壬生の狼【肆】
気配が完全に消えたのを確認し、東雲は踵を返した。先刻までの不機嫌な表情は消し、脳天気な浪人として雑踏の中を一人歩いていく。
仕事上、感情は邪魔なだけ。
その日を生きる為に、情報を上手く得る為に必要なもの。余程の事がない限り、笑顔を市中で剥がさない。
芹沢の場合は悪友なだけに、例外だったのだが。
東雲は微かに感じた殺気に、反応を示すとその目を横に向けた。東雲を刺すように痛いそれは人混みの奥から此方に届いている。
足を止め、その人物が歩いて来るのを待っていると一人の青年が姿を現した。
「どうも、こんにちは」
一見、優男に見える青年は刀を腰に差している。隙の無い身の熟しから、ただの浪人でない事は明らかだった。
何より、東雲は青年の顔に見覚えがあった。
「……何の用? 喧嘩なら買わないよ」
青年を見据えそう口にするが、青年は気にした風も見せず笑みを溢す。
「そんなつもりはありませんよ。ただ、芹沢さん達と何を話してたのかなーって、思っただけです。見失ってしまってはいけないと、見つめていたら、殺気を放ってしまいました。すみません」
青年が軽く頭を下げるが、それが本心でない事は東雲は直ぐに分かった。何かを探るように言葉を、視線を、向けてくる青年に東雲は面倒だとばかりに息を吐く。
「アイツを知っているって事は、アイツの縁者? 行動把握も大変だ」
東雲の問いに青年ははい、と頷きを返した。
「縁者というより、同じ浪士組のものですよ。沖田総司といいます」
「へえ? お前が沖田、ね」
「おや? 私をご存知で?」
「ああ、芹沢から話を聞いていたから。甘味好きの、凄腕の剣士がいるって」
東雲が視線を地面から、青年ーー沖田に移せば、射抜くような瞳とかち合う。徒人ならば震え上がる程のそれに、東雲はフッと笑みを溢した。
決して怯まない東雲に、沖田は面白いものを見つけたと言わんばかりに嬉々とした表情を見せる。
「失礼ですが、貴方の名前は?」
「東雲」
「東雲さん、ですか。ふふっ、貴方も私と同じ、只者ではない匂いがしますよ。人斬りですか?」
「刀も差してないのに、酷い言われ様だな」
東雲はそう言って、先刻の茶屋で拝借した串を口に含む。仄かに香る団子の味にペロリと、舌舐めずりをした。
端から見れば世間話をしているように見えるだろう。だが、二人は人知れず、腹の探り合いを行っていた。
しかし、互いに寸分の隙もない。何とも言えない空気だけがピリピリと漂っている。
「悪いが、他に用がなければ帰らせてもらうよ。僕は、これでも忙しい身なんでね」
これ以上は無駄だと判断したのか、東雲は踵を返す。それを見て、沖田はニコリと笑顔を貼り付けた。
「逃げるんですか?」
「何でそうなる」
沖田の言葉に東雲は、眉を寄せ動きを止めた。足は止めたものの、振り返る事はしない。己の勘が危険だと告げている。
沖田は笑顔のまま、ゆっくりと東雲に近付いていく。その表情は悪戯を思い付いた童ようで、端から見れば気持ち悪い。
ゾワリと粟立つ嫌な気に、東雲は人知れず舌打ちを鳴らした。
「実はですねぇ、先刻、浪人を捕まえた仲間が言っていたんですけどね。どうやら、得物も持たず、素手で浪人に立ち向かった青年がいたらしいんです」
「……それで?」
「その青年は、体格の良い鉄扇を持った男性に連れられ、何処かに向かったというので、私はそれを追う事にしました。で、見つけたのが貴方です。体格の良い男は恐らく芹沢さん。ならばーー、分かりますね?」
覗き込まれるようにして再び視線が重なる。何かを含んだような、その笑みに東雲は辟易しそうになった。
やはり、芹沢に会った時点で厄日だったのだ。
「だったら? 別に悪い事してないだろ。浪人を潰したぐらいで、アンタらは只の民を連行するのかな?」
「まさか! 連行なんてとんでもない! ただ、少し屯所にてお話を伺いたいなあ、なんて思いまして」
「似たようなもんだろ。退路塞ぐように、立ってくれちゃってさぁ」
東雲が苛立ちを隠さずに沖田を鋭く見据えれば、すみませんと心篭っていない言葉が返された。
ついていないとばかりに溜息を、深々と吐く。
沖田と遭遇した事は偶然の産物だ。後々の事を考えれば、この出会い自体悪くはない。ないのだが、屯所に向かう事だけは避けたかった。
同行する振りをして逃げれば良いかーー
だが、東雲の安易な考えは直ぐに打ち砕かれる事になる。
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「ぶふぁっ!!」
先刻、別れた筈の知己の笑い声に、東雲は眉間が自然と動く。
「つ、つ、捕まってる……!! あれだけ毛嫌いしてたのに……っ」
東雲の視線に気付き、慌てて手で抑えるものの、完全に隠れていない。一定の律動を繰り返す肩がそれを物語っている。
東雲はあの後沖田の隙をつき、逃げ出そうとしたのだが、市中見回りしていた他の隊士達と合流されてしまい機会を失う羽目になった。
本気で逃げようとすれば、逃げ切れただろう。但しその場合は、無数の血を流す事になり、今後の生活に支障を来たし兼ねない。
故に、甘んじて受け入れたのだが。
此処まで笑い飛ばされるとは思っていなかった。
「ーー伊助?」
自分が一番低いと思う声で尋ねてみれば、笑い声がピタリと止んだ。伊助は東雲と決して目を合わせないように、視線を右往左往させている。
「開口一番に、人の顔を見て笑うなんて、良い性格してるなぁ。覚悟は出来ているんだよな?」
「ひあっ!? せせせせせ、先輩! ごめんなさい! 嘘! 嘘! ちょっとした、冗談だからね!! ねっ!?」
「どうしてくれようか……」
「ご、後生だからーーっ!!」
形勢逆転。笑い過ぎて紅潮していた伊助の表情は、一瞬にして真っ青へと変化する。
ドタバタと様変わる、二人のやり取りに連れて来た沖田達はただ、呆然としていた。




