第16話 幼馴染、現る
朝の市場は、色と匂いで満ちている。焼いた根菜の甘い香り。革油の匂い。威勢のいい声に、すり減った靴底が石畳を打つ音が混じる。俺は人の流れの合わせ目を読んで、半歩ずらしながら進む。足の裏が目地を踏まないように、癖で確かめる。
「レイ!」
振り向く前に、声の高さで誰か分かった。ノアだ。あいつは昔から、呼吸の入り方で自分の登場を宣言してくる。
振り返ると、髪をうしろでまとめたノアが大きめの背負い袋を下ろしていた。肩の線は薄いが、動きに無駄がない。袋の口は結び紐が2重。余りの長さも揃えて折りたたみ、端は小さな留め具でピンと止めてある。相変わらず、段取りの人間だ。
「遅れた。3日前倒しで動いたら、逆に早く着いた」
「倒しすぎだろ」
ノアはにっと笑って、俺の剣帯を指でコト、と叩く。
「半歩ずらし、今日も現役。行こう。まずは拠点の整備、次に依頼確認、最後に救護の導線作り」
「お前の中ではもう順序決まってるのか」
「決まってないと死ぬ。私たち、そういう場所に行くんでしょ」
言い返せない。あいつの言う通りだ。俺たちは王都行きを見据え、仕事の質を1段上げる必要がある。剣と魔法をぶつける前に、体勢を整える。戦いは、構造から勝つ。
宿に移動すると、ノアは荷をほどき、テーブルに薄茶の台紙を広げた。欄は2重線。記号が手書きで並ぶ。●は消耗、▲は予備、◆は修理待ち。
「在庫表、収支表、依頼カレンダー。まず骨組み。セシルは?」
「今日は学院で用事。夕方合流」
「了解。じゃ、始める。レイ、前回の消耗品の内訳、口頭で」
「油紙包みを小袋で計12。止血布、幅の違うのが3種で合計8。矢はセシルに預けた分含めて40。担架の帆布、ほつれが1。水袋、栓が1個甘い」
ノアは頷き、書き込み、目地を揃え、列を指先で整える。その所作だけで、気持ちがすっと整っていく。
「いい。じゃ、修理は◆でマーク。今夜中に私が縫う。戻り線はこの位置。退路は2本。宿から裏手の横丁、もう1本は表の傾いた路地」
「地図は頭に入ってる。ノア、契約関係は?」
「依頼書の雛形、作っておいた。報酬、前金、中止条項、危険手当。後でセシルと整合を取る。あと、救護の導線。市場で倒れた人が出た場合、搬送はこの順路。レイは切り込みで通路を作って。私は声出し」
「了解。生き延びろ。それが勝ちだ」
言うと、ノアの目が少しやわらいだ。こういう時だけ、昔の顔になる。
「それ、昔からの合図だね」
「ああ。合図だ」
荷の奥から、ノアが金具のついた細長い筒を取り出した。木じゃない。表面は布でも革でもない。触っていないのに、肌の上で空気がわずかに遅れて揺れた。
「それ、なんだ」
「収納。正式名称は言いにくいけど、簡単に言うと、荷物が早く出入りする箱。ほら」
ノアが指先を添え、低く息を吸ってから、ひと言。
「収納解放。担架、出す」
ピン、と音がして、筒の口がほどける。次の瞬間、細い光の縁がスッと走り、折り畳み担架が床に現れた。布は張りがある。枠は軽くて丈夫。俺の視界が1秒だけ、奥行きの感覚を失う。位相がずれたような違和感。すぐ戻るが、脳のどこかに、遅れて届いた箱の形が残った。
「今の、なんだ」
「説明すると長い。けど、安全。重いものもいける。規約も通した。王都へ行くなら、これが背骨になる」
「分かった。任せる。背中は俺が持つ」
ノアは満足げに頷くと、担架をもう1度仕舞った。その仕草はほつれ目の縫い直しみたいに滑らかだ。俺は剣帯を半歩ずらし直し、呼吸を3拍で整える。吸って、吐く、吐く。
市場へ戻ると、昼前の人出はさらに増えていた。露店の間を縫うように、荷車がきしむ。遠くで楽師の笛。俺たちは掲示板の前へ。貼り紙が何枚も重なり合い、角がめくれている。中でも、紙の質が良いものは依頼主がしっかりしている証だ。
「護衛が多いね。王都行きの商隊、来週発」
「商隊護衛、候補に入れる。日程、3日前倒しで段取り組めば安全側」
「お前の3日前倒しは、どこから来るんだ」
「買い出し、縫製、点検、睡眠の質。全部、3日前から波形が整う。だから、勝率が上がる」
ノアはさらりと言って、依頼の細目を書き写す。賠償の項、休憩時間、合図の種類。こういう細いところが、あとで命になる。
その時だ。掲示板の左側、人だかりの端から、低い呻き声が聞こえた。次いで、コト、と何かが落ちる音。振り向くと、青年が膝をついていた。顔色が悪い。額に汗。周囲がざわつく。
「レイ」
「分かってる」
俺は視線で合わせ目を探した。人の肩と肩の間に、1本の筋がある。そこへ半歩。肩線を半寸ずらして、ミシを最小で通る。ノアの声が背から飛ぶ。
「通します! 救護、通ります! 道、空けて!」
声の角度がいい。耳に刺さらず、滑る。人波がわずかに割れ、細い通路が生まれる。俺は青年の前に出て、片膝をついた。
「聞こえるか。立てるか」
