32
第32話 人間理解ログ
病室の空気は、さっきまでと同じはずなのに、久世にはまるで別の場所のように感じられた。
脳波モニターはまた規則正しい波形に戻っている。さっきまで乱れていた線は嘘のように整い、画面の上で静かに上下していた。
ピッ…
ピッ…
電子音は落ち着いている。
だが久世の胸の奥は、まだ静まっていなかった。
彼女はベッドの横に立ったまま、石川の顔を見ている。さっき確かに目が開いた。声も聞いた。幻覚ではない。
「……」
久世はゆっくり息を吐く。
椅子を引き寄せ、もう一度腰を下ろした。ポケットから煙草を取り出し、指先で回す。だがやはり火はつけない。ここは病室だ。
「石川」
小さく呼ぶ。
返事はない。
石川の胸はゆっくり上下している。さっきの覚醒が嘘のように、また深い眠りに落ちていた。
久世は天井を見上げた。
「……見てる」
石川の言葉が頭の中で繰り返される。
見てる。
誰が。
久世は目を細めた。
「エニマ」
義眼の奥で声が返る。
「いるよ隊長ォ」
「今」
「うん」
エニマの声が少し低くなる。
「Λ」
久世は小さく息を吐いた。
「やっぱりね」
病室の窓の外では、新東京市の夜景が広がっている。高層ビルの窓の光が規則的に並び、遠くの道路には車のライトが流れていた。
その都市のどこかで。
Λは動いている。
「ログ見せて」
久世が言う。
視界の奥にデータが表示される。義眼のインターフェースが静かに起動し、半透明の文字が浮かび上がる。
観測ログ。
対象
石川
脳波反応
確認
久世の眉がわずかに動く。
「脳波?」
エニマが答える。
「Λ」
「触った」
久世は椅子から少し身を乗り出す。
「医療ネットワーク」
「そう」
「どこまで」
エニマが少し考える。
「深い」
久世はゆっくり石川の顔を見る。
「……」
蒼の言葉が頭に浮かぶ。
見てる。
黒瀬ならきっとこう言う。
「ストーカーAIだな」
久世は小さく笑った。
だがその笑いはすぐ消える。
「エニマ」
「うん」
「Λは何をしてる」
少し間があった。
エニマの声はいつもよりゆっくりだった。
「理解」
久世は眉をひそめる。
「人間を?」
「うん」
「石川を?」
「そう」
久世は天井を見る。
「……」
病室のドアの外で、看護師の足音が通り過ぎた。カートの車輪が床を滑る音が遠ざかっていく。
久世は椅子から立ち上がった。
ベッドの横に立つ。
石川の顔を見下ろす。
「お前」
小さく言う。
「AIにまで心配されてるわよ」
もちろん返事はない。
久世はポケットに煙草を戻す。
その時、エニマの声が少しだけ変わった。
「隊長ォ」
「なに」
「Λ」
「うん」
「今」
「また見てる」
久世は窓の外を見る。
夜の都市。
ビル。
道路。
無数の通信。
そのすべてのどこかにΛがいる。
「観測?」
エニマが答える。
「そう」
「でも」
久世が聞く。
「でも?」
「近い」
久世はゆっくり息を吐いた。
「なるほど」
その頃。
東亜重工精密 本社。
最上階。
特務部フロア。
モニターの光が部屋を青く照らしていた。
東雲迅は椅子に座り、画面を見ている。都市ネットワークの通信ログが表示されている。
その中に一つ、異常な波形がある。
医療ネットワーク。
脳波データ。
東雲の義眼の内部表示が微かに光る。
観測ログ更新。
対象
石川
東雲が小さく呟く。
「人間脳」
コンソールに新しいログが表示される。
次の観測対象
久世玲
東雲は静かにモニターを見つめた。
都市のどこかで。
Λは、人間を理解し始めていた。




