第32話 満員の競技場、ゼロの立ち位置
旗が鳴る。
風が層になって、布の端を重ね、色と音を持ち上げる。拡声の魔導器が吐き出す声は、遅れて胸骨にコトリと当たって跳ねた。俺は歩幅を半歩だけ狭める。立つ場所は、もう決めてある。中央は踏まない。
入場通路の先で光が割れ、歓声と罵声が同時に押し寄せた。
「剣で魔法に勝てるかよ!」
「黙って見ろ、結果が出る!」
波は3拍で来て、3拍で引く。ピン、ミシ、コト。俺の耳はそこだけ正確だった。
「レイ」
袖を引く、小さな手。ミアだ。緊張で指が冷たい。
「息、合わせよう」
ノアがミアの手を包む。
「3、2、1。吸って、止めて、吐く。もう1回」
ミアの肩が上下して、すぐに整った。ノアの手の動きはいつも通りだ。段取りは、場を止めないためにある。
俺は剣帯を半歩ずらす。鞘口が鳴った気がした。
「結果で黙らせる」
自分に聞こえる声量でいい。こんな場所では、視線は刃より重い。
アリーナの土は白線で四角に切られている。角の白が、ほんの少し濃い。目地を見れば、設営班の気質が出る。几帳面、あるいは見た目重視。今日のこれは、見た目重視だ。
場内の光が落ち、審判が中央に立った。黒い杖の先に光字が咲く。
「臨時試合規定を読み上げる。致傷行為の禁止。媒体への干渉は許容範囲内。観客との距離は厳守」
条文が空に浮かび、薄く回転して全席に見せられる。政治ショーの枠が、光で描かれていく。
反対側の入場口から、白い手袋が歩いてきた。いや、手袋に引っ張られて男が歩いてくる。学院次席、アーレン・ヴァルト。礼は教科書どおり、角度も時間も美しい。
「剣で術に触れる? なら、触れさせない層を重ねればいい」
挨拶の最後、彼はそれだけ俺に言った。挑発というより、思想の提示だ。重ねる。つまり、こちらの刃の届く位置を、最初から別の場所にずらすつもりだ。
「ミア」
俺が名を呼ぶと、彼女は顎を引いて目を細めた。
「式、展開。糸をほどくように……視える、行ける」
足もとから薄い糸が、空と土のあいだに縫い目を引く。ピン。砂粒がわずかに立つ。
「右足元、錨。合わせ目は左前。線がひとつ、浅い」
ノアは会場スタッフに小さく手を上げる。
「退路標、そこ逆。救護導線は客席下から回して。……そう、それで流れは止まらない」
人が多すぎる場所では、正解はひとつではない。最悪を起こさない配置が、勝ちと同じだけ重要だ。
俺は白線から半歩外れた位置に立つ。
土のわずかな起伏、光字が作る影の薄さ、観客の視線の流れ。全部が線になる。
「1本でいく。ミア、弱点を出せ」
「出てる。そこ、左前」
ミアの声はいつもより少し高い。だが、揺れてはいない。
アーレンは手袋をパチンと鳴らし、笑った。
「立ち位置で勝ち筋を作るか。悪くない」
「そっちは重ねるんだろ」
「もちろん。見えているものを、もう一度同じ場所に描く。それだけで人は迷う」
言葉の切れ目に、観客のコーラスが混ざる。
「さっさと始めろ!」「ゼロの抜け道だ!」
ゼロ。俺についた渾名は、罵倒にも称賛にも、同じ音で転がる。
審判が杖を上げた。
「双方、構え」
会場の空気が、音を失う。代わりに音の前の音が大きくなる。砂が擦れるミシ、旗が重なるピン、遠い蝶番のコト。
「3、2——」
俺は息を置く。置いて、床を読む。
中央は踏まない。ここで踏むべきは、視線の隙と、線の継ぎ目だ。
無幻歩は拍外し。逆落は媒体だけを落とす。零式・線断は、線を断って構造だけほどく。
人は壊さない。構造だけ、ほどく。何度も何度も、自分に刻んだ言葉。
アーレンの足の親指が、ほんのわずかに砂を掬った。
白手袋の中の指が、見えない板を撫でる。
「重ねる」
彼の唇がそう動いたのを、俺は読んだ。
ミアの合図が飛ぶ。
「左前、浅い。今なら通る」
ノアの声も重なる。
「許可証は通路に。救護は外周。……行ける」
3人の呼吸が合う。ピン、ミシ、コト。
審判の杖が、下りる直前。
俺は半歩、外に出た。
観客の視線が空白を作る。その空白の縁を踏む。
剣が鞘を離れる。音は出さない。出るのは砂のささやきだけ。
「結果で黙らせる」
喉の奥で転がした音は、俺の内側にだけ届いた。
アーレンの前に、透明な薄膜が重なった。光が微かににじむ。重ね写像。
触れさせない層を、彼は本当に置いてきた。
俺の刃が触れるより前に、触れたことにされる。そんな構図だ。
「ミア」
「線、ずれる。床の木目、気をつけて」
床の木目。言われて見ると、木目が、もう1枚ある。
同じ模様が、半歩だけずれて並ぶ。
遠近がほんのすこし狂う。吐き気は来ない。だが、身体が2度目を要求してくる。もう1回、見直せ、と。
「合わせ目、左前。継ぎ目に触れれば剥がれる」
ミアの声が綱になる。
俺は無幻歩で拍を外す。
3、2、のあいだに、別の呼吸を差し込む。
刃先は、アーレンの真正面ではなく、ミアの言う継ぎ目の1歩手前に落とす。
触れない層に、触れないまま、触ったことにする。
逆落の抜きで、媒体だけを落とす。
アーレンの唇がふたたび動く。
「見失え」
見失う? 誰が?
