第39話 縫い目の向こう
足元に、濁りの名残が薄い膜になって残っていた。
さっきまで俺たちを飲み込もうとしてきた濁流は、もうどこにもない。あるのは、石畳に貼りついた水と、鼻の奥に残る鉄と苔の匂いだけだ。
「……1、2、3」
小さく数えながら、息を吸って、吐いて、止める。
耳の奥で鳴っていた、ゼロ酔い特有の鈍いざわつきが、ようやく静まってきた。剣帯を半歩ほどずらし直して、腰の位置と重心を確かめる。
拍は、戻った。
次は──切らずに合わせる番だ。
「レイ、こっち見て」
前を行くミアが、地図を片手に振り返った。
光タグの淡い光が、壁沿いに点々と浮かんでいる。さっきノアが打ったものだ。タグの線と、紙地図の線を重ねるようにして、ミアは目を細めていた。
「ここだけ、地図と壁が半寸ズレてる」
ミアが、壁と紙を指でなぞる。
「他はきっちり合ってるのに、この区画だけ。3層の裏打ちが薄くなってる。たぶん、ここが縫い目」
「縫い目、ね」
俺は、壁に走る、かすかな継ぎ目を見た。
石と石の合わせ目。そこだけ、光の反射がほんの少しだけ違う。地図では真っ直ぐ切れている線が、実物ではわずかにたわんでいる。
「ここを通るのが、本命ってわけか」
「その前に、帰り道」
ノアが口を挟む。
彼は黙ってロープの一端を自分の腰に巻きつけ、もう一端を俺の腰に結んだ。余った部分を手のひらで測って、うなずく。
「10歩ごとにピン。曲がり角でタグ。帰還導線、1本化」
そう言って、ノアは床の隙間に《ルートピン》を打ち込んでいく。金属音が、湿った空気の中で短く跳ねた。
「戻る道から作るの、ほんと好きだよね」
ミアが苦笑交じりに言う。
「嫌いになる要素ある? 帰り道がない探検なんて、死ぬための遊びだよ」
ノアは肩をすくめた。
「俺は仕事で来てるから。遊びじゃない」
「同意」
俺も短く返す。
戻る線を先に結ぶ。その癖は、ノアの中で完全に根づいている。
それは、俺にとっても悪くない習慣だった。
縫い目の前で、俺は足を止めた。
継ぎ目に、そっと耳を寄せる。
冷たい石の感触。水膜が耳たぶをかすめた瞬間、奥の方で、小さな音がした。
──ミシ。
ただのきしみではない。半拍遅れて返ってくる、不自然な揺れ。
「どう?」
ミアの声が、背中越しに飛んでくる。
「圧が、ここで詰まってる」
俺は耳を離さないまま答える。
「さっきまでの水、全部、この縫い目で一度引っかかってから流れていった感じだ」
「やっぱり」
ミアが短く息を吐く気配がした。
「圧の流れが変だと思ったんだ。ここで止まって、奥に押し込まれてる。錨はもっと先。直打ちは、無理」
「触ったら?」
「誘爆。最悪、3層ごと落ちる」
即答だった。
俺は顔をしかめる。
ここの縫い目を、普通に斬るのはやめておいた方がよさそうだ。
「じゃあ、触らずに済ませる」
「いつものやつだね」
ミアの声が、ほんの少しだけ軽くなる。
俺は耳を離し、1歩下がった。
「ノア、ロープの遊び、半分」
「了解」
ノアが返事をして、ロープを軽く引く。
腰に伝わる張り具合を感じながら、俺は足幅を測った。水膜の上に、靴底をそっと置いていく。
1歩、半寸。
また1歩、半寸。
つま先を、縫い目に対して斜めに。
「……1、2、3」
呼吸を数えながら、俺は腰をわずかに折った。
重心線を、自分の中でイメージする。頭のてっぺんから、喉、胸、腹、足裏までを貫く1本の線。
その線を、壁の継ぎ目とぴたりと重ねる。
肩を、半段だけずらす。
柄には触れない。
剣はただ腰にあるだけで、俺は自分の「気配」だけを縫い目に合わせる。
世界の目地が、カチ、と音もなくかみ合った気がした。
