第19話 踏破の芽
夜の路地は、昼とは別の場所だ。石畳の継ぎ目が黒く太って、影と影の間に細い筋が走る。誰かが縫った道。触れていないのに、足裏にぴり、と小さな静電が刺さる。俺は剣帯を半歩ずらし、呼吸を3拍で合わせた。
ミアが目を細める。頬にかかる髪が、呼吸のたびに揺れた。
「見える。……線じゃない。面」
ノアが退路標を右壁に結びつける。布の端が灯に浮かんで、一瞬だけ白く光る。
「退路標、右に2本。3秒稼ぐ。レイ、前だけ見て」
「了解。生き延びろ。それが勝ちだ」
足音がこちらに伸びてくる。数は多くない。けれど、均一だ。黒外套の歩幅。路地の角が風で鳴り、看板の蝶番がミシ。半呼吸おいて、もう1度ミシ。2度のきしみは、通過の音だ。
俺は路地の奥へ入る。次の角を曲がると、空気が薄く硬くなった。張りのある床の感触。ふつうの石畳の上に、薄い何かが重ねられている。目では見えないが、足裏が告げる。面の写像。穴を塞ぐための、仮の床。
「境界の縫い。重ねてある。合わせ目、右下と左手前に2点」
ミアが低く言った。俺の視界の端に、薄銀の膜がふっと浮く。言葉に触発されて、世界のほうが輪郭を増やす。ガイドはいらない。ただ、今は助かる。
「3、2——1」
小声で数え、大きく踏まない。半歩ずらして、体重の針だけを落とす。弱い縁を探す。張りの音が耳の奥で鳴る。ピン。
「右下、2点——合わせ目!」
ミアの声に、足が勝手に答える。踵を紙幅ひとつぶん浮かせ、母指球で縁を押す。支点だけ、外す力。刃じゃない。指先の仕事。柄の角を空気に置く時の、あの力加減で。
コト。
張力が少し崩れた。まだ落ちない。面は広い。一気に崩すと、俺たちも落ちる。だから、座屈させる。畳のへりを指で押していくみたいに、弱い縁を繋いでいく。
「3、2——1」
息を底で止め、半歩だけ滑る。腰を右下に錨、肩を半寸沈める。面が、わずかに歪む。耳の中で、遅れて鳴る音。
ミシ。
沈み込む。道が沈む。俺は踏み抜かない。沈む分だけ、一緒に沈む。落ちるのは、追ってくる靴の裏だ。
「今!」
ミアの声。その瞬間、角から黒外套の前衛が飛び込んできた。彼らの拍は均一だ。均一なものほど、外しやすい。足が空を踏み、少し遅れた膝が揺れる。俺は前衛の胸元に入った。抜刀はしない。柄の根で要だけ叩く。
逆落。角度は浅く。杖の握りと前腕の合わせ目の脇に、コト。
媒体が手から抜ける。人から、線がひとつ抜ける。詠唱が黙る。2人目が肩から突っ込んできた。足はすでに沈みの縁に乗っている。膝に軽く蹴りを入れ、体の向きを変えてやる。石畳の目地と写像の縁がクロスする点に、踵を経由して体重を落とす。
ピン、コト、ミシ。
座屈が広がる。道の一部が、やわらかい落とし穴みたいに沈んだ。沈むのは足裏だけ。体は支えを失っても、すぐには落ちない。だから、遅れる。遅れたところに、柄を入れる。刃は要らない。俺は人には触れず、媒体と足の楔だけを外していく。
「退路標、置いた。左へ」
ノアの声が背へ落ちる。布の端が白い点になり、暗がりの手前に結ばれていく。線の道標。俺は頷く代わりに、足で答える。半歩、半歩。呼吸は3拍。吸って、吐く、吐く。
「やる」
短く言って、もう1度面の縁を探した。ミアが息を切らさない程度のコールを続ける。
「上掛け2層。間は薄い。右前、2点。左は偽の錨、触らないで」
「了解」
偽の錨は人の目のための罠だ。触ると、全体が硬くなる。抜け道が消える。俺たちは抜け道を好む。抜け道は、生き延びるためにある。
「3、2——1」
声の重みを落とし、体の重みを持ち上げる。足の裏の皮膚だけで地面を読む。張っている線と線の間を、糸のように足を通す。指でなぞるみたいに踏む。面がきしみ、少し折れる。崩すのではなく、折る。折れ目ができれば、そこが道になる。
黒外套の列が、間合いを失った。均一な足が、均一であることを裏切られる。拍を外される怖さは、拍を合わせてきた者ほど効く。前衛が1歩、過ぎる。背が空いた。俺は体を薄くして、通る。肩が擦れ、外套の布が湿った音を立てた。
「結果で黙らせる。——走れ」
俺が言うと、ノアが先に動いた。退路標の白が、左の曲がり角にさらに1本灯る。ミアは短く頷いて、視線を前に送る。
「前、面が薄い。ここは通れる」
「任せた」
足が軽くなる。軽いけれど、浮かせすぎない。沈む面に浮いた足は、いい獲物だ。俺は浮かない。重さは持ったまま、接し方だけ変える。足裏の接地面を小さくし、腹で体重を持つ。肩は落としたまま。腰は右下。目は細い道の縫い目へ。
