09・過去からの流れ
流れが生じれば道ができる。道ができれば流れが生じる。どちらが先かも知れないまま、全ての者はその常に乗っていく。命が果てるまでは。
白く発光するシェムレが、夜を貫いて進む。
風と水と時が大地より彫刻した、日月星辰の台座の如き岩山が点在する地帯。自分の腰に回されたティコの手が冷えないよう前を片手で覆い、もう片方の手でハンドルを握り続けるトアは、ぽつりと呟いた。
「ネコたまが戦えるとは思わなかった」
トアの肩に居るネコマタは片前脚をちょいと上げ、爪を出す。
「後付けの戦闘装備などなくても、生来の武器がある事を思い出した。戦わねばという本能らしきものが残っていた事を含め、自分でも驚いている」
窮地に助けると伝えられた時、トアは危機感の欠落した無防備なネコマタに一体何ができようかと思った。でもそのネコマタに助けられたお陰で、今彼等は、ここにこうして無事で居る。
「ただお前が俺とティコに送ってきた声、奴等にも筒抜けだったぞ」
「本来は大勢へ一度に呼び掛けるための機能ゆえに、対象を上手く絞れなかった。やむなく使ったが、あの急場を凌ぐ機にはなったろう」
「……ポンコツは撤回する。ありがとよ」
トアが夜風に預けた素直な気持ちを受け取り、ネコマタは尾を立てる。二本を一本にまとめていた端切れが解け、後方に流れ去った。
「この辺りで、一度休んではどうだ」
「いや、まだ行く。夜明けまでにできるだけ街との距離を空けておきたい。ああいう組織の下っ端が、こんな木っ端の案件を理由に任された縄張りを放ってまで追っちゃこられねえだろうが、向かう方角を知られてるだけに、用心に越した事はない」
勧めを却下されたネコマタは、身を乗り出してトアの横顔に訴えかける。
「殴る蹴るされたトアが心配なのだ」
「ダクラとかいう奴は、それほど力がなかったから平気だ。もう一方のデカブツに同じ事をやられてたら、やばかったが」
「でも身体に異常がない訳ではないのだろう? ふらついていたし、今も運転しながら時折俯いて」
「くどい。平気だって言っ――」
トアはネコを黙らせようとした。しかし何故か黙ってしまったのはネコマタではなく、乗っているシェムレ。発光と推進力がふつりと途絶え、地面に反発して浮いていた機体がガタリと落ちる。
「えっ?」
「まっくらー」
急に包まれた暗闇で、ティコが声を上げる。トアは大急ぎで足の間に挟んでいた背負い鞄から手探りでランタンを引っ張り出してセッカチュウを発光させ、シェムレのパネルで最後に赤い光が点滅した項目を確認した。
「……ねん、りょう……燃料切れ」
「ああ、やはり舐め過ぎていたか」
愕然とするトアを更に喫驚させた、ネコマタの発言。
「お前まさか、こいつに入ってたトーカ油を」
「街に居る時、店の中で眠るティコを見守っていたら、表から昼間にも嗅いだ油の香りがしてきてな。このシェムレだと思い、乗りつけた男と入れ代わりでこっそり抜け出して、ほんの少し、な」
「ほんの少し? ちょっと走っただけですっからかんだぞ? 絶対たらふく飲んだろ」
「燃費が良いためか燃料タンクが極端に小さく、少し舐めただけでも残りが僅かとなってしまったのだ」
呆れを通り越し、トアは深々とした溜め息を吐いてバーハンドルに突っ伏した。
「……お前は油なら何だっていいのか……」
譲れない点に、大真面目に反論するネコマタ。
「何でも良い訳ではないぞ。トアが植物や魚から作る油も勿論好きだが、最も好みはトーカ油なのだ。これに注入されていた油は香りが濃く、純度の高さが窺えてとても気になっていた。事実、雑味がなくまろやかで、とても美味かった」
「お前の好みや味の感想なんざ心底どうでもいい。ポンコツの撤回は、撤回だ。はあ、こいつで集落まで楽に行けると思ったのによ……」
「すまない。でもこれでトアをすぐに休ませられる。結果良しだ」
平然と言って肩から飛び降りたネコマタに、トアはじっとりとした目を向ける。
「……ほんとにすまないと思ってんのか?」
ネコマタはトアを顧みて、からりと提案する。
「とりあえず街で買ったカタラズブシを食べて、身体を癒そう」
言われて回顧する、それの行方。トアは気まずい顔をした。
「……悪い。あれはもうない」
「ん? ない、とは?」
「飢えてたっぽい他のネコにあげちまった」
二本の尾がへたる。
「そ、そうなのか……。いやはや残念ではあるが、その経緯なら仕方がない。俺はトアの判断を支持する」
ネコマタともう会わない気でカタラズブシを手放したという部分は、トアの胸に仕舞い置かれた。
気を取り直し、ネコマタは更なる提案をした。
「最寄りの岩山の陰で休んだら、東の谷を下った川沿いを行こう」
街で頭に入れてきた地図の記載と相違するように思ったトアは、指摘する。
「東? 川があるのは、今向かってる北西だぞ」
