第28話 反応試験、三拍を外す
白墨で描かれた円が床に沈んで見えた。観客の足を止めるロープは新しい麻の匂いがする。救護席の緑布は、角をきっちり折られていた。砂時計の腹が細くなり、粒ひとつが落ちるたび、どこかで小さくコトリと鳴る。
俺は剣帯を半歩ずらし、呼吸を合わせる。吸って、止めて、吐く。3拍で整えると、耳の奥に張られる細い糸が1本、ぴん、と立つ。
受付のセシルが前に出て、掲示を読み上げる。
「観客距離は円周から各位3歩。致傷を禁ず。媒体の破損は問わず。すべての記録は公開します」
淡々とした声に、会場のざわめきが吸い取られていった。規定は檻じゃない。進む角度を決める線だ。俺はその線を目でなぞり、靴の先で白線をそっと撫でた。
「立会い医師、配置完了。査定官、記録開始」
笛はまだ鳴らない。かわりに、装置のチャージ音が低く膨らむ。これが安定線の前触れだ。砂粒がまたコトリと落ちた。
「3、2――1」
心の中で数えながら、肩線だけをわずかにずらす。視界の縁の埃まで、やけにくっきり見える。
笛の吸気。試験装置が目を開いた。
タ、タ――タア。
最初の拍は肩で受け流す。次の拍で足幅を半寸だけ広げる。長く伸びる3拍目、その直前。空白が一瞬、床に落ちた。そこへ俺は入る。腰で折り、足音を殺し、張った糸の端を軽く弾く。
ピン。
頬をかすめる風。木の香り。装置の魔導弾は、俺がいたはずの場所を空しく裂いていった。白線の縁に残った埃が、ひとつだけ舞い上がる。
「反則なし。反応合格」
主任査定官が板に印を入れる音が、コトリと乾いた。観客のいくつかが息を吐く。
「今、ズレた?」
「いや、たまたまだろ」
口元だけが動く影が2つ3つ。俺は白線の端を見直し、靴先で角度を合わせる。呼吸はまだ3拍で、大きな波に飲まれない。
次は対人の阻止だ。短詠の若い術士が前に出る。彼の石突きに、装飾の丸い金具。杖の重量バランスは頭ではなく、握りの下で取っている。癖が見えた。
「始め」
若術士が1歩、踵で地を切った。空気が乾く。言葉が立ち上がる前に、杖と足の間に細い線が張られた。
俺は踏まない。足符は踏まない。踏めば壊せるが、それでは短い。
柄頭をわずかに送って、杖の支点だけをコトリと外す。同時に彼の肩の力の流れを、腰でひとつ折る。
「えっ、今、杖だけ――」
言い終える前に短詠がほどけた。立ち上がりの術が霧のように宙でほどけ、手の平に残った熱だけが遅れてくる。媒体は無傷。詠唱は確かに始まっていたが、要が支えを失えば、立たない。
「規定遵守。進行」
査定官の声は変わらない温度で、また板書がひとつ増えた。
折らない。止める。それが速い。壊すより、要を落とす方が静かで、あとに響かない。
視界の端、扉の蝶番がミシと鳴った。遅れて、同じ音がもう一度。誰かが入っている。黒い外套の気配だけが、観客の影に紛れて流れた。
立会い医師が緑布の上で小瓶を傾け、脈拍を確認する。若術士の顔色はすぐ戻った。医師が顎だけでうなずく。
「継戦可」
セシルが短く「遵守」と言って、印をひとつ押した。彼女は書板の目地をまっすぐに揃え、角を指先で軽く叩いて整える。その小さなコトリが、会場の薄い緊張を刻みつける。
最後は木偶だ。肩の蝶番に、油が古い筋。膝の楔は新しく、木目は硬い。砂時計の影が傾き、細い縞が床を横切っていく。
「準備よし」
ミアの声が後ろから届く。観察の目は鋭い。ノアは反対側で、救護導線を確保しているはずだ。退路標の小さな光を、ロープの下にそっと差し込んでいるのが見えた。
笛が鳴る。木偶が前に踏み出す。肩の蝶番がミシ、と訴えた。そこで一度、留め外しをする。
俺は肩の支点に指先の意識だけを送る。打たない。切らない。ただ、支えの角度を半拍だけ遅らせる。木偶の重心がわずかに迷い、前のめりの途中で止まる。
半拍待って、股の楔に触れる。真正面ではなく、斜めに。軽く、コトリと留めの角を外す。
木偶は落ちない。倒れない。前に進もうとして、前に進めず、そこで固まる。砂時計の影が、その足をまたぐ形で割れた。
耳の中の糸が、ふっと緩む。ゼロ酔いが半拍、視界を煮え立たせた。すぐに呼吸を整える。吸って、止めて、吐く。
「記録」
査定官の短い声が落ちる。板書の墨が乾く匂いがした。観客席からは今度、言葉にならない息が漏れる。偶然じゃない、と誰かが小さく言った。
