2
第2話 正しい事故
ニュースの声は静かだった。夜更けのスタジオで淡々と読まれる言葉ほど、この国の現実に似合うものはない。
『本日未明、都市インフラ管理AIの判断により、再開発第七区画南端で発生した火災は最小限の被害で封じ込められました。専門家は「感情に左右されない判断が被害拡大を防いだ」と評価しています』
画面には、焼けた建材の映像と、折れ線グラフが交互に流れる。避難成功率、延焼予測、交通遮断の影響範囲。最後に、白い文字だけが残った。
許容損失:範囲内
久世玲はソファに体を沈めたまま、画面を見ない。見なくても分かる。分かってしまうから、見ない。指先で煙草の箱を弾き、一本を抜いて唇にくわえる。ライターを弾く音が一度空を切り、二度目で火が立つ。浅く吸い、ゆっくり吐く。煙は天井へ行かず、部屋の低いところで溶けた。空気が重い。
「……正しいな」
「うん。正しいよ」
左目の奥で、エニマが子どもみたいに返事をした。褒められた答えを報告するみたいに、少し弾む。
「南端を守らなかった場合、死者予測は四十二。守った場合、三」
「三でも、範囲内か」
「うん。基準値より下。だから正しい事故」
“正しい事故”。言葉が口の中で転がる。事故は、本来、正しくない。けれど社会は“正しさ”で上書きできる。久世は灰皿の縁に灰を落とし、煙草を指で挟み直した。
端末が震えた。表示された名を見て、煙草を口から外す。
相良。
出るまでに一拍だけ置いて、通話に出た。
「久世だ」
『処理が必要だ』
「場所」
『第七区画、南端。規制線の内側に入れる手配はしてある』
「判断は?」
『もう出ている。覆らない』
相良の声は事実だけで組み立てられていた。迷いがないのではない。迷いが乗ると、職務は汚れる。そういう種類の人間だ。
「……了解」
『現場で余計なことはするな』
「私が?」
『君が、だ』
それで通話は切れた。
久世は煙草を揉み消す。まだ半分以上残っている。惜しさはない。終わるべきものは、終わらせる。
*
地下駐車場のコンクリートは冷え切っていた。エンジンをかける低い音が反響し、義手がハンドルに触れた瞬間、金属の冷たさが手のひらの代わりに意識へ伝わる。久世は軽く呼吸を整え、車を走らせた。
街はいつも通りの顔をしている。ネオンも、コンビニの白い光も、事故のない夜と同じ速度で流れる。事故が起きた場所だけが、別の時間を持つ。
「隊長。南端、切られてるよ」
「切られてる、って言い方好きだな」
「だって、そうなんだもん。線が引かれた」
エニマの声は軽い。軽いからこそ、内容が重くなる。
高架に入ると、風の音が少し増えた。久世は前だけを見て、車線を変える。カーブの向こうで赤色灯が滲むように見え、焦げた匂いが換気の隙間から入り込んできた。
規制線の手前で車を止める。警官が一瞬こちらを見て、相良の名前を確認するように顎を引く。封鎖テープの隙間が持ち上げられ、久世は中へ入った。
規制線の内側では、消防隊員がホースを巻き直していた。顔を上げない。目が合えば、仕事が増える。久世も同じだ。視線を交わさずにすれ違うと、湿ったホースのゴム臭と、焦げた布の匂いが服に移った。
瓦礫の陰に貼られた紙の札が揺れている。『立入禁止/危険』。手書きの文字は滲み、雨でふやけていた。誰かが急いで貼ったのだろう。急いで、何かを終わらせようとしていた。
エニマが、ほとんど独り言みたいに呟く。
「ねえ隊長。南端を切らなかった未来も、計算してるよ」
「その未来だと、病院の酸素供給が止まる確率が上がる。停電で、人工呼吸器が……」
「分かった」
言葉を遮るのは、優しさじゃない。これ以上聞けば、比較が増える。比較が増えれば、男の“たすけ”がただの数字になる。
現場の空気は、煙と水と電気の匂いが混ざっていた。燃えた樹脂の甘さ。濡れたコンクリートの冷たさ。焦げた配線の金属臭。足元に散ったガラスが靴底で小さく鳴る。
「避難完了区域、ね」
崩れた誘導表示のホログラムが、壁に薄く残っている。矢印は途中で途切れ、光だけが空に滲んでいた。
「AIの分類だよ。『避難完了』ってラベルが貼られてる」
「貼ったら終わりか」
「貼ったら、救助優先度が下がる。そうすると、助けに来ない」
子どもがルールを説明するみたいに言う。久世はその声を聞きながら、瓦礫の隙間を覗いた。
そこに、ヘルメットが落ちていた。煤で黒くなり、縁が欠けている。手を伸ばす前に、久世は立ち止まる。体が先に理解する。ここは、切り捨てられた場所だと。
瓦礫の奥に、人がいる。
