第5話 罠と線の違和感
朝の霧が、森の縁でほどけていく。
俺は剣帯を半歩ぶんずらし、呼吸を整えた。足、腰、呼吸。3つで1つ。
昨日見つけた薄い輪へ、戻る。
道は静かだ。鳥の声が遠い。風は東から西。草の先はそちらへ倒れている。
けれど、輪は風に合っていない。
道のまんなかに、乾いた白の輪だけが、置き忘れた皿みたいに残っていた。
「……いるな」
誰か、ではない。何かの手の気配が、まだ残っている。
俺は近づきすぎない位置で足を止め、輪を斜めから眺めた。
輪に切れ目がある。合わせ口が、半寸だけずれている。供給路だけ先に切って、枠をわざと残した作法。素人の遊びでは、ない。
段取りを声に出す。
「3点。支点と、合わせ口と、逃げ線」
粉チョークを指先に付けて、道の外側へ小さく点を打つ。倒木のはぎ目に退避を決める。失敗しても、背中が落ちない角度。
右手で柄を確かめ、深く息を吸う。3、2—1。
柄を輪の外周にそっと触れさせる。
軽い感触のあと、耳の奥に細い音が落ちる。
ピン。
線が鳴った。
次はやや強めに、輪の継ぎ目を撫でる。
ミシ。
ここは継ぎ目。
もう一度、触る場所をずらす。指の皮膚で、輪の乾きを測る。布越しに触れるような、薄い堅さ。
視界の目地が、ほんの一瞬だけずれた。ゼロ酔いの軽い兆し。すぐに呼吸で戻す。3、2—1。
「合わせ口、そこだ」
柄を半寸だけ滑らせる。
力は入れない。留めの結び目だけを外す角度。刃物はいらない。
肩と腰の向きで微調整。息を吐き切る瞬間に、手首をほんの少しだけ返す。
コトリ。
輪の音が軽く落ちて、枠がほどけた。白い線は細かい粉にほどけ、風の向きに従いはじめる。遅れて土の匂いが強くなる。
俺は2歩下がって、退避線を解除する。倒木から手を離し、周囲の音を拾った。
何も起きない。
踏み抜きも、爆ぜも、眠り香もない。
枠だけが残っていたのは、やはり故意だ。供給を先に切り、危害を残さない形で枠を置くのは、見せ札か、誘導か。
「仕事の手、だな」
輪の粉は均一で、切り口の直線性が妙にきれいだ。目地も揃っている。学院で叩き込む作法の匂いがする。
俺は粉チョークで撤去位置と合わせ口を簡単に図に残し、小枝で矢印をつける。誰かが来ても、ここはもう危なくない。
風が止まり、枝の蝶番が短く鳴った。
ミシ。
視線を上げると、道の奥で黒い外套の裾が一瞬だけ揺れた気がした。
確かめようと踏み出しかけて、足を止める。追うべきか、追わないべきか。
今、必要なのは、証跡を制度に載せることだ。
「追わない。情報が先だ」
俺は輪の粉の一部を紙に包み、申請板用の簡易図を整えた。支点、合わせ口、逃げ線。3つで1つ。
剣帯を半歩ぶんずらし、森を離れる。
◇
昼前、ギルドのホールはほどよく混んでいた。
俺は受付の列に並び、申請板と図と粉の小包を差し出す。
セシルが無言で受け取り、目だけで要約を催促する。
「東の浅い道。昨日見つけた輪。供給だけ切られて枠が残ってました。合わせ口は道の内側に半寸。柄で一点外し。実害ゼロ。粉はこれ」
「場所の印は」
「倒木のはぎ目を基準に3歩北。木の根に白を2つ。迂回線を矢印で」
セシルは紙の目地を揃え、ちらりと窓外に視線を送る。通過音に敏い人だ。
俺が続ける。
「作法は学院寄り。切断の順と、粉の均一さが整いすぎてる」
「判断、了解」
セシルは申請板に短い要点を記し、印欄を指でなぞる。
ギルド印と、治療所印。2つの丸が並ぶ場所。
「規定では、危険物の解除は手順と結果で評価する。今回は実害ゼロ、誘導の形跡あり。最上評価で通します」
「助かります」
