第45話 写像残滓の核へ ―壊さず止める一手―
湿った空気が、喉の奥にまとわりついた。
王都下水迷宮、再潜行。俺たちは、前と同じ最奥区画の手前に立っていた。
「入る前に出る道。合図は引き2、退路標は10歩ごと。……はい復唱」
地図を折り畳みながら、ノアがいつもの調子で確認してくる。
「引き2で全員後退、退路標10歩ごと。タグは曲がり角と核前。……で合ってる」
「はい、レイよくできました。じゃ、ミア」
「退路標の位置は全部ノア任せ、私は構造視とタグの管理。あと、倒れても出来るだけ邪魔にならない場所で倒れます」
「最後いらないから」
俺は苦笑しながら、剣帯を半寸だけずらした。いつもの位置から、ほんの少し下へ。
カチ、と金具が小さく鳴る。
呼吸を3拍で落とす。吸って、止めて、吐く。
ゼロの底に沈んでいくみたいに、余計な雑音が遠くなる。
査問だの噂だの、王都の空気の悪さは全部あとだ。
結果で黙らせる。
面で来る広域魔法なら、線だけ外して止めてやる。
十歩進むごとに、コトリ、と小さな音が背中側で鳴った。
「退路標、1本目。ルートピン良好」
ノアが壁に短いピンを打ち込む。目立たないけれど、触れば分かる凸。
ミアは曲がり角ごとに、光タグを床の目地にそっと置いていく。魔力灯りがふわりと点り、暗い通路に淡い印が増えていく。
「点が線になるって、いいよね」
ぽつりとミアがこぼした。
「背中側に線が1本通ると、安心するでしょ」
「まあな。帰り道が見えてると、前にも踏み込める」
俺の足跡と、光る点と、壁のピン。
それらが背後で1本に縫われていく感覚は、嫌いじゃない。
前も後ろも、生かしたまま進む。それが、今の俺のやり方だ。
やがて、通路の空気が変わった。
鼻につく腐臭の向こうに、どこか鉄と油の匂いが混じる。壁が、薄く光り始めていた。
「来た……」
ミアが息を呑む。
壁面いっぱいに、薄い光の輪がいくつも重なっている。輪と輪が、細い線で結ばれ、小さな揺らぎを繰り返していた。
床の目地が、ミシ、と小さく軋む。
写像残滓の廊。
前回、まともにやりあって押し返されかけた場所だ。
「ミア」
「うん……ちょっと待って」
ミアが目を細め、指で宙をなぞる。彼女の視線の先で、光の輪の一部がほんの少しだけ濃くなる。
「3層式。上と下は飾り。真ん中の層で写し続けてる。周縁の境界線が、一番薄い」
「境界だけ踏め。面は踏むな、ってことか」
「簡単に言うとそう。簡単じゃないけどね」
ミアが苦笑する。
薄い光の輪の合間。輪と輪の、合わせ目。
線で繋がっているそこだけが、わずかに色を変えているのが、俺にも見えた。
「試す」
俺は1歩、前に出た。
次の瞬間、空気が肩口から一気に押し返してくる。
視界の端が、わずかに遅れた。動きが、ほんの少しだけねっとりする。
足裏に、鈍い張り。
ピン。
「……っ」
床に押し返される、というより、空間そのものに抱き止められた感じだ。
進もうとする動きを、広い面で受け止めて、元の位置に戻そうとする。
自動補正。写像面の自己修復。
「正面は不毛、だな」
呟いて、一度下がる。
息を吸って、止めて、吐く。
3、2――1。
合わせるんじゃない。拍を外す。
振り子の止まる瞬間に指を触れるみたいに、揺らぎの間をすり抜ける。
さっきの1歩で、掴んだものはそれだ。
「はい作戦会議。短くね」
ノアが手のひらを打ち合わせる。
「敵は、面で押し返してくる。真正面からは進めない。なら、どうするか」
「境界線だけ踏み抜く」
俺は即答した。
「ミア、線は見えるか」
「見えてる。輪と輪の合わせ目。さっき言った周縁のところ」
「そこを教えろ。俺が踏む」
「ざっくり以上の精度が必要だよ。半歩ずれたら、全部面に飲み込まれる」
「半歩くらいなら、ずらせる」
言い切ると、ミアとノアが同時にため息をついた。
「はあ……はいはい。じゃあ私から」
ミアは指をすばやく動かし、いくつかの線をなぞる。
「右前、2点ピン。縦と横の合わせ目。そこが一番薄い。タグ入れる、3、2――今」
ミアの声に合わせて、ノアが光タグを床に滑らせる。
