10・絶界の孤島1
俗世の影響を受けず、長きに渡り墨守された思想は、絶界の孤島と呼べよう。やがて大元の本質から外れていったとしても、最早、内の者達には気づけず正せない。
彼等の辿る水流は、幅も深さも次第に増していく。その行く行くの雄大さを見ずして途中で逸れ、トア達は谷を抜けた。
先は緩やかに波打つ砂原となり、合間には、当初辿る予定だった川が横たわっている。そこに一本架かる石橋は、人の住処が近い事を窺わせた。そこより望める、他の山並みから孤立した赤褐色の山に目的地、すなわちティコの集落はある。台形をした山影の上面は曇を被ったように霞み、麓は林が囲っている。遠目に、周囲と質を異にするそこだけが、海に浮かぶ島じみていた。
橋を渡って進むほど、きめ細かな砂に足を取られやすくなっていく。山並みの向こう側はラートリフ砂漠。トア一行はここまで、砂漠の周縁地域を巡ってきていたのだった。
陽の傾き具合を気にして、トアは心持ち足を速める。しかし並んで歩いていたティコの足は、ぱたりと止まってしまった。
トアか振り返る。
「どうした」
彼女は、すっかりすくんでいた。
「……おっきいヘビ、いない?」
トアは察する。集落に近いこの地帯で、ティコはツヅラヘビに襲われたのだと。かつての恐ろしい体験による、無理からぬ反応だった。
ヘビが潜んでいるのではと怯えて下に囚われるティコの視界。それが、身体をふわりと持ち上げられると共に高みへ解放され、見晴らしの良い風景へと移り変わった。
「地面に足がついてなきゃ、ちょっとは怖くないだろ」
トアに肩車されたティコは、強張りが少し解けて口元を綻ばせる。
「うん」
そのまま歩き出すトアの後ろ姿に、ネコマタは愛しげな眼差しを送っていた。そして自身の内部に生じて大きくなりつつある、導きの使命に対する抵抗にいつまでも鈍感ではいられない事を知る。迷いを秘め、今はひたすら彼と歩く。
連なる起伏を越えていくと、進む方角に立ち昇る煙が目に入った。
トアは慎重を期して、向こう側からの死角となる隆起した地形の陰を選んで進み、少し登ったところより煙の元を窺う。そこには木組みの囲いを飲み込んで燃え盛る炎と、それを見守る数名の人の姿があった。離れていても彼等が着ている上下の衣は真夜中に咲くニイゲッカで染めたと分かるほど、一片の光も感じさせない黒。その色が多くの地域で喪に服す際に使われているものである事から、行われているのは火葬だと彼は理解する。
「あれは、ティコの集落の者達だろうか」
ネコマタが言った直後、ティコがそちらに向けて叫んだ。
「あっ、トトがいる!」
逸ったティコはトアに下ろされると、転げるみたく駆け出した。トアとネコマタは後を追う。
炎の周りの者達も、近づいてくる彼等に気づいた。そして見覚えのある子供の姿に、誰もが目を疑う。
「……ティ、コ……?」
やつれて頬の削げた一人の男が、前に出る。
「――トトっ!」
失ったはずの娘に飛びつかれ、彼は信じられない面持ちで身を屈めた。
「ティコ……本当に、本当にティコなのか?」
「うん!」
その笑顔を両の掌で包み、生きている事を確かめる。
「これは、夢、ではないのか……よく、よく無事で……!」
ティコを抱き締めて咽ぶ彼の前に、追いついてきたトアが立つ。
遠巻きに見ている他の者達の中から老人が歩み出て、白く長い眉と髭の陰よりトアに尋ねた。
「もしや貴方が、ティコを助けてくだすったのですか?」
「……倒したツヅラヘビの腹に入っててな」
「おお! それは何とお礼を申し上げれば良いか。蛇に持っていかれたと聞き、すっかり諦めておったのですが、いやはや、無事であったとは!」
ぶっきらぼうなトアに、ティコの父は何度も頭を下げる。
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
ぎゅっとして離さない父の腕の中で、ティコはもがいて顔を上げ、勇んで知らせる。
「あのね、あのね、ティコ、タマちゃんみつけてきたよ」
「……タマを?」
「ほら!」
止まらない涙を袖で拭い、ティコの父は彼女が指差したトアの足元を見る。
「ああ、タマまで戻って……ん? その、尻尾は……」
自分が知るタマと思しきネコに、元とは別に銀色の尾がもう一本生えて見え、彼は涙で視界がぼやけているせいかと濡れた袖で更に目をこする。しかし二本目の尾が見えているのは当然彼だけではなく、他の者達も不思議がり、尾に似た飾りか何かでは、などと小声で話す。
「タマちゃん、ネコマタになったんだよ! すごいでしょ? ジィジよろこんで、げんきになるね!」
ティコの父は、彼女が慕っていた者のその後を伝えなければならなかった。喜びによる昂りを一旦鎮め、努めて穏やかに彼女と向き合う。
「……ティコ。タマのお爺ちゃんは、私達より先に、天国の星へ行ったところだよ」
ティコはぱちくりとする。
「……ジィジ、もういないの?」
「ああ。ここには、もう居ない」
