第14話 足と腰と呼吸
夜が薄くほどけていく。練兵場の土は冷えて、白墨の目地が露に濡れていた。誰もいない輪の中に立つと、足裏の冷たさが骨に届く。
剣帯を半歩ずらす。腰の落ちどころが決まり、胸の奥で拍が鳴る。
足。腰。呼吸。
3つで1つ。今朝やることは、それだけだ。
白線の外のベンチに、紙切れが1枚置かれていた。灰色の外套の繊維が、紙に1本だけ残っている。手書きの文字は乱れているが、意味ははっきりしていた。
半歩ずらせ。
紙端ははぎ目で、糸が少しほつれている。俺はそれを2つ折りにして胸袋にしまった。
砂時計を卓に置く音。ノアが眠そうな目で現れ、笛を軽く吹いて音を確かめる。
「砂は4本用意。落ち切る前にひと息入れること。無理はしない」
「了解。拍は俺が持つ」
白墨の輪をまたぐ。足裏の拇指球が土の糸を拾い、ピンと小さく張る。
「3、2——1」
声は胸の中だけで落とした。右足をほんの半寸、外へ滑らせる。腰が遅れて付いてきて、呼吸がそこへ沈む。
空気の張りが一瞬だけ強まった。だが次の歩で、俺は少し早く踏み込んだ。足首が絡み、膝が前に出る。
ミシ。
膝ではなく、意識のどこかが割れて響く音だ。体が前へ崩れ、手をついて止まった。土の匂い。白墨の粉が爪に入る。
ノアが駆け寄る。
「派手にいったな。大丈夫か」
「足が死んでた。半歩の分、腰が遅れた」
「水」
「あとでいい。1回ずつ埋める」
立ち上がって、もう1度。
3、2——1。
今度は吐く息を先に置く。足を滑らせるより前に、胸郭に半拍の空を作る。そこへ腰を落とし、足を遅れて運ぶ。
ピン。
糸は鳴った。が、肩が浮いた。肩線が半寸、前へ跳ねる。
ミシ。
割れの音がして、またバランスが崩れた。今度は転ばなかったが、土の目地がぶれて見えた。視界の端に白の縁が流れる。
胸の奥が、少しだけ遅れる。ゼロ酔いのはじまり。俺はそれを嫌う。すぐに3拍呼吸へ戻す。
いち、に、さん。
砂の落ちる音に合わせて、呼吸を浅く刻む。酔いは引いていく。
白線の外で、ミアが小さく手を振った。目の下に薄い色の布。過視の反動を抑えるための目隠しだ。
「右下、2点。腰の支点が、足の移動より半拍遅い」
「了解。腰を先行させる」
「あと、肩。片方だけ浮いてる。目地、左右で違う」
ノアが砂時計をすり替える。
「落ち切りで2分。区切ろう。倒れる練習は、練習じゃない」
「倒れない」
市壁沿いの細い路地へ移動する。漆喰に走る糸筋が朝日に浮き、細く白い筋が縦に並ぶ。衛兵の合図の拍が遠くで続く。
タ、タ、タア。
完成拍の直前。半拍の前隙。そこへ体を置く。
壁際に沿って進み、糸筋の1本を目で追う。右足の外側で土を軽く押し、腰で支点を切り替える。肩線は半寸だけ遅らせ、吐き終わりの刹那に足を滑らせる。
ピン。
ミシ。
2段の音が続く。裂ける前に張る。張ってから、解ける。
俺は半歩を滑らせ、空気の輪郭を肩で跨いだ。
中庭からカンの音。水桶がぶつかったらしい。音は無視。拍を崩さない。
「3、2——1」
低く言って、息の底で止める。足は地を離れず、地の方を近づける。半拍ぶん、相対をひっくり返す。
最初の3周は、まだ粗い。4周目の終わりで、ようやく体の中の糸と壁の糸が重なった。
ピンが長く鳴った。
足裏に残る土の柔らかさが、腰へ、肩へ、喉へ上がる。拍はしずかに整った。
「今の良かった」
ミアが言う。布の下でも、目が少し明るいのがわかる。
「腰の切り替えが間に合った。完成前の空に、入ってた」
「次は肩だな」
「うん。肩線を半寸だけ沈める。呼吸の底に合わせて」
白線の内へ戻ると、セシルが立っていた。両手に白墨と薄い水の瓶。髪は手早くまとめられて、額に汗がひと筋。
「おはよう。輪を使うなら、白線は消さないで。観客が勝手に寄ってくるから」
「借りてる。規定は守る」
「あなたの目は生きてる。でも、観客の目は興奮で曇る。線が盾になる」
「盾があるなら、刃を安心して使える」
セシルは頷いて、白墨を渡した。
「差し入れ。あと、これは伝言。受付に灰衣の人が紙を置いていった。名前は名乗らなかった。あなた宛てとだけ」
「もう読んだ。半歩ずらせ、だ」
「それだけ?」
「それだけで、十分」
「なら、十分ね。ほら、紙束。目地を揃えてから使って」
セシルは紙束の四隅を2回叩いてから渡した。角が揃う。目地が合う。
「規定は3行でいいの。長いと誰も読まない。短いと誰でも守れる。あなたの動きも同じであればいい」
「短く、守れるものにする」
「そう。3拍。1拍だけずらして」
セシルは踵を返し、受付へ戻っていく。腰の落とし方が美しい。あの落ち方は、書類の目地を揃える人間の落とし方だ。
ノアが横で笛を点検する。
「午前はあと3周。水を挟め」
「1周ごとでいい」
「言い換える。水を挟め」
俺は瓶を受け取り、喉を湿らせる。冷たい。舌に白墨の粉の味がわずかに残る。
「続き。市壁沿いのドリル、拍を外す」