ネコマタも地図を読み、これまで彼の旅に同行してきた経験上、彼が選び取る今後の経路を予測していた。それを踏まえて意見を述べる。
「北西の川沿いは、途中まで水を確保してフォルトピアニからセグノへ行ける最適な旅路。であればトアが言うように追っ手が来た場合、彼等は俺達が辿る可能性の高いそちらへ向かうだろう。だから多少遠回りになっても、違う道を選択した方が良い。地形が変わっていなければ現在地より東にも細い水流があって、目的地近くまで続いている。地図には載っていなかったので目をつけられにくく、尚のこと好都合だ」
トアは感心する。
「……珍しく賛同できる内容だ。街で戦ったのといい、急に生存能力が上がったがどうした? あと、何でまだ行った事のない場所の地理が分かる?」
「地球へ帰還して、俺は『生き物』としての自分を色々取り戻してきているのかも知れない。地理については……実のところ、俺が地球上で正確に把握できるのは現在地、及び星の船の離着陸場がある地点の座標のみで、それ以外の記録は持っていない。ただし、記録ではなく『記憶』なら持っている。今はサザで暮らす者達から預かっている、地球に関する膨大な記憶だ。自由な読み出しは利かないため定かでないが、谷川の情報は多分、誰かの記憶の断片だ。この増設装置に格納している内のな」
ネコマタは該当の装置である銀の尾を挙げ、先をパタパタ振って見せた。
無関心ですっかり忘れていた事を、トアは思い出す。ネコマタは、地球生まれのネコだと。
***
シェムレを見つかりにくい岩陰に乗り捨てて休息した後、トア達は夜明けに東の谷を下った。浸み出した地下水が集まって流れる川の始まりは、縮尺が小さな地図には描かれない細さをしばし保ち、彼等の旅に伴走する。
岩の地層に囲まれて砂礫を踏む道中の話題は、昨晩に続き、ネコマタの生い立ちに関するものとなった。
「元は地球に居て、星の船でサザへ渡り、あちらで機械化した。此度の帰還は、およそ五百年ぶりだ」
ティコが転ばないよう、ネコマタは視点の低さを活かして極力起伏の小さい面を見極め、二人を先導しつつ語る。ティコはネコマタの通った後をなぞって歩く事に楽しい遊びの要素を見出し、ご機嫌でいる。
「五百年? て事は、ネコたまは五百歳以上なのか? 本当ならとんでもねえな」
ティコの後ろについているトアは、いつになくまともに、ネコマタの話に付き合っていた。
「正確な年齢は不明だ。地球で生きていた分の年数が不確かゆえに」
「自分の歳を覚えてないのか」
「記憶は特性上、どうしても経年で読み出し困難に陥る。また、誤った情報が上書きされやすく、元が正しい保証もない」
ネコマタの説明を、トアは噛み砕いて言う。
「……要するに、地球に居た時の事は覚えているようでよく覚えていないと?」
ネコマタは度々くるりと振り返って立ち止まり、歩く速さを調節する。
「そういう事だ。加えて俺は人ではなく、後天的に高次の学習機能を付与されてから人と同等の知能を得るまでに、三百年近くかかっている。その間の、俺にとって人の言語が理解できなかった全ての時代は、人で言えば恐らく物心のついていない幼少期に該当する。トアも、幼き日の出来事はもう思い出せなかったり曖昧だったりするのではないか? それに等しいと思われるが」
「ふうん。その例えなら、まあまあ分かる。記憶を預けたり受け取ったりできるってのは理解し難いが」
「記憶領野の情報は一応、記号化が適うのでな。死なず生き続ける者にとって増える一方となる記憶は、長期に渡り読み出しが認められないもの――つまり忘れられた古い順に外部へ移し、定期的に容量を空ける措置が不可欠」
ネコマタの銀の尾が、本体の語りに合わせて雄弁にくねる。
「……俺にとっちゃ御免被る措置だな。幾ら忘れたって、そいつを抜き取られるのは自分の土台をなくすのと同じ気がする。で、預けた記憶ってのはその後どうなるんだ。消しちまうのか?」
「記憶情報は、偶発以外に再生の術がない形式でしか保存できず使い物にならないにも拘らず、消去不可能。移行先の媒体を物理的に破壊する事で消そうと試みても、奇妙な原理が働き、元の持ち主の初期保存場所にそっくり戻ってしまうらしい。従って、受け取り側の媒体はそれを預かり続ける事になる」
トアは『自分の土台』と捉えた記憶が決して消せないものであるという話に密かに安堵し、続きを聞く。
「俺が預かっている一部移住者の『地球での記憶』は、外部への移行に不明な制限がかかっていて問題になっていたものだ。ところが何故か俺にのみ、それをこの身体へ移せる権限があると判明した。人と同等の知能は、その受け取り許諾と管理のために必要とされ、与えられた。そんな記憶と知能を携えて、俺は地球へ帰還するに至った。感慨深いとは、このような気持ちを言うのだろうか。地球で埋もれたままになっても構わなかったと思えるほどの――」
