第10話 3人目の席は空けておく
朝の診療所は、湯気と木の匂いが混じっていた。
ミアは椅子に座り、額の包帯を指でそっと押さえる。表情は悪くない。眼の焦点も合っている。
「動けるよ。式、少しなら見える」
「無理はさせない。情報が先だ」
医師は脈を取り、短く頷いた。
「過視は引きぎみ。視るのは最大で3分、同じ時間は必ず休む。甘いものを少し、睡眠は多め。夜は出ないこと」
「了解。運用に落とします」
俺は荷物を持ち、剣帯を半歩ずらした。合図。足、腰、呼吸――3つで1つ。
診療所の扉を開けると、蝶番が短くきしんだ。
ミシ。
半呼吸のあと、もう1度。
ミシ。
門は2度きしむ。今日も、誰かの視線は外れない。
◇
宿を替える。
選んだのは、表の大通りに面していて、裏口が市場へ抜ける小さな宿だ。出入口が2つ。夜は鍵を二重にできる。廊下の目地も整っている。
「2人部屋をひとつ。裏口は朝、何時に開く」
カウンター越しに尋ねると、宿主は帳面をめくった。
「夜明けの鐘から。裏は市場の準備で人通りが早い。静けさは保証できないが、逃げるには良い」
「裏から市場、そこから大通り。3手で抜ける。鍵は表裏とも二重に」
「任せなさい」
鍵束を受け取り、階段を上がる。
段差のはぎ目を踏まないよう、半歩ずつ位置をずらす。部屋の扉を開け、窓のピンを確かめ、枠の隙間を指でなぞる。
机を壁際から少し離し、足の引っかかりを消す。椅子を窓から半歩だけ奥へ。寝台は窓直下を避け、壁沿いに回す。
白墨で床に小さな点を打ち、退避線を矢印で引いた。
「こっちが裏口、ここが集合。迷ったら白い点を追う」
「わかった。点と線で、覚える」
ミアは机の上で指を動かし、小さな印を重ねる。
指先の震えはもう目立たない。呼吸が揃っている。
◇
生活は、武装だ。
昼前、必要なものを買いそろえる。護身用の木棒を2本、布テープと白墨、笛を2つ、甘い糖蜜の小瓶、保存食に乾いたパン。
秤の針が揺れて止まる。
「合計で2kgまで。軽いほど線を追える」
「うん。これなら大丈夫」
残金を計算する。
出発前は1.2G。宿の前払いで0.2G。日用品で0.4G。残りは0.6G、うち予備を差し引いて可処分0.4G。
次の依頼は必須だ。
「安全等級は★か、せいぜい★★。広域は避ける。点から線に育てる仕事を拾う」
「わたし、タグ付けできる。距離は10歩までなら、はっきり」
「了解。無理はしない」
笛の鳴らし方も決める。短音を2回、長音1回で集合。
木棒の握りを布で巻き、ミアの手首には布テープのリングを作った。引けば外れる仕掛け。掴まれたら即座に離脱できる。
「重くないか」
「うん。軽い。指が冷たくならない」
「それでいい」
◇
午後は、合図の仕様を合わせる。
机に白墨で短冊のように書く。
指2本は3秒後に動く。
視線が右上なら、俺が半歩先に抜ける。
地面を2回タップしたら、即伏せ。
右下を指したら錨。
二点は合わせ目。
胸の前のバツは休息。
「3、2――一。動く」
俺が言い、ミアが指を2本出す。
3秒後、同じ方向に半歩だけ滑る。
動きが揃う。呼吸が揃う。
背中に汗が薄く浮き、だが体は軽い。
「右下、錨」
「了解。支点をコト」
木棒の柄で、床の節を軽く突く。空気が少し緩むのを、ミアの首の傾きで確認する。
二点、合わせ。
撫でて、ほどく。
コトリ。
「よし、次」
繰り返し、繰り返し。
3分やったら3分休む。甘いものを少し舐める。
