01・遺棄された渓谷
星空は、少なくとも人の観測史上、滅びた事はない。たとえ文明が滅びても――否、滅びて火が消え、暗闇に覆われるほど、そこに残された者達の目に美しく満ち満ちる。
そんな皮肉な輝きに迎えられて海岸林から砂浜へ出てきたのは、裾がほつれた枯れ色ローブの青年。ぼさついた金髪は砂を噛んでいて、頭上の星々とは裏腹に輝きが損なわれている。青年と呼ぶにしてはまだいとけなさの残る顔立ちだが、青い瞳の切れ長な目は、乾いた風に長く曝されてきた事を窺わせる擦れ方をしていた。
柴の束を右腕に抱え、左手のランタンで足元を照らして歩を進める。ランタンの火屋では多数の粒がゆらゆらと浮遊して、橙色の輝きを放っている。
彼が向かう先は、砂浜の真ん中に突き出た小高い岩。槍の穂先に似たその岩の陰には、彼の背負い鞄と肩掛け鞄が隠し置かれていた。他に小振りの鍋と、手で掘られた窪が一つある。
今宵の野宿場に戻った彼は、かざした光で鍋の中の異変に気づき、眉をひそめる。
「……減ってる。おいネコたま、お前、油を舐めやがったな?」
「『ネコたま』ではない。『ネコマタ』だ、トア」
応えた声の主は、岩の頂に居た。夜空の光を集めた双眸が煌めく。
「どうでもいい名前は否定して、油を盗み舐めた事は否定しねえんだな。舐めた分、セッカチュウの代わりに全身光って周りを明るくしてみろってんだ」
その『セッカチュウ』を光源とするランタンを置き、トアと呼ばれた彼はうんざりしながら、適当に分けた柴を窪に放り込む。
「どうでも良くないぞ? あらゆる情報を収集分析する上で、個体の識別名は重要だ。あと俺が持つ地球生物情報に照会したところ、トアが採集して油の原料にした実は恐らく、少量からでも十分な油が抽出できるように改良されたユグミの一種だ。原種と比べて増産できた余分のみ減ったと考えれば、トアは損をしていない」
上方の小さな影は臆面もなく屁理屈を言う。
トアは、背負えば彼の背をすっかり覆う箱型の鞄を開けた。薄墨色の表面に鱗模様があるその鞄は、水棲の肉食生物であるヒノメトカゲの革で仕立てられており、旅人が好む頑丈さを備えた品。そこから取り出した三脚を伸ばし、鍋を手に取って怪訝に問う。
「俺が普段食ったり燃料にしたりしてる地球の生き物が、どれもお前と同じ『機械化』されたもんだってのかよ?」
「『サザ』の機械化技術は今の地球にはなく、あるのは生物や微生物からエネルギー資源を効率良く生成するために研究されていた生命技術の名残り。この星に生息する動植物の一部は、その技術による改良種が放置され、独自に環境へ適応していったものだ」
岩肌の僅かな凹凸を見極めて器用に下へ降りてきた影が、燃え上がった火に照らされて形を明らかにする。
トアの前に現れた真っ白なそのネコが、しかし口を開けて喉の奥から発したのは鳴き声ではなく人の言葉で、自ら『ただのネコではなく機械化されたネコ』だと語ったのは、ほんの二日前。
そして、それにはただのネコではない事を示す最も特徴的な部位として『二本の尾』があった。体毛と同じ白い尾と並び、もう一本、光沢を持つ銀の尾が生えている。各々、独立した生き物みたく表情豊かにくねる。その尾が二本揃って落胆し、砂の上にへたった。
「ああ、また見そびれてしまった。トアは毎回どうやって、火をおこしているのだ?」
窪の上で三脚に吊るされた鍋は火にくすぐられ、底の油の温度を上げ始める。トアがランタンの摘みを捻ると、空気の流入を遮断された火屋の中でセッカチュウは次第に輝きを失い、底の油溜まりにぽとぽとと落ちて沈殿していった。死んだ訳ではない。セッカチュウとは、虫であり、石でもあって、空気と油のあるところでは光る虫と化して飛び、どちらかが絶えれば玄色の石と化して沈黙するという、奇妙な特性の存在なのである。
「……生きてサザとやらへ帰りたきゃ知らねえままでいな、ネコたま」
「ネコマタだ」
真顔の返しに、真顔の突っ込み。
トアは岩を背にして座り、横にある楕円体状の肩掛け鞄を開けた。月白色の金属で造られたそれの中には、彼が今日捕った小振りの魚が三尾入っている。
