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魔法が支配する世界でただ一人、剣で魔法を斬る男 ~ゼロ魔力でも世界を結び直す更新攻略~  作者: 夢見叶
第2章 冒険者としての証明

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第40話 黒外套の残影

 下水の空気は、今日も相変わらずまずい。


 鉄の味と、濡れた苔の匂いと、どこか甘く腐った臭いが、ぬるい風に乗って鼻の奥に貼りついてくる。足元の水面には、浮いた油が薄い膜をつくっていて、ランタンの光をねじ曲げていた。


 その光が、なぜか1拍遅れて揺れる。


 炎が揺れる前に、先に俺の影が揺れて、次に炎が追いかけてくる。普通と逆だ。普通じゃないなら、何かがいる。


「……レイ」


 前を行くミアが、振り返らずに声を落とす。


「張力。弱い合わせ口が1本。左、半歩で空く」


 俺は頷いて、剣帯を指2本ぶんだけずらし、つま先を四分の一歩だけ左に滑らせた。


 縫い目を踏まない。足の裏で、石の目地の向きが変わるのを確かめる。顎をほんの少しだけ落とし、視界の中で、見えない糸を1本そろえる。


「見るな、感じろ。……決める」


 小さく呟くと、後ろからノアがロープを軽く引いた。


「了解。退路は3つ、生かしてある。進路は1つで足りる」


 腰と腰をつなぐロープが、かすかにきしむ。俺たちの背中の方へ伸びる細い線は、そのまま地上への帰り道だった。


 そのときだ。


 奥の闇で、金属の擦れる音がした。


 ミシ、と。


 扉か、蝶番か。だが足音はついてこない。ただ、視線だけが通路をなぞって、俺たちの頬を撫でていくような圧だけが通り過ぎる。


「今の……」


「扉。片側だけ動いた音。誰かがいた、か、いる」


 ノアが低く短く答える。声が水面で砕け、暗がりへ消えていく。


 俺は呼吸の速さを落としながら、頭の中で拍を刻んだ。


 1、2、3、タメ。

 向こうも、こっちを測っている。


「ルール、確認しとく」


 自分自身にも聞かせるように、口に出す。


「致傷禁止。公共損壊、最小。記録優先。追撃禁止」


「はいはい。規定内で勝つ、だね」


 ノアが眉を上げた気配がした。


「守る」


 ミアは短く言って、周囲の闇を見回す。その瞳の奥に、また細い光の糸が走る。《フォーミュラサイト》――構造を見る目。発動のときの光は、前よりずっと薄い。使いすぎを、自分なりに意識している証拠だ。