壁際に立つ。
タ、タ、タア。
完成拍の半拍前で、肩を沈める。腰を前に送るのでなく、横へ逃がす。足は前へ踏むのでなく、地を手前へ引く。
ピン。
糸が澄んだ。
ミシは鳴らない。裂ける前に、張りだけが残る。
半歩は、歩幅ではなく、関係の変換だ。
俺はそれを体に刻むため、同じ動きを3回繰り返した。足裏の皮膚が土の目地を覚え、肩の位置が腰の言うことを聞く。呼吸は底で涼しい。
陽が上がるにつれて、広場に人が増えた。白線の外で見物して、すぐに去る者たち。
「ゼロだ」「朝から練習か」「昨日のあれ、見たか」
合唱の口元が、距離を保ったまま増える。線は守られている。セシルの盾はよく働く。
俺は砂時計を逆さにする。粒が細い音で走る。
「3、2——1」
息が底で止まる。
足。腰。呼吸。
3つがそろった瞬間、詠唱のタアが遠のく。術の完成の手前で、俺だけが外へ出る。
そこで切る。
柄の角が掌の皮に当たる。骨の位置が寸分違わぬところに来る。音は出さない。出すのは気配の消え方だけ。
空気の輪郭が、俺を避ける。いい。これが欲しかった。
輪から出たところで、ミアが水を差し出す。
「顔、色が戻ってる。酔いは消えた」
「呼吸の順番を変えた。吐いてから置く」
「肩は半寸沈める。腰は右下に錨」
「その言い方、助かる」
「うん。合図いる?」
「あと1周。ひとりで入る」
俺は視線を上げて、市壁の上を一度だけ見る。灰色の布の裾が風を掠めて、すぐ消えた。気のせいかもしれない。それでいい。存在は音で足りる。
看板の蝶番がミシ。半呼吸おいて、もう一度ミシ。
門は二度きしむ。俺はそれを合図に替える。
最後の周は、言葉を使わない。
息。
足。
腰。
それだけを順番に置く。
タ、タ、タア。
拍が流れてくる。俺はその川から半歩だけ岸へ出る。濡れない。濡れないことが大事だ。
ピン。
張り。
それから、わずかにコト。
柄が空気の縫い目を撫でる音。手のひらの皮膚が、それを記憶する。
砂が落ち切る。ノアが笛を鳴らす。短く、同じ高さ。
「午前はここまで。飯」
「先に板に書く」
「書くのは机でやれ。粉を吸うな。肺が白くなる」
「すぐ終わる」
練兵場の端の板に、白墨で3つの字を置く。
零。
線。
断。
並べてみると、まだ刃の形になっていない。順番の候補だけがある。俺は鼻で笑って、線の粉を払った。
「終わり。次」
昼は簡単に済ませた。ノアが用意してくれた固いパンと薄いスープ。ミアはハーブの袋を指で潰し、香りを出してから湯に落とす。
「午後はどうする?」
「壁をやめて、開けた地で歩法の連結。間合いを潰す動きと、呼吸の底を結ぶ。昨日の試合で見落とした穴が1つある」
「どこ」
「半拍から戻る時、肩の返しが遅い。逆落の角が遅れる」
「じゃあ、角度から入る」
「そう。支点の切り替えの練習だけを30本。数は少なく、質は濃く」
午後の空は白く、風は弱い。広場の端の石畳に白墨で薄い十字を描き、そこを支点にして回す。
足裏が十字を踏まないように、でも十字の外縁をなぞるように、半歩を滑らせる。
コト。
柄の角を、目に見えない糸にそっと当てる。
ピン。
張る音が遅れて返る。
「今の角、良かった」
ミアの声が飛ぶ。
「角じゃなく、支点で触った。合ってる」
「じゃあ、あと2本」
ノアの声は淡々としている。砂時計を逆さにして、次の拍を呼ぶ。
3、2——1。
俺は十字の外縁を踏んで、角を落として、支点を切る。
空気の輪郭が、俺の動きに合わせて薄くなる。拍に居場所がない。いい。そこを掴め。
夕方、練兵場に影が伸びるころ、セシルがまた来た。書類の束を抱え、目地は相変わらず完璧だ。
「ひとまず、今日の使用記録。怪我なし、破損なし。白線は維持。ありがとう」
「助かった。盾があると、刃の角度を気にできる」
「あなたは刃より、刃の前にある線を見ている。そういう目は、うちにとってありがたい」
「線で勝つ。規定の中で」
セシルは笑って、板へ視線を移した。
「それ、名前?」
「順番の試し。確定はまだ先」
「並び替えてごらん」
「明日、切る時に決める」
「なら、もう決まってるのと同じね」
彼女は去り際に、白墨の小枝を1本だけ残した。指の跡がついている。使いやすい長さに折ってある。気が利く。
門がまた、ミシ。
半呼吸おいて、ミシ。
灰衣の裾が見えた気がした。視線は上げない。音があれば、十分だ。
俺は板の前に立ち、もう1度3つの字を見た。
零。線。断。
言葉はまだ刃じゃない。
だが、刃を入れる場所は、もう見えている。
宿へ戻る前に、もう1本だけ歩法の連結を通す。
3、2——1。
吐く。
腰を切り替える。
足を外へ滑らせる。
肩を半寸沈める。
ピン。
張り。
どこにも無理がない。
ここから先は、言葉だ。
明日、切る。
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