第37話 下水迷宮、臭気の中の線
灯りは低い。
金属と油の匂いが、狭い許可庫に溜まっている。
机の上に、親指大のピンがずらりと並んだ。刻まれた数字が光を拾う。その横に、薄い板切れみたいな光タグが重ねて置かれている。
数は十分。心は、静かだ。
「10歩でピン。曲がり角でタグ」
ノアが、紙片の端をトンと揃えながら言う。
「無茶は計画の外。いいわね?」
「ああ」
俺は剣帯を指で整え、頷く。
「了解。1本でいく」
ミアは俺とノアの顔を交互に見て、きゅっと防臭布を整える。布越しでも、声は明るい。
「ぜったい迷子にならないやつだね?」
「ならないための道具よ」
ノアが笑う。
「ピンが退路、タグが目印。レイが線を切る。ミアが線を視る。役割、確認」
「視える、行ける」
ミアは自分の手袋の指先を見て、小さく握った。
俺たちは口数を減らし、道具に言葉を預ける。
◇
石段を降りるたび、靴底が湿っていく。
下から、重い臭気がせり上がってきた。腐った水と鉄と苔。それに、ほんの少し甘い腐敗。
「防臭布、ちゃんと押さえて」
ノアが後ろから言う。
「上まで戻るのは、無事に帰る時だけ」
「帰る理由は先に作る、だろ」
俺は肩越しに返す。
最初の踊り場。壁の目地がちょうど胸の高さで折れている。
俺はピンを1本つまみ上げ、目地の隙間に差し込んだ。
コトリ、と軽い音。
ここから先は、置いた音が帰り道になる。
「一番、固定」
ノアが素早く記録帳に数字を書き込む。
「次のピンまで10歩。歩幅、一定で」
「任せろ」
ゆっくりと、石段を下り切る。下水迷宮の入口は、薄灯の揺れる長い回廊だった。
水の流れが低く唸り、遠くでゴウン、と鈍い音が身体の芯を叩く。
◇
最初の分岐まで来ると、紙の地図が頭に浮かんだ。
だが、流れは地図の通りじゃない。
右の壁の目地はまっすぐ。けれど、水筋は斜めに走っている。
方眼の線が、じわりとにじんで見えた。
「面じゃない」
俺は小さくつぶやく。
「層が滑ってる」
「記録、保持」
ノアが地図に細い線を引き足す。
「紙の方眼と、実景が2度くらい北東に偏ってる。実測優先で」
「レイ」
ミアが俺の袖を引いた。
「ちょっと、視るね」
彼女は防臭布の下で深く息を吸い、二拍で吐く。
指先をひらき、まぶたを半分だけ下ろした。
薄い光が、壁と床のあいだにふっと張った。
糸。
弓なりにたわんだ、青白い張力の線。
ミアの瞳が、素早く焦点を結ぶ。
「式、展開……錨は右足元。合わせ目、1歩前」
俺は頷き、足の置き場を一歩だけずらす。
靴裏の下、見えない何かがピンと張っている感覚。
「受けた」
「タグ1、残り7」
ノアが光タグをつまみ、ミアの指さした位置に投げる。
薄板が空でくるりと回り、壁の目地に吸い付いた。
ピンの頭に、淡い輪がかかる。
迷いを減らすほど、足は速くなる。
◇
進むにつれ、床の石が粗くなった。
格子状の板がかぶせてある場所もある。水はその下を流れていた。
「格子、把握」
ノアが短く告げる。
「中央は空洞率高め。落下リスク大」
格子の真ん中から、嫌な冷気が上がっている。
踏めば落ちる。そんな感じの空気だ。
俺は1歩手前で止まり、床を眺めた。
線が見える。
石と石の目地。格子の金属。水流。臭気の流れ。全部が層になって重なっている。
「越えない」
俺は息を1つ。
「角度で越える」
「拍、合わせる」
ミアがロープを握り直す。