頃合いを見て、トアは一尾をそっと鍋に入れた。魚が素揚げされる音越しに、ネコはトアに幾度目かの説得を試みる。
「サザでなら、トアが行っているような植物の採集や漁、狩猟といった不確実で非効率的な方法を用いずとも、機械制御された環境の下、食料を始めとした諸々の資源は必要に応じて人工的に生産でき、得られるのだぞ。飢えの感覚も忘れて久しく、誰もが常に満たされて過ごしている。だから俺と――」
「行かねえって言ってんだろ。いい加減、他を当たれよ。俺以外は行きたがる奴ばっかなんだろ? それに――」
「それに?」
トアはやおら立てた片膝で頬杖をつき、説得の途中から目線の先をすっかり鍋に奪われているネコに言う。
「――人の飯の前でよだれを垂らすな、ネコたま。飢えを忘れたって話に信憑性がなくなってんじゃねえかよ。ほんとに俺を説得する気あんのか?」
「ねっ……ネコマタ、だ」
素揚げの魚ではなく説教を食ったネコは、よだれを前脚で拭き、名の訂正のみ求めるのがやっとだった。
***
二日前。トアは、地球上に無数に存在する『旧文明遺跡』の発掘場の一つを訪れていた。
そこは渓谷で、一昔前には底の絶壁に、地下遺跡への入り口が大地の口蓋の如く開いていた。しかし遺跡は掘り尽され、価値ある旧文明の品――『遺物』が根こそぎ持ち去られた今は、誰が近寄る気配もない。人が食い荒らして捨てたこういう場所こそ、人目を嫌って旅するトアにはうってつけの仮宿だった。
渓谷全体に、遺跡発掘の妨げになるとして除去されていた緑が再び生してきていて、荒らされたダメージで崩落した遺跡の入り口も、穏やかに埋もれつつある。
太陽が南中する時刻のみ、干上がった川の跡を光が流れる。そんな谷底で、トアは地面に半分埋まったまま緑に沈もうとしている『黒い球体』を見つけた。
大型鳥類の卵程度の大きさを持つその球体は、被る草や柴がトアの手で退けられて太陽に晒されても、注ぐ光を一切反射せずに飲み込んでしまう。あたかも、そこの一点だけ神が筆をつけ忘れたかのような風景。
夜の天幕の、更に向こう側にしかない無限の闇が、何故こんなところにあるのか――。そう考えてしまうぐらい、今までにトアが出会った何にも当て嵌まらない物だった。
もう何もないはずの発掘場に、遺物らしき品が回収されずに残っている事を不思議に思いながら、トアは周囲の土を掘って取り除き、それを両手で取った。材質不明で表面は冷たくも温かくもないが、硬さと大きさ相応の重さはあり、ようやく物体としての存在が実感された。
「ほんとに何なんだこれ」
密度を確認するつもりで、ぺちぺちと叩く。刹那、球体に金色の筋が駆けた。驚いたトアは跳ね上がってそれを取り落とし、後ずさる。
草の上に転がった球体は、筋が生じたところから弾けて真っ二つに割れ、中身を解放する。
真っ黒な殻からは想像もつかなかった、真っ白な毛玉。そこよりひょろりと尾が伸びる。白と銀の、二本の尾が。
見守るトアの前で、毛玉は丸めていた身を弛めて四本の脚で立ち、しなやかに伸びをした。
「……ネコ?」
その呟きで、ネコの姿をしたものはトアを認識して振り向いた。そして彼の顔を、緑色の瞳で見つめる。何かを期待するように、二本の尾を躍らせて。
対するトアもしゃがみ込み、相手の頭の先から尾の先まで、まじまじと見て返す。
「変な遺物だな。まあ、変じゃない遺物のが少ねえが」
彼の発言を受信して、ネコの耳とヒゲがピンと張る。
「――……言語は、想定通りこいつだな。青年、俺の言う事が通じるか? 通じたなら返事してくれ」
トアは目を瞬かせた。
「喋れるのか?」
「よし、太陽暦への切り替えと日時の取得も完了。……ん? 予定より七年近く進んでいるな。カプセルが不具合を起こしたか」
独り言の後、ネコは改めてトアを見上げた。
「お前がカプセルを開けてくれたのだな。辛うじてだが『星の船』の到着前で良かった。サザへの招待を礼としよう」
「サザ?」