ぽん、と淡い光が灯り、境界線の1点が浮き上がった。
「ここを踏む。で、レイが踏んだ瞬間に」
「搬送索、引く。退路標、次の角」
ノアが続ける。
「負荷を写像核の方に戻す前に、供給路を抜いてやる。3位1線、縮小版ってやつね」
「3位1線、縮」
俺は短く繰り返した。
ミアが線を見て、ノアが道を確保して、俺が決着をつける。
いつもの3人の形を、ここまで狭い場所用に縮めた形だ。
「じゃ、合わせようか」
ノアが搬送索を手に取る。腰のフックから細いロープが伸び、壁際のどこかに繋がっていく。
背中で、さっき打った退路標が小さくコトリと鳴った。
道は、もう折り込み済みだ。
「ミア、最初の1点」
「了解。供給路、左壁の裏。ピン一本。そこ叩いたら、たぶん1段落ちる」
「たぶんって言った」
「だって実験したことないもん」
そう言いつつも、ミアの声は揺れていない。
俺はうなずいて、剣の柄に軽く触れた。
ここで刃は抜かない。
必要なのは斬撃じゃなくて、支点を外すための一点。
「合わせるぞ」
「うん」
「はいよ」
3人分の声が、湿った空気の中で重なった。
「3、2、1――今!」
ミアのコール。
俺は床を蹴り、薄光の輪の間へ踏み込んだ。
面の抵抗が、肩から押し寄せる。
だが、さっきよりも弱い。
視線を右前に落とす。光タグのわずかな揺れ、その足前に、ミアの指がなぞった線が重なる。
足裏に、ピン。
境界線の上だ。
その瞬間、俺は腰を落とし、剣の柄を握り込んだ。
抜かないまま、逆手で振り下ろす。
「逆落」
鈍い衝撃が、壁の裏側に走った。
ミシ、と金属の軋む音。
光の輪の一部が、かすかに揺れる。
「今! 引く!」
ノアの叫びと同時に、搬送索がギュッと引かれる感触が背中に伝わった。
コトリ。
何かが外れる、小さな音。
押し返していた面の力が、1段階だけ薄くなるのが分かった。
空気が、ほんの少し軽い。
「……一段、落ちた」
「供給路一本、抜けた。あと2つ」
ミアが早口で言う。
「いける?」
「いける。道はある。線で通す」
俺は自分に言い聞かせるように言った。
ゼロ魔力の、この身体で。
面は壊さない。線だけを踏んで、外す。
再び、ミアの指が宙を走る。
「次、左前。さっきより浅い。ピッチ狭いから、半歩以下で」
「半歩以下ねえ……」
ノアがぼそっと抗議するが、もう手は動いていた。
搬送索が、別の方向へと渡される。
俺は、ぴたりと足をそろえた。
息を吸って、止めて、吐く。
3、2、1。
床の合わせ目だけを、足裏で探る。
ピン。
そこだ。
一気に体重を乗せ、今度は踏むだけで力を流し込んだ。
境界線をまたいで、面の裏側に、自分の重心を押し込むイメージ。
ミシ。
床の目地が鳴く。
仕上げに、軽く柄で叩く。
コトリ。
2本目の鋲が外れた。
写像面の揺らぎが、さらに大きくなる。
面が面でいられなくなってきている。
「ラスト。真ん中。ここ外せば、核の負荷が一気に落ちる」
ミアの声が、少しだけ上ずっていた。
額には汗。目の下には薄いクマ。
構造視を張りっぱなしでここまでやっているのだから、負荷も相当だろう。
「ミア、大丈夫か」
「大丈夫。レイが外してくれたら、大丈夫になる」
「了解」
短くそれだけ言って、俺は前に出る。
光の輪の中心。淡い光が、心臓の鼓動みたいに小さく脈打っている。
写像核。
本体は、壁の向こう。見えない場所。
だが、そこに繋がっている線は、ここまで伸びてきている。
「踏むのは床じゃない。合わせ目だ」
自分に言い聞かせる。
ゼロの底で、線だけを見る。
薄光の輪と輪の間。
ミアの指が示した1点に、俺はそっとつま先を置いた。
ピン。
足裏が、その細い線を捉える。
肩にのしかかる面の抵抗が、一瞬、迷った。
そのわずかな隙間に、体重を滑り込ませる。
ミシ。
目地が鳴き、壁の内側から、低い悲鳴のようなきしみが返ってくる。
「今だ、ノア!」
「分かってる!」
搬送索が、一気に引き抜かれる感覚。
コトリ。
3つ目の鋲が外れた。
瞬間、世界の輪郭が一度だけ白く跳ねた。
押し返していた面が、溶けていく。
