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第3話 未成立
相良からの連絡は、呼び鈴みたいに短かった。
耳元で端末が震え、その震えが皮膚に残っているうちに、相良の声が流れ込む。
『再開発第七区画、外縁。義体の異常挙動』
久世玲は歩道橋の途中で足を止めた。停止したはずの身体の中で、心臓だけが一段だけ速くなる。夜風が橋の鉄板を舐め、遠い車音が薄く伸びる。都市の音は、眠るふりをしたまま耳を開けている。
「死人は?」
『いない。使用者は生存。負傷も未確定』
久世は鼻で息を吐いた。煙草を吸う前の呼吸に似ているが、煙草を取り出さない。今は吸う時間がないというより、吸うと“落ち着いてしまう”気がした。
「……なら、まだ私の出番じゃない」
声は低く、棘を立てない。棘を立てれば、相良は棘の形だけを拾う。そういう人間だ。
相良は一拍だけ黙った。説明を探している沈黙じゃない。確認の沈黙だ。こちらがどこまで噛み付くか、測っている。
『対象は量産型だ』
相良はそれだけ言った。遮断だの仕様だの、売り文句だの、そういう飾りは一切付けない。裸の事実だけ投げて、こちらの手で勝手に肉を付けさせる。
久世は歩道橋の階段を下り始める。足裏が段差の角を踏む。金属が乾いた音を返す。その音が、今から行く場所の音に似ていて嫌だった。
「量産型で、死人も出ていない。未確認状況。……それでも私?」
『現場判断だ』
「あなたの?」
『ああ』
短い肯定。
その短さが、逆に濃い。
「分かった」
通話が切れた。
切れた瞬間、夜が少しだけ静かになる。静かになるぶん、頭の中の音が目立つ。
「量産型、だって」
左目の奥で、エニマが言う。声は子どもっぽいのに、言葉は冷静だ。感情と機能が同居している。
「ああ」
「後処理、じゃないのに呼ぶんだね」
「だから、嫌な予感がする」
久世は歩きながら、義手の付け根を一度だけ指で押した。癖ではない。接続の感覚を確かめる癖になりかけている。義手は沈黙で返す。沈黙が正常だ。
⸻
現場は再開発区画の端にあった。
フェンスが高く、仮設照明が白く、影が濃い。コンクリの床は雨水の薄膜を残し、踏むたびに靴底が吸い付く。吸い付く音が微妙に遅れて返る。湿った夜は音の輪郭を丸くする。
警察車両が数台。回転灯が赤い光を刻む。だが規制線は浅い。事故でも事件でもない、曖昧な扱い。曖昧さは、責任がまだ決まっていない証拠だ。
最初の発砲音は、遠いのに硬かった。
パン。
反響が遅れて戻る。弾が何かに当たった音はない。空に抜けた音だ。
それが逆に怖い。狙って外したのではなく、狙いが成立していない。
久世はフェンスの隙間から中を覗き、視線を滑らせる。白い照明の下に、義体がいる。
胸部装甲に企業の刻印。
東亜重工精密。
量産治安モデル――THI-GA/17〈ガーディアン〉。
“安全性重視”“遠隔侵入対策”“市民の安心”。
広告の文句が、夜の空気に溶ける前の甘さで頭をよぎる。
義体は銃を構えている。
構えは教科書通りに見える。だが“見える”だけだ。
肩が固定され、肘の角度が揃いすぎている。手首の微調整がない。照準が揺れる。揺れ方が、人間の手の震えではない。指先の“迷い”が存在しない揺れだ。
義体の前で、男が一人、膝をついていた。両手は上がりきらず、半端に伸び、口が開いている。声にならない空気が喉で擦れている。
「……生体は?」
「生きてる。呼吸、心拍、正常」
エニマの声がすぐ返る。
すぐ返るのが、逆に怖い。エニマは“見えている”のではなく、“読んでいる”。
義体がまた発砲した。
今度は床。火花が散り、砕けたコンクリが跳ねる。男の顔が一瞬、光に照らされて青白くなる。青白さは恐怖の色だ。
久世は二丁拳銃を抜いた。
抜くとき、義手側の指の開閉が僅かに遅れる。その遅れを、久世は許容しない。許容しないために、呼吸を一段下げる。
