第6話 攫われた子ども
昼前のギルド裏手は、パンの匂いと革の匂いが混じっていた。
薄曇り。看板の蝶番が、風で短く鳴る。
ミシ。
俺は剣帯を半歩ぶんずらし、列の先で待つ母親に向き直った。顔色は悪いが、言葉はしっかりしている。
「お願い。うちの子が帰ってこない。夕刻までは一緒にいたの。露店を回って、それから……匂いが変だったの。焦げた匂い。道の草が輪みたいに白くなっていて」
「消えたのは何刻ごろ」
「宵の手前。家まではあと少しなのに、路地で手を離して……」
「わかりました。順路を一緒に」
俺は母と並び、街の通りへ出た。足、腰、呼吸。3つで1つ。焦りを外に置いて、線だけを見る。
◇
露店の並びは、帰り道になると逆向きの風で匂いが変わる。パン、燻製、香草。匂いの帯が交わる場所は、人が詰まりやすい。
そこから路地へ折れる角の石畳に、靴のコバで擦れた薄い線が重なっている。急いだ足。引かれた足。2種類の線。
「ここで折れてる。ここから輪の方向に、抜かれてる」
母は口元を押さえ、小さくうなずいた。
俺は彼女をギルド近くの詰所に預け、軽装で戻る。粉チョーク、申請板、短いロープ。刃は抜かない。規定の中で、勝つ。
路地を抜けて旧柵の切れ目へ。柵板の欠けは、荷車がよく擦る位置だけが丸い。そこを通って小川の石橋、畦道の折れ。
草が踏まれてできた細い筋が、西へ向かって伸びていた。
風が変わる。鼻に、乾いた匂い。焦げより薄い、粉の匂いだ。
畦道の先、林の縁。道のまんなかに、乾いた白い輪がひとつ。
◇
立ち止まる。半歩ぶんずらして、輪を斜めに見る。
切れ目がある。合わせ口が半寸だけずれている。供給を先に切って、枠だけ残した作法。前に見たものと同じ気配。
「三点。支点と、合わせ口と、逃げ線」
声に出して段取りを固定する。
粉チョークを指に付け、倒木のはぎ目に退避の印。失敗しても体が流れない角度。
呼吸をそろえる。3、2—1。
柄で輪の外周をそっと撫でる。耳の奥に細い音。
ピン。
次に継ぎ目。ほんの少しだけ力を乗せ、布越しのように滑らせる。
ミシ。
位置は合っている。
視界の目地が一瞬ずれた。ゼロ酔いの兆し。深呼吸で戻す。3、2—1。
「合わせ口、そこだ」
柄を半寸だけ滑らせ、力を抜いた角度で、結び目だけを外す。
指先の感触が軽くほどけて、細い音が落ちる。
コトリ。
輪は粉に戻って風へ乗った。爆ぜない。香りもしない。
供給は切られていた。残された枠は、見せ札か、誘導か。
「線だけなら、外せる。だが……」
粉の落ち方が整いすぎている。切り口は直線で、目地が揃う。学院で叩き込む手だ。
輪の先を追う。草の筋はやがて太くなり、黄褐色の地面へ続いていた。
◇
黄昏。林の奥に、廃小屋が見える。
壁板に穴、屋根に欠け。けれど角は、生きている。ここだけ補修が新しい。
外周を大きく回り、風上から匂いを拾う。
焦げた符の匂い。樽の裏に焼け符。角に重いもの。錨だ。
学院の癖。角に錨で面を固定し、出入口に枠。運ぶものが軽ければ、輪を踏ませて引く。子どもでも、足のサイズで足場を選べない。
「嫌な手だ」
独り言になる。
見張りがいる。3人。廃小屋の四隅を三角に回し、四呼吸で角を交代する。
合図はないのに、足は一定の拍を刻む。タ、タ、タア。3拍目で視線が重なる。死角がゼロになる瞬間。
でも、半拍だけズレがある。角へ入る前の浮き。そこに、半歩分の穴。
「3、2—今」
発見の手応えを、体の芯に刺す。
焦ってはいけない。夜まで待つ。巡回の癖は、暗くなるほどこぼれやすい。
俺は粉チョークで外周に小さな点を打ち、退路と迂回路を確保する。倒木、石、根。音を立てない踏み石だけを繋ぎ、逃げ線を結ぶ。
◇
夜半。雲が薄くなり、月が出た。
息を浅く。体の厚みを削る。土の目地を踏まない。
風向きが変わり、樹の陰が伸びる。巡回の足が、四呼吸で角を渡る。
「3、2—1」
視線が重なる直前、半歩で縫い目へ滑る。
壁沿いを体で縫い、廃小屋の扉へ。
扉は割れ目だらけだが、合わせ目は不自然にきれいだ。ここだけ、手が入っている。
指先で合わせ目の空気を撫でる。
冷たい。糸が張っている。細い術式糸。
さらに目を凝らす。暗さになじんだ視界に、針の頭のような小さな金属の光と、糸が結ばれた結び。
錨ピン。
角の錨と、扉の糸が面を作っている。糸を切れば面が鳴る。錨を全部抜けば面が崩れ、音が出る。
ここで、選択がいる。
「触れたら鳴る。抜くなら、1本だけ」
1本だけ抜く。面の張力を落とすが、全崩壊は避ける。
残った錨と糸に、重さが再配分される瞬間。そこを三拍で跨ぐ。
俺は呼吸を合わせた。
3、2—1。
指を伸ばす。
ピンの頭に触れる。
金属は冷たい。
指先の皮膚が、糸の震えを拾う。
半歩。わずかに体の向きをずらし、肩の重さを逃がす。
選ぶのは刃じゃない。選択だ。
息を吐く。
ピンが、かすかに動いた。
ピン。
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