 闇の縁から、一本だけ細い気配が伸びてきたのは、そのすぐあとだった。


 術式の面じゃない。線だ。


 言葉にしづらいが、魔力の走るラインが1本、そのまま空間に引かれたみたいな、ぴん、とした緊張。殺気は薄い。試し撃ち。向こうも、こちらの出方を見たいのだろう。


「半寸ズレ。右斜め前。角に錨」


 ミアが息を詰めながら告げる。


 半寸ズレ――ズレた1点。そこから、何かが起きる。


「誘爆する線が1本。いじったら、ここ全部飛ぶ」


「了解。触らない」


 俺は前に出る足を止め、かわりに少しだけ膝を落とした。


 視界の端で、黒が動いた。


 黒外套だ。


 闇の縁から、すっと人影が浮かんで、すぐにまた闇に馴染む。フードの奥、仮面だけが水面の光を受けて、白く平たく光った。


 こっちを見ている。


 けれど、まるで鏡ごしみたいに、距離の実感がない。


 黒外套の右手が、短い杖のようなものを持ち上げた。札と杖。学院式の小規模術の定番構成だ。杖の先に、小さな術式の輪が浮かび上がる。


 タ、タ、タア。


 詠唱のリズムが、胸骨の奥で音になる。言葉にはならないが、流れだけは分かる。最後の一拍で術が完成する、その拍が、目の前にぶら下がっている。


 そこへ、踏み込む。


 俺の足が床から消え、次に置き直されたときには、世界の拍から半歩ずれていた。


 無幻歩。


 詠唱の完成拍の外側に、自分の位置をずらす、零式の1つ。


 ほんの一瞬、黒外套の仮面が、驚いたように揺れた。


 完成するはずだった術は、その一拍を失い、杖先の輪が、しゅう、と縮んで消えていく。


 俺は刃を抜かなかった。代わりに、柄頭を軽く握り直し、肩の力を抜く。


 腰線の折り角と、仮面の輪郭を、1本の線で結ぶイメージを、そのまま腕に流し込む。


 逆落。


 ただの一撫でだ。力を込めない。重さも、速さも、意識しない。ただ、そこにある1点だけを通り過ぎる。


 コキ、と乾いた感触が、柄越しに伝わった。


 硬質樹脂の仮面の側面に、細い線が1本、刻まれる。


 白い面に、黒い背景に、斜めの傷が走った。その角度は、俺の腰の折り角と同じ角度で、視界の中に重なって見えた。


「結果だけ、置く」


 小さく呟いて、1歩下がる。


 黒外套の体勢は崩さない。倒れてもいない。胸を貫かれたわけでもない。ただ、術の要だけが外されたせいか、杖先の輪はもう戻らない。


 仮面の傷に、奴自身がそっと触れた。指先が、ほんのわずかに震えている。


 殺す気はない。ここは戦場じゃない。調査区画だ。


 俺たちは、今の一撃で、目的を果たした。


 証拠を残す。


 仮面の傷は、見分けのつかない黒外套たちの中に、1本だけの線として残り続けるだろう。


「退路、1本化。ルートピン、設置する」


 ノアが前に出て、曲がり角の石に短い金属棒を差し込んだ。


 コトリ。


 軽い音が響き、金属の頭が、淡く光る。光はすぐに弱まり、代わりにノアの腰から伸びる細いロープが、そちらへ1本の線を描いた。


「帰還導線、確認。よし」


 黒外套は、俺たちを一瞥すると、何も言わずに身を引いた。


 足音は、やはり最後まで聞こえない。あるのは、衣擦れの気配と、空間の圧が薄れていく感じだけだ。


 その背中が闇に完全に溶ける直前、フードの下の仮面の傷だけが、もう一度だけ薄く光った気がした。


「追わない。証拠を残せ」


「了解。……ミア、後ろ、見る」


「うん」


 ミアが壁の方へ歩み寄る。そこには、さっき黒外套が触っていた一角があった。


 灯りを近づけると、そこに描かれているものがはっきりする。


 記号の格子。


 四角がいくつも組み合わさって、その交点のいくつかに、小さな印が打たれている。そして角の3点には、やや大きめの丸い印が、錨みたいに埋め込まれていた。


「角、3点。錨、ここ。……学院式。角に錨の並び」


 ミアの指先が、空中で印をなぞる。


 見覚えのある癖だった。学院で見た術式図の、一部に似ている。


 嫌な繋がりだ。


「写し板」


「はいはい」


 ノアは荷袋から薄い板を取り出し、壁の格子の上にそっと当てた。板にはすでに、光タグを差し込むための穴が四隅に開いている。


「光、四点。固定」


 短く言いながら、ノアは光タグをカチリと差し込んでいく。


 淡い光が壁と板の間を満たし、格子と錨点の線だけが、白い線として浮かび上がった。


 ノアは白墨で素早く線をなぞり、位置と印を写し取る。その間も、口は止まらない。


「位置、下水迷宮第3層、東区画合わせ口から27歩。時刻、調査開始から20分。タグ色、淡黄。記録」


 最後の一画を描き終えると、板をそっと引き剥がし、光を落とす。


「写し完了。現物には触れない」


「助かる」