――俺は、地球で埋もれたままになっていても構わなかった。
トアが発見しなければカプセルに入ったまま谷底で埋もれていたであろうネコマタは、以前にもそう言っていた。そしてふと、水の流れくる方を見やる。
「……俺自身の、地球での唯一確かだと言える記憶は、共に生きた者が一人居た事だ」
トアがネコマタから始めて聞く、サザではなく地球での話。
「共に生きた者……」
「興味を持ったか?」
トアは否定せずに尋ねた。
「そいつもネコたまと一緒に、サザに?」
「いいや。どうも俺だけがサザへ渡ったらしい」
「らしい? 分からないのか?」
「サザは、地球からの移住者を全て『サザに新しく生まれた者』として遇し、個人の地球における情報は一切保管しない。だから当時の状況は調べられず、各者が残す純正生物だった頃の遥か遠い記憶も正誤を確認できない。ただただ俺に、『彼はサザに存在していない』とする感覚があるのみ」
ネコマタは前へ向き直り、また歩き出す。
「面影が薄らぎ、名も明らかでなく、こうして地球へ戻ってきても捜しようがない。でも、会えば分かる。必ず――。そう思っている」
「会えばったって、お前が地球で暮らしてたのは――」
ネコマタの言う事が真実であれば、それは五百年前。当時の人が生まれながらの身で健在と考えるには、過ぎた年月に無理がある。でもトアは、出かかったその野暮な口を引っ込めた。
「……いや、会えば分かるのだけは、よく分かる。お前のそれを知れただけでいい」
たとえ姿形が失われたとて会えば分かると思える者達が、トアの胸にもあったがゆえに。
満ちた月の光が真上より谷川に注ぎ、せせらぐ。
岩壁の下の狭い窪みで、トアとティコとネコマタは身を寄せ合って休み、夜をやり過ごしていた。トアが羽織っているのは、圧の加減で膨張や収縮が自在なヨハサムシの太い糸にて織られた布。大判で防寒性があるその内側で、ティコは彼にぴったりとくっついている。
彼女が寝つくと、抱っこされていたネコマタは緩んだ腕をそっと抜け出し、トアの反対隣へ移った。
「トア、一つ叶えてもらいたい事があるのだが」
「……何だ」
「ティコが『寝る前のお話』と称して時々せがんでくる話を、今夜は俺が聞きたい」
うとうとして気だるげに、トアは返す。
「俺が、お前に? 何を聞こうってんだよ」
「昔話だ、トアの」
「俺の……?」
「駄目か?」
いつもなら、話す筋合いなどないと一蹴されているところ。それでもネコマタが踏み込んだのは、今日はそうならないと何となく思えたからで、実際、トアは少し考えた末に、自身の過去を一つ明かした。
「……ネコを、拾った事がある」
「ほう、ネコを?」
「四年ぐらい前で、昔ってほどでもねえけど」
「構わない。聞かせて欲しい」
ネコマタが寄り添い、垂れた布の端に寝そべると、トアは一人旅を初めて間もなかった頃のそれを、語り始めた。
「お前と同じ白い毛色の、仔ネコだ。瞳の色は違ったがな」
ネコマタは緑色の瞳を輝かせ、黙って耳を傾ける。
「街の隅で、親とはぐれたのか捨てられたのか、一匹でうずくまっててな。随分汚れて見た目にも弱ってたが、ミイミイ鳴き続けてた。鳴く事が、その時のそいつにできる唯一つの事で……そうして生きようとしてるんだと思ったら、放っとけなくなった」
トアの手が、ネコマタの背をそっと撫でた。彼が目的もなく自らネコマタに触れるのは初めてだった。暗がりが、互いの温もりと柔らかな感触を一層印象づける。
「懐に入れて温め続けて、魚の身をすってやったら少しずつ食えるようになって、何日かしたら、歩けるまで元気になった」
そこまで話したところで、トアは口を閉じてしまった。待てども待てども続きが聞けず、ネコマタは沈黙にヒゲを震わせる。
「……もう終わりか? 何故、今はそのネコと一緒ではないのだ?」
「人に譲ったからだ。そいつも、別の街で一人うずくまってた。俺が懐に入れてたネコの鳴き声に反応して急に我を取り戻したのか、俺の事を引き留めて泣き出した挙句、話してきたんだ。元軍人で、家族を守るために長年戦ってきたと。でも片足をなくして戻された故郷は余所からの攻撃に遭い、家族ごと、跡形もなくなっていたと――」
ネコマタを撫でていたトアの手が、引っ込められる。
「そいつこそ、生きる上で守るものを必要としていた。それでネコを譲った」
トアが二つの生を繋ぎ止め、結びつけた経緯。ネコマタは夜空を仰ぎ、この地球上で同じ月を見ているかも知れない彼等に思いを馳せる。
「……現在は、何処でどうしているのだろう」
「さあな……。昔話はここまでだ、もう寝る」
続きなど知る由もない話を打ち切り、トアは目を閉じた。
ほんのいっとき道が重なり、そして分かれた流れの先。瞼の裏に思い描くその光景は、自分から遠く離れたがゆえにずっと抱いていられる、彼にとっての数少ない幸いだった。