撃つこと自体は重くない。
久世にとって、引き金は日常の延長にある。
重いのは“その後”だ。誰かが“事故”と呼ぶ瞬間だ。
「時間を稼ぐ。エニマ、潜れ」
「うん。…でも、ネット、入れない気がする」
「気がする?」
「匂いがする。閉じてる匂い」
匂い、という言い方がエニマらしい。
数値ではなく、感覚として言う。神代がそう作ったのだろう。
久世は一歩踏み出す。靴底が雨水を踏み、薄い水膜が破れる。破れる音が小さく鳴る。
その小さな音の直後に、義体の足首から別の音がした。
ギリ。
金属の摩擦音。
短いのに、耳の奥に引っかかる。
さっきまで“教科書通りに見えた”ものが、音ひとつで別物になる。
久世の身体が反射で止まりかける。止まりかけて、止まらない。止まると、弾が追いつく。
義体が一歩踏み出す。
踏み出し方が硬い。量産型の硬さ。だがその硬さが、無理に曲げられている。
膝が伸びきる前に体重が乗る。
足首が本来の角度より深く折れる。
ギリ、が二度鳴り、次の瞬間――パチ、と小さな火花が散った。
火花は派手ではない。派手でないのに怖い。内側で短絡が起き始めている証拠だ。
「……無理に動かされてるな」
久世の声は低い。誰に言うでもない。音に言う。
「リミッター、無視されてる」
エニマが言う。
「このモデル、本来はここまで曲がらない。曲げない」
義体が発砲する。照準が揺れ、弾道が乱れる。乱れ方が予測不能だ。
“当たらない”のではない。
“どこに当たるか分からない”だけだ。
久世は撃つ。
一発目、膝関節。装甲が歪み、義体の動きが半拍遅れる。
遅れたはずなのに、次の瞬間、義体が無理に取り返すように踏ん張る。
その踏ん張りが、さらに音を鳴らす。
ギリ、ギリ、と長い摩擦。
耐える時間が伸びるほど、内部が削れていくのが分かる。
久世は二発目を肘に入れる。
三発目、手首。
銃口が跳ね、弾は空へ抜ける。
だが義体は倒れない。
倒れない理由がない。
にもかかわらず、倒れない。
「……立ってるんじゃない」
「固定されてる。倒れないように、立たされてる」
エニマの声に、微かな嫌悪が混じる。子どもが、壊れ方を見たときの嫌悪。
久世はそれを聞き流さない。聞き流すと、判断が遅れる。
義体がまた発砲。今度は男の足元に近い。コンクリ片が跳ね、男が声にならない悲鳴を漏らす。喉が震える音だけが届く。
「……やめろ」
久世の呟きは義体には届かない。届くなら、最初からこうはなっていない。
久世は距離を詰める。
弾道を読む。読むというより、弾道の“癖”を探す。照準が揺れる周期。乱れるパターン。そこに“外部入力”の癖が出る。
「いる」
エニマの声が急に小さくなる。
「ウイルス、いる。見つけた」
「捕まえられるか」
「……難しい。逃げる。形が、すぐ変わる」
見つけるのは早い。
捕まえるのは難しい。
それが今回の“技術”の恐怖だ。
久世が撃てば撃つほど、義体が無理をする。
無理をすればするほど、ウイルスは“もっと”を要求する。
義体の肩のジョイントが擦れ、火花が連続して散る。
パチ、パチ、パチ。
間欠的な光が、夜に瞬きみたいに残る。
「……このまま続けたら、義体が先に壊れる」
「うん」
「壊れたら終わりじゃない。
その次は、生体だ」
久世は男を見る。男は膝をついたまま、呼吸を乱し、目だけを動かしている。
生体側に返る負荷を、本人が理解していないのが分かる。理解していないから、痛みが来る前の恐怖だけが先に膨らむ。
「神経接続部に逆流する。火花、そこまで行く」
エニマが言う。淡々としているのに、言葉が冷たい。
久世は息を吸い、吐く。
吐きながら決める。
「エニマ、急げ。時間がない」
「分かってる。…でも、閉じてる」
「閉じてる?」
「ネット、入れない。外からは触れない。…安全って顔してる」
