第17話 護衛と段取り
朝のギルドは紙の匂いが濃い。受付前の掲示板に新しい張り紙が増え、角がまだ寝ていない。俺は剣帯を半歩ずらして立ち、目地をそろえるみたいに呼吸を整えた。
「商隊護衛、出立は3日後だって」
セシルが書類を揃え、2重線の欄に指を滑らせる。ノアが隣で地図を広げ、白墨を手早く削った。
「前へ3日。出立を前倒し。群れの巡回拍と降雨線、両方を跨いで空白で抜ける」
「根拠は」
「森沿いの見張り台の鐘。昨日から拍がずれてる。あと、気圧配置。雨柱が来るのは5日目の午後。だったら、3日前倒しで行けば、橋も渡れるし谷の風も抜ける」
ノアは白墨で地図に小さな3つの点を打つ。タ、タ、タア。視線だけで拍が伝わる。俺はうなずいた。
「受ける。規定の中で、勝つ」
セシルが笑って、出立の許可印を2つ押した。
「観客はないけれど、規定は残すわ。致傷禁止。媒体破損は事前合意。医師のいる宿に必ず寄ること」
「了解。帰還優先。退路は3本」
ノアの口癖が、紙の上で骨になる。俺は心の中で3、2——1。紙が現実の線に変わる音がした。
◇
準備は平滑に進んだ。ノアの在庫表は白と茶の台紙で見やすく、●が消耗、▲が予備、◆が修理待ち。ミアは短い睡眠のあと、壁の糸筋を眺めて目を休めた。俺は靴底を軽量の補強に替え、鞘留めをひと穴詰める。
「3日前倒し、やっぱ効くね。体の拍が合う」
「段取りは刃だ。刃は鞘から出す前に半分勝つ」
出立の朝、商隊長が現れた。無駄のない目。口の開き方からして、数字の人間だ。
「出立は今日でいい。補給は済んでいるのか」
「全部、3日前倒しで済ませました。行程表、ここに。医師の名と宿の位置、連絡済み」
ノアが差し出す紙は左右の目地が気持ちいい。商隊長は一瞥して頷いた。
「頼もしい。荷は6台。護衛は君ら3名で足りるか」
「足りる。3、2——1。背中は俺が持つ」
「解析は私。導線は右へ1本」
ミアの声は小さいが、芯が通っている。
「補給と撤収は私。退路は2本」
俺たちはそれだけ言って、隊列の前と後ろに散った。白墨で描いた目地は、歩き出すと道の目地になる。
◇
街門を抜けると、見張り台の鐘がゆっくり拍を刻んでいた。タ、タ、タア。森の陰にざわめく鳥群。遠くで小雨の匂いがする。空白の時間は短い。ここで失敗すると、谷の風が重くなる。
「巡回拍、外に出るよ。半拍前進、停止、半拍滑りで抜く」
ノアの声が後ろから届く。俺は前列に立ち、荷車の間合いを見た。商人は息を呑んでいる。恐怖が踵を重くする。踵は目地を潰す。潰せば、継ぎは鳴く。
3、2——1。
半拍で歩みを少し早め、次で止め、次で滑る。小さな段差に膝を合わせ、荷車の車輪がコト、と軽く越えるところで後ろへ合図。ミアがそのタイミングに合わせて、荷の端の結び直しを2点指示した。
「右下、2点。ほどける」
「ありがとう」
森影から、薄い布片が空を滑った。符札だ。風を受けて曲がり、誘導でこちらへ直線を描く。前の方で商人が叫びかけ、俺は手だけ上げる。
「落ち着け。目は線じゃなく、継ぎを見ろ」
誘導の札は弧を描く。その弧が安定する前、空気に立つ細い筋がある。俺は半歩滑り、柄先だけをそこへ置いた。
「零式・線断」
ピン。音は耳の奥にだけ鳴り、札の安定線が霧のようにほどけた。現象は消えない。ただ、支えを落として黙る。俺は札の根元、紐の要を柄でコト、と叩く。紙片が、ただの紙に戻った。
「反則なし。1本」
誰かが息で言い、別の誰かが息を吐く音で頷いた。商隊長が声を抑えて言った。
「良い切れ味だ。媒体は無傷か」
「無傷。規定の中で、やる」
列は崩れない。拍は進み、森沿いの道を抜ける。見張り台の鐘が遠ざかる。空白の時間に、俺たちはすでにいる。
◇
正午、峡間の木橋。川風が冷たい。板に刻まれた歩数の印が古く、ところどころが磨り減っている。雨柱の前触れの雲が、遠くで集まってはほどける。