耳の奥で鳴っていた「ミシ」が、今度は「しゅ……」と溶けて消える。
かわりに、圧の流れが、俺の背中をすり抜けていくのが分かった。
「……継ぎ、揃った」
小さく告げると、ミアが息を呑む音がした。
「圧、逃げた。いまなら通れる!」
「よし」
俺は1歩前に進む。
靴底が水膜を踏んでも、音はほとんど立たない。波紋だけが薄く広がる。
「順番は、俺、ミア、ノア」
「ロープ、張りすぎ注意ね」
「分かってる」
俺が縫い目をまたぐと、ロープがわずかに引かれた。後ろの2人も、歩幅を合わせているのが分かる。
ノアが、淡々とつぶやいた。
「通過時刻、記録。タグ色、白。通過方法、非破壊。……査問用ログもよし」
「こんな地下でまで、査問の心配?」
ミアが少し笑う。
「むしろこういう時こそだよ。成果が出てから邪魔してくるのが、上の人ってもので」
ノアのぼやきに、俺も苦笑をこぼした。
「じゃあ、黙らせるだけの結果を持って帰ればいい」
縫い目の向こうは、思ったよりも広かった。
天井はさほど高くないが、部屋全体が1つ、大きな実験場みたいな雰囲気をまとっている。
壁際には、枠だけ残して炭になった符札が並んでいた。線の部分だけが黒く焼けて、紙の縁はほとんど無傷だ。
床には、魔導管のようなものの切れ端が散らばっている。中心ではなく、供給路だけをきれいに切り離した痕。
机の上には、紙片がいくつも重なって落ちていた。どれも端の目地だけが妙に揃っていて、真ん中の文はきれいに抜き取られている。
「……学院の仕事の手だな」
思わず口をついた。
「遊びじゃない切り方だ」
「だよね」
ミアが紙片を見つめながらうなずく。
「式だけ何度も差し替えた跡がある。ここで何回も実験してた。都市の機能ラインに、どこまで干渉できるか……そんな感じ」
「触るのは、なし」
ノアがすぐに釘を刺す。
「現物には手を出さない。規定通り、写しだけ」
「分かってるって」
俺もミアも、同時に返した。
ミアが、壁と床を見比べる目を細くしていると、ふいに彼女の肩がピクンと揺れた。
「大丈夫か」
「……ちょっと、線が多い」
彼女はこめかみを押さえた。
「ごめん。3呼吸だけ、待って。光が2重になってきた」
構造視の限界だ。
ミアの頭の中では、今この瞬間も、何本もの目に見えない線が走っている。それを無理に追いかければ、意識が落ちてもおかしくない。
「いい。無理して倒れたら、全員足止めだ」
俺は彼女から一歩離れて、部屋全体を眺めた。
ノアが記録帳を取り出し、タグの光で照らしながら、位置と形だけを書き写していく。必要なところにだけ、小さなタグの点を置く。
「符札群、壁際1列目。タグ番号、11から15。魔導管の切断痕、床中央。タグ番号、16」
ぶつぶつとつぶやきながら、ノアのペンが走る。
俺たちは、現物を動かさない。
痕跡はそのままにして、でも見たという事実だけは持ち帰る。
査問でも、報告でも、俺たちの言葉だけでは弱い。だからこそ、ノアのタグと記録帳がいる。
ふと、足元の石の隙間で、何かが光った。
「ノア。ここ」
呼ぶと、ノアが光を向けてくれる。
細い光の輪の中に、小さな黒い欠片があった。封蝋だ。崩れているのに、どこか、形の名残を感じる。
「触る?」
ミアが、まだ少し息の荒い声で問う。
「触らない」
ノアが即答した。
「タグだけ。色は黄。位置は……縫い目から3歩、右」
俺はしゃがみこんで、顔を近づけた。
黒い封蝋の痕には、かすかに紋の跡がある。薄くなりすぎて、ここからじゃ判読できない。
ただ、その黒だけが、この部屋のどの焦げよりも、深く沈んだ色をしていた。
「印、だね」
