第40話 黒外套の残影
下水の空気は、今日も相変わらずまずい。
鉄の味と、濡れた苔の匂いと、どこか甘く腐った臭いが、ぬるい風に乗って鼻の奥に貼りついてくる。足元の水面には、浮いた油が薄い膜をつくっていて、ランタンの光をねじ曲げていた。
その光が、なぜか1拍遅れて揺れる。
炎が揺れる前に、先に俺の影が揺れて、次に炎が追いかけてくる。普通と逆だ。普通じゃないなら、何かがいる。
「……レイ」
前を行くミアが、振り返らずに声を落とす。
「張力。弱い合わせ口が1本。左、半歩で空く」
俺は頷いて、剣帯を指2本ぶんだけずらし、つま先を四分の一歩だけ左に滑らせた。
縫い目を踏まない。足の裏で、石の目地の向きが変わるのを確かめる。顎をほんの少しだけ落とし、視界の中で、見えない糸を1本そろえる。
「見るな、感じろ。……決める」
小さく呟くと、後ろからノアがロープを軽く引いた。
「了解。退路は3つ、生かしてある。進路は1つで足りる」
腰と腰をつなぐロープが、かすかにきしむ。俺たちの背中の方へ伸びる細い線は、そのまま地上への帰り道だった。
そのときだ。
奥の闇で、金属の擦れる音がした。
ミシ、と。
扉か、蝶番か。だが足音はついてこない。ただ、視線だけが通路をなぞって、俺たちの頬を撫でていくような圧だけが通り過ぎる。
「今の……」
「扉。片側だけ動いた音。誰かがいた、か、いる」
ノアが低く短く答える。声が水面で砕け、暗がりへ消えていく。
俺は呼吸の速さを落としながら、頭の中で拍を刻んだ。
1、2、3、タメ。
向こうも、こっちを測っている。
「ルール、確認しとく」
自分自身にも聞かせるように、口に出す。
「致傷禁止。公共損壊、最小。記録優先。追撃禁止」
「はいはい。規定内で勝つ、だね」
ノアが眉を上げた気配がした。
「守る」
ミアは短く言って、周囲の闇を見回す。その瞳の奥に、また細い光の糸が走る。《フォーミュラサイト》――構造を見る目。発動のときの光は、前よりずっと薄い。使いすぎを、自分なりに意識している証拠だ。
闇の縁から、一本だけ細い気配が伸びてきたのは、そのすぐあとだった。
術式の面じゃない。線だ。
言葉にしづらいが、魔力の走るラインが1本、そのまま空間に引かれたみたいな、ぴん、とした緊張。殺気は薄い。試し撃ち。向こうも、こちらの出方を見たいのだろう。
「半寸ズレ。右斜め前。角に錨」
ミアが息を詰めながら告げる。
半寸ズレ――ズレた1点。そこから、何かが起きる。
「誘爆する線が1本。いじったら、ここ全部飛ぶ」
「了解。触らない」
俺は前に出る足を止め、かわりに少しだけ膝を落とした。
視界の端で、黒が動いた。
黒外套だ。
闇の縁から、すっと人影が浮かんで、すぐにまた闇に馴染む。フードの奥、仮面だけが水面の光を受けて、白く平たく光った。
こっちを見ている。
けれど、まるで鏡ごしみたいに、距離の実感がない。
黒外套の右手が、短い杖のようなものを持ち上げた。札と杖。学院式の小規模術の定番構成だ。杖の先に、小さな術式の輪が浮かび上がる。
タ、タ、タア。
詠唱のリズムが、胸骨の奥で音になる。言葉にはならないが、流れだけは分かる。最後の一拍で術が完成する、その拍が、目の前にぶら下がっている。
そこへ、踏み込む。
俺の足が床から消え、次に置き直されたときには、世界の拍から半歩ずれていた。
無幻歩。
詠唱の完成拍の外側に、自分の位置をずらす、零式の1つ。
ほんの一瞬、黒外套の仮面が、驚いたように揺れた。
完成するはずだった術は、その一拍を失い、杖先の輪が、しゅう、と縮んで消えていく。
俺は刃を抜かなかった。代わりに、柄頭を軽く握り直し、肩の力を抜く。
腰線の折り角と、仮面の輪郭を、1本の線で結ぶイメージを、そのまま腕に流し込む。
逆落。
ただの一撫でだ。力を込めない。重さも、速さも、意識しない。ただ、そこにある1点だけを通り過ぎる。