久世は義体の首元を見る。装甲の継ぎ目が一箇所だけ、妙に綺麗だ。擦れも汚れもない。
そこだけ“開けられる前提”の作り。
「……口が残ってる」
「うん。直の口。量産型、そういうのある」
相良が「量産型」とだけ言った意味が、ここで形になる。
仕様は一枚岩じゃない。安全を売りにした個体ほど、別の穴が大きい。
久世は義手の側面を指で押し、ケーブルを露出させた。
細い金属の線が、手首から滑り出る。生き物みたいに一瞬だけ揺れて、すぐに静止する。
義体が振り向きざまに発砲する。弾が久世の頬を風圧だけで撫でる。
皮膚が熱を覚える。熱は遅れて来る。遅れて来るから、怖い。
久世は滑るように横へ移動し、資材の影を使って距離を詰めた。
詰めるたびに、義体の関節が音を鳴らす。ギリ、ギリ。
音が高くなるほど、削れている。
義体の膝が一瞬だけ逆方向に入る。
本来なら折れる角度。折れないまま戻る。
戻る瞬間、破片が飛ぶ。ジョイントの一部が欠けたのだ。
「……無茶だ」
久世の呟きに、エニマが小さく返す。
「無茶させてる。…楽しいのかな」
「楽しいなら、もっと綺麗にやる」
久世は背後へ回り込み、首元のポートへケーブルを挿した。
カチ。
小さな感触。
次いで火花。
火花は派手じゃない。派手じゃない光ほど、内部で何かが切れている。
「接続完了。侵入する」
エニマの声が低くなる。子どもっぽさが薄れ、作業者の声になる。
それでも、言葉の端に幼さが残る。わざと残された幼さだ。
義体が痙攣する。
止まりかけて止まらない。
止まらないまま、さらに無理をしようとする。
久世は撃つ。
腕。手首。武装部位。
倒さない。倒すと、男に余計な負荷が返るかもしれない。
壊れ方が予測できない以上、倒し方も予測できない。
「……これ、嫌」
エニマが言った。
「何が」
「作り。安全そうに見せて、古い。中身が古い」
久世は一瞬だけ、頭の中に白衣の男の顔が浮かんだ。笑いながら喋り続ける、あの口の悪い天才。
「……神代が嫌いそうだな」
「うん。マスター、こういうの見ると、笑う。笑って壊す」
その名前は、現場で説明されないまま消える。消えるから、残る。
残るから、次に繋がる。
義体の火花が増える。
パチ、パチ、パチ。
火花の間隔が詰まる。
詰まるほど、いよいよ生体に返る。
久世は男を見る。男の肩が震え、呼吸が浅くなる。浅くなる呼吸は、恐怖の呼吸だ。
恐怖は痛みより先に来る。痛みが来たら、遅い。
「エニマ、今どこだ」
「深い。…逃げる。捕まえたと思ったら、すり抜ける」
「すり抜ける?」
「形が変わる。…わざと。わざと、捕まらない」
わざと。
その言葉が、久世の胃の奥に沈む。
相良が“現場判断”と言った意味が、さらに濃くなる。
「でも、いる。すぐそこにいる」
「なら、縛れ。凍らせろ。完全じゃなくていい」
「応急処置になる」
「構わない。今は止めろ」
エニマが一拍黙った。
黙る一拍が、長い。
長いのに、実際は一秒もない。
一秒もないのに、久世の身体はその一拍で冷たくなる。
義体の指が引き金にかかり、引かれかける。
久世は撃つ。
銃が床に落ち、金属音が跳ねる。
跳ねた音が、乾いた夜に残る。
「……凍結」
エニマが言う。
言い終える前に、義体の動きが止まる。
止まる、というより――
力が抜ける。
糸が切れた人形みたいに、肩が落ちる。
首が僅かに傾く。
火花が一度だけ瞬き、消える。
男が崩れ落ちた。
膝から落ち、掌で床を押さえ、息を吐く。吐く息が震え、声にならない音が混ざる。
生きている音だ。
久世は男に近づかない。
近づけば、言葉を求められる。
言葉を求められれば、答えが必要になる。
今は答えの時間じゃない。原因の時間だ。
「凍結、完了。…でも」
「でも?」
「眠らせただけ。完全じゃない。逃げてないけど、消えてない」
久世は義体を見る。
胸部装甲の刻印。
モデル名。
