第35話 非殺、一本の意味
歓声と罵声が、同じ音量で押し合っていた。
拡声器の残響がコトリと胸骨を叩き、床板の継ぎ目が薄くミシと鳴る。
視界の線は、もうさっきの術式とは関係がない。
今、ここにあるのは、俺に向けられた線だ。
「断章なんて卑怯だろ!」
「いや、規定内だぞ。第3層だけ削ったんだろ?」
「結果は勝ちでも、やり方が——」
好き勝手な言葉が飛んでくる。
言葉は刃物。だからこそ、今はまだ、刃は鞘にしまっておく。
俺は剣帯を人差し指で一度だけ正し、息を3拍でそろえた。
1拍目で肺をふくらませ、2拍目で血を回し、3拍目で、余計な熱を全部落とす。
中央には、立たない。
俺はリングの線から、半歩だけ外に立った。
その瞬間——
ぱちん、と乾いた音が、場内を割った。
白手袋の音だ。
上段席で、アーレンが立ち上がっていた。
その隣で、肩を怒らせた助教が杖を握りしめている。
「学院の名誉にかけて」
助教の声が、拡声器越しに響いた。
「そんな真似を許すわけにはいかない。あのような邪道が通るなら、学院の名は地に落ちる」
観客席から、賛同のどよめきが上がる。
さっきまで罵倒していた連中が、今度は「名誉」という言葉に群がっていく。
「そこに立つ資格を、示してもらおうか」
助教が俺を指さす。杖先の飾り金具が、照明を受けて光った。
アーレンは、横顔のまま口を開く。
「証明しましょう。ここに立つ者を守るのは、正しい手順と、才能です」
定理を読み上げるみたいな声だった。
……そうやって、言葉の枠で俺を囲うつもりか。
「どうする、レイ」
下から、ノアの声。
係員とやりとりしながら、彼はこっちを見上げている。
俺は、短く答えた。
「1本でいく」
それだけで、場内の空気が少し締まった気がした。
中央は踏まない。
安定線の外に立つ。それが、俺の礼だ。
◇
場外ではもう、ノアが動いていた。
「退路標、ここでいいな」
係員に指を2本立てて合図しながら、柱脚の根元に小札をピン留めしていく。
札が木に入るたび、ピン、と小さな音が鳴った。
「救護タグはこっち。すぐ運べる位置で」
光札が卓の端にコトリと置かれる。
細い光の筋が、通路の方へと伸びた。
「無茶は計画の外だからな」
ノアが俺にだけ聞こえる声量で笑う。
「流れは止めない。止めずに守る。そのための段取りだ」
「助かる」
本気でそう思う。
段取りだけで、刃より強い壁が立つ。そういう壁が、今はちゃんとここにある。
「ミアの視線、借りるぞ」
ノアが軽く顎をあげる。
ミアが1歩前に出た。
彼女の瞳に、薄い光の糸が走る。
「式、展開」
囁きと一緒に、世界の線が、彼女の中で組み替わっていくのが分かる。
「糸をほどくように……錨は、右足元」
ミアの視線が、助教の位置に吸い寄せられる。
杖を持つ右足。その足裏、そのすぐ下の、床板の継ぎ目。
「合わせ目、1歩前。詠唱の3拍目で、押しがそこに集まる」
俺は、足元の板をつま先でなぞった。
継ぎ目が、かすかにミシ、と鳴る。
「3拍目、ね」
俺は息を吸い、吐く。
「そこで切る。人じゃなく、その押しを」
「当てずに、当たらなくする、ってやつか」
ノアが肩をすくめる。
「記録水晶は回してる。証拠は残す。こっちは、こっちの1本を通すだけだ」
「視えるよ、レイ」
ミアの声は、いつも通り冷静だった。
「行ける。線は、全部そろってる」
「なら、十分だ」
俺はリングに戻る。
◇
助教が前に出てきた。
杖の先端には、学院式の魔術枠が組み込まれている。金属のフレームの中に、淡い魔力の層。
「学院戦術式、圧縮風弾」
彼が杖を掲げると、枠の中に風が巻き込まれ始めた。
「重ねて固定——解は一点、そこだ」
詠唱に合わせて、空間に線が増えていく。
弾道を示す導線、固定の枠線、補助の制御線。
会場の上空で、記録水晶の光がふっと強くなった。
今から撃ち出されるものを、全部、記録するつもりだ。
「レイ!」
ノアの声が飛ぶ。
「1合で決めろよ!」
任された数字は、たったのひとつ。
一本。それで十分だ。
助教が、杖先を俺に向けた。
「いくぞ、ゼロの少年」
指が、拍を刻む。
「1拍」
枠が震えた。
「2拍」
風が収束する。
空気そのものが、硬くなる感触。
「3——」
そこだ。
俺は、1歩踏み出す。
けれど、正確には「踏み込まない」。
足の裏の厚み分だけ、板の継ぎ目からずらす。
世界の安定線から、ほんの少し外側へ。
無幻歩。
見た目には、ほとんど動いていない。
だが、俺の重心と、足の位置だけが、3拍目から半拍ぶん「遅れた世界」に滑った。
圧縮風弾が、撃ち出される。
狙いは、さっきまで俺がいた位置。
観客の何人かが、息を呑む声が聞こえた。
「当たるぞ——」
当たらない。
弾は、俺の肩先をかすめるように飛び抜けていった。
風が袖を揺らす。刃は、どこにも触れていない。
◇
すれ違いざま——俺は、一本の線だけを見ていた。
弾の軌跡の内側。
目に見えない押しの線。
魔力が1点に集まる、その安定線。
