3 金髪の番犬
「お告げですって? ばか! 夢を真に受けて玉座を捨てるだなんて、古代皇帝だってもう少し理性で生きてたわよ!」
テレーザは拳を握りしめ、壁に向かって吐き捨てた。その背後で、護衛の老騎士は目撃者がこないかと周囲を見渡している。
「何より……あの男に構って貴重な時間を浪費した自分が、何より大ばか!」
もしかしたら、立太子が近づく中で、あの能天気な第一王子もプレッシャーを感じていたのかもしれない。逃避願望のようなものが、都合のいい夢を生み出したのかもしれない。
杞憂だったのに。立太子のプレッシャーなんて、カルロが感じる必要なんて全くなかったのに。
王国の統治なんて、妃となる自分とその実家に任せてくれれば、万事それでよかったのに。
(……ぬかったわ。カルロ殿下が風邪をひいたと知った時に、無理にでも見舞いに行くべきだった。不安につけいる変な夢に王冠を取り上げられるくらいなら、キスさせるなり胸の一つや二つ触らせるなり、全然許したのに!)
こうなると、身体接触をできる限り避けていたのも悪手だった気がしてくる。手の早いカルロに長く自分を追わせる作戦だったのだが、おかげで彼を俗世に引き留める手段がなにもなかった。
妊娠していると嘘でも言えれば、彼はお告げの意味を、朝夕のお祈りの時間を少し長くするくらいに捉えただろう。――というか、テレーザの父がそうさせただろう。
だが、もうすべて手遅れだ。カルロは浅慮で単純だが、決心はそうそう覆さない。テレーザとの交友を側近に止められてもやめなかった意思の固さはよく知っている。
珊瑚の唇から、重いため息がもれた。
「……消えた未来を恋しがっても仕方ないわ。あの人には、お望み通り修道院に入ってもらいましょう」
それに見方を変えれば不幸中の幸いだ。誰も予想していなかったであろうこの事態を、早めに知ることができたのだから。
おかげで早くに手が打てる。将来、伯爵位を弟が継ぐ頃には、コッラーロ家がこの国で再び栄華を極めていられるように必要な手を。
したたかで抜け目ないローベルシア貴族たちが、まだテレーザとカルロが婚約していると思っている今夜のうちに。
「……サリーニャに帰っているお父様の判断を仰ぐ時間は、ないわね」
ほんの短い時間、テレーザは黙って考えこんだが、やがて迷いのない足取りで歩き出した。
「お嬢様。恐れながら、どちらに?」
護衛のロベルトが、白い口ひげの下から問いかける。帰る足取りではないことを察した従者に、テレーザは小声で告げた。
「情報通のバルディーニ伯爵夫人を探すのよ。きっと彼女も今夜、ここに来てるでしょうから。急ぐわよ、カルロ殿下が修道生活下では女を抱けないと気がついて翻意する前に」
「バルディーニ伯爵夫人に?」
問いを重ねた従者に、テレーザは丁寧に言い直す。父の従者も務めた老騎士を、テレーザは無碍にはしないと決めていた。――すぐ父に告げ口されるからだ。
「彼女なら、今夜エミリオ殿下がどこにいらっしゃるのか、この劇場にいるのなら、はたしてどちらのボックス席にいらしているのかご存じでしょうから。ごく親しいご友人のところだったら、入り方を考えないと……」
よどみなく話していたテレーザは、しかし進む先に目をやって、続く言葉をのみ込み、足も止めた。
廊下の先に男性がいる。たった今、劇場から出てきたところのようだ。
十メートル以上離れた位置にいるテレーザの声が聞こえたはずはない。だがテレーザの視線を追ったロベルトも、遅れて表情を険しくした。
遠目にもその人物を特定できたのは、黒や褐色の髪が多いこの地域にあっては珍しい、金髪だったからだ。礼服でも一目でわかる堂々とした体躯と同様、いずれも異国生まれの母親の血筋によるものと、周囲には推察されている。
「……お嬢様、こちらから行きましょう」
護衛も兼ねるロベルトが、険しい声で右手の曲がり角を示した。
だがテレーザは、手を小さく挙げて提案を拒んだ。
