第7話 廃小屋突入
夜の森は、雨上がりの匂いが濃い。
湿った空気に指を入れるみたいに、ゆっくりと進む。剣帯を半歩ずらす。合図。足、腰、呼吸――3つで1つ。
小屋まではあと数十歩。巡回の足音は3拍で重なり、4呼吸で交代している。癖は反復で見える。
「3、2――今」
地面の目地を外して背後に回り込む。肩でバランスを奪い、口と鼻を掌で塞ぎ、足首の縫い目を一筆で折る。
非致死。音は出さない。倒れた男を倒木の陰へ滑らせる。
続くもう1人は、杯をテーブルに置く半拍前。床板の木目に合わせて踏み、体の軸を半寸傾ける。
柄で顎根に軽くコト。息だけがこぼれ、灯りも揺れない。
外周は3人。交代の気配が来る前に、最後の1人の背を取って同じ手順で落とす。
森の音が戻る。雨水が葉先から落ちる音、遠い梟。
俺は小屋の輪郭をゆっくりなぞった。
◇
廃小屋の外周には、白墨じみた薄い輪が点々と残っている。
風と合わず、輪だけが残っているやつだ。昨日、森の小径で見た輪と同じ作法。
粉チョークを指に付け、地面に3つ、点を置く。支点、合わせ口、逃げ線。
「3、2――1」
柄で輪の外を撫でる。
ピン。
線の音。生きている。
縁の継ぎ目を薄くなぞる。
ミシ。
ここが合わせ口。
柄を半寸滑らせ、留めの糸を浮かせる。
コト。
通電だけを落とす。枠は残す。全解除はしない。退路で逆に使うためだ。
扉枠にも温度差がある。黒ずんだ木、乾いた白の粉、触れた指に細い砂の手触り。
蝶番の下側だけ、湿った糊気が残っていた。そこが錨。
錨には触れない。合わせだけ抜く。
呼吸を3拍で整える。
3、2――1。
扉の合わせ目を柄で軽く撫でる。
ミシ。
きしみが消える角度を覚え、手首を半寸返して、静かに押す。
扉は、音を飲み込んで開いた。
◇
土間は狭い。燭台が1つ、油の匂い。テーブルには牌と欠けた杯。
床の目地がずれている板が1枚。そこをわざと踏まずに、壁の陰へ斜に滑る。
見張りの息は浅い。椅子がきしむ半拍前に、肩を押し、足首を折って、床に静かに置く。
掌の下で、喉が上下する。
寝息に変わった。時間はまだある。
奥へ続く戸口の前で立ち止まる。
乾いた白墨の匂いが強くなる。結界。面で閉じてあるが、合わせが甘い。
壁の柱に粉チョークで2点、支点と逃げ線を置く。
柄で輪郭を薄く撫でる。
ピン。
次に合わせ目。
ミシ。
そこで、ほんの一呼吸だけ止め、柄を半寸入れ替え、留めだけを外す。
コト。
面は壊さない。合わせだけが外れ、通れる幅だけ空白が生まれた。
「通す」
独り言は短く。
俺は空白をくぐり、奥の部屋へ滑る。
◇
最奥は、雨音が遠くなった。
檻がある。木と鉄の混ざった即席の造り。蝶番は2つ。上は乾いて軽い。下は湿りが残っている。
糊気。誰かが慌てて打ち直し、乾き切る前に閉めたのだ。
檻の向こう、丸まった小さな影。呼吸はある。微かに震えている。
俺は膝をつき、囁く。
「黙ってろ。今、切る」
返事はない。
檻に顔を近づけず、耳と指で読む。
縫い目、合わせ口、楔。
柄を縦にして、合わせの溝に差す。
少しずつ角度を変え、乾いた繊維が分離する所を探る。
ピン。
ミシ。
位置はここ。
呼吸を3拍に戻す。
3、2――1。
柄で糊の膜だけを剥ぐ。
ベリ、と音が喉の奥で鳴った気がする。実際の音は、ただのコト。
合わせが抜け、檻の隅に薄い隙間ができた。
「檻の継ぎ目、1本、外す」
隙間から小さな手が伸びる。かすれて震える指。
指先が、空中の何かをなぞる。
その指が、空に点を打つみたいに止まった。