俺は斜めに足を出した。格子の角と角をたどるように、身体の重心を滑らせる。
中央は踏まない。
層と層の隙間をなぞるだけ。
格子の端を踏んだ瞬間、わずかにミシ、と軋んだ。
だが沈まない。
後ろで、ミアが小さく息を吐くのが聞こえる。
「……行けた」
「ライン維持。次の10歩でピン」
ノアの声は、一定のリズムだ。
緊張はある。だが、怖さはない。
やるべきことが分かっている時の恐怖は、静かだ。
◇
ひと区画進んだところで、線が妙な重なり方をしている場所に出た。
目の前の空間に、3本の線が見える。
水の流れ。臭気の抜け道。さっきミアが見せた張力の糸。
3つとも、同じ場所で軽く絡んでいた。
「なあ」
俺は剣の柄に触れる。包布の内側、虚ろ剣《Nullblade》の重みが、掌にじわりと乗った。
「ちょっと試す」
「在庫と距離は確保済み」
ノアが即答する。
「2回までなら、レイの負荷許容内。3回目は外で休憩」
「了解」
俺は息を詰め、つま先を四分の1歩だけずらした。
線は3本。
全部は切らない。
「第3だけ、切る」
見えない刃を、見えない継ぎ目にそっと差し込む。
音は、小さい。
コトリ。
空気が、わずかに軽くなった。
重なりすぎた線が、1本ぶんだけ外れていく。
水の流れが素直になり、臭気が少し薄まった気がした。
「方角、2歩回復」
ノアが地図を見比べて言う。
「地図のズレ、ここで少し締まった」
「……いい感触だな」
耳の奥が一瞬だけ遠くなる。
ゼロ酔い。だが、すぐ戻る。
連続はしない。ここで止める。
◇
「ピン残14」
どれくらい歩いた頃か、ノアが読み上げた。
「帰れる距離、確保」
俺はロープ越しに顎を少しだけ引く。
「無茶は、まだだ」
「もともと却下だから」
ノアが小さく笑う。
「速度は安全以下。いいペース」
ピンは小さく、道は長い。
ノアが数字を読み、俺が歩幅を刻む。
ルートピンが描く曲線は、きれいなループになりつつあった。
戻るための形だ。
その時、下から音が上がってきた。
ゴウン。
鈍い振動が足の裏から背骨に抜けていく。
水面に細かな輪が広がり、ランプの炎が半拍遅れて揺れた。
「逆流の兆候」
ノアの声が少しだけ低くなる。
「間隔、詰める。10歩で再設置」
「ロープ、腰」
俺は短く答える。
ノアがロープの端を俺とミアの腰に結び直す。
ロープが腰から腰へ、まっすぐ通る。
引けば止まり、緩めば進む。
言葉の代わりの線だ。
視界の端で、光タグが脈を打つ。
水の息と、タグの光の拍。そのズレを、ミアがじっと見ている。
「無茶は計画の外」
ノアが改めて告げる。
「計画してから無茶する」
俺はいつもの返しをする。
「順番、逆ぅ……」
ノアの小さな嘆きに、ミアがくすっと笑った。
笑いは、1拍だけ。すぐにまた暗がりと臭気が戻ってくる。
◇
しばらく進んだ先、壁際に違う種類の線があった。
薄い紙片の残骸。
符札だ。端が、定規を当てたみたいにまっすぐ切れている。
その周りだけ、フィードの気配が抜けて、枠だけが残っていた。
ミアがしゃがみ込み、目を細める。
「手癖、綺麗すぎる」
「学院式の匂い?」
ノアが問う。
「うん。ちゃんと教わった人の切り方」
ミアは指先を少し震わせた。
「枠だけ残して、中身を抜いてる。ここ、誰かが通った」
「先行者、確定だな」
俺は顎でその先の闇を指した。
「敵か味方かは、まだ不明。だが——」
足元の光タグ列に、ふと違和感が走る。
……数字が、飛んでいる。
「ノア」