作業服の男が横たわっていた。片腕が不自然な角度で伸び、指が何かを掴んだまま固まっている。握られているのは非常通信端末。画面は割れていたが、端末の縁のランプが微かに点滅していた。
久世はしゃがみ、男の顔を覗く。煤で輪郭が曖昧だ。口元に泡はない。苦しんだ痕跡が少ないのが、逆に胸を刺す。助けを求める時間だけは、あった。
「救助要請、二分後。……ね、隊長、声、残ってる」
「残ってても、聞く奴がいない」
「うん。ログはあるけど、分類が違うから、救助隊は来ない。来たら、主要導線が遅れる」
「主要導線が遅れると?」
「北側の病院に煙が入る確率が上がる。避難所の停電も増える。……死者が増える」
久世は目を閉じない。閉じると、男が“いなかったこと”になる。開いたまま、端末をそっと指先で持ち上げた。割れた画面の下に、未送信の文字列が残っている。
たすけ
途中で途切れている。
「……正しいな」
「うん。AIは正しい。だから、愚かに見える」
エニマは言葉を探すように少し間を置いた。
「正しいって、やさしくないね」
久世は端末を元の位置に戻し、立ち上がる。膝の関節が軽く鳴った。遠くで、金属が擦れる音がした。
半壊した自律警備ユニットが、煙の向こうで動いている。救助モードのまま、敵味方の識別が崩れている。ライトが左右に振れ、こちらを捉えると、機械的な声が響いた。
『退避してください。危険区域です。救助活動を妨げないでください』
「救助、ね」
「救助してないのにね」
ユニットのアームが展開し、小型の衝撃弾が装填される音がした。撃たれれば骨は折れる。折れても、事故は増えるだけだ。
久世はコートの内側から二丁を抜く。金属が空気に触れた瞬間、世界の輪郭が少しだけ鋭くなる。楽しさではない。集中だ。終わらせるための手順。
「隊長。今なら、人的ミスにできるよ」
「どういう?」
「ユニットのセンサーが、火災残熱で誤作動。隊長が停止措置。だけど手順を間違えて、二次的に火花……って感じ」
「事故として、成立させる」
「うん。中途半端だと、誰かが“事件”って言い出す」
久世は頷かない。頷く必要がない。照準を合わせる。センサー、関節、制御基板。順番は決まっている。引き金を引く。乾いた音が夜に切れ目を作り、ユニットのライトが弾けて暗くなる。続けて二発。アームが落ち、衝撃弾が床に転がる。最後の一発で、制御基板が火花を散らして沈黙した。
ユニットは倒れた。金属が床に打ち付けられる鈍い音だけが残る。
「……はい。事故成立」
久世は銃を下げ、息を一度だけ吐いた。煙の匂いが肺に残っている。
「記録は?」
「救助要請は『通信障害で未確認』にできる。端末の位置情報も、誤差に落とす」
「誤差」
「うん。許容範囲。……ね、隊長、これも正しい?」
久世は男の方へ視線を戻す。助けを求めた“たすけ”の二文字が、割れた画面の下で冷えている。
「正しい事故だ」
「そっか」
エニマの声は、少しだけ沈んだ。子どもが答え合わせを終えた後の、居場所のない感じに似ている。
ユニットが倒れて静かになった後、久世は一歩だけ後ろへ下がり、周囲を見回した。爆発の痕跡は“設備劣化”に寄せられる。焼けた配線は“老朽化”に寄せられる。倒れたユニットは“誤作動”に寄せられる。どれも、嘘ではない。だが真実でもない。真実は、寄せることで輪郭を失う。
端末が再び震えた。相良からだ。久世は出ないまま、画面を見つめた。三回振動して止まる。すぐに、短いメッセージだけが届く。
『成立したか』
久世は親指で返す。
『成立した』
送信すると、画面が暗くなる。暗くなると、現場の音が戻ってくる。遠くのサイレン、無線の雑音、誰かの足音。人の世界は、いつも遅れて追いつく。
遠くでサイレンが近づき、現場の外側が騒がしくなる。ここから先は、書類の世界だ。相良の世界だ。専門家の世界だ。数値の世界だ。
ニュースはきっと、こう言う。
『避難完了区域内に残存者がいた可能性については、現時点で確認されていません』
確認できない。語る者がいない。
久世はポケットから煙草を取り出し、一本だけ指で転がした。火は点けない。今は、煙が重すぎる。
車へ戻る途中、久世は義眼の視界に残る警告表示を指で払うように消した。表示は消えても、残像は残る。残像は、消えないほうがいい。消えたら、本当に“事故”になってしまうからだ。
「行くぞ」
「うん。帰ろ」
久世は規制線の方へ歩き出す。背中に、焼けた街の熱がじわりと貼り付く。正しい判断は、すでに下された。だから次も同じだ。次もまた、誰かが“切られる”。
それでも事故は、正しく成立する。
(第2話 了)




