第42話 補給と調律
石段を上がった瞬間、空気が変わった。
湿った下水の匂いが薄れ、ひやりとした夜気が肺に刺さる。足を出すたび、視界の縁が半歩ずれてから、カクンと元に戻る。
耳の奥で、ミシ、と小さな音が鳴った。
「……レイ、大丈夫?」
隣のミアがこめかみを押さえながら、心配そうに覗き込んでくる。
「歩ける。少し、世界が遅れてるだけだ」
「それ、全然大丈夫って言い方じゃないからね」
苦笑する俺の後ろで、ノアが壁に打っておいた退路標を抜いていた。ピンが石から抜けるたび、コトリと乾いた音が夜に落ちる。
「ピン残り5。光タグ2。油は半瓶。はい、今日は補充、決定」
いつもの調子でノアが宣言する。
「そんなに減ったか」
「そんなに減ったの。レイはゼロで道を斬る係。あたしは帰り道を縫う係。その分、在庫の悲鳴はこっちに来る」
ノアは腰袋を締めながら肩をすくめる。
「道は前だけじゃない。戻れる線も作る」
「はい名言出ました。これ、補充の口実にするから、毎回言って」
地上はすっかり夜だ。大通りから少し外れた裏道には、人影は少ない代わりに、家々の灯りが点々と浮かんでいた。
「今日の宿、どうする?」
「決まってるよ。睡眠最優先。静かで、逃げ道が2つある宿」
ノアの答えは早い。
「ちょっと待って……耳の奥が、またミシってしてる」
ミアが空を仰ぎ、目を細めた。構造視の過負荷も来ているらしい。
「了解。近場で条件合うとこ、優先」
ノアに案内されて辿り着いたのは、表が大通り、裏口が市場の脇路地に抜けている小さな宿だった。看板には静音の部屋とある。
表口に入る前に、俺は建物をざっと見上げた。板の目地は揃い、柱も素直に立っている。窓は通り側と裏側。どちらからも飛び出せる。
「悪くない」
「でしょ。鍵2重、廊下まっすぐ、裏口あり。逃げる準備だけは完璧」
ノアが宿主と手短に話し、2人部屋ひとつ、布団3組を押さえる。裏口の解錠時間は夜明けまで。条件は十分だ。
2階のいちばん奥の部屋に入り、扉を閉める。
窓と扉の蝶番の位置を確かめ、俺は白墨で床の端に小さな点を打った。暗闇でも足の置き場が分かるように、ほんの数か所だけ。
「生活は武装だ。寝床と鍋と在庫表で、戦場を1歩前から始める」
「かっこよく言ってるけど、やってるのは点描きだからね、それ」
ノアが呆れ顔で笑い、ミアもくすっと笑った。
「でも、落ち着く。こういうの」
ミアは椅子に腰を下ろし、俺を手招きする。
「レイ。座って。ゼロ酔い、見せて」
言われるままに向かい合って座ると、ミアは真剣な目で俺の視線を追い始めた。
「右、左、上、下……うん。視線の戻りが1拍遅い。光、弱めるね」
ミアは立ち上がり、ランプの芯を指でつまんで火を絞る。
部屋の明かりが少し落ちた。輪郭線のギラつきが消え、代わりに距離感がすっと揃っていく。
ピン、と頭のどこかで線が張り直されるような感覚。
「どう?」
「さっきより、マシだ」
「よかった。あとは、呼吸と寝方と食べ方、全部まとめて調律しよ」
ミアは机の上に紙片を広げた。
「はい、会議開始」
ノアが椅子を引き寄せ、紙片に3本の線を引く。
「呼吸、睡眠、食事。この順で決める。異論ある人?」
「ない」
「賛成」
「よろしい。まず呼吸」
ノアは一番上に3拍と書き込む。
「3拍呼吸。吸う、止める、吐く。ゼロを使う時もこれで固定。レイの半歩ずらしは?」
「乱発しない。1回使ったら、最低3呼吸空ける」
「はい採用。次、睡眠」
睡眠の欄に、遮光、体勢、起床、と簡単な文字が並ぶ。
「今日は完全休養。遮光布はフル使用。頭は窓から離して寝る。起きるのは明日、日が少し高くなってから」
「明日、遅出になるぞ」
「いいの。無茶は計画の外。今日は寝る、明日は買う」
「計画してから無茶する、は?」
「順番、逆ゥ。……ミア、ジャッジお願い」
ノアが助けを求めると、ミアは笑いながら俺の肩を軽く叩いた。
「レイは、ちゃんと休んでから無茶して。こっちも線が増えすぎると、頭ガンガンするから」
ミアはこめかみを押さえ、少しだけ目を閉じる。その指がわずかに震えていた。
「分かった。呼吸、睡眠、食事。優先順位は守る」
「食事は簡単。甘い湯に塩少し。負荷の前後で糖と塩、ちょっと増やす。贅沢はできないけど、死なない程度には整える」
紙片に並んだ文字を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
強さは根性じゃない。情報と、休符だ。
ゼロ酔いは欠陥じゃない。刃を休ませるための、クールタイムだ。
「よし。調律方針、決まり。次、補給」
ノアが紙片を裏返す。
「光タグとピンと油。今日の迷宮で使った分と元の在庫を混ぜて……」
指折り数えながら、ノアは口早に続けた。
「タグ10で0G30S、ピン20で0G20S、油2で0G2S。合計0G52S。医療と予備費は手をつけない」
「ぎりぎり、か」
「ぎりぎりの手前。消耗分は3日前倒しで回す。穴を作らない」
ノアは紙片を畳んで腰袋にしまう。
「じゃ、今日は寝る。明日、市場で補給して、その足でギルド。査問の動きも確認」
◇
翌朝。甘い湯と固いパンで腹を満たし、俺たちは市場へ向かった。