「順番拍を作る。前衛、荷、後衛。拍ごとに渡す。3、2——今」
ノアの声が橋の下に落ち、流れにさらわれるみたいに細くなった。俺は先に出て、手すりを軽く押し、軋みの場所を耳で探る。ミシ。板の継ぎが生きている。なら、踏む位置は半歩ずらす。左足を半寸内へ、右足は杭の真上へ。
「ミア、3秒だけブースト」
「了解。3、2——今」
ミアの手が軽く震え、空気の糸がピンと張る。渡り始めた荷車の車輪が、張りに乗って音を立てずに進んだ。商人が小さく笑う。俺は振り返らない。半拍のずらしを身体に置いたまま、向こう岸へ出る。
「次の拍で荷、流す」
ノアの指示に合わせて、2台目、3台目が渡る。雨の匂いが少し強くなる。遠くの谷で、風が向きを変える気配。白墨のルートに線を重ねるように、俺たちは橋を抜けた。
◇
午後、林縁の切り通し。道が急に狭くなり、岩が肩のすぐ脇に迫る。ここは嫌いだ。声が反響し、意図が不必要に広がる。そんな時に限って、声を上げるやつがいる。
「そこの商隊、通行料」
若い術士だ。学院の匂い。杖の高さ、目線の角度、肘の柔らかさ。どれも教科書通りで、卒業から時間が経っていない。後ろで商人の舌打ちが小さく鳴る。
「通さない理由はない。理由がほしいなら、証明してみせる」
俺は半歩だけ進み、杖の要を視線で探る。術士の口が開く。短詠。タ、タ、タア。完成拍が来る前に、俺は言う。
「3、2——1」
《無幻歩》。半歩の裏へ薄く滑り、間合いの継ぎへ体ごと差し込む。相手の足が驚きで止まる。杖の角がわずかに浮いた。そこに柄を当てる。コト。
《逆落》。杖の握りの合わせ目の脇。要は叩かない。支点だけ外す。杖は落ちない。落とさない。ただ、術は黙る。
「終わり。次」
若い術士は目だけ遅れて、唇が閉じる。仲間の男が肩を引く。彼らは肩で負けを言った。言葉はいらない。俺は隊列に戻る。商隊長が短く言う。
「無駄がない」
「段取りで勝つ。刃で遊ばない」
切り通しを抜け、視界が開けたとき、雲の縁が少し裂けた。雨はまだ落ちてこない。拍が味方している。
◇
夕刻、目的地の宿場町が見えた。屋根の重ねが斜めに並び、煙の筋が細く上がっている。門の外で商隊長が足を止め、俺たちに向き直った。
「無傷到着だ。荷も人も、遅れなし。記録に残す。次の依頼のとき、優先だ」
「ありがとう。医師のいる宿へ誘導する。印は2つもらってある」
ノアが書類を揃え、印の位置を指で示す。セシルの手がない場所でも、規定は生きる。俺は胸の奥で小さく息を吐く。ピン。張っていた糸がほどける。いい落とし方だ。
荷解きが始まる。商人が礼を言い、子どもが荷車の影から手を振る。ミアが目を細めて手を振り返す。俺は剣帯を半歩だけずらし直した。体の芯がひとつ揃う。
「今日はここで締め。明日の朝、風の抜けを見てから動く」
「了解。補給の表、夜までに更新。退路の2本目、確認しておく」
「解析は私。橋と切り通し、逆順で通るなら、錨は左へ寄る」
「受け取った」
宿の扉を押すと、蝶番がミシ。半呼吸おいて、もう1度、ミシ。
俺は顔を上げる。通りの端。黒外套の裾が、風に揺れたように見えた。気のせいかもしれない。だが、音は嘘をつかない。
「視線は外れない、か」
鼻の奥が冷える。俺は扉を閉め、内側から木落としをかけた。ノアが机に収支表を広げ、ミアが椅子の背に外套をかける。
「晩飯の前に、一言」
ノアがペンを止め、俺を見る。ミアも顔を上げる。俺は短く言う。
「段取りは刃。欠けは抜け道。規定の中で、勝つ。明日も同じだ」
「了解」
「了解」
短い返事が重なって、音にならない音が部屋に満ちる。外で、看板がまたミシ。半呼吸おいて、もう1度ミシ。2度のきしみが、夜の縫い目に残った。
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