コキ、と乾いた感触が、柄越しに伝わった。
硬質樹脂の仮面の側面に、細い線が1本、刻まれる。
白い面に、黒い背景に、斜めの傷が走った。その角度は、俺の腰の折り角と同じ角度で、視界の中に重なって見えた。
「結果だけ、置く」
小さく呟いて、1歩下がる。
黒外套の体勢は崩さない。倒れてもいない。胸を貫かれたわけでもない。ただ、術の要だけが外されたせいか、杖先の輪はもう戻らない。
仮面の傷に、奴自身がそっと触れた。指先が、ほんのわずかに震えている。
殺す気はない。ここは戦場じゃない。調査区画だ。
俺たちは、今の一撃で、目的を果たした。
証拠を残す。
仮面の傷は、見分けのつかない黒外套たちの中に、1本だけの線として残り続けるだろう。
「退路、1本化。ルートピン、設置する」
ノアが前に出て、曲がり角の石に短い金属棒を差し込んだ。
コトリ。
軽い音が響き、金属の頭が、淡く光る。光はすぐに弱まり、代わりにノアの腰から伸びる細いロープが、そちらへ1本の線を描いた。
「帰還導線、確認。よし」
黒外套は、俺たちを一瞥すると、何も言わずに身を引いた。
足音は、やはり最後まで聞こえない。あるのは、衣擦れの気配と、空間の圧が薄れていく感じだけだ。
その背中が闇に完全に溶ける直前、フードの下の仮面の傷だけが、もう一度だけ薄く光った気がした。
「追わない。証拠を残せ」
「了解。……ミア、後ろ、見る」
「うん」
ミアが壁の方へ歩み寄る。そこには、さっき黒外套が触っていた一角があった。
灯りを近づけると、そこに描かれているものがはっきりする。
記号の格子。
四角がいくつも組み合わさって、その交点のいくつかに、小さな印が打たれている。そして角の3点には、やや大きめの丸い印が、錨みたいに埋め込まれていた。
「角、3点。錨、ここ。……学院式。角に錨の並び」
ミアの指先が、空中で印をなぞる。
見覚えのある癖だった。学院で見た術式図の、一部に似ている。
嫌な繋がりだ。
「写し板」
「はいはい」
ノアは荷袋から薄い板を取り出し、壁の格子の上にそっと当てた。板にはすでに、光タグを差し込むための穴が四隅に開いている。
「光、四点。固定」
短く言いながら、ノアは光タグをカチリと差し込んでいく。
淡い光が壁と板の間を満たし、格子と錨点の線だけが、白い線として浮かび上がった。
ノアは白墨で素早く線をなぞり、位置と印を写し取る。その間も、口は止まらない。
「位置、下水迷宮第3層、東区画合わせ口から27歩。時刻、調査開始から20分。タグ色、淡黄。記録」
最後の一画を描き終えると、板をそっと引き剥がし、光を落とす。
「写し完了。現物には触れない」
「助かる」
俺は軽く息を吐いて、しかしすぐに目の前の景色が、半目だけずれたように見えるのに気づいた。
目地が、ひとつぶんズレる。
耳も、少しだけ遠くなる。ノアの声が、布越しに聞こえてくるみたいだ。
ゼロ酔いだ。
無幻歩と逆落を立て続けに使ったせいだろう。体は慣れてきているつもりでも、ゼロにはちゃんと代償がくっついてくる。
「レイ?」
ミアがすぐそばまで来て、覗き込む。
「大丈夫。……ただの揺れだ。3呼吸、待てば戻る」
「3呼吸、待って。……戻るまで、動かない」
言い返そうとしたが、ミアの視線が真っ直ぐだったので、素直に壁に背を預けることにした。
ミアは自分のこめかみを指で押さえながら、短く息を吐く。
「こっちも、ちょっと頭痛。糸、2重に見える」
「それ以上負荷かけるな。構造視は一旦切れ」
「はい」
《フォーミュラサイト》の光が、ゆっくりと瞳から消えた。
呼吸を整える。吸って、止めて、吐いて、止める。3拍。そして1拍の空白。
そのあいだ、ノアは1人で周囲を見回り、退路の確認を続けていた。
「在庫確認。ルートピン残り、11本。光タグ、半分。油、3分の1。撤収可能」
「よし」