「あなたは報告の義務を果たした。次に義務を負うのは、ギルド」
ペン先が走り、赤い丸が1つ。続けて青の丸が1つ。二印が並んで支払いと記録が確定した。
セシルが顔を上げる。
「見ていった人はいた?」
「黒い外套。通過音だけ。追ってない」
「正解。追うなら捕まえる手筈がいる。今は情報を積む段階。……それにしても」
セシルは粉の小包を光に透かし、手首で軽く揺らした。
粉の落ち方が均一だ。やはり学院の作法だと、視線だけが言う。
「巡回に回す。報告書の写し、要る?」
「もらえますか。次に備えて読みたい」
「写しは後ろ。少し待って」
彼女が奥へ消える。俺はカウンターに肘をつくことはせず、背中越しにホールの音だけを拾う。
笑い声。靴の音。掲示板の紙がめくられる乾いた音。
その面の奥で、細い針を弾いたみたいな音が、極小に混じる。
ピン。
俺は振り向かない。
今日も、門は2度きしむのだ。
追わない。外す。規定の中で。
セシルが戻ってきて、書類の角をぴたりと揃えた。二印の下に日付と時刻。押印のならびがきれいだ。
「写し。解除図も添えた。申請板の控えは保管庫へ。巡回は今日の夕刻」
「もうひとつ、いいですか」
「どうぞ」
「輪のすぐ先に、斜面へ落ちる獣道があった。誘導なら、あそこへ向けて人を落とす配置になるはず。もし次があるなら、そこの目地を太く見る必要がある」
「記録に追記する。ありがとう」
セシルは声を少しだけ落とす。
「規定では、でも、あなたのような報告は最上評価です」
俺は短く会釈して、木札を胸に戻した。
◇
昼下がり、ギルドの外は日差しが強い。
扉の蝶番が、ミシ。半呼吸ののち、もう一度、ミシ。
門は2度きしむ。
石畳に出る前に、剣帯を半歩ぶんずらす。
視界の端で、黒外套の裾が角の影に吸い込まれた気がした。
追わない。情報が先だ。
宿の前を通り、井戸のそばを抜ける。
洗い桶の水面が揺れ、反射が一瞬だけ荒れる。風の筋とは合わない揺れ方。
誰かが流している。言葉ではなく、手癖で。
「学院、か」
独り言が出た。
昨日の薬草の相場が頭をよぎる。10束で0.4G。生活は軽くはない。だが、今日の報告で得たのは金だけじゃない。
輪の手。合わせ口の向き。切断の順。
作法は身元に繋がる。次に同じ手を見れば、結べる。
角を曲がる前、わざと足音を1度強く鳴らし、次の1歩を薄く消す。
影の継ぎ目が、少しずつほころぶ。
ピン。胸の内で、針が鳴る。
◇
夕刻、ギルドの掲示板のすみに、新しい紙が貼られた。
行方不明、という大きな文字。森の浅い道、最後に目撃。
俺は足を止め、紙の目地のずれを見た。昨夜貼った地図の継ぎ足しと、同じずれ方。
輪の場所と、不明の地点が、細い線でつながる。
カウンターからセシルの声が飛ぶ。
「レイ。夕方の便で巡回が出る。あなたの図が基準になる」
「立ち会えますか」
「今日は人が足りない。明日、公開の確認になるかもしれない。あなたは目を休めて。ゼロ酔いの兆しが出てる」
「少しだけ。大丈夫です」
「大丈夫を信用しないのが、規定。今日は戻って、整えて」
正論だ。
俺は頷き、掲示板をもう一度見た。
輪は解けた。だが、手は残っている。
誰が張った。何のために。
明日、わかるかもしれない。わからないかもしれない。
それでも、合わせ口は、もう見える。
外に出る。
扉がミシ。半呼吸おいて、もう一度ミシ。
門は2度きしむ。
俺は半歩ぶんずらして、夜の方向へ歩き出した。
選ぶのは刃じゃない。選択だ。
針の音が、薄く続く。
ピン。
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