「ああすまない、説明なしでは分からないのだったな」
急にかしこまって座るネコの様子を、トアは首を傾げて窺い続ける。
「あーアー、ンン……我ハ『惑星サザ』ノネコマタ。地球の者等ニ、星ノ船ノ訪レヲ告ゲル使者ナリ」
「……ただのネコたま?」
「サザのネコマタだ」
調子を狂わされたネコマタという名のネコは、咳払いで軌道修正し、話を再開する。
「星継グ有志ヨ、トコシエノサザヘ、イザ行カン。コレヨリ我ト共ニ、星ノ船ノ――」
不意に、トアがネコマタの首根っこを掴んで持ち上げる。
「こっ、こらまだ読み上げの途中だ、離せっ」
「使い道は分かんねえけど珍品だし、殻も中身もそれなりの金にはなるだろ」
「おおお前、俺を売る気か!」
ネコマタの全身の毛がふわりと逆立ち、一瞬、青白い火花が散る。
「痛っ!」
ネコマタを放し、トアは痛みが走った片手を押さえた。ネコマタは難なく着地して、睨めつけてくる彼と冷静に向かい合う。
「まあ落ち着け、要はサザに移り住んで欲しいという話だ。そうそう巡ってこない機会だぞ?」
「サザって何だよ、さっきから意味不明な事ばっか言いやがって」
「ああ、『第一期移住計画』より後の世代の歴史喪失は承知している。だから俺が翻訳して読み上げる『星のお告げ』を、まずはよく聞いて欲しい。ええとな、サザとは……死ヲ克服セシ機械化星。優ル人ニヨリテ築カレシ天国。アマノガワ銀河ノ恒星流ノ一、ヘヴニ流所属恒星カンナ第二惑星ニシテ――」
喋るネコマタに、いきなり被せられる網。トアは背負い鞄に挿していた魚獲り用のたも網で、ネコマタをすくい上げた。
「うるせえし、さっさと売っ払うか」
「おいこらっ、やめろ! 地球からサザへの純正生物限定招致は千年に一度か二度ぐらい稀な、極めて貴重な機会なんだぞ!」
トアの眉根が寄る。
「……限定招致?」
暴れるネコマタの爪に網を破かれそうだったので、彼はたも網をひっくり返す。宙で解放されたネコマタは再度着地し、ぶるりと身を振るって乱れた毛並みを気持ち整えた。一息置いて、めげずに語る。
「お前はカプセルの不具合で封じられたままになっていた使者の俺を再起動させ、地球とサザの希望を太くした功労者だ。サザはお前を歓迎する。俺と一緒に来てくれ」
熱心に誘われるほど、元より冷たいトアの目は更に冷えていく。
「……めんどくさ。もういいや、じゃあな」
興味を失い、トアはその場を去ろうとする。
「何処へ行く?」
「さあな。いつも足の向くままだ」
「目的地を定めていないのだな? ならばサザへ――」
食い下がるネコマタを、彼は背で突っぱねる。
「誰が行くかよ。ちょっと聞いた限り、気に食わねえ場所だ」
予想だにしなかった返答に、ネコマタは面食らう。
「気に、食わない……? 何故だ、地球の民がこぞって行きたがる場所のはずだぞ? 現に第二期移住計画の際には、希望者が殺到したと記録されているのだが――」
固まった状態で、思考する。しばしの後、状況への対処方法を一つ選り出すと同時に硬直も解けると、ネコマタはトアに向けて駆け出した。谷の口に差し掛かる辺りで、草を蹴る四つ脚の音に気づいた彼が振り返る。
追いつくと、ネコマタはトアに告げた。
「決めた。俺はこれよりしばらく、お前と行動する」
「はあ?」
「お前にサザという星についてを改めて説きたい。そして、俺はお前を通してこの地球を見聞したい。星の船到着までの時間は残り少ないが、どうかよろしく頼む」
ネコマタの予測では、それに対するトアの反応は高確率で拒否だったが、結果は違った。
「ふうん……。勝手にしろよ」
「おお? あっさり許可してくれるとは。頑なかと思いきや、意外と柔軟さを持ち合わせているな。やはり見込みある」
拒まれる想定で、はなから勝手についていくつもりだったネコマタは喜ぶ。しかし次のトアの呟きが聞こえ、ヒゲも尾もふにゃりと垂れた。
「連れとけば、いつでも換金できるしな……」
「……まだ俺を売るつもりか」
こうして一人と一匹は、始点と終点の不確かな、ある時空を一巡りする事となる。