耳がようやく、いつもの距離感を取り戻していく。
「帰る。結果で黙らせる」
この区画でやれることはやった。黒外套と遭遇し、仮面に1本の線を刻み、壁の術式痕を写した。
これ以上は、規定の外だ。
俺たちは、派手に勝つために来たわけじゃない。静かに積むために来た。
「戻りながら、ルートピン回収する。コトリ、忘れずに」
「任せて」
ノアが先頭に立ち、光をわずかに落として、来た道を引き返し始める。
足を一歩進めるごとに、腰のロープが軽く揺れ、そのたびにルートピンの1本が抜かれ、コトリと鳴る。
音が、一つずつ、帰り道に刻まれていく。
さっきミアが見つけた結界の縫い目が、横目に流れていく。そこには触れない。揃っているものは、揃えたままにしておく。
壊さないで勝つ。
それが、この仕事で一番難しくて、一番守るべきルールだと、最近ようやく体で理解し始めたところだ。
数本目のピンを回収したところで、ミアがふと立ち止まった。
「レイ。ここ」
彼女が指さした壁際に、さっきとは別の、細い境界線が走っていた。石と石の合わせ目に沿って、ごく薄く光の筋が残っている。
「結界の境界線。さっきのと同じ系統。でも、ここは踏める」
「踏める?」
「うん。支えがある。……見せるね」
ミアは腰のポーチから一本の光タグを取り出し、その線の上に、ちょん、と置いた。
たったそれだけで、光の筋は変貌した。
細い1本線が、点線になっていく。間隔のそろった小さな光点が、通路の奥へ向かって、弓なりの道を描く。
さっき仮面に刻まれた傷の角度と、その光の道の曲がりが、頭の中でぴたりと重なった。
腰の折り角。足の向き。仮面の傷。
全部同じ線の上に乗る。
「……踏める」
思わず、口からこぼれた。
「3、2……1」
気づけば、足が自然とカウントに合わせて前に出ようとしていた。体が、あの線の上を歩きたがっている。あそこを進めば、何かが開く。
だが、ロープが腰で軽く引かれた。
「レイ。線、引き直すのは、次の段取りに入れてから」
ノアの声は、落ち着いていた。
「今は材料を持って帰るターン。ここで踏むのは、計画の外」
「……悪い。そうだな」
俺は一歩を引っ込め、光の点線から視線を外した。
ミアは光タグをそっと拾い上げる。境界線はまた、ただの暗い合わせ目に戻った。
「道は、逃げない。結界も、ここにいる」
「そうだな。こっちが準備できるまで、待っててもらおう」
俺たちは再び歩き出す。
最後のルートピンを抜いたとき、遠くでまた、音がした。
ミシ。
さっきと同じ、金属の擦れる音。
半呼吸おいて、もう一度。
ミシ。
2度目の音は、最初よりわずかに高く、乾いて聞こえた。あの黒外套が、別の扉を開けたのか、それとも、こちらを見送るように、わざと鳴らしたのか。
分からない。
ただ、見られている。
そういう感覚だけが、背中の皮膚に、薄く針を立ててくる。
「見られている。……けど」
俺は振り返らないまま、前を見た。
「道は、できた」
仮面の傷。壁の格子。角の錨。そして、ミアが点線に変えた境界線。
全部まとめて、俺たちの手札だ。
「終わり。次」
短くそう言って、俺は地上へ続く階段を見上げた。
次は、あの線を、ちゃんと踏みに戻ってくる番だ。
最後までお読みいただきありがとうございます。
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるのっ……!」
と思ったら
下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援お願いいたします。
面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
ブックマークすると更新通知が受け取れるようになります!
ブクマ、評価は作者の励みになります!
何卒よろしくお願いいたします。