「分かってる」
ノアはすぐに記録帳をめくった。
「タグは元々番号付きで十枚。今使ってるのは……1、2、3、4、5……次は7。6がない」
「落とした?」
ミアが不安そうにロープを握る。
「ここまでの足跡にはなかった」
俺は振り返る。
ピンとタグの列は、きれいな一本の線で戻っている。欠けているのは、この場だけ。
「誰かが1枚、別の場所で使った線」
ノアは眉を寄せた。
「退路は2重に見えて、実は1本。油断はしない」
「追うのは帰りの後だ」
俺は決める。
「今は、ここを正す」
◇
臭いが変わってきた。
ただの腐敗じゃない。鼻の奥を刺す、強くて細い匂い。
「匂い、濃くなってる」
ミアが鼻を押さえながら言う。
「ここ、なにかの真ん中に近い」
「ミア」
「うん。視る」
彼女はまた、呼吸2拍。指先をひらき、まぶたを半開きにする。
今度の糸は、三方向から寄ってきた。
左の壁、高い天井、足元の水。全部から細い光の線が伸びて、1点で結び合っている。
3点収束。
「ここ、核」
ミアの声が少し震える。
「合わせ目は浅い。今なら、まだ」
鼻の奥の匂いがさらに強くなった。
そこが中心だ、と身体が告げている。
俺はつま先で位置を合わせ、呼吸を1つ。
「今だけ、開ける」
Nullbladeの柄を握る。
世界の圧が、掌にずしりと落ちた。
長くは要らない。
継ぎ目だけでいい。
指1本ぶん、刃を動かす。
線の束の、一番外側だけを外す。
コトリ。
切断は短い。音は小さい。
なのに、回廊の歪みが、1区画だけ正気を取り戻していくのが分かった。
さっきまで斜めだった壁が、目に真っ直ぐに収まる。
地図の線と視界の線が、ようやく握手する。
「記録完了。標、立て」
ノアがすぐさまピンを1本、核のすぐ外に打ち込む。
頭に光タグを添え、数字を記す。
「戻り線、確定」
俺は1歩下がりながら言う。
耳の奥が、また少し遠くなる。
ここも、2回目まで。これ以上は無理をしない。
◇
「ピンはまだある。タグも半分以上」
ノアが指で3拍刻みながら、紙片を見下ろす。
「でも、油は3分の1。匂いも強くなってきてる」
「ゼロ酔いの兆候も確認」
ミアが俺を覗き込む。
「レイ、耳、まだ大丈夫?」
「ああ」
俺は肩をすくめる。
「少し遠いだけだ。ここで引けば、次に広く行ける」
「今日はここまで」
ノアがはっきりと言った。
「勝ちは積むほど静かに大きくなる。今の1勝で、十分」
「異論なし」
俺は即答する。
勝ち逃げじゃない。
安全な前進を積むのが、俺たちの勝ち方だ。
帰りは、1筆書きだ。
ピンとタグの線を逆になぞるだけ。
ロープの張り具合で歩幅を合わせ、光タグの脈で拍を取る。
臭気はまだ重いが、足は迷わない。
◇
撤収線をたどる途中、壁の向こうから、またあの音がした。
ゴウン。
さっきより、少し近い。
水が大きく息をしたような圧の波が、壁越しに肌を叩く。
薄灯が1拍遅れて揺れた。
壁の目地が、ミシ、と鳴る。
面で押す気配。
なら、次は——。
「ノア」
「帰還導線は確定済み。いつでも戻れる」
ノアの声は変わらず冷静だ。
「ミア」
「来る」
ミアが糸を見る目で、闇の先を見た。
俺は剣帯に手を添える。
正面で受ける。層を抜く。
ここから先の線は、まだ地図にない。
暗闇の奥で、水がもう一度、息をした。
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