ呼び方なのに、音が違う。喉の使い方が違う。感情の置き方が違う。
「隊長ォ!」
子どもっぽい、妙に明るい声。
明るいのに、慌てている。
石川の「隊長!」と、エニマの「隊長ォ!」が重なる。
二つの声が同じ場所から聞こえる。そんなはずはない。そんなはずがないのに、耳はどちらも同じ“今”として処理してしまう。
久世の身体が動く。理由は後から付いてくる。
逃げられた。逃げる選択肢はあった。視界の隅で、それが“正しい”と光る。正しさが光る。光る前に、身体が前へ出る。
庇う。
庇うという言葉が脳に届く前に、肩が前へ入る。左腕が上がる感覚がある。あるはずだ。あるはずなのに、どこかで、感覚が半拍遅れている。
そして——
白。
閃光が世界を塗り潰す。
音が消える。空気が消える。重さが消える。自分がどこにいるかが消える。
消える、というより、最初から存在しなかったみたいに、全部が遠のく。
白の中で、声だけが残った。
「隊長!」
「隊長ォ!」
重なって、崩れて、溶けて——
⸻
久世は息を吸い込んだ。
吸い込む息が、喉の奥を痛める。肺に空気が入ってくる感覚が遅れて来て、遅れて来るぶんだけ現実味がある。
天井。
薄い光。
部屋の角に置かれた灰皿。
枕元の端末。
そして、左側の視界が妙に澄んでいること。
「隊長ォ!」
耳元でエニマが叫んだ。いや、叫んだというほどではない。声は高いが、音量は抑えている。抑えているのに慌てている。慌て方が子どもっぽい。
「発汗と身体温度に異常ありだよ? 大丈夫?」
久世は身体を起こした。起こす動作を、ゆっくりやる。ゆっくりやるのは慎重だからではない。急ぐ必要がないからだ。急ぐ必要がないときに急ぐと、夢の白が現実を侵食する。
「問題ない」
声は掠れていなかった。掠れない声が出ることが、少しだけ安心だった。
久世はベッドサイドに腰を下ろす。足裏が床に触れる。冷たい。冷たいという情報が来る。情報が来るだけで、感情は来ない。
左腕——正確には義手の付け根が、微かに脈打つ。
点検すべきだと頭のどこかが言う。だが久世は確認しない。確認すれば、今夜の“異常”が増える気がした。
タバコを探す。
指が箱を撫でる。箱の角が少し潰れている。潰れ方が、いつもと同じ。いつもと同じが、今はありがたい。
ライターに火を点ける。火が立つ。火が揺れる。揺れる火は、さっきの白と違って、ちゃんと境界がある。境界がある光は安心できる。
久世はタバコの先を火に寄せ、ゆっくり吸い込んだ。
煙が肺に入る。苦い。苦いのに、落ち着く。
吐き出した煙が、薄い帯になって天井へ向かう。天井の光の中で煙が白く見える。白く見えても、さっきの白とは違う。煙は、消える。消える白は、現実に属している。
「隊長……本当に大丈夫?」
エニマの声が少しだけ小さくなる。
数値を言わない。心拍が何だとか、温度が何度だとか。言えるのに言わない。言うと久世が嫌がるのを知っている。神代がそう作ったのか、エニマが学んだのか。
久世は答えなかった。
答える代わりに、もう一度煙を吐いた。煙が細く伸びる。その細さが、今の久世の状態みたいだった。
「行くぞ」
短く言って、立ち上がる。
立ち上がるとき、義手が重い。重いのは義手ではない。重さは夢の残りだ。夢の残りが、関節に絡みついている。
⸻
久世の車は、近未来の街では“旧車”扱いだった。
低い車体。二人乗り。無駄に長いボンネット。無駄に尖った角度。艶の落ちた塗装。触れれば傷が分かる。傷が分かるものは信頼できる。分からないものは、壊れたときにだけ顔を出す。
ドアを開けると、油と革の匂いがした。新車の匂いではない。新車の匂いは嘘くさい。これは嘘をつかない匂いだ。
久世はシートに沈み、キーを回す。
一拍。
次いで、低いエンジン音。
電子音ではない。振動が腹に来る。腹に来る振動は現実だ。
「相変わらず古いね」
エニマが言う。義眼の奥で、声が小さく跳ねる。
「私は古いメカが好きなだけだよ」
言ってから、少しだけ笑いそうになった。自分の声が、神代の声に似ている気がしたからだ。
似ているはずがない。似ていていいはずがない。だが、似ている瞬間がある。嫌な似方だ。
「分かるものの方がいい」
続けて言う。これが本音だ。
最新の車は静かすぎる。静かすぎるものは異音が分からない。異音が分からないものは、壊れるまで分からない。久世は、壊れ方を見てきた。見てきたから、壊れる前が分かるものを選ぶ。
