第18話 黒外套の刺
昼の光は細く、ギルドの裏手は石の壁に冷たく縫いとめられていた。荷車の軋みが遠くでミシ、と短く鳴る。俺はその音の継ぎ目みたいな空気のゆるみを、肩の呼吸で確かめていた。
路地の入口に、黒い合わせ目が立つ。外套の裾は無駄がなく、歩幅の間隔も等しい。官製の所作、というやつだ。先頭の男が1歩前に出て、指先だけをわずかに見せる。
「任意だ。協力を」
柔らかい声。けれど間を置いて落ちる次の言葉は、刃の背で首筋をなぞるみたいに冷たい。
「拒否は記録される」
ノアが一歩出かける。俺は掌を振って制した。
「規定の中で、勝つ」
俺が言うと、男の口角がわずかに動いた。随員が左右に位置をずらし、路地の出口と壁の凹みを塞ぐ。囲む前の並び方で、やれることの抽斗の数がだいたい見える。3人。小隊長と、抑え役と、仕掛け役。
ミアが肩の後ろで息を潜めた。俺は首だけで合図する。まだ、言葉の番だ。
「名前を」小隊長が言う。「身分、所属、昨夜の行動。任意で構わない」
「じゃあ任意で、黙る」
「沈黙は不利益を招く」
「沈黙を不利益にするのは、誰だ」
短い往復。言い切りの端に触れたとき、路地の空気がまたミシと鳴る。言葉の継ぎ目が破れた、そう感じた瞬間だ。小隊長の視線が1拍だけ薄くなり、随員の右足の爪先が石畳の窪みを撫でる。
来る。
俺は踵に半拍、息に半拍。足の裏の皮膚で地面の目地を数え、左肩を壁に滑らせる。そのまま半歩、間合いをずらす。相手の間合いに、俺の間合いの癖を混ぜる。無幻歩の原型、線をほどく1歩だ。
「確保」
先に音を立てたのは黒外套のほうだった。仕掛け役の袖から灰色の粉が弾け、視界の縁に霧が張る。鼻に来るのは乾いた薬草と金属臭。見えない線が路地の真ん中を塞いだ気配があった。魔術の封、ではない。足で作る狭路。制度の作法を、体でなぞってくる。
良い癖だ。なら――足を止める。
俺は踏み出しかけた右の膝を一瞬だけ畳む。重心が沈む。視界の上で絡まる2本の線が、きしみながらずれる。前に出てくる随員の足首が、そのずれに乗った。1拍遅れて、腰。
「そこ」
俺の足が先に地面を取る。刃のない切っ先を、相手の軸に差し込む感覚。石畳の目地に沿って、相手の足を軽く払う。派手に倒す必要はない。膝を1度、止めればいい。止まるだけで、線は勝手に乱れる。
背後が空いた。
無幻歩。原型、つまり手癖の寄せ集めだが、こういう路地ではよく刺さる。半歩のずれの先に、呼吸の抜ける隙ができる。俺はその隙に落ちて、首筋の裏を通り抜け、小隊長の背へ回る。
「っ」
小隊長の気配が、ひとつ下へ沈む。いい反応をする。腰の重みが脚に落ち、視界が狭まる。俺はその腰の落ち方を利用して、肩甲骨の下に掌を添え、前へ半足だけ押し出す。踏み戻る場所を奪えば、上体は浮く。浮けば、次の1手は膝だ。
「止まれ」
命令語を逆手に取るみたいで可笑しいが、言葉は足に降りる。俺は膝裏を指でなぞり、軽く折らせた。小隊長が石畳に片膝をつく。その瞬間だけ、路地の音がまるくなる。
随員が焦る。霧を厚くし、左右から圧を掛ける。狙いはミアの側だ。ノアが短剣を半ば抜く。金属の擦れる音が乾いた霧に通る。
「ノア、右の窪みを踏むな」
「了解」
ノアの踵が1度宙を切って、別の石を選ぶ。霧の中、目に見えない古い罠の跡がある。黒外套はそこに新しい線を重ねて、逃げ道を縫っていた。俺の背中の奥で、ミアが小さく呟く。
「音が違う。布の合わせ目みたい」
「だろ」
短い会話が、俺の足を軽くする。小隊長の手首に触れ、肘を返して関節を柔らかく折る。刃は要らない。繋ぎ目だけをほどく。
「任意は、強制に変わる」
小隊長がささやく。息が耳にかかる距離。俺は肩をすくめた。
「強制の顔をした任意は、任意だ」
「記録は残る」
「記録は、読み方で変わる」
押し引きの最中、仕掛け役の袖がまた揺れた。霧が濃くなる。視界が白へ寄る。そこで俺は、わざと足音をひとつ立てた。ミシ。荷車の軋みに合わせる。音の辞書は誰にも貸し出されていないが、路地は覚えている。間合いの鍵穴に、音の鍵が合う。
「左に来る」
俺の声と、ノアの刃の根元が空を払う音が重なった。金属の軽い衝突。火花ではなく、霧の水気が弾ける音。左から来た抑え役の手首が逸れ、空いた胸元にノアの柄頭が入る。吸うように、肺の空気が抜ける音がした。
「終わりにするか」