ミアは胸の前でバツを作り、肩を上下に1回だけ揺らして呼吸を整える。
「楽にできる。頭も痛くない」
「いい流れだ」
窓の外で荷車が通る音。市場から果物の匂い。
部屋の中に、使い勝手の良い沈黙が降りた。
◇
夕方、ギルドで依頼を3つピックした。
街路の見回り、倉庫のタグ整理、泉の護符点検。どれも安全等級は★から★★。
受付に顔を出すと、セシルが目だけ笑って書類の角を揃えた。
「医師印は有効。今日は休める。明日の朝、見回りひとつ空いているけど、取る?」
「取る。規定の中で、勝つ」
「よろしい。ではこれ。もし何かあれば、笛を。巡回に回る」
「助かる」
短い会話で済ませ、俺たちはすぐ宿へ引き返した。
通りの灯が順々に灯る。空気が夜に替わる手前。扉は、相変わらず2度きしむ。
◇
部屋に戻ると、机の上に椅子を3脚並べた。
コップも3つ。
ひとつは空のまま。
ミアが首を傾げる。
「3人目」
「うん。3人目の席は空けておく」
「ノアって、どんな人」
「うるさい。計画が強い。俺の無茶を、計画の内側に縫うやつだ」
「へえ。会ってみたい」
「会える。伝言があった。王都寄りで合流可、だそうだ」
宿主が置いていった木札を机に置く。角の欠けは小さいが、削り方が几帳面だ。ノアらしい。
俺は息を細く吐き、椅子を見渡す。
「足りないものは、その席が教える。水がない、布がない、地図が古い。そういう綻びを、空席は教えてくれる」
「席が、錨になる」
「ああ。生活の錨だ」
ミアはコップを3つに指で小さな印を付け、砂糖と水を入れ替えて並び替えた。
俺は笑って頷く。
こういう遊びが、線を確かめる。
◇
夜の稽古は軽く。
半歩ずらし、木棒の柄で支点に触れ、合わせを撫でる。
ミアは指で短く指示を出す。
指2本、3秒後。
右下、錨。
二点、合わせ。
胸の前でバツ。休む。
3分やって、3分休む。
甘いものを1口。
この繰り返しが、いちばん強い。
「明日の見回りは、道標の合わせ目を2点外す。危険があれば、即撤退。笛は短2、長1で集合」
「了解。距離は10歩までなら、はっきり見える」
「俺は背中を持つ。前だけ見ろ」
「うん」
ミアの返事は短いが、芯が立っていた。
◇
窓を閉め、鍵を2つ回す。
表の鍵、裏の鍵。
錠前のピンが、指先の感触で噛み合う。
白墨の矢印を足元にもうひとつ描き足し、机の端には明日の手順の紙を置いた。
起床。
甘いものをひと口。
呼吸合わせ。
見回りルート、3本。
戻り道、2本。
笛の合図、共有。
危険は即撤退。
仮保護、二印で盾。
記録、必ず残す。
「レイ」
背中でミアの声がする。
振り向くと、彼女は空席の椅子に視線をやった。
「その席、わたしの友達も座れるかな」
「座れる。強い計画は、席を増やす」
「なら、はやく、来るといいね」
「ああ。はやく、来るといい」
俺は灯をひとつ落とし、部屋の輪郭を柔らげた。
ベッドと床の間の線が夜の色に沈み、白墨の点だけが小さく光る。
風が通り、窓の枠がわずかにきしむ。
ミシ。
半拍おいて、もう1度。
ミシ。
視線は外れない。
拍は外せる。
なら、準備で勝つ。
俺は胸の奥で針をひとつ弾いた。
ピン。
「寝よう。明日は早い」
「うん。3、2――1」
同じリズムで目を閉じる。
呼吸が揃い、部屋の音がゆっくり薄くなる。
空の椅子が、夜の中で静かな錨になっていた。
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