そこに、俺の剣が触れる。
「線断」
小さく呟いて、ほんのわずかだけ刃を滑らせた。
斬ったのは、空気でも、弾そのものでもない。
弾を「当たるもの」にしている、押しの構造だけだ。
手の中で、魔力の手応えがほどける。
押しが抜けた弾は、ただの風に戻って、リングの端でしゅう、と消えた。
「今、何を——」
観客の声が、半拍遅れて追いかけてくる。
俺は答えない。
結果だけを、線として置いていく。
助教は、それでも詰めてきた。
杖を握り直し、距離を詰める。
「まだだ!」
彼の足が、さっきミアが示した「錨」の位置を踏みしめた瞬間——
板の継ぎ目が、もう一度ミシと鳴る。
間合いが、縮んだ。
だから、今度は俺の番だ。
真上からではなく、継ぎ目の横に滑り込む。
人の形ではなく、杖のフレームの継ぎ目だけを狙う。
「逆落」
斜めに振り下ろした刃の背が、杖の柄を叩いた。
高い音はしない。
コトリ、と小さく、杖が床に転がる。
当てたのは、人ではなく、柄。
フレームは壊さず、殺傷性だけを落としてある。
勝負の音は、小さいほど、よく響く。
「……っ」
助教の指がしびれたように震え、その場で固まった。
「終わり」
俺は柄を軽く振り払い、鞘に戻す。
「次」
短く告げて、1歩下がった。
◇
頭上で、記録水晶が薄光を走らせた。
今の一合で描かれた軌跡だけが、空中に色付きで残る。
人の姿は、ぼんやりとしか映っていない。
だが、線ははっきりと見えた。
助教の圧縮風弾が向かってきた線。
俺の足がずれた線。
そして、途中で押しが途切れている一点。
「記録は取った」
ノアが、満足げに頷く声が聞こえた。
「映ってるのは人じゃなくライン。……これで十分だな」
「今の、当たる角度だったはずだ!」
「いや、途中で線が消えてるぞ!」
観客の声が、まだ割れている。
「反則だろ、あれ!」
「どこがだよ。規定外の魔具もなし、致傷もなしだぞ」
罵声と擁護。
さっきと同じ構図のまま、音だけが震えている。
審判台の上で、魔導計器の光字が短く明滅した。
規定違反なし。
淡い文字列が、リングの上空に浮かぶ。
俺は、それを見上げた。
条文は文だ。
文は、刃になる。
どう運用するか次第で、人も、場も、簡単に斬られてしまう。
だからこそ、その文の中で、構造だけを断つ。
◇
それでも、まだ声は止まらない。
「卑怯だ!」
「学院をなめるな!」
「ゼロなんかに負けるはずが——」
嫌な熱だけが、いつまでも残ろうとする。
俺は、一度だけ息を吸った。
3拍で整える。
1拍目で、罵声を飲み込む。
2拍目で、場内の線を見渡す。
3拍目で、残った言葉を、一本にする。
「斬ったのは人じゃない」
俺の声は、拡声器を通さない。
けれど、なぜかよく通った。
「お前らが寄りかかる構造だ」
静かなざわめきが、リングの周囲に広がる。
アーレンの喉仏が、わずかに揺れた。
白手袋が、もう一度だけぱちんと鳴る。
「君は、本当に……」
彼が、こちらを見る。
嫌悪と、少しの羨望。その混ざった目だった。
「その異常性は、決して褒められたものではない」
そこで一度、言葉を切る。
「——だからこそ、証明になる」
定理の最後に、余計な1行を足したような顔だった。
それで十分だ。
あとは、結果が残る。
◇
「大丈夫。線は整ってる」
ミアが、俺の隣に並んで、そう言った。
彼女の視線の先では、退路標と救護タグが、ちゃんと光っている。
誰も潰されず、誰も血を流さずに終わった試合。
「許可証の写し、こっちに」
ノアが、紙束を係員の卓にコトリと置く。
「記録水晶の保管先も明示。公開試合、致傷禁止遵守。……文句を言うなら、条文の方にどうぞってな」
係員がうなずき、周囲に向かって解散の合図を出した。
観客席のあちこちで、ため息と舌打ちと、安堵の笑いが混ざる。
熱は、少しずつ下がっていく。
俺は鞘に軽く指を添え、静かに礼をした。
この場でやるべき一本は、もう置いてきた。
◇
……だからこそ、次の線が、はっきり見えた。
観客席の陰。
黒外套の影が、鏡面にそっと囁いている。
距離があるから、言葉までは聞こえない。
だが、鏡の表面が一度だけミシと歪んだのが分かった。
嫌な継ぎ目の音だ。
出口近くの掲示板に、光の札がひとつ張り付く。
誰かが魔導板を操作しているらしい。
「……ゼロは危険、か」
ちらりと目をやると、そんな文字が浮かんでいた。
添付されている映像に映っているのは、人ではない。
さっき記録水晶が描いた、ラインが斬られる瞬間だけ。
冷たい映像だ。
だが、その方が、まだましだと思う。
人を斬る映像より、構造を斬る映像の方が、ずっとましだ。
俺は、もう一度だけ息を3拍で整えた。
1拍目。学院の中。
2拍目。ギルド。街。評議会。
3拍目。外。
視線を掲示板からはずし、出口の向こうを見た。
次は——外でやる。
そう決めて、俺はリングを後にした。
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