挙げたその手でドレスのポケットから目薬を出し、さっと両目にさして、まばたき数回でなじませる。瞳孔を少し広げて、女をかわいらしく見せる効果がある。
そして先ほどよりも大きな歩幅で、まっすぐ前に歩き出した。向こうがテレーザに気づいた。だがペースを乱すことはない。
ほどなくして、その人物の目の前に到着すると、テレーザは花ほころぶように微笑んだ。
「こんばんは、ディ・フェッロ卿!」
テレーザが近づいてくるのを見ていながら、寄りもしなかれば退きもせず、その場でじっと待ち構えていた男が口を開く。
「……こんばんは、テレーザ・コッラーロ伯爵令嬢。今夜はずいぶん機嫌がよろしいようだ」
笑顔で話しかけてきた相手に向けるには、冷たすぎる声。
嫌悪が透けて見えるような灰色の目で見下ろされ、テレーザの唇が引きつりかける。
落ち着け。この程度、今に始まったことではない。
そう自分に言い聞かせ、扇子を開く。
「もちろんよ。だって今夜の公演はずっと前から話題になっていた新作で、しかも思いもよらない方とお会いできたんだもの。ローベルシアで一番オペラが嫌いと噂のフランツ・ディ・フェッロ卿、あなたにね」
テレーザは目を細めて唇で弧を描き、いかにも嬉しそうな顔を作った。
過去、テレーザの実家の噂を知って警戒を敷いてきた人間たちをことごとく『いや、まあ、家と娘は別物、かもしれないし!』と翻意させてきた、華の微笑みだ。
だが、金髪の男は片眉を少し上げただけだった。
「……なに、今夜は昔の上司家族に誘われたから来ただけさ」
薄い唇はそれきり、また心底つまらなそうに引き結ばれて動きを止めた。手でこじ開けようとしても、びくともしなさそうだった。
――フランツ・ディ・フェッロ。名門侯爵家の嫡男にして、将来有望な士官。そしてテレーザに言わせれば、情緒を弾丸と共に訓練場へ射出して、空いた箇所に筋肉を詰めてしまった男。
それはすなわち、もっぱら相手の情に訴えかけ、懐に入り、自分の足場を固めてきたテレーザには、取り入るとっかかりがない人物と言えた。
いや、とっかかりがないどころではない。
天敵だ。
ありていに言えば、テレーザはこのフランツという男に嫌われていた。
理由は想像に難くない。大方『たいして国に貢献もしていないコッラーロ家から、王子妃が出るなんて気に入らない』といったところだろう。
もちろん、年頃の娘を持つ貴族はみんな似たような気持ちを抱いているに違いない。だがとりわけ、フランツからは特にその思いが強く感じ取れる。
きっとディ・フェッロ家が、現王家の最古参家臣の一角だからだ。カルロの祖先が、フランツの祖先を傭兵から家来へと取り立ててから、かれこれ三百年近くたつ。
一方で、コッラーロ家がこの王国の貴族になってから、まだ二十年しか経っていない。貴族としての実態はもっと古くから――それこそディ・フェッロ家より古くからあるとはいえ、少なくとも最近まで『外国人』だったのは確かだ。
そんな新参がカルロに近づいたことが、ディ・フェッロ家次期当主の警戒心をいたく刺激したのだろう。
(まったく。幼少期なんてほとんどツァーベル育ちという噂なのに、いっぱしに王家の番犬のつもりでいるのね)
テレーザは今にも舌打ちしそうな口を扇で隠しながら、色素の薄いフランツの顔を見つめた。
――懇意にしている貴婦人の何人かが、彫りの深いこの男の顔を美しいと褒めていたのは知っている。服の上からでも引き締まった筋肉が予想できる体格に、色気を感じるとも。
でもテレーザは、フランツの顔にも体にも興味がない。それどころか、この壁のような男には、可能な限り、会いたくない。
今夜は特にそうだった。この灰色の目をかいくぐって獲得したはずのカルロを、たった今捨ててきたところなのだから、余計に。
このことがもし知られたら、彼は鉄面皮を崩して感激し、カルロと神に感謝するのだろうか。そういえば、このなりで日曜礼拝を絶対に欠かさないらしい信心深さの持ち主というのも、テレーザの癪に障ることだった。
どうやら自分は、信心深い男とはとことん相性が悪いらしい。