研究機関へ向かう道は、夜でも明るかった。
広告は動き、街灯は白く、監視カメラは当たり前にそこにある。都市は目を閉じない。目を閉じないくせに、見たくないものは見ないふりをする。そういう世界だ。
エニマは凍結されたウイルスのデータを、義手側の隔離領域で監視していた。
眠っている。だが消えていない。眠りは、起きるためにある。
「隊長、あれ……まだ、いるよ」
「分かってる」
「眠ってるだけだよね」
「眠りは浅い」
久世はアクセルを踏んだ。車が前に出る。前に出る感覚が、夢の白を押し返す。押し返すには、速度がいる。速度は現実だ。
⸻
国家研究機関の地下区画は、白かった。
白すぎる照明は、清潔というより暴力に近い。影が薄く、輪郭が削られる。輪郭が削られる場所は、気を抜くと自分の輪郭まで削られる。
受付は簡素だった。相良の手引きがある。手続きは最小限。
最小限で通すということは、最初から“通す前提”ということだ。
扉が開く。
白い光が漏れる。
白い光を見るだけで、夢の白が一瞬だけ蘇る。蘇るが、久世は視線を逸らさない。逸らせば負ける気がした。
その白の中から、声が飛んできた。
「久世隊長じゃあないかねェ!」
神代の声は、照明よりも眩しい。
眩しいのに、温度がある。人間の熱がある。熱があるせいで、逆に危うい。
「元気にしてたかィ!? いやァ、久しぶりだねェ! 相変わらずその顔、……うんうん、いいねェ!」
返事を待たない。呼吸を待たない。
神代は、人と会うと喋らないと死ぬ、と自分で言うタイプの男だ。
久世は一歩だけ踏み出し、距離を測った。測るのは癖だ。人との距離も、銃の距離も、同じように測る。
「もう隊長じゃない」
神代は手を振った。軽く。払いのけるみたいに。
「細かいことはどうでもいいんだヨ」
「隊長は隊長だったのだからネ」
久世は眉を動かした。動かしただけだ。
動かしただけで十分だった。神代にはそれが見える。
「相変わらず、一息入れずに喋る癖は悪いな」
神代は胸を張った。
「私はね!」
「人と会うと喋らないと死んでしまうのだヨ!」
言い切って、笑う。
笑いながら、久世の左側へ回り込んだ。
「さてさてェ……見せたまえ。君の目と手をネ」
断りを待たない。
待つという概念が神代には薄い。待つくらいなら触ってしまう。触って、結果を見て、そこから話を組み立てる。
久世は止めなかった。止める理由がない。止めると面倒になる。
神代は面倒な男ではない。厄介な男だ。違う。
神代の指が、久世の義眼の縁に近づく。
指が触れる寸前、久世の首筋が一瞬だけ硬くなる。反射だ。敵意ではない。身体が勝手にやる。
「おっとおっと、警戒心は素晴らしい。だが私は味方だヨ。今のところネ」
「今のところ、って何だ」
「未来は常に変動するのだヨ!」
神代は義眼の反応を覗き込む。覗き込みながら、義手を軽く動かした。
関節が微かに鳴る。金属の短い音。ギリ、と言いかけて止まる音。
神代の目が細くなる。
「ふむゥ……反応速度は悪くない」
「だがねェ、使用履歴が荒れている」
久世はタバコを指で挟んだまま、煙を吐いた。
吐く煙は、神代の白い照明の中で薄く消える。
「また無理に動かしているようだねェ」
神代の声は責める声じゃない。面白がる前の声だ。技術者が“予想通りの摩耗”を見つけたときの声。
久世は答えない。答えない代わりに、煙をもう一度吐いた。
「私は古いメカが好きなだけだよ」
言葉が軽くなる。軽くしておかないと、重くなる。
重くなると、神代が喜ぶ。神代は重さを喜ぶ。重さを材料にする。
「新作はいいから、黙って点検してくれ、天才君」
食い気味に言って、久世は神代の顔を見た。
神代は、怒らなかった。怒るどころか、嬉しそうに口角を上げた。自称天才は、天才と呼ばれるのが好きだ。皮肉でも、冗談でも。呼ばれれば勝ちだと思っている。
「君はいつもそうだァ!」
「天才を便利屋扱いする!」
神代は手を止めずに喋る。止めずに喋るのは癖だ。癖は直らない。直らない癖は、その人の骨格だ。
「だがねェ、聞いておきたまえ」
「新作義眼——“視覚遅延”をね、限りなくゼロにした」
「脳が判断する前に像が来る。つまり君が迷う前に世界が届く」
久世は眉を寄せかけて、やめた。寄せると神代がさらに饒舌になる。
「そして新作義手! これは傑作だヨ!」
「負荷分散を自動化し、無理な動きを“美しく”補正する!」
