ツァラトゥストラかく語りき
〈善惡を超えた處や四月馬鹿 涙次〉
【ⅰ】
(テオ、でゞこと並んで生の鮪の血合ひを食べてゐる)「でゞちやん、美味しいね」「本当、美味しい」
テオの食事の世話をしてゐる牧野「人間が捨てちやふところに本当の美味しさがあるんだねー」テ「さうさう」
(テオ、こちらを向いて)「僕ならかう書くね。讀者諸兄姉にはご記憶の方ある方もをられるだらう。或る料亭亭主が、『刺身と云ふものは、生の魚の血の味を、味はふものなのだ』と云つた事を」
彼は冥府に墜ちて行きながら、かう思つた。「テオか、あの天才猫。さうなのだ、俺も人間並みに、血に飢ゑてゐる」
【ⅱ】
(さうだ、血だ。俺が求めてゐるのは)
彼は、カンテラ一味に惹かれてゐるに違ひない。-その証拠に、冥府へと墜ちゆく彼の耳には、テオたちの聲が、はつきりと聞こえてゐた。
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〈親の仇取るよに塗れるマーガリン晩春始まるトースターかも 平手みき〉
【ⅲ】
女、俺の「祭壇」たちよ...
女、女- 血に濡れた胎盤。猫の雌はそれをむしやむしや食ふ。
欠陥のある仔は育てはしない。俺のやうな、欠陥のある仔は。女はいつもさうだ。目の前にある物だけが見えてゐる。
それのどこが惡いのか。俺には分からない。
俺は半陰半陽の躰を持つてゐる。
男でありながら、女でもある。
二つの世界の闘争、その中に俺は、ある。
【ⅳ】
ゾロアスター教:光神vs.惡神。世界はその闘争狀態の眞つ只中に存在する。
こゝでは誰も、俺のやうな、「叛逆の、堕ちた天使」の事は見てゐない。キリスト教の描く「地獄」は、どこか捻くれてゐる...
【ⅴ】
西歐の人間たちがそれを知るのには、世紀末の天才、フリードリヒ・ニーチェの登場を待たねばならなかつた(今は人間たちの暦では、世紀の中間點に、奴らはゐる)。然も奴らが知るのは、狂気の人としての彼・ニーチェ、だつたのだ。
【ⅵ】
彼はゆつくり時間をかけて、冥府に辿り着いた。涅槃、まさしく。そこは穏やかな世界であつた。ハデスの府。
そしてテープの逆回轉。「ポールは死んだ」。死。
俺は死んだ。またしてもの蘇生へ向かひ。
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〈三日後も多分ぬかるむ春の雨 涙次〉
【ⅶ】
彼は己れが光り輝く大天使だつた頃を思つてゐた。神の遣はし給ふた、この二つの翼。そして今の自分の醜さを。
この醜さを誇りとして、自分は復活するのだ- 山羊の頭のスープ、奴らが、人間たちが啜る? いやいや、「人間が捨てちやふところに本当の美味しさがあるんだねー」あの低劣なチンピラ崩れにだつて分かつてゐる。
山羊の頭は、捨てられてしまふのだ。
【ⅷ】
雌猫が喰らふ、己れの排出した胎盤のやうには、なかなか人間たちには食べて貰へない。
だが、俺の山羊の頭は、奴らの創造した、想像したものなのだ。
【ⅸ】
だとしても、デウス・エクス・マキナの如く突如として登場した私(作者)には、テオ=谷澤景六のやうには、上手くこれが書けない。上手く書けないなら、足掻いたつて結果は同じなのだ。
私はこれを放つて置く。日頃のカンテラ一味のやうには、ルシフェルには親身になれない。彼もまた、私の創造物であるにも関はらず。
筆を少し休める為に、これを書いた。
メモ帳に書き留めた文字は汚くて、判読し難い。
【ⅹ】
頭の中で、リヒャルト・シュトラウスの交響詩、『ツァラトゥストラかく語りき』が鳴つてゐる。もうこれ以上書く事が出來ない。音樂が髙まり過ぎた。
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〈飽くまでも夢魔の作れる春眠さ今日を寢て飽き明日を眠る 平手みき〉
お仕舞ひ。