ミアがつぶやく。
「ここが通過点っていう。誰かの印」
「そうだな」
その時だった。
──ミシ。
遠くで、扉がきしむような音がした。
俺たちは同時に顔を上げる。
音の方向は、この部屋ではない。もっと先。風路の先で、石と石が鳴るような、かすかな音。
耳を澄ます。
半呼吸の間があって、もう一度。
──ミシ。
今度は、さっきよりも少しだけ近いように感じた。
部屋の空気が、わずかに引かれる。
誰かが、どこかで扉を開けて、通り抜けていく。その風の名残だけが、ここまで届いた、そんな感覚。
「いまの……」
ミアが小さくつぶやく。
「扉か?」
「扉か、結界か。どっちにしても、通り抜けたやつがいる」
俺は腰のロープを指でつまんだ。
震えはない。けれど、一瞬だけ、外側から軽く引かれたような錯覚があった。
見えない観客が、こっちを覗いていった。
名前も、顔も置いていかずに。
「封蝋は、その客の落とし物ってわけか」
ノアがぼそりと言う。
「うちらと同じルートを使ったのか、それとも……」
「判断する材料は足りない」
俺は立ち上がった。
「だからこそ、証拠は全部、持ち帰る。触らず、壊さず、でも逃がさない」
「了解」
ノアがうなずき、ペンを走らせる。
記録を一通り取り終えるころには、ミアの呼吸も落ち着いていた。
「ごめん。もう大丈夫」
「3呼吸、って言ってたけど、5は休んでたな」
俺が茶化すと、ミアは頬をふくらませる。
「こまかい。そのくらいサービスで見逃しなさい」
「サービスで命落とされたらたまったもんじゃない」
ノアが笑いながらロープを軽く引く。
「そろそろ戻ろう。タグの数も残りが心もとない」
「だな」
俺たちは、来た縫い目の方へ引き返した。
戻りも、壊さない。
縫い目の前で立ち止まり、俺はさっきと同じように耳を寄せる。
今度は、最初から「ミシ」は鳴っていない。圧が抜けたあとの静けさだけがある。
それでも、念のために、俺はもう一度合わせた。
足幅を半寸調整し、腰線を継ぎ目に重ねる。肩だけ半段ずらし、呼吸を3つ数える。
「……よし」
短く告げて、縫い目をまたいだ。
ノアは《ルートピン》を1本ずつ抜いていく。抜いたピンの穴には、必要最小限のタグだけを残す。
「拾うのは要だけ。壊しはしない」
俺がそう言うと、ノアはにやりと笑った。
「そうそう。片づけは仕事の半分」
「残り半分は?」
「帰ってからの報告書」
「最悪だな」
そんな会話をしながらも、俺たちの足取りは軽い。
縫い目を抜けても、背中に刺さっていた視線みたいなものは、完全には消えなかったが。
最後の曲がり角に差しかかった時、また、あの音がした。
──ミシ。
さっきよりも遠い。さっき通った扉が、もう一度だけ、自重で鳴ったような音。
「さっきの逆だ」
ノアがつぶやく。
「今度は、閉じた音」
半呼吸の間。
俺は立ち止まりかけて、すぐに歩き出した。
ロープが軽く揺れる。
──ミシ。
もう一度。
今度は、俺たちの真上のどこかで、石がほんの少しだけ軋んだ気がした。
ミアが、不安そうに俺を見上げる。
「いまの……」
「見られてる」
俺はそう言って、前を向いたままロープを握り直した。
「でも、いい」
息を1つ、深く吸い込む。
「結果で黙らせる。それだけだ」
扉が誰に開かれ、誰に閉じられているのかは、まだ分からない。
けれど、縫い目の向こうで拾ったものたちが、いずれあいつらの喉を塞ぐ。
そう信じて、俺は地上への道を踏みしめた。
次の1手を打つのは、もうこっちの番だ。
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