朝の市場は、人と声と匂いが渦を巻いている。
「じゃ、逆順で回るよ」
先頭を歩きながら、ノアが言う。
「逆順?」
「人が多い方から順に回ると、手数料の上乗せとか、在庫押しつけとかされやすいの。だから、人の流れと逆向きにいく」
ノアは一度だけ全体を見渡し、人の少ない露店からするりと入り込んだ。
最初は光具屋だ。棚には色の違う光タグが並んでいる。
「線が見やすい色で。青より少し緑寄り。タグ10」
ノアが指定すると、店主は眉をひそめる。
「ちょっと高いよ」
「いい光は、命の値段を安くするんだよ」
さらりと言い切ってから、迷いなく銀貨を数える。
次に金物屋で退路標のピンを20本。最後に油屋でランプ油を2瓶。
「タグ10で0G30S、ピン20で0G20S、油2で0G2S。合計0G52S。予定通り」
ノアは袋の重さを指で確かめながら、満足そうに頷く。
「見事に計算通りだね」
ミアが笑う。
「糸をほどくみたいに、今日の買い物も解けたね」
「でしょ。じゃ、次ギルド」
市場を抜け、ギルドの石造りの建物の裏手へ向かう。搬入口から倉庫に入ると、書類の匂いと油の匂いが混ざった空気が迎えてくれた。
「迷宮帰りか。退路標と光タグの記録、ここに頼む」
倉庫番が帳簿から顔を上げた。
「はいはい、書きます」
ノアが素早く数字を書き込み、紙片を差し出す。
「確かに。……それと、査問日程の写しが出た。関係ありそうだから渡しとく」
差し出された別の紙片を受け取る。
そこには、黒いインクで簡潔に書かれていた。
2日後。査問。
「……きたか」
思わず呟くと、ノアが紙片を覗き込み、目を細めた。
「2日。悪くない猶予」
「2日あれば、整えられる」
俺は短くそう答えた。
その時、軽い足音が倉庫の入口から近づいてくる。
「失礼。王都学術サロンよりの使いです」
振り向くと、上等な外套を着た若い男が立っていた。丁寧に頭を下げ、封筒を差し出す。
「アークライト殿1行でお間違いありませんね。あなた方の物理戦術を、言葉で解き明かしていただきたい。講演の場を、学術サロンが用意いたします」
「講演、ね」
思わず声が漏れる。
「はい。査問の前に、できれば。もちろん、皆さまが無事であれば、の話ですが」
棘の混じる言葉を残し、男は踵を返した。
「感じ悪い」
ミアが小声で言う。
「でも、悪くない舞台でもある。こっちのやり方を、正面から叩きつけられる」
ノアはそう言って、封筒を俺に押しつけた。
「まずは生きて査問に行く。それから好きに喋る」
「ああ」
◇
日が落ちてから、俺たちは宿の裏口を抜け、人通りの少ない路地に出た。
狭い石畳の道。両側の壁が近く、空は細い帯みたいに見える。
「じゃ、呼吸ドリルからいこ」
ノアが道の端に下がり、ミアが俺の正面に立つ。
「レイ、三拍。あたしがカウントするね」
ミアが指を立てる。
「吸う、止める、吐く。3、2、1、で踏み込んで」
俺は目を閉じ、肺の中の空気をゆっくり動かした。
吸う。止める。吐く。
3、2、1。
踏み込む。世界が一瞬だけ遅れかけるが、昼間よりズレは小さい。
足裏で石畳を感じながら、半歩ずらしをイメージだけ立てる。ゼロは起動寸前で止める。揺れそうになる感覚を、呼吸で押さえる。
「もう1回」
3、2、1。
踏み込み。輪郭のブレが、さっきよりも薄い。
「視線、戻り早くなってる。いい感じ」
ミアの声に、俺は軽く頷いた。
「次、短コール合わせるよ。錨は右足元、で」
ノアが路地の端でロープを構える。搬送索の簡易版。引き1で停止、引き2で戻れ。
「見える。いける。錨は右足元!」
ミアの短いコールに合わせ、俺は右足を支点に重心を落とし、そこから体を回す。
ロープが一度、引かれる。停止。
もう一度、引かれる。戻れ。
呼吸と足と合図。3つをそろえる練習を、何度も繰り返した。
踏む路は作る。休む路も作る。
3人で線をそろえれば、迷宮でも街でも、やることは同じだ。
「……戻った、か」
何度目かの踏み込みのあと、俺は小さくつぶやいた。
耳の奥のミシが、ほとんど聞こえない。
「うん。線、きれい。今日はここまで」
ミアが満足げに笑う。
「じゃ、撤収。明日はギルドとサロンの返事、それから……」
ノアが言いかけた、その時だった。
路地の端で、建物の継ぎ目が、ミシ、と鳴る。
風かもしれない。木が鳴っただけかもしれない。
それでも、俺たちは同時にそちらを振り向いた。
誰もいない。暗がりと、揺れる洗濯物だけ。
「……行こう」
これ以上追うのはやめて、俺たちは路地を後にした。
宿へ戻る途中、ギルドの掲示板の前を通る。
そこに、新しい紙片が1枚貼られていた。蝋で留められた端は、まだわずかに柔らかい。
ノアが読み上げる。
「査問、2日後」
今度は時間と部屋番号まで、書かれている。
「歓迎はされてないな」
俺は笑った。
「なら、黙らせるだけの結果を、持って行けばいい」
遠くで、またミシ、とどこかが鳴った気がした。
見えない観客の息を背に感じながら、俺たちは宿に戻り、灯を落とした。
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