第11話 呪泉の修復依頼
朝の空気は、まだ冷たい。
村外れの小道を抜けると、木々のあいだから濁った水面が見えた。泉だ。噂は呪い。実際は――たぶん、合わせ目のズレ。
村の長が両手を袖に入れたまま、淡々と状況を伝える。
「水が濁って半年。家畜も近づかない。期限は3刻。結果で払う」
「受ける。規定の中で、勝つ」
剣帯を半歩ずらす。合図。足、腰、呼吸――3つで1つ。
俺は泉の縁まで歩き、濁りの境を目で追った。
「ミア。解析は3分、休み1分。いつも通りでいく」
「うん。視るね」
ミアは膝に手を置いて深く息を吸い、指をひらりと動かした。
視線が静かに定まる。
「式、展開。……2箇所、ずれてる。錨、弱い。ひとつは護岸のはぎ目、もうひとつは水面の下、薄い輪の筋」
「位置、座標で」
「右下二尺。もう一つは、中央から手前に半歩。薄い線、ゆれてる」
「了解」
俺は白墨で護岸石に小さな3点を打つ。支点、合わせ口、逃げ線。
退路は小道側へ。転落防止にロープを腰に回し、杭に通す。
ノアなら、ここで退路標を打ち、3秒稼ぐと書き足すだろう。空席の椅子を思い出し、代わりに布切れを枝に結んだ。
◇
まずは護岸。
柄で石の縁を撫でる。
ピン。
線の音。生きている。
合わせ目を探す。
ミシ。
ここだ。呼吸を3拍で整える。
「3、2――1」
糸留めだけを、コトリ。
水がひと呼吸ぶん、軽くなる。濁りの層が薄紙みたいに剥がれた。
「右下二尺、もう少し深く」
ミアの声は短い。
同じ要領で、もう1点。
コトリ。
護岸の歪みが整い、流れがわずかに戻った。水際の藻が、静かに揺れ方を変える。
「いい。次は水面直下の薄輪」
「中央から半歩、左へ4寸。安定線が立つ直前。……いま、ピン、来る」
俺は膝をつき、指で水を割った。冷たい。
水肌の下で、糸のような張りが立ち上がる瞬間がある。ここだ。
刃は抜かない。
包みの中の剣の記憶を、指先と柄でなぞる。
点と点の間に、最短の線がある。
そこだけ、切る。
撫で斬る。
音はほとんどない。けれど、胸の奥で、確かに針が鳴る。
ピン。
次いで、薄い歪みがほどける気配。
ミシ。
留めが外れる、最小の手応え。
コトリ。
濁りが、沈んだ。
まるで曇ったガラスを拭いたみたいに、水が1段で澄む。底の石が、形で見える。
「いまの……章を削った、のとは違う。線だけ、消えた」
ミアが小さくつぶやく。
「名はまだいらない。運用だけ、重ねる」
「うん。次の線、消せる。右手前、浅いほう、二点」
「了解」
俺は呼吸を揃え、指で水を割り、もう1度だけ、線の端を撫で斬った。
濁りが引き切れ、泉の輪郭が戻る。護岸の石に刻まれた目地まで見えた。
「終わり。次」
◇
村の長は長く息を吐き、胸の前で手を合わせた。
「助かった。水を汲める。……これは礼だ。手当ては言っていた通り」
小袋が手のひらに乗る。重い。
俺は中身を見ない。袋の口を閉じ、帳面に短く書く。
入金、1件。支出、未定。
生活は続く。数字は、線だ。線は、継ぎ、錨で留める。
「しばらく様子を見る。濁りが戻ったら、すぐ知らせてくれ」
「承知」
俺は白墨の印を水際から拭い、ロープを解く。
ミアが額に手を当てる。
「だいじょうぶ?」
「うん。いまのは短かった。頭、まだ軽い」
「休む。3分」
「休む」
木陰へ移動し、甘い干し果物をひとかけ口へ入れる。
胸の前でバツ。呼吸が整うのを待つ。
◇
休憩のあと、泉の底をもう一度、遠目で見る。
澄んだ水の奥、護岸の延長線から少し外れた場所に、四角い板のようなものがある。
光でも石でもない。
柄の先で水をそっと押し、角度を変えて覗く。