 俺は軽く息を吐いて、しかしすぐに目の前の景色が、半目だけずれたように見えるのに気づいた。


 目地が、ひとつぶんズレる。


 耳も、少しだけ遠くなる。ノアの声が、布越しに聞こえてくるみたいだ。


 ゼロ酔いだ。


 無幻歩と逆落を立て続けに使ったせいだろう。体は慣れてきているつもりでも、ゼロにはちゃんと代償がくっついてくる。


「レイ?」


 ミアがすぐそばまで来て、覗き込む。


「大丈夫。……ただの揺れだ。3呼吸、待てば戻る」


「3呼吸、待って。……戻るまで、動かない」


 言い返そうとしたが、ミアの視線が真っ直ぐだったので、素直に壁に背を預けることにした。


 ミアは自分のこめかみを指で押さえながら、短く息を吐く。


「こっちも、ちょっと頭痛。糸、2重に見える」


「それ以上負荷かけるな。構造視は一旦切れ」


「はい」


 《フォーミュラサイト》の光が、ゆっくりと瞳から消えた。


 呼吸を整える。吸って、止めて、吐いて、止める。3拍。そして1拍の空白。


 そのあいだ、ノアは1人で周囲を見回り、退路の確認を続けていた。


「在庫確認。ルートピン残り、11本。光タグ、半分。油、3分の1。撤収可能」


「よし」


 耳がようやく、いつもの距離感を取り戻していく。


「帰る。結果で黙らせる」


 この区画でやれることはやった。黒外套と遭遇し、仮面に1本の線を刻み、壁の術式痕を写した。


 これ以上は、規定の外だ。


 俺たちは、派手に勝つために来たわけじゃない。静かに積むために来た。


「戻りながら、ルートピン回収する。コトリ、忘れずに」


「任せて」


 ノアが先頭に立ち、光をわずかに落として、来た道を引き返し始める。


 足を一歩進めるごとに、腰のロープが軽く揺れ、そのたびにルートピンの1本が抜かれ、コトリと鳴る。


 音が、一つずつ、帰り道に刻まれていく。


 さっきミアが見つけた結界の縫い目が、横目に流れていく。そこには触れない。揃っているものは、揃えたままにしておく。


 壊さないで勝つ。


 それが、この仕事で一番難しくて、一番守るべきルールだと、最近ようやく体で理解し始めたところだ。


 数本目のピンを回収したところで、ミアがふと立ち止まった。


「レイ。ここ」


 彼女が指さした壁際に、さっきとは別の、細い境界線が走っていた。石と石の合わせ目に沿って、ごく薄く光の筋が残っている。


「結界の境界線。さっきのと同じ系統。でも、ここは踏める」


「踏める?」


「うん。支えがある。……見せるね」


 ミアは腰のポーチから一本の光タグを取り出し、その線の上に、ちょん、と置いた。


 たったそれだけで、光の筋は変貌した。


 細い1本線が、点線になっていく。間隔のそろった小さな光点が、通路の奥へ向かって、弓なりの道を描く。


 さっき仮面に刻まれた傷の角度と、その光の道の曲がりが、頭の中でぴたりと重なった。


 腰の折り角。足の向き。仮面の傷。


 全部同じ線の上に乗る。


「……踏める」


 思わず、口からこぼれた。


「3、2……1」


 気づけば、足が自然とカウントに合わせて前に出ようとしていた。体が、あの線の上を歩きたがっている。あそこを進めば、何かが開く。


 だが、ロープが腰で軽く引かれた。


「レイ。線、引き直すのは、次の段取りに入れてから」


 ノアの声は、落ち着いていた。


「今は材料を持って帰るターン。ここで踏むのは、計画の外」


「……悪い。そうだな」


 俺は一歩を引っ込め、光の点線から視線を外した。


 ミアは光タグをそっと拾い上げる。境界線はまた、ただの暗い合わせ目に戻った。


「道は、逃げない。結界も、ここにいる」


「そうだな。こっちが準備できるまで、待っててもらおう」


 俺たちは再び歩き出す。


 最後のルートピンを抜いたとき、遠くでまた、音がした。


 ミシ。


 さっきと同じ、金属の擦れる音。


 半呼吸おいて、もう一度。


 ミシ。


 2度目の音は、最初よりわずかに高く、乾いて聞こえた。あの黒外套が、別の扉を開けたのか、それとも、こちらを見送るように、わざと鳴らしたのか。


 分からない。


 ただ、見られている。


 そういう感覚だけが、背中の皮膚に、薄く針を立ててくる。


「見られている。……けど」


 俺は振り返らないまま、前を見た。


「道は、できた」


 仮面の傷。壁の格子。角の錨。そして、ミアが点線に変えた境界線。


 全部まとめて、俺たちの手札だ。


「終わり。次」


 短くそう言って、俺は地上へ続く階段を見上げた。


 次は、あの線を、ちゃんと踏みに戻ってくる番だ。


 最後までお読みいただきありがとうございます。


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