首元のポートの傷。
義体はただのモノだ。だが、モノが壊されるとき、その隣で人が壊れる。
「……持ち帰る」
「うん。持ち帰る」
久世はケーブルを抜いた。抜く瞬間が一番怖い。
繋がっている間は触れている。触れている間は制御できる。
抜いた瞬間、相手が起きれば跳ねる。
だが義体は跳ねなかった。
跳ねられないように、エニマが縛ったのだろう。
久世は二丁を戻し、義手のケーブルを収めた。収まる音が小さく鳴る。
小さな音が、終わりの合図になる。
⸻
車に戻るまでの道が、やけに長い。
長いのは距離じゃない。身体の中に残った音が、歩くたびに再生されるからだ。
ギリ。
パチ。
乾いた発砲音。
男の呼吸。
久世は車のドアを開け、閉めた。閉めた音が車内で反響する。
その反響が、少しだけ安心をくれる。外の音が遠ざかるからだ。
端末を出して相良に繋ぐ。
相良は一回で出た。
「量産型だ。東亜重工精密、THI-GA/17。現場個体はロットA3-204、シリアル17-0429……刻印で確認した」
相良は「了解」とも言わない。聞いている。
「外部から制御されていた。ウイルスだ。凍結して捕獲した。消していない」
『……消すな。持て』
久世は一瞬、笑いそうになった。相良が“持て”と言うのは珍しい。
普段なら“片付けろ”と言う。
「分かってる。だから私を呼んだんだろ」
相良は否定しない。
『ニュースは出る。表向きは外部攻撃だ』
「分かってる」
『以上だ』
通話が切れた。
「相良さん、怖いね」
エニマが言う。
怖いのは相良の声の冷たさではない。冷たいのに、必要な手だけを伸ばしているところだ。
「怖いのは、向こうが怖がってないことだ」
「うん。捕まらないように作ってある。…遊んでる」
久世はエンジンをかけない。
かけずに、端末の画面を眺める。眺めるだけで、指は動かさない。
そのとき、通知が勝手に画面を点けた。
速報。義体異常挙動。企業会見。
久世は開いた。
画面に企業ロゴ。
次に、会見場の照明。強すぎる白。
スーツの男が頭を下げる。深い角度。揃った角度。訓練された謝罪。
『東亜重工精密は、本日未明、再開発第七区画で発生した
治安維持用義体 THI-GA/17〈ガーディアン〉に関する事象について――』
“事象”。
事故とも事件とも言わない。責任の言葉を避ける。
『該当個体は製造ロットA3-204、シリアル17-0429。
外部からのサイバーテロにより制御系が攪乱された可能性が高く――』
品番もロットもシリアルも言う。言うことで“誠実そうに見せる”。
だが、言わないものがある。
“どうやって入られたか”
“なぜ入れたのか”
“誰が入れたのか”
『再発防止に全力を尽くします』
再発防止。
その言葉の軽さに、久世は画面を閉じた。
「……事故、成立したね」
エニマが言う。
子どもが、テレビの言葉を一度信じかけたときの声だ。
久世は首を振った。ゆっくり。
ゆっくり振ると、その分だけ時間が伸びる。伸びた時間に、現場の音が戻ってくる。
「いや」
「でも、みんな納得する。外部のせいって言われたら」
「納得は成立だ。真実じゃない」
久世は息を吐いた。
煙草の代わりの息。
煙がないぶん、苦い。
「これは未成立だ」
「うん。まだ」
久世の手元に、凍結された“それ”がある。
眠っているだけの原因がある。
眠っているだけなのに、次を約束するみたいに静かだ。
久世はエンジンをかけた。
エンジン音が車内に満ちる。満ちる音が、外の世界を押し返す。
走り出す前に、義手の付け根をもう一度だけ押した。
接続の感覚を確かめる。
義手は沈黙で返す。
沈黙が正常なら、まだ間に合う。
眠りを起こす前に、
“誰が眠らせたか”を見つけなければならない。
久世はアクセルを踏んだ。
車が動き出す。
動き出すという当たり前の動きに、今夜は妙な重さがあった。