青年は弱く頷いたが、立とうとしてバランスを失う。俺は胸元の動きを見て、呼吸のリズムを測る。吸いが浅い。吐きが長い。ゼロ酔いに似ている。無理に立たせると倒れる。
「ノア」
「収納解放。担架、出す。——はい、頭から乗せるよ。せーの」
担架が、ピン。滑り出る。ノアの両手が青年の後頭を受け、俺が膝裏を支えた。すんなり乗る。周囲の視線が集まったが、ノアの声がそれを押し返す。
「右側、2歩下がって。そこの荷車、止めの合図、出す」
通路が空く。俺たちは宿の裏手に決めていた搬送ルートに移る。石畳の継ぎ目を外しながら、角で速度を落とす。3、2——今。体の向きを先に回して、担架の重心が前に出過ぎないようにする。
宿の1階、空いているテーブルを簡易の救護台にする。ノアが布を2重で敷き、手を洗い、清潔な水を用意。俺は青年の靴紐を解き、足首の角度を見る。全体に脱力。大きな外傷はなし。
「軽い脱水。緊張と空腹も。塩水を少しずつ、舌に乗せる。呼吸は吸1、吐2。レイ、肩を支えて」
「任せろ」
指示が短くて助かる。ノアは止血布を小さく折り、冷やした布を額に乗せ、手首の脈を測る。数える声が安定している。青年の呼吸が落ち着くにつれ、頬に血色が戻った。
「ありがとう……」
「礼は後でいい。3拍だけ合わせて。吸って、吐く、吐く。そう」
やがて青年は座れるまでに回復し、連れの男が謝礼を置いていった。ノアは受け取ったコインを手の中でコト、と転がし、収支表に小さく記す。
「こうやって稼いで、使って、また動く。背骨の仕事」
「分かってる。剣は要だが、背骨がないと折れる」
俺は剣帯を軽く押し、位置を半歩ずらす。視界の隅で、看板が風に揺れ、ミシ、と小さく鳴った。2度、鳴る。昼の看板はあまり軋まない。違和感が小さく残る。
「ノア、今夜は宿で帳尻合わせだ。セシルが戻ったら、依頼の精査」
「うん。あと、修理待ちの◆、今日中に片付ける。針と糸、出すね」
ノアは収納を開き、裁縫道具を取り出した。針山、糸巻き、布切り鋏。どれも使い込まれているのに、刃先は鈍っていない。針を布に通す音が、ピン。俺はその音を背で聞きながら、帳場に座って紙を見た。数字の列。出入りの矢印。稼いだ分の幾らを備蓄に回すか。退路の確認。王都行きの段取り。考えるべきことは多いが、目地が揃っていれば怖くない。
夕方、セシルが戻ってきた。学院の制服の襟を整え、真面目な顔で在庫表を覗き込む。
「ノア、記録は二印で。今日の搬送は救護扱い、報酬は寄付含めてここに」
「了解。セシルは補給責任者の登録、していい?」
「賛成。役割の明確化は事故を減らす。退路は2本、合図は三種類。音、布、灯」
「布の色分け、よろしく」
会話が気持ちいい。短い文と短い返事。必要なものだけが並び、無駄が削がれていく。こういう整い方が、俺は好きだ。
その時、宿の扉が、ミシ。間を置いて、もう1度、ミシ。2度の軋み。俺は顔を上げる。扉の外、通りの端で黒い外套の裾がかすめた気がした。見間違いかもしれない。だが、空気が少しだけ遅れて揺れた。
「客か?」
宿の主人が首をかしげる。俺は立ち上がり、扉まで歩く。外は夕暮れ。赤い光が石畳に斜めの線を引いている。人影は多い。黒外套は、もう見えない。
戻ると、ノアが契約書の雛形に文字を走らせていた。
「商隊護衛の打診、来たよ。日程は1週間後。前金あり。危険手当は条件付き。道中の停泊地、風の抜け方が悪い谷が1本ある。3日前倒しで準備に入る」
「分かった。俺は道の視察。セシルは風の読み、頼む」
「任せて。気圧配置、前線の通過タイミング、全部見る」
段取りが決まる。紙の上の線が、現実の線と重なっていく。俺は剣帯をもう一度半歩ずらし、吸う、吐く、吐くで整える。
「ノア」
「ん?」
「来てくれて、助かる」
ノアはペン先を止め、片口角で笑った。
「こっちの台詞。私は背骨。レイは切る。セシルは風路。3人で1本」
「上等」
窓の外で、看板がまた、ミシ。2度。俺は視界の隅のその揺れを見ながら、紙の端を指で押さえた。揺れる線は、切るためだけにあるんじゃない。繋ぐためにもある。
夜更け、宿の灯が落ちた頃、外の路地で小さく足音が止まった。扉の向こうから、コト。短い合図のように聞こえた。俺は剣帯に手を添え、ノアとセシルに目で合図する。
「3、2——今」
静かに立つ。扉を開ける。夜の空気がひやりと入る。そこには誰もいない。代わりに、扉の蝶番が、ミシ。間を置いて、もう1度、ミシ。2度のきしみだけが、確かに残った。
黒い裾は見えない。けれど、何かがこちらを見ている。そんな気配だけは、はっきり分かった。
「確認」
どこかで誰かが、そう呟いた気がした。
俺は扉を閉める。肩で息を整える。吸って、吐く、吐く。王都へ向かう道は、もう始まっている。背骨も、要も、合図も、ぜんぶある。あとは、歩く順序を間違えないことだ。
「明日から、3日前倒しでいく」
「了解」
「任せて」
短い返事が二つ。俺はうなずき、静かな夜の中で、剣帯を半歩、ずらした。




