第23話 継目裂
地底湖は、昨夜よりも静かだった。滴は糸になって落ち、黒い水に触れて小さく鳴る。ピン。けれど反響は鈍い。器の中身が抜けた時の、気配だけが残る音だ。
「輪、5つ。重なってる。外は薄くて、内は歯車みたい」
ミアが膝をつき、指先の薄銀で空気に印を引いた。白い線が一瞬だけ視界に重なる。俺は剣帯を半歩ずらし、白墨で足元に3点を打つ。支点、合わせ口、逃げ線。粉が小さく舞い、水面の輪へ落ちていく。
「退路標、右壁沿いに2重で敷く。30歩ごと。帰りは下段の光だけ追って」
ノアが短く告げ、布タグを半寸の精度で結んだ。淡い光が岩肌に明滅し、帰る道が糸みたいに見える。
「3、2――1」
呼吸を合わせる。喉の奥で張りが立ち、足裏に薄い震えが来た。輪の合わせ口が半寸ずれて揺れる。ミシ。間が半拍、空いた。
「線を出せ」
「合わせ口、ここ。半寸だけ、右にねじれてる」
ミアが斜めに指す。薄銀が1点、微かに光る。ノアが脇から小瓶のオイルを床へ点打ちし、滑りの角度を半拍だけずらす列を作った。点が数えられる距離で止まる。
輪の内側で、光が立った。タ、タ、タア。3拍のうち、最後の伸びで安定線が成立する。もし線で受ければ、すぐに再生する。昨夜の体感が告げる。
「線だけじゃ足りない。合わせ目を、裂く」
俺は柄に親指を乗せ、半歩だけ滑る。合わせ口の角度に、身体を薄く合わせる。刃はまだ出さない。留め具の感触が指に触れた瞬間、軽くコトリ。縫い目の口が、糸だけほどけて細いスリットになる。面はそのまま、透明を保つ。
「零式・継目裂」
名前は短く、息の中に落とす。輪が1枚、音を立てずにほどけた。水の重みがわずかに沈み、抜け道に冷たい風が吸い込まれていく。
「もう1枚。3、2――今」
次の合わせ口へ半歩ずらし。指の腹でミシを聴き、柄でコトリ。安定線の立ち上がりを待たず、縫い目だけ切り離す。輪がほぐれる。面は割らない。規定の内側で通す。それが、俺たちの勝ち筋だ。
「開いた。道、できたよ」
「ノア」
「搬送索、右壁に沿って張った。退路標、3本追加。時間はまだ余裕」
俺は小さくうなずき、奥の縁へ身を寄せた。そこにあるのは壁でも扉でもなく、枠だ。薄い光の環に、古い刻印が刻まれている。環の内側に、もうひとつ細い合わせ目。2重だ。外は飾り、内が本物。
「中枢の匂い。錨が……下だな」
「底の岩棚。薄いゴリが響く。けど、触らないほうがいい」
「触らない」
言い切ったところで、風が2度だけ、途切れた。
通過音。いる。
広い棚の左、影が揺れ、音が遅れて届く。ミシ。半拍おいて、ミシ。2度のきしみを連れて、黒外套が静かに立った。外套の裾は濡れていない。歩いた音だけが、ここに来る。
「面は美しい」
低い声だった。男は周囲にある薄輪へ視線を巡らせ、指先で空気を軽く撫でる。水の皺が細く立ち、すぐ消える。
「縫い目だけを裂く趣味は、感心しないな」
「面は残す。線だけ開ける。規定の中で、勝つ」
「なら、試す。3拍目で止まる」
黒外套の足先が、岩の目地を軽く踏んだ。音が走り、床の帯が据えられる。次の拍で壁の帯が渡され、最後の拍で空間の口が留められた。湖の上に見えない糸が幾重も渡され、身体の輪郭をそっと縫い止める感覚が来る。
「拘束、3拍。完成は3」
ノアが短く息を呑む。ミアは目を細め、こめかみに指を当てた。
「下帯だけ、弱い。床の帯の根元、右の目地が甘い」
「助かる」
俺は半歩、ズレた。床から上がる最初の張りを、足の針で外す。ピン。安定線の前に、別の細い線が鳴る。そこを柄先で軽く撫でる。コトリ。床の帯がわずかに緩み、壁の帯が孤立する。三拍の完成が遅れる。
男は少しだけ眉を動かし、今度は帯を重ねてきた。床、壁、空間。順序は同じだが、渡す角度が鋭い。固定の口が狭まる。
「十拍まで持つ。そこで落ちる」
「落ちない」
俺は白墨の三点を作り直し、合わせ口だけ撫でる。ミシが鳴る前、留め具をまた外す。コトリ。面は動かず、口だけが解け、空気の流れが変わる。ノアがすかさず搬送索を引き、立ち位置の高低を数寸だけ上げた。
「ライン・リフト上げた。今だけ高所」
「助かる」
視点が変わると、帯の重なりが見えた。上からなら、縫い代が浅い箇所が分かる。俺は半歩ずらしてそこへ入り、短く呼吸を合わせる。
「3、2――1」
柄先を合わせ口へ置き、刃を薄く滑らせる。継ぎ目だけ裂く。面は透明。帯の流れが一筋だけ、逆へ動いた。
「ミア」
「右斜め下、錨の影。でも、今は触らない。……観測、ある。見られてる」