俺か、客か、それとも彼自身か。
考える時間は残っていない。
観客が波になった。
「おおおお!」
波の前で、白線が震えた気がした。違う。震えたのは俺の視界だ。
白線が2重に見える。
線と線のあいだに、薄い空気の層ができる。
ピン。砂粒が、そこだけ立った。
ノアの声が遠くなる。
「流れは止まらない……続けて!」
審判の杖が、落ちる。
アーレンの足元に、もう1枚の影が生まれた。
彼の影が、ほんの少しだけ遅れて動く。
遅れているのに、位置は先回りする。
重ね写像が場の時間を薄くずらす。その薄さが、刃にとっては致命的だ。
俺は刃を立て、最短の線で合わせ目を縫いにいく。
刃の軌道は、俺の眼で見る軌道と、一瞬だけ重ならなかった。
木目が笑う。
いや、笑ったのは観客だ。
「当たってないぞ」
「いや、当たった」
どちらも正しい。ここでは、同じことが2度、同じ場所に置かれる。
ミアが叫ぶ。
「レイ、左、半歩!」
半歩。俺の得意な距離だ。
俺は中央を踏まず、中央の影だけ踏んだ。
空白の縁を、ふたたび踏む。
ピン。
視線の重さが、刃の軽さを引き上げる。
ミシ。
見えない薄膜が、音を出さないで裂ける。
コト。
鞘の古い金具が、遅れて鳴った。
アーレンの白手袋が、俺の刃の先に触れそうになる。
触れない。触れたことにされる。
重ねの層が、俺の感覚より先に結果を置いていく。
厄介だ。だが、剥がれ目がある。ミアが見つけてくれた。
「人は壊さない。構造だけ、ほどく」
口の中で反芻し、俺は線を断つ角度に剣を倒す。
零式・線断。
音は出ない。出るのは影の形だけだ。
白線の上に、もう1つの白線の影が乗る。
影が、ちょっとだけズレた。
そこに、俺の勝ち筋が見えた。
アーレンが目を細める。
「そこか」
彼はすぐに理解したらしい。手袋を鳴らす余裕はない。
重ねは、彼の意志だけで立っていない。場の空気、観客の期待、光字の規定。全部を織り込んだ層だ。
だからこそ、継ぎ目がある。
俺は踏み込まない。
半歩、外す。
外したまま、線だけを斬る。
視線の波が、俺の背中を押した。
「3、2——」
俺は数え直す。
時間を作るためじゃない。拍を壊すためでもない。
重ねられた時間を、数え直すためだ。
審判の杖が下りた瞬間、会場の空気がひっくり返った。
歓声と罵声が同時に膨らむ。
旗の色が重なり、光字が反射して眩しい。
床の木目が、はっきりと2重になった。
俺はそこで気づく。
2重じゃない。3重だ。
木目が、もう1枚増えている。
アーレンの声が、耳ではなく骨の方向から届いた。
「重ねる。見失え」
俺の視界が、ピン、ミシ、と鳴ってから、何かにコトリとぶつかった。
剣先が、確かに合わせ目に触れた感触。
けれど次の瞬間、合わせ目が半歩だけ移動する。
それは、俺の感覚が置いていかれたのか、場が俺を置いていったのか。
答えを確かめる前に、世界が薄く波打った。
白線が、3本。
木目が、3層。
観客の声が、3拍。
俺の足は、どれを踏んでいる?
中央は、どこだ?
考えるより早く、審判の杖が完全に下りた。
試合開始。
……その瞬間、床の木目が、もう1枚、増えた。
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