「壊れる前に別の部位が庇う設計だ! 君の戦い方に最適化した!」
神代の声が、嬉しそうに跳ねる。
“君の戦い方”。その言い方が嫌だった。嫌だが、否定はしない。否定すると、そこに話が生まれる。話は延びる。延びる話は、今夜は要らない。
「いらない」
久世は短く言った。短い言葉は切断だ。
神代の舌が一瞬止まる。止まった瞬間、白い部屋が少しだけ静かになる。
「……いらない、だと?」
神代の声が一段高くなる。怒りではない。驚きでもない。理解できないふりの声だ。理解できないふりをすると、相手が説明し始める。神代の常套手段だ。
久世は乗らない。
「私は今ので足りてる」
「足りてる!? 足りてるだとォ!?」
「君はねェ、無茶だが美しいのだヨ!」
「だからこそ! もっと先まで連れていける身体が必要なのだヨ!」
神代は熱を上げる。上げた熱で、周囲の白が少しだけ黄色く見える。
久世は煙を吐いた。煙の帯が、神代の熱を一瞬だけ切る。
「新作はいい」
久世は繰り返した。繰り返すと、話は閉じる。
「……黙って点検してくれ」
神代は肩をすくめた。
「壊れない身体は作れる!」
「だがねェ……壊れ方を選ぶのは君だヨ」
その一言だけ、神代の声が少し低くなる。
低くなる声は、本音だ。神代は本音を隠さない。隠さないから危険だ。
久世はタバコを灰皿に押し付けた。火が潰れる。
火が潰れる瞬間の匂いが、夢の焦げと重なる。重なるが、久世はそれを飲み込む。
「で」
久世は話を戻した。戻す必要がある。ここは目的地だ。
義手側の隔離領域を開き、凍結データを神代の端末へ投げる。
データが移る音はしない。無音で移るものは不気味だ。だが今は不気味さより先に、答えが欲しい。
「これを見てほしい」
神代は一瞥した。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
それで十分だと言わんばかりに、もう口角が上がっている。
「ほほゥ……それかねェ」
久世の目が細くなる。
一瞬で、分かる。神代は“初見”の顔をしていない。
神代は軽く笑った。
「もう既に話は聞いているヨ」
「公安幹部殿から、それはもう丁寧にネ」
久世は小さく息を吐いた。煙の代わりの息。短い息。
「相良さんか。……手回しが早いな」
神代は指を振った。
「優秀な人材は、動きも早いのだヨ」
久世は神代の顔を見る。見るだけで問う。
「ここに来ることも、お見通しか」
神代は肩を揺らした。笑いとも咳ともつかない音を漏らす。
「さてネェ?」
言って、すぐに話を切り替える。切り替えの速さが、神代のやり方だ。
「だが、凍結して消さずに持ってくるのは君の癖だ」
「これを調べて欲しいんだろォ?」
「——実に君らしい」
久世は答えない。答えは要らない。
神代の言葉は、久世を評価している。評価は嬉しいものではない。評価は標的になる。
エニマが小さく声を挟んだ。
「マスター、これ……眠ってるけど、嫌な匂いがする」
神代の目が、楽しそうに細くなる。
「ほら見たまえ! 我が子の嗅覚は最高だ!」
「エニマ、ちょっとこっちに来なさい」
エニマが一瞬黙る。
黙って、久世を見る。許可を求める目ではない。確認の目だ。久世がどうするかを見る目。
久世は頷かなかった。否定もしなかった。
止めない。それが答えだ。
「……うん」
エニマは小さく言って、久世の義眼・義手のインターフェースから切り離される。
切り離される瞬間、久世の左側の世界が少しだけ静かになる。静かになりすぎて、逆に耳が痛い。エニマが常にそこにいたのだと、いなくなってから気づく。
神代はエニマのデータを受け取り、自分の端末へ接続した。
接続の手つきが優しい。乱暴な口調のくせに、触り方が丁寧だ。丁寧さは愛情だ。愛情の形が歪んでいても、愛情は愛情だ。
「よしよしよし……君は本当に良い子だネ」
「見せておくれ。君が捕まえた“それ”を」
エニマの声が少し遠くなる。
久世には、神代とエニマの会話が“同じ言語”なのに聞き取れない瞬間がある。言葉ではなく、速度で話している。速度が違う。速度が違うと、意味が溶ける。
久世はその蚊帳の外の感覚に慣れている。
慣れているが、好きではない。好きではないから、タバコを探しかけて、やめた。さっき吸ったばかりだ。吸うのは癖だ。癖に逃げると、また夢が追いつく。
神代が笑った。
「なるほどなるほどなるほど!」
「これはねェ……壊すためのコードじゃない」