薄銀が壁の陰へ走り、小さな光点がちらりと瞬く。そこに細い式が組まれている。視線の線。記録の線。黒外套の背に、学院式の書式があるのが分かった。
「面を畳まず、縫い目だけいじる。悪癖だ」
男は言い、掌で空気を押した。帯が重なり、固定が深くなる。3拍の3で、空中の口がカチと噛み合う感覚が来た。俺の肩が一瞬だけ止められる。
「据え、渡す、留める。ほら、止まる」
「止まらない」
言い切り、半歩を無理やり外へ滑らせる。止め具の角が擦れて、指が少し痺れた。だが、コトリと外れる。留めの口だけが、緩む。
息が上がった。視界がわずかに遅れる。ゼロ酔いの影が、喉の奥で揺れる。ミアがすぐ近くに来て、小さな声で言った。
「3秒、加速。今だけ、視界を一緒にする」
「借りる」
薄銀の幕が視界に重なり、帯の重なりが線画みたいに見えた。俺は床の帯の根元だけを指で弾き、壁の帯へ支えが渡る瞬間を待つ。3、2――今。壁帯の合わせ口へ柄先。コトリ。空間帯の口が孤立し、3拍の完成がまた遅れる。
「面は残したまま、合わせ目だけを切る。ずるいな」
「そっちの審美には付き合わない」
男は薄く笑った。笑いさえ音がない。湖の霧が、外套の縁で形を変える。
「次は章で縫う」
低く告げ、足元の目地へ細い指示を落とす。環の刻印が微かに光り、周囲の空気が層で硬くなった。上の層だけが締まる。下はまだ柔らかい。章の重み。拍とは別の、厚みの秩序だ。
「まずい。上層だけ硬化してる。第3章が、甘いけど……同時処理は、3つまで」
ミアが鼻梁を押さえる。薄銀がぶれる。頭痛の前兆。ノアがすぐ冷湿布を渡し、俺の背を指で叩いた。3、2――1。呼吸を合わせ直す。
「足りないのは、根性じゃない。情報だ」
俺は目の前の環を見上げた。古い刻印が並び、縁の内側に細い継ぎ目が2本、半寸ずれて走っている。その間で空気がミシ、と短く鳴った。2度のきしみ。通過音が重なって、背後でまた小さく揺れる。
「退く?」
ノアの声は平らだ。選択の重さを、そのまま手に乗せてくる。
「いや、採る。位置だけ」
俺は白墨で環の縁に小さな点を打つ。支点。合わせ口。逃げ線。面は触らない。縫い代だけ印を付け、手を下ろした。
「ここを裂けば、開く。でも、今日は開けない」
「了解。退路標、回収しながら2重のまま帰る」
「観測式は?」
「壁の陰、2。床の端に1。ぜんぶ、見るだけ。攻撃はしてこない」
「見られてるうちは、正解を見せすぎない」
黒外套は一歩も動かない。ただ、面を見ている。縫い目は見ていない。俺は剣帯を半歩ずらし、湖と環に背を向けた。
「終わり。次」
短く言って、歩き出す。ノアが搬送索を緩め、退路標の列が右壁沿いに白く伸びていく。ミアは口をきつく結び、肩で息をしながら俺の斜め後ろに付く。彼女の目はまだ強い。薄銀の幕はもう消えている。
帰路は速い。床の帯は弱く、壁の帯は角が立っている。半歩ずらしで角を避け、ピンを先に鳴らす。ミシは来ない。コトリは合図だ。ノアは等間隔でタグを回収し、拾った順番で重ねていく。
「在庫、更新。白墨、残り3分の1。油、1本。応急、未使用。退路標、回収完了」
「収支は、昨日の継ぎ板次第」
「うん。今日の作業は薄利。でも、線は増えた」
最後の曲がり角で、風が少しだけ暖かくなった。通路の上、看板の幻の蝶番が耳の奥で鳴る。ミシ。半拍おいて、ミシ。2度のきしみが、今度は遠い。
封鎖板をくぐる前に、俺は振り返った。湖の奥、環の縁。黒外套はまだそこに立っていた。動かない。動かないことを選ぶ強さが、遠くに見えた。
「面は残す。継ぎだけ裂く」
自分に言い聞かせるように、小さく繰り返す。規定の中で、勝つ。俺は封を押し上げ、外へ出た。
地上の空気は乾いていて、どこかで料理の匂いがした。ノアが在庫表を閉じ、砂時計を伏せる。ミアが額の冷湿布を外し、角砂糖をひとつ口に入れる。
「明日、もう一度来る?」
「来る。観測されてるうちは、やることを絞る。面は触らない。合わせ目だけ、正しく裂く」
「第3章、甘い。……そこだけ落とせる」
「情報が足りない分は、段取りで埋める」
短い言葉だけで、やることは揃う。俺は剣帯を半歩ずらし、指で机の角を軽く叩いた。3、2――1。身体が整う。頭の糸がほどける。
遠くでまた、ミシ。半拍の後、ミシ。2度のきしみが、夜の入口に置かれた。音は線だ。線は道だ。道は、次に続く。
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