幾何の文様。目地が連なり、縫い目が重なる。
触れずに、縁の空気だけを拾う。
ゴリ。
胸骨に重さが落ちた。音の色が違う。
「錨……大きい」
「ミア、見るな。負荷が高い」
「うん。輪郭だけ。……これ、分かる。世界の大きな式の、切れ端。継ぎ板みたいな」
「端材か」
「うん。だから、この泉に人が集まって、村になったんだと思う。錨が、すわりがいいから」
納得のいく推測だった。
世界は、目に見えない線で立っている。
なら、町や道が生まれる場所には、いつもどこかで錨がある。
俺はうなずき、板から目を外す。
「今は触らない。図だけ覚える。戻って描く」
「賛成。長く視るの、よくない」
「戻ろう。報告をまとめる。現場の盾にする」
◇
歩きながら、手帳に短い線を描く。
護岸のはぎ目、二点外し。
水面直下の薄輪、線を撫でて切る。
底の継ぎ板、錨。未処置。
復水、安定。確認は翌朝。
危険は低。遭遇なし。
音の記録、ピン、ミシ、コトリ。底のみ、ゴリ。
「レイ」
「ん?」
「いまの線、切るの、ほんとうにすき。静かで、きれい」
「俺もすきだ。生き延びるために、きれいなほうを選ぶ」
「うん」
短い会話。
それだけで、胸の針が小さく鳴った。
ピン。
◇
村の外れまで戻ると、日は傾き始めていた。
報告の要点を村の長へ伝え、書面を残す。
印をひとつもらい、2重線の控えを手帳に挟む。
制度に刻まれた線は、強い。紙の目地を揃えておけば、いざという時に盾になる。
「明日、もう一度だけ見に来る。水の色が変わったら、笛を」
「わかった。助かった」
村の長は短く頭を下げ、俺は軽く会釈で返した。
◇
帰り道。
風が泉の方角から遅れてやって来る。
草の縫い目が、わずかにきしんだ。
ミシ。
いつもの通過音。
振り返らない。
拍は外せる。視線は外れない。
俺はミアの歩調に合わせ、半歩の位置を微調整した。
「明日、図にする。線と錨と合わせの位置。ノアが見たら、追記が増える」
「3人目、はやく来るといい」
「ああ。空席は空いたままで、意味がある」
歩きながら、俺は数える。
3、2――1。
呼吸が揃い、足の縫い目が崩れない。
空が橙へ傾き、村の屋根に影が延びる。
◇
宿に着くころには、灯が点り始めていた。
部屋の鍵を2重に回し、白墨の点を足元にひとつ加える。
机に手帳を広げ、泉の図を描く。
護岸。はぎ目。二点。
水面の薄輪。安定線。
底の継ぎ板。錨。
「見直す」
「うん」
ミアは指で右下をさし、2度、同じ場所を軽く突く。
右下、錨。二点、合わせ。
俺は復唱し、欄外に小さく記す。
合図は短く、いつでも通る。
窓の外を、風が撫でた。
枠が短く鳴る。
ミシ。
半呼吸のあと、もう1度。
ミシ。
「扉は、2度きしむ」
「こわい?」
「違う。次の合図だ」
独り言は短い。
俺は胸の奥で針をひとつ弾き、灯をひとつ落とした。
ピン。
「終わり。次」
明日は確認と、次の依頼。
規定の中で、勝つ。
剣はまだ抜かない。
選ぶのは、刃ではなく、選択だ。
最後までお読みいただきありがとうございます。
「面白かった!」
「続きが気になる、読みたい!」
「今後どうなるのっ……!」
と思ったら
下にある☆☆☆☆☆から、作品への応援お願いいたします。
面白かったら星5つ、つまらなかったら星1つ、正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!
ブックマークすると更新通知が受け取れるようになります!
ブクマ、評価は作者の励みになります!
何卒よろしくお願いいたします。