俺が小隊長の耳元で言うと、彼の体の緊張がふっと抜けた。無理な抵抗を捨てる、組織の動きだ。力の入れどころと抜きどころを、訓練で矯正された人間特有の動き。俺は拘束の角度を変え、息の道を少しだけ開けてやる。
「任務完了」
小隊長はそう言って、肩を落とした。敗北の言葉ではない。合図だ。霧がほんの少し薄くなり、仕掛け役が袖口から札のようなものを路地の石の継ぎ目に挟む。紙に見えるが、紙ではない。薄い板だ。表には、見慣れない点の列。記号というより、縫い目の印。
「試験は合格。反応も、想定範囲だ」
「想定の外に出る訓練は、してあるか」
「それも記録に残す」
小隊長は立ち上がり、裾を払った。俺は手を離す。彼は肩を回し、軽く礼をする。礼は丁寧だが、目は笑っていない。
「もう1度だけ言う。任意だ。王都のために」
「王都のために、か」俺は笑わない。「俺たちのためにも、なるといいな」
黒外套は路地の外へと消えた。足音が、等間隔で遠ざかる。霧も、音が抜けると崩れる。路地に残ったのは、薄い板と、灰色の粉の気配、そして言葉の継ぎ目が裂けた跡。
ノアが札を指で摘もうとして、俺は止めた。
「触るな。合わせ目の仕掛けだ」
「見るだけ」
ノアは目を細め、息を止める。ミアが膝を折り、札の表を覗き込む。点の列が、風の流れみたいに並んでいる。彼女は指先を近づけ、空気だけを撫でた。
「ゼロ監視」
ミアの声はかすかだった。俺とノアは顔を見合わせる。
「ゼロって、魔力がゼロの」
「うん。魔力の揺れがない場所を、逆に追ってる。欠けた音の並び。これは網だよ。すごく細いけど、広い」
喉の奥が乾いた。俺の背中に沿って、冷たい針が下りる感じがする。黒外套は、俺たちを――いや、俺を、捕まえる網を最初から張っていた。札はその結び目。通る者の音が抜ける場所を、縫い留める印。
「つまり、俺が歩けば、線が浮く」
「たぶん」ミアが頷く。「今日のこれは、接触の名を借りた、型合わせ。あなたがどの線で歩くかを見るための」
ノアが歯を噛んだ。
「やり方が気に入らない」
「気に入らないほうが、覚えがよくなる」
俺は札から視線を外し、路地の出口を見た。日はまだ高い。けれど影は長い。影と影の間に、細い道が縫われている。昼なのに、夜の路地みたいだ。
「どうする」ノアが問う。
「今日は準備。夜に、もう1度見る」
「夜のほうが道が浮く」
ミアの言葉は確信があった。俺は頷く。
「装備は見直す。松明は最低6本。退路標は30歩ごと、10本切ったら補充の合図。匂いの薄い粉、応急の布、あと――」
「音」ミアが言う。「今日のミシを、もう少し集めたい」
「任せる」
3人で最低限の痕跡だけを消し、路地を離れた。表通りに出る前、俺は1度だけ振り返る。札は、風に揺れない。揺れないものほど、よく縫える。だから嫌いだ。
日が傾く。影の角度が変わる。夜になると、縫い目の道はもっとはっきりと見えるようになるだろう。黒外套は去った。けれど、道は消えていない。誰かが縫った道は、誰かがほどくまで残る。
「レイ」ノアが呼ぶ。「もし、また来たら」
「そのときも、足を止める」
俺は答える。足を止めるのは、逃げるためじゃない。線を乱すためだ。乱れた線に、俺たちの線を縫い直すためだ。
ミアが笑った。小さく、呼吸みたいに。
「じゃあ、夕方に。音を拾ってくる」
「俺は道具。ノアは情報。夜は路地」
段取りを口に出すと、体が軽くなる。次の1歩が決まる。それだけで、今日という日の形が整う。
表通りに出る直前、風が背を押した。乾いた粉の匂いに、墨のような冷えが混じる。路地の奥で、札が光りもせずに、ただそこにあった。縫い目は、見えないまま強い。
俺は拳を握った。ゼロを追う網。なら、網の目より細くなる。足で、呼吸で、線の読み方で。
夜の路地で、もう1度。俺たちの番を取り返す。
そして、残した1枚の札は、きっと次の夜の入口になる。縫い目の道は、どこかの闇と闇を一筋で結ぶ。誰かの命令で引かれた線なら、俺たちの意思でほどけるはずだ。
「行こう」
俺たちは歩き出した。石畳の目地を、数える速さで。足音は等間隔ではなく、俺たちの速さで。遠くの荷車がまたミシ、と鳴った。音の辞書に、新しい言葉がひとつ増える。次の夜、その言葉が鍵になる。
そう決めて、俺は呼吸を整えた。昼は終わる。夜が来る。縫い目の道の上で、もう1度足を止めるために。
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