07・魑魅魍魎の街2
女の名はエンディといい、トア達を招き入れた店で服屋を営んでいた。至るところに掛けられた彩りも型も豊富な衣類や生地が、室内の装飾を兼ねている。
「しかしツヅラヘビにねえ、よく助かったもんだ。運の強い子だよ」
エンディは店の奥にある壁際の作業台でティコのケープを修繕しながら、横のテーブルに居るトアと話す。帽子を脱いだトアは彼女に借りた地図を読んでいて、彼の肩越しに、ネコマタもそれを見ている。トアの隣で嵩上げされた椅子に座るティコは、エンディにもらった数枚の綺麗な端切れをいたく気に入って、眺めてみたり、畳んではまた広げてみたりと夢中になっていた。
「……砂漠を抜ける方向がまずかったって事か……」
地図の上に小さく落とされた独り言と溜め息。エンディはトアの苦労を察する。
「セグノまではまだ結構あるだろ。アンタ一人で大変だね」
「ああ……」
生返事をしたトアに、エンディが思い掛けない申し出をした。
「アタシが代わりに、ティコを連れてってやろうか」
トアは顔を上げ、眉根を寄せる。
「そんな面倒を、赤の他人からわざわざ引き受ける理由が何処にある?」
「そう言うアンタだって、赤の他人の子をラートリフからここまでわざわざ連れてきたんだろ?」
「それは……ただ置き去りにするのは、気分悪かっただけで」
口籠ったトアを、エンディは作業の手を止めず流し目で見る。
「理由をつけるとしたら、アタシは年に数回、近隣の集落に行商しててね。セグノはいつも向かう方面とは逆にあるもんだから行った事ないけど、ティコの父親みたいにフォルトピアニまで買い出しに来てる民が居るなら、この機会に行って迷子を無事に送り届ければ、集落全体から感謝されて新規の客を見込める。相応の継続的な得があるのさ」
「打算的だな」
「誰も不利益を被らないんだし、別に構わないだろ。逆に、アンタには苦労してその子を連れていく理由なんて全くないように思えるけど」
トアは否定するための建前を探すも、今更出てこない。刺し終えた糸の始末する彼女に、畳み掛けられる。
「連れている内に、情が移っちまったかい?」
認め難い感情に触れられ、トアは黙り込んだ。
「――よし、できた。さあティコ、こっちへおいで」
エンディは使い終えた糸切りバサミを置いた。呼ばれて行きたがった椅子の上のティコを、トアは立ち上がって抱え、床に下ろす。
「ほら、すっかり直ったろ? 着てごらん」
エンディはケープを一度広げて見せ、ティコに着せた。ティコは気にしていた箇所の裾を、裏側から掌で持ち上げて見つめる。新品の糸を足して修繕されたその刺繍に、彼女は喜びのあまり言い表せない言葉に代えて、笑顔を零した。
椅子に座ったまま身を前に屈めてティコと目線の高さを近くし、エンディは告げる。
「これを着て、今度はアタシと一緒にお家へ向かおうね。商売仲間に声をかければ、隊を組んで行ける。楽しい旅になるよ」
急な話に、それまでピカピカだったティコの表情が翳る。
「……タマちゃんと、トアは?」
トアは無言でフードの中のネコマタを摘み上げ、素早く後ろを向く。そしてエンディからは見えない角度で、机上にあった細長い端切れを使って二本の尾をぐるぐる巻いて縛り、一本にまとめた。
そのネコマタを、彼はティコの腕に抱かせた。
「俺とはここまでだ、元気でな。ネコたま、ティコを頼む」
唐突に任務と離別を言い渡されたネコマタは目を白黒させ、発語を禁じられた口をぱくぱくさせる。
ティコは受け容れない。
「……やだ」
「集落に着いたら、どのみち俺とは別れる。少し早まっただけだ」
「やだ! トアも一緒がいい!」
今にも泣き出しそうなティコから、トアはつい目を逸らした。宥める言葉も持てない。
「おやおや、随分と懐いちまってるんだねえ……。そうだティコ、砂糖菓子があるよ。ほら、お食べ」
エンディはそばの棚に置いてあった瓶を取り、掌に中身を数個開ける。しかしティコは俯き、差し出されたそれにも首を横に振る。
トアはもう、ティコとネコマタの前に居られなかった。誰も必要としない生き方を、これ以上揺るがされたくなくて。
「じゃあな」
つば広帽子をいつもより前に傾けて被り、身を翻して出口に向かう。
「トア……」
悲しげな呼び声を後ろ髪に絡めたまま、トアは店を出、扉を閉めた。
街を出てしまえば、元通りの一人旅に戻れる――。トアは自身にそう言い聞かせて歩いていた。実はもう『元通り』にはならないのではないかという、うっすらした気づきを振り切ろうとして。
もう少しで街の外へ踏み出せた彼を、何かがぶち撒けられる音と、けたたましいネコの叫び声、そして男のがなり声が引き留めた。
「――とっとと出てけ! 二度とうちに寄りつくな、この野良ネコが!」
道を一本違えた裏手のトアには、騒々しい表通りの様子は窺えない。ただ聞こえたがなり声は、トアが街に入ってまもなく立ち寄った食料屋の主のもので、野良ネコがその店から売り物を盗もうとしたのであろう事は推察できた。
トアは思い出す。古物屋へ赴く前に食料屋へ立ち寄ったのは、ネコマタにせがまれたためだった。そこの売り物に『カタラズブシ』という魚の身を煮て乾かした堅い保存食があり、ネコマタは、何故かそれに格別の興味を示していた。
カサリ、と店と店との合間にあるゴミ溜め辺りから、物音。姿は見えない。でもそこに居るのは先ほど追い払われていたネコだと、トアは感じた。
ローブの内側に手を突っ込んで彼が取り出した物は、菱形で焦茶色のカタラズブシ。使い捨てとはいえネコマタの私物には違いないカプセルを換金するにあたり、代替えの名目でネコマタにと買った品。
トアはそれを、音がした方へ投げて寄越した。ネコが拾って持ち去るのを期待して。けれど向こうからの反応はなく、カタラズブシはただ捨てられたように、道端でぽつねんとするばかり。
「……ま、俺がここで見てたんじゃ出てこられねえよな……」
ネコが警戒して様子見していると考えたトアは、そちらに背を向けて場を離れる。
ネコマタのために買った唯一の物を手放す事で、心置きなく立ち去れるはずだった。その行動が真逆に作用してしまうとは、実際に行動するまで、トアは思いもしなかった。
角を曲がると、歩む速度が徐々に鈍る。やがて立ち止まった彼は、見上げた空に心を映して己の『正直』を問い掛ける。