光の輪はそのまま、しかし揺れは静まり、薄い膜が水面みたいになって、ゆっくりと沈んでいった。
空気が、普通の重さに戻る。
さっきまで感じていた粘り気が、嘘みたいに消えた。
「……止まった?」
ミアが、かすれた声で尋ねる。
「設計に従った。終わりだ」
俺はそう言った。
核そのものには、一度も触れていない。
供給路と綴じ鋲だけ、線で外した。
広域魔法を、壊さず止める。
それが今回の、正解だ。
「レイ、ちょっとこっち」
面が溶けて露わになった壁際で、ノアがしゃがみ込んでいた。
ライトをかざすと、石壁の一部が細かく擦り減っている。
「搬入の傷。ここから押し込んでる」
ノアの指先が、削れ跡をなぞる。
石に残った細い筋は、迷宮の中から外へ向かっているんじゃない。
外から奥へ向かっている。
「中で勝手に育った核じゃない。外から……」
「置かれた、ってことか」
言葉にすると、嫌な重さが胸に落ちた。
ノアは無言でうなずくと、擦り傷の周囲を慎重に写し取っていく。
端に刻まれていた、小さな刻印を見つけて、顔をしかめた。
「工房印。王都外の手口だね」
「王都の迷宮に、外の誰かが核を入れた」
「そういう線になる」
ミアがぽつりと言う。
核は置かれた。だから、戻れる。
ここで出来ることは、もうやりきった。
あとは、この痕跡を、地上でどう使うかだ。
「……っ」
そこで、ミアが膝をついた。
「おい」
「ごめん、大丈夫……ただ、ちょっと頭がいたい。構造視、張りっぱなしだったから」
こめかみを押さえるミアの顔は、青い。
俺自身も、視界の端がほんの少し遅れている気がした。
ゼロに沈みすぎたときに出る、あの感覚。
ゼロ酔いの手前だ。
「長居は無用だな。線は残した」
退路は、もう縫い終えてある。
あとは、たどるだけだ。
「撤収撤収。ミア、肩貸す」
「うう、ありがと……レイ、重かったら言って」
「ミアよりは重くない」
「それ慰めになってる?」
ミアを片腕で支えながら、俺たちは来た道を戻る。
ノアは先に立って、退路標と光タグを1つずつ確認しながら進んでいく。
「退路標、1本回収。タグ残り、あと3つ。搬送索も問題なし」
「在庫確認は地上でいい」
「今やるの。勝ちは準備に換える。ここまでテンプレ」
「うるさい」
そう言い合えるくらいには、余裕が戻ってきていた。
光タグが照らす通路は、行きよりも少し明るく見える。
背中側に通った線が、俺たちを引っ張ってくれているみたいだった。
そのときだ。
遠くの分岐で、ミシ、と小さな音がした。
床の目地が鳴る、あの音。
けれど、今は誰も踏んでいない。
俺たち三人は、無言で顔を見合わせた。
ノアが指先で口元を押さえ、静かに後ろへ下がる。
光タグの灯りを、袖で少し隠す。
足音が、近づいてきて、やがて遠ざかっていった。
姿は見えない。声も聞こえない。
ただ、通路のどこかを誰かが通った線だけが、確かにそこにあった。
「……見られてる」
思わず呟く。
「だろうね。写像核を置くくらいだし」
ノアの声は、いつもの皮肉っぽさを抑えていた。
「でも、怯えるのは後でいいよ。今は、出るのが先」
「だな」
俺たちは、退路標の線に沿って、再び歩き出した。
地上への階段の手前で、ノアが封筒を取り出した。
写し取った刻印と擦り傷の紙束を、そこに滑り込ませる。
それを見ているだけで、紙が少し重く感じられた。
この先、何人の首を締める重さなのか、まだ分からない。
ただ、線は繋がった。
迷宮の奥と、王都の外と、俺たちの手の中で。
階段の上から、ぼんやりした光が差している。
王都の汚れた空気と、地上のざわめきが、微かに聞こえる。
俺は一度だけ振り返った。
湿った闇の奥に、薄い光タグの残り火が見える。
退路標は、もう全部回収した。
「終わり」
短く呟いて、封筒に指先を添える。
「次」
俺たちは、地上へと歩き出した。
迷宮の線の先にある、王都と、その外と。
まだ見えない線が、あちこちでミシ、と鳴り始めている気がした。
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