「判定。仮登録F、継続。公開記録に付す」
冷たい響きに、セシルが「承知」と返す。彼女の手元で紙留めがコトリと鳴る。
俺は膝を緩め、剣帯を元の位置に戻す。緊張が抜けていく足取りで円を出ようとすると、扉がまたミシと鳴った。半拍遅れて、もう一度。入ってきた気配と、出ていく気配。どちらもこちらを見なかったふりをしている視線だ。
「レイ」
ミアが寄ってきて、小声で言う。
「安定線、見えてたよね。装置の2拍目の立ち上がり、まだ甘かった」
「ああ。3拍目の手前に、空白ができてた。そこに入っただけだ」
「救護導線、生きてる。観客の間、3歩は守られてる」
ノアがロープの結び目を確かめながら言う。彼の指先はいつも通り、要だけを確かめる動きだ。
「公開記録、今日の分はすぐ出ます。閲覧は自由。異議があれば、正規の手続きで」
セシルが事務口上を最後まで添えて、深くは頭を下げない。公平であることを、手の角度で示すやり方だ。
「さっきの若いの、悔しそうでしたね」
立会い医師が微笑を浮かべる。落ち着いた声だった。
「脈は正常。過呼吸もなし。明日には笑ってますよ」
俺は頷いた。壊さずに止める。相手の手の中に、次にやれることを残しておく。それは俺にとっても、長く戦うためのやり方だ。
会場の外は冬の光。石畳が白く乾いていて、吐く息だけが湿っている。砂時計の影は扉の敷居にかかり、継ぎ目で細く折れ曲がっていた。
その継ぎ目を、半歩ずらしてまたぐ。影の切れ目が、靴裏で小さく鳴る。
「規定の中で、勝つ」
口の中で言ってみる。味のない言葉だが、今の俺にはちょうどいい。
「お疲れ」
ミアが並ぶ。ノアは後ろで、救護導線の小さな光を回収している。
「観客、何人か、目が変わってたな」
「公開記録の効果、でかいよ。あれで、次の公開試合の空気が決まる」
ミアの言葉に、俺は肩を回してみせた。ゼロ酔いはもう引いている。
「次はどうするの?」
「3拍目を外すのは、今日で十分だ。次は、要だけを落とす」
「逆落、だね」
ミアの声が低くなる。彼女は名を口にする時だけ、真っ直ぐこちらを見る。
「名前はどうでもいい。ただ、ほつれ目は増える」
「わかった。段取り、変える。退路標をもう少し浅くする」
ノアが追いつき、短く告げる。彼の仕事はいつも見えにくいが、いちばん助かる。
背後で、またミシと鳴った。扉の蝶番ではない。遠い廊下の継ぎ目が、寒さで縮んだ音だろう。それでも俺は、振り返らない。見ない視線には、見ない背中で返す。
ふと、さっきの若術士の顔が浮かぶ。彼の手の震えは、悔しさと驚きが半分ずつ。ああいう震えは、次を呼ぶ。折らないで止めた意味は、ああいうところで生きる。
「終わり。次だ」
俺はそう言って、円の外へ出た。人の流れに乗らない角度で、石畳の端を踏む。白い空気が頬に当たり、耳の中の糸がふたたび静かに張る。
砂時計の影はもう細い。日は低いが、やることはまだある。公開記録が回り、誰かが噛みしめ、誰かが噛み砕く。そのあいだに、俺は次の拍を探す。
3、2――1。
呼吸を合わせる。俺の足は、また空白へと降りていく。ピン、と遠くで糸が鳴り、世界の縫い目がわずかにほどける音がした。次の場で、俺はふたたび三拍を外すつもりはない。次は、要だけをコトリと落として、終わらせる。
扉の方角から、最後にもう一度だけミシと鳴った。黒外套の気配はもう遠い。けれど、こちらへ向く視線は確かに残っている。肩越しに、俺は小さく笑った。
「来るなら、来い」
声は自分に向けたものだ。石畳が返事をしないのをいいことに、俺はまっすぐ前を向く。規定は線。線は道。道は、切るためにある。いや、結び直すためにある。
俺の歩幅は変わらない。半歩のずれが、今日も明日も、きっと効く。ミアとノアの足音が後ろから揃い、救護席の緑布が風に揺れた。コトリと、遠くで砂が落ちる。
試験場の空気は、もう冷たくない。俺は剣帯を軽く叩き、胸の前で一度、手のひらを開いた。空白は、いつだってどこかにある。見えるか、見えないか。それだけだ。
次の拍の手前で、俺は足を止めない。
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