久世は視線を上げる。
神代の声が低い。低い声は本気だ。
「壊れ方を観察するためのものだヨ」
その言葉が、久世の中の白に触れた。
触れた瞬間、夢の閃光が一瞬だけ蘇る。蘇るが、今度は飲み込める。飲み込むために、久世は息を吐く。煙のない息。苦い息。
「観察……?」
久世の声が、少しだけ硬くなる。
神代は頷いた。
「そうだヨ」
「義体を壊すのが目的じゃない」
「壊れる直前の挙動、限界の出方、摩耗の仕方、火花の出る順序——」
「“限界”そのものを見たい」
久世は第3話の現場を思い出す。
ギリ、と鳴った音。パチ、と散った火花。倒れない理由のない立ち方。生体へ返りかけた負荷。
あれは偶然じゃなかった。偶然じゃない壊れ方だった。
「誰がそんなことを……」
神代は笑った。笑いは軽いが、目が笑っていない。
「国家でも企業でもないねェ」
「企業がやるなら隠す。国家がやるなら黙る」
「これはね——」
神代は指を立てる。子どもに授業をするみたいに。
「神様ごっこだヨ」
久世の喉の奥が冷える。
神様ごっこ。言葉は軽い。軽いのに、重い。軽い言葉ほど、現実の重さを誤魔化せる。誤魔化せる言葉を選ぶのは、悪意のある人間だ。
神代が続ける。
「“限界”を知りたい連中がいる」
「限界を知って、次に何をするかは分からない」
「だがねェ……限界を知った者は、必ず限界を押す」
久世は黙って聞く。黙って聞くしかない。
言い返す言葉がないわけではない。言い返すと、神代が喜ぶ。神代は議論が好きだ。議論は燃料だ。燃料を渡すと、相手の車が先に走る。
神代は端末を叩く。軽い指の動き。軽い動きで、重いものを扱っている。
「凍結は上手い」
「だが完全ではない」
「眠りは浅い」
「そして——」
神代はちらりと久世を見る。
「君の身体も、眠りが浅い」
久世の視線が動く。動いたのは一瞬。
神代はそれで十分だと分かっている顔をする。分かっている顔が腹立たしい。腹立たしいが、否定できない。
エニマの声が戻ってくる。
戻ってくる声は少しだけ息が上がっているみたいに聞こえる。AIに息はない。だが、エニマは“息が上がっている”と言いたくなる声を出す。
「……隊長」
久世は応じない。
応じないが、耳は向ける。
「……ちょっと、疲れた」
その一言が、久世の胸の奥を軽く叩く。
エニマが疲れるということは、神代がどれだけ情報を浴びせたかの証拠だ。神代の情報は刃物だ。鋭い。鋭いものは疲れる。
神代が満足そうに頷いた。
「よし! 返してあげよう!」
「エニマ、戻りなさい。隊長が寂しがる」
「寂しがらない」
久世は即答した。即答ができるのは、図星だからだ。
図星を突かれると、言葉が速くなる。速くなる言葉は、久世の弱さだ。
エニマが久世の義眼へ戻る。戻る瞬間、左側の世界が少しだけ賑やかになる。賑やかになるのが、当たり前になる。
当たり前は、依存だ。依存は危険だ。だが今は、その危険が必要だ。
神代は手を拭うような仕草をした。拭う必要はない。だが区切りを作る癖があるのだろう。喋り続ける男でも、区切りは作る。
「さて」
「君はどうする?」
久世は答えを持っている。持っているが、言葉にするのは簡単すぎる。簡単すぎる言葉は嘘に聞こえる。
久世は立ち上がり、義手の付け根を指で押した。接続の感覚を確かめる。
沈黙。
正常。
「これ以上、事故にするな」
それだけ言った。
それだけでいい。多くを言うと、誓いになる。誓いは破られる。破られる誓いは、余計な火種だ。
神代は笑った。
笑いは軽い。軽いが、目は少しだけ真面目だった。
「君はいつも真面目だネ」
「だが真面目は嫌いじゃない」
久世は背を向けた。背を向ける動作に迷いはない。迷いがない背中は、逃げではない。
逃げないために、背を向ける。前を向くために、背を向ける。
旧車のキーを握る。
握った金属の冷たさが、現実の冷たさだ。
研究機関の白い照明が背中に残る。
残る白を、久世は追い払わない。追い払うと、また夢になる。
白は白として背中に置いておく。置いておけば、次に備えられる。
「隊長」
エニマが小さく言った。
「なに」
「……眠り、浅いね」
久世は答えなかった。
答えない代わりに、車のエンジンをかけた。
一拍。
次いで、低い音。
腹に来る振動。
現実の重さ。
久世はアクセルを踏む。
車が動き出す。
動き出すという当たり前が、今夜は妙に尊かった。




