5 天使の離宮
「……やれやれだわ」
ドレスを持ち上げて馬車に乗り込んだテレーザは、深く息を吐いた。
元婚約者との別れより、その後の天敵との会話のほうにずっと疲れた。本当に嫌な男。
――世が世なら、ディ・フェッロ家に煩わされることなんて、考えられないはずなのに。
「……〝天使宮〟へ向かって! 人の少ない道を通ってね」
詮無い思考を振り切るように鋭く命じ、窓を閉めた。動き出した馬車の傍らを、馬に乗ったロベルトが伴走している。
蹄の音を聞きながら、テレーザは夜明けまでの残り時間で自分ができることについて考えた。
いや、『できること』ではない。正しくは、やるべきすべてのことについてだ。
***
王宮の背に隠れるように建つ離宮は、門柱の上に、弓と槍を構える対の天使像を据えている。
だから、通称天使宮。前時代の政治の中心地であるそこは、公的な行事などにはほとんど使われることがなく、王宮に比べれば人も少ない。
だからきっと、今夜ここに自分が来たことを、これから会う人物に黙っていてもらうことはそう難しくないだろう。
二階の応接室に通されて、美しいカーテンの隙間から窓の外を見ていたテレーザはそう考えて、自分の胸元で拳を握った。
それに、成り行きによっては、向こうもテレーザと会ったことを人に知られたくないはず。
「……待たせたな、テレーザ・コッラーロ伯爵令嬢」
落ち着きのある声に、ひそかに息を吐いたテレーザが振り返る。
侍従の開けた扉から入ってきた人物こそ、第二王子エミリオだった。
異母兄であるカルロと同じ褐色の髪に、しかしカルロとは違う緑の目と、物静かな雰囲気をまとう青年。母親の違いは骨格にまで出るものなのか、十七歳にしては華奢な佇まいが目に付いた。――服装の違いだと思いたいが、自分よりも細身かもしれない。
百合の花にも例えられる王子に、テレーザは正面から向き直って静々と礼をした。
「とんでもございません。このような時間に突然のご訪問、お会いになって下さった殿下の寛大なお心に、テレーザは深く感謝いたします」
「気にしなくていい。この国でこの時間に寝ているのはもっと小さい子どもだけだ。それに、テレーザ嬢はもうじき兄上の……」
話しながらテーブルに面したソファに座ろうとして、エミリオは自分の言葉に虚を突かれたように固まった。そして長いまつ毛を少し伏せ、気まずそうに目を逸らす。
「……そうか、あなたのことは、もう義姉上とお呼びしたほうがいいのかな」
口元にはかろうじて笑みを浮かべているが、瞳には憂いを浮かべたエミリオが、テレーザにも座るよう促した。
その複雑な表情を見て、テレーザは自分の憶測が間違っていないことを確信した。
わずかに顎を引いて王子の向かいに座りながら、口元に笑みが浮かびそうになるのを懸命にこらえる。
見込んだ通りだ。カルロに狙いを定めていた手前、表立って話す機会は少なかったが――。
「いいえ殿下。この不躾な訪問をお許しくださるならば、どうぞ今はテレーザとお呼びください」
――エミリオは、テレーザに気がある。
今までにも、彼の視線を感じることはあった。おそらく兄に遠慮して、テレーザに近づけなかったのだろう。
それを踏まえて、テレーザは笑みを消して目を伏せた。
「そして、明日から先は決して、わたしの不躾さをお許しにならないでください。神様はわたしたちが親しくお話する時間を、あまり与えてくださらないようなので……」
エミリオがはじかれた様に顔を上げたのがよくわかる。
「まさか、兄上と何か?」
「……お別れを。結ばれない運命だったようです」
テレーザは膝の上の両手を見つめて黙り込んだ。ドレスから露出した白い肩に、黒い髪が一房かかっているのはわざと払わない。
「明日にはもう、わたしは王宮にも離宮にも、簡単には入れません。入る理由がありませんから。だから最後に、エミリオ殿下とお話してみたかったのです。きっと別の世界では、わたしたち良き義姉弟になれたはずですから」
語尾を震わせ、拳で口を押え、さらに横を向き。
いかにもな弱々しさを見せつけてから、ほんの数秒。かすかな衣擦れと、ためらいがちな靴音が耳を打つ。
――おや。
「……どうか、落ち込まないで」
視線を上げれば、エミリオの美しい顔が間近にあった。テレーザの真横に移動してきたのだ。
――奥手かと思っていたが、女と距離を詰めるのにはためらいがないらしい。でも肩にも手にも触れてこない。ここが兄との違いか。テレーザは潤んだ目でぱちぱちと瞬きを繰り返しながら『ふーん』と標的の行動の傾向をインプットする。
だが、この距離感は、テレーザにも好都合だ。
「カルロ兄上は軽薄なところもあるけれど、根は善良な方だ。きっと何か誤解、が……」
テレーザが振られた側だと思っているらしいエミリオの声が、途切れた。菫色の目から、涙が一筋落ちたからだろう。
「お優しいのですね、殿下。……こんなにわたしを思いやってくださる殿方を、テレーザはほかに知りません……」
「テ、テレーザ嬢……」
座面についたエミリオの手にそっと自分の手を重ねれば、王子の声が分かりやすく震えた。
身を引くそぶりは見せるが、戸惑う瞳はテレーザから逸らされず、手も振り払おうとはしない。
迷い始めているのだろう。手を出してはいけなかった女が目の前で、弱り切った様子で、自分に甘えた声を出す状況。しかも別れたばかりとはいえ、誰のものでもない。手を出しても、誰にもとがめられない。
きっと自分の中の欲望と倫理観のはざまで揺れているに違いない。
――なら、あと少し。
「夢のような日々でした。あなたと話せた奇跡を、テレーザはきっと忘れません。さようなら、明日には故郷に帰って、きっと尼僧になるでしょう。どうかお元気で、……わたしのエミリオ様」
微笑み、エミリオの手に少しだけ体重をかけて、唇を寄せて囁いて、――そしてためらいなく身を引く。顔を背けて、ソファから立ち上がる。
その手を、背後のエミリオに強く掴まれるのを見越したうえで。