小さな声が、そのまま空気になって落ちる。
「ここ、線」
息が詰まる。
俺は頷き、子どもの指が示した空間の線の端だけを撫でる。
ピン。
ミシ。
そこに、確かに薄い線があった。枠の残り香。
子どもの目は布で覆われている。けれど、線を指でなぞれた。
「すぐ出す。腕、ここに」
細い手首を包み、隙間に誘う。肩を抜き、腰を通し、足を引く。
体は軽い。年は8から10くらい。髪は短く、衣は薄い。
外気が触れた瞬間、かすかに震えが強くなった。
「歩けるか」
首が小さく動く。
抱き上げず、背に乗せる。腕を首に回させ、膝で支える。
包みの中の剣は、今日も未抜刀だ。使わない。使わなくていい。
「拾う。生きて、帰す」
◇
戻り道は、一筆書きだ。
行きに残した枠を敵にだけ引っ掛かる向きで整え、通電を落とした箇所を自分たちの退路にする。
土間の角の面は合わせだけ外したまま。踏み違えれば彼らが転ぶ。
眠らせた見張りの足先を壁に向け、障害物に変える。
扉の前で一呼吸止め、耳を澄ます。
外周の気配は薄い。代わりに、森の奥で短笛のような通過音。
扉に掌をかける。
ミシ。
開く。
外気が湿りを載せ、肺に落ちる。
半呼吸のあと、背後で、もう1度。
ミシ。
扉は2度きしんだ。
追いつかせない。
俺は肩の重みを確かめ、森の影へ入る。
粉チョークの点を拾い、倒木のはぎ目を跨ぐ。
子どもの呼吸は浅いけれど、乱れてはいない。
俺は数える。
3、2――1。
◇
外周の輪の残骸の脇を、わざと大きく踏んで目印を偽装する。
濡れた葉の線に沿って足を置き、乾いた枝は踏まない。
背の温度が少し下がった。
背中越しに、小さな声。
「いたい」
「どこ」
「うしろ、すこし。だいじょうぶ。ここ、線」
また、指が俺の肩越しに空を撫でた。
指が止まる位置は、さっき俺が避けたはずの場所と重なる。
線を読む目。
この子は、見える。いや、感じられる。
言葉は短く、歩みは早く。
「もう少しで小屋の輪から外れる。静かに、深く、呼吸して」
子どもの指が、俺の胸の上で3回動く。
3、2、1。
呼吸が揃った。
背の重みが、少しだけ楽になる。
◇
森縁に出る直前、木の上で枝がきしんだ。
ミシ。
黒い外套の裾の影が、風の中で切れた気がした。
振り返らない。
足、腰、呼吸。半歩。
影は追う。だが、ここは俺の線だ。
村の方角の灯りが、木々の間に滲む。
子どもの腕が首にきゅっと回る。
「つかれたら、いって」
「だいじょうぶ。おにいちゃん、ふしぎ」
「どこが」
「ぜんぶ、はこんでる。あしで、てで。ことばで、いま、ここ」
笑う余裕はない。けれど、その言葉は、少しだけ体温を戻した。
俺は森の縁を抜け、土道に乗る。
遠くで犬が吠え、夜番の灯りが揺れる。
ギルドまでの導線は頭に入っている。門は遅い時間でも、報告は通る。二印で固定すれば、誰も文句を言えない。
「帰る。規定の中で」
独り言は短く、軽い。
背中の子は、こくりとうなずいた気がした。
◇
廃小屋の方角から、風が遅れてやって来た。
湿った匂いと、油の残り香と、白墨の粉の乾き。
扉は、たぶん、もう1度きしむ。
1度目は、俺が出た音。
2度目は、誰かが追ってくる音。
足取りを半寸だけ広げる。
3、2――1。
「終わり。次」
村の灯りが近づく。
俺は子どもを背に乗せ直し、石畳の目地をまたいだ。
風が前から吹き、夜が、少しだけ軽くなった。
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