追撃の足音が遠のく。遠ざかる音を、わざと一度だけ聞き逃す。音の辞書から一語抜く。抜いたところに、次が入る。
角の手前で、ノアが片手を上げた。退路標の残り本数を、指で示す。12。まだ余裕はあるが、油断をしない。3日前倒しの人間は、最後の10本になった途端、補充に走る。
「あと12。次の交差で2本、分岐の前で1本。橋があったら、上じゃなく横に結ぶ」
「了解」
路地の温度が変わった。床の張りが緩み、仮の床の質が安っぽくなる。作りが粗い。追撃側も、追いつこうと焦っている。焦りは継ぎ目を太らせる。太い継ぎ目は、目立ってありがたい。
「右下、2点——いや、3点。増やしてる」
ミアの声が低くなる。負荷が来た合図だ。鼻梁に指を当てる仕草が、短く出る。俺はノアを見る。
「3秒稼ぐ」
ノアは即答した。小瓶を出し、霧状の水を薄く噴く。視界が濁るのではなく、濁る直前で止まる。湿りで面の張りが少し変質する。張りは湿りを嫌う。嫌いなものを押し付けると、少し弱る。
「今」
ミアがささやく。見えない矢印が、足裏から脛へ、腰へ、肩へと繋がる。俺は針金を曲げるみたいに体を曲げ、弱い縁に押しをかけた。ピン。コト。ミシ。
座屈が2段で来た。沈みの縁が逆方向へ跳ね、追ってきた足がそれに乗って失速した。前衛が短く息を噛む音。後ろの者がぶつかる音。列がほどける。ほどけた列は、追撃ではない。ただの群れだ。群れには方向がない。方向のないものは、ただ遅い。
「左へ。退路標、置いた」
ノアが布を結び、俺たちは横へ抜けた。縫い目の道から、ふつうの道へ戻る瞬間、足裏のぴりが消える。消える音はしない。けれど、消え方の形がある。消え方を覚えると、次の始まりの形も分かる。
「踏み方、記録に残す」
走りながらノアが言った。背負袋から台紙を取り出すのではなく、言葉で記録する。声の重みが紙の代わりだ。
「名は要らない。結果だけでいい」
俺は短く返し、息を落とす。3拍。吸って、吐く、吐く。胸の奥が冷えて、視界が澄む。ゼロ酔いの影は来ない。来たとしても、今は気にしない。今の俺たちの敵は、線と面だ。人は、その続きにいる。
最後の角で、看板が鳴った。ミシ。半呼吸おいて、もう1度ミシ。2度のきしみ。俺は一瞬だけ足を止め、振り返らずに笑う。
「視線は外れない」
黒外套は、追ってきている。追ってきているが、今は届かない。道そのものが、こちらの味方をしている。味方は長くは続かない。だから、今のうちに離れる。退路標の最後の1本を、ノアが分岐の手前の低い位置に結んだ。昼には目立たず、夜には見える高さ。
「ここまで」
ミアが立ち止まる。肩がわずかに上下している。負荷のサイン。鼻梁に指が触れ、すぐに離れた。ノアが水を渡す。
「3分休む。解析は切る。私が見張る」
「任せた」
石段に腰を下ろす。足裏の皮膚が、張りのない石の冷たさを取り戻す。俺は靴紐の結びをひとつ締め直し、剣帯を半歩ずらした。胸の奥で鳴る拍が、昼のそれに近づく。
「境界が面だって、最初に言った人、誰だろ」
ミアがぽつりと言う。自分で見つけた術語を、そっと口の上で転がす。
「たぶん、裁縫の人」
「それ、いいね」
ノアが笑って、台紙に見立てた空気を指でなぞる動作をした。
「境界は面。合わせ目は線。錨は点。……そして、踏む」
「踏むのは悪手じゃない。座屈は崩落じゃない。道の形を変えるだけだ」
「レイの言い方は、好きだよ」
ミアが言い、目を閉じた。短い休息。俺は立ち上がり、通りの先を見た。灯が少ない。誰もいない。夜は深くないのに、深い。縫い目の道は、まだどこかに続いている。
「移動」
ノアが立ち上がり、退路標の残り本数を指で示す。10。補充の境界線。俺はうなずいた。
「戻ったら、補充。3日前倒し」
「もちろん」
歩き出すと、背後で小さな音がした。路地の別の角。蝶番の音が、また2度。ミシ。ミシ。俺は振り返らず、胸の中で数える。
3、2——1。
次は、境界をもっと深く踏む。名はまだいらない。けれど、芽はもう出た。面を座屈させる足。線を断つ柄。どちらも俺の体の中で繋がっていく。
夜がほどけるまでに、道を1度だけ変える。結果で黙らせる。そうやって、明日へ持っていく。次の仕事も、規定の中で勝つために。
俺たちは退路標の白を辿りながら、宿場の灯へ戻った。灯の手前、最後の角で、看板がやはり2度きしんだ。音は軽い。けれど、切れない。音の辞書に、またひとつ言葉が増える。
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