トアはもうもうと煙を噴き続けている火を見やる。
「もしかして今やってる火葬は、その爺さんの?」
老人が頷く。
「ええ、そうですとも……。持病の悪化で、昨日、息絶えてしまいましての」
トアのそばで、ネコマタはじっと炎を見つめていた。晴れ渡って乾いた空に、今にも泣き出しそうな雲と似た色の煙が昇っては薄れていくのを、ただ黙して。
そんな場の沈鬱を、ティコが明るく払った。
「でもすぐあえるよ。タマちゃんがね、てんごくのほしにつれてってくれるって!」
「タマが?」
ティコの父は、意味を掴みかねた。集まる皆の視線を、ネコマタの双眸が受け止める。するとスイッチが入ったかのように、ネコマタは改まって座し、やおら語り出した。
「……我ハ『惑星サザ』ノネコマタ。地球の者等ニ、星ノ船ノ訪レヲ告ゲル使者ナリ。星継グ有志ヨ、トコシエノサザヘ、イザ行カン――」
出会ったばかりのトアに告げたのと全く同じ、『星のお告げ』。でもトアは、あの時の読み上げとは異質な印象を受けた。鼻高々といった態度が失せ、今回のネコマタは非常に『機械的』だと。
場が静まり返る。ネコが喋った事、そして喋った内容。それ等が順々に理解されるまで、しばしの時間を要した。
老人の眉が上がり、見開かれた目が露わになる。
「なん、と……我等の救いなる『天国の星』と『星の船』の伝承が、誠と示された……。使者様が、こうしていらっしゃるとは……!」
彼がひれ伏すと、他の者達も驚愕のあまり打ち震えながら、信仰対象の顕現たるネコマタに同様の姿勢を取った。その揃いも揃った大仰さに、トアは引き気味となる。
ティコの父は彼女を抱いたまま跪き、呆然と呟く。
「……まさかコウダ殿のところのタマが、星の船の使者様だったとは……」
老人は顔を上げ、後ろの者達に命じた。
「早う、早う戻って集落の皆にも伝えよ! 席を設けて、使者様とお付きの方を丁重におもてなしせねば!」
「は、はいっ!」
彼等は慌てふためき、火葬の番を二人だけ残して、蒼い葉が舞うトシハナナツメの林へと駆け戻った。
「俺はネコたまのお付きじゃねえんだが……」
トアのぼやきは、星の使者ネコマタを前に高揚した老人の耳にはてんで届かない。
「さあさ、これより私めが、集落へご案内いたします。セグノの民は長きに渡り、星の船についてを語り継ぎ、その訪れを待ち焦がれておりました。どうか、どうか困窮した我等を、天国の星へと導いてくだされ――」
招く老人に続き、ティコも父親の腕から飛び出して集落の方へと駆ける。
「タマちゃん、トア、いこ!」
トア達は彼等についていく。去り際にネコマタは今一度、炎を顧みた。
一人の人の最後がこの星に焼きつけられ、強く儚く揺らめく。瞳の中でも、胸の内でも。トアと行動を共にして生きる感覚を取り戻しつつあるネコマタに、『命』と『喪失』の重さが、思い出せない過去にも、まだ知らない未来にも、のし掛かり始めていた。
集落があるのは、山の麓ではなく山の中だった。といっても、所謂『山中』ではない。山は上から筒でくり抜いたかのような環状で、内側が空洞。その底に築かれた日干し煉瓦の家並みは、天然の城壁に守られている状態である。もっとも、この地形が天然か人工かを知る術など、今の地球を生きる者にはないが。
集落に入ってすぐ、ネコマタはキョロキョロしたり、時折首を傾げたりと、いつもより落ち着きのない様子を見せた。トアはそれを横目に、集落の長たる老人ロシュに案内されて歩き続ける。
集落には細く真っ白な木が至るところに直立しており、幹を辿って仰ぐと、吹き抜けで空が見えるはずの上方は明るい霞が蓋をしている。ロシュによると、霞はその木々が遥か高みに茂らせる枝葉だという。
「この『アメハタキ』の木々のお陰で、集落は強過ぎる日射しを免れておるのです。また、時期を問わず無数に落ちてくる『ホシヅキ』の実は、ここに住まう者の命を幾星霜にも渡り、繋いできました」
トアは関心を示す。
「へえ、食える実が降って湧くのか。辺鄙でもそんな都合のいい土地が、余所に侵略もされず小じんまり独立できてるってのは珍しいな」
「セグノでしか採れぬホシヅキは栄養豊富ながら、無味な事に加え、迂闊に口にすれば命を落とす代物。これを嫌ってツヅラヘビさえ避けて通るアメハタキの下にて五百日以上暮らし、身体を慣らして常食できるようになった我等以外には価値がないのです。それを知って尚、この実に支えられた地を狙う者はおりません」
「で、それを知らない侵略者があっても、強奪した実を食って勝手に死ぬから安泰って訳か」
老人は眉の下で伏し目になる。
「ま、そうですな……。しかし数年前より、落ちる実の数が減り……原因が分からぬまま、今は全く得られなくなってしまいました」
足元の地面が白いのは、アメハタキの半透明な葉が薄く積もっているため。その葉の中に、ホシヅキなる実は一つとして見当たらない。ロシュが少し零したセグノの民の困窮は、これが主な原因だった。