プロローグ
僕は
僕は今あやふやで、宙の上で浮かんでいる。
ここはどこだろう、僕の眼前を支配する黒い景色。
音と光だけがあり、指先や、肌の触感は鈍く、自分の体の動きさえ僕には知る余地がなかった。
あぁ、あれは分かるぞ、金星だ。
マイナス二等星の輝きを誇る星。
高度が高いな、ということは今は冬か。
いや、そもそもどっちが下か上かも分からない。
僕は一体。
すぐそこで触れられそうな星が、僕を見てくる。
星の瞳が、視線が、僕の体を突き刺した。
それを受け、僕はやっとそのことを思い出した。───────
───────後頭部に走った鈍痛と、全身の強ばる感覚のみがよみがえった。
転んだのか、何かの拍子にぶつけたのか、殴られたのか。
殴られたのだとしたら、僕は誰かに恨まれてたのだろうか。
ぶつけたのなら、仕方ない事故と言える。
転んだのだとしたら、僕は相当の間抜けだ。
あの冷や汗の出る感覚、心の底から震え上がる感覚、それだけが鮮明なのだ。
僕は何者かであった。
僕は何者かとして長く生きた。
僕はもう何者でもない。
それがはっきりとしていった。
天蓋がぐるりとまわり、僕から目を外した。
何を見ているんだろう。
あれは、月だ。
星が月を見上げている。
星は僕を見下ろし、月を見上げる。
僕が、ぼやけてゆく......そして、また僕が、はっきりと......。
静かな木漏れ日、頬を撫でる風、喜びさえずる鳥のささやき。
そんなものが、今、確かな身体に伝わってくる。
僕の身をしっかりと受け止める地面、木々のやさしい木陰、世界の祝福が僕を目覚めさせた。
「・・・・・・あ、起きた!」
柑橘のような爽やかさで、森を駆け抜けていく通ったやさしい声が僕の耳に飛び込んでくる。
「う、うぅ」
「あぁ、苦しいよね、大丈夫、ゆっくりで、ゆっくりでいいからね、」
声の主は、僕の頬をその細くて繊細な指先で撫で、ぬくもりで体の遅れを収めてくれた。遠い記憶の中、すごく大切なものを思い出させてくれるような、懐かしさを感じる手つきだ。
僕はようやく目を開け、あたたかな色味を感じると共に、彼女の姿を目にした。
彼女は、僕の頭を膝の上に乗せて、じっと顔を見ていた。
その姿を薄く覆う、ヴェールのようにひらりと舞い、輝く金髪、深い蒼が印象的な瞳、朝露をまとったような、きめ細やかで淡く光る肌。まさに美女としか形容しようのない女性だ。
年にして10代後半、あるいは20代前半当たりであろうか、どこか落ち着き払った、けれどもどこか青い優しい表情だった。
「うん、やっと落ち着いたね」
彼女は僕に安心させるような笑い方で、手に触れ、握ってくる。
赤子に感触を確かめさせるような、そういう優しい握り方。
それのお陰で、僕はやっと体をはっきりと認識できた。
「......うん、大丈夫そう、自分で確認してみて」
彼女は目を合わせたり、僕の頭の上を見たり、僕の手によく触れて、確認するように一通り見まわしてからそういった。
言われたとおり、自分の手を触り、目の前で確認する。
革の手袋をしている。なんのためだろう、何か作業でもしていたのだろうか。
それはともかく、手袋を外し、自分の手を確認した。
「え......」
その手は白銀の毛に覆われていた。
反射する銀鏡の毛、まるで獣のようなその腕に身震いした。言いようのない違和感が全身を駆け巡る。鳥肌が立ち、耳に響くほどの動機がした。
けれど、それと同時に、頭の中に矛盾が渦巻いた。
僕はこれ以外の体を知らない、自分が何者かということを、ひとつも思い出せなかった。
ましてや、それ以外、当たり前や常識といったことも。
だからこの異形の体に疑問を持つことさえおかしいはずだった。
その瞬間、叫びとも取れるような悲痛な白いノイズが音をさえぎり引き裂くように僕の脳内に訴えてくる。
春の始まり、花びらが舞い散る桜の木、街ゆく人々、顔は見えない。何気なく外に出た夜、道路を照らすコンビニの明かり、気だるそうに僕を見る店員、顔は見えない。新学期の朝、季節の境目のワックスの匂い、教壇に立つ先生、顔は見えない。後ろから姿を追う、制服姿のだれか、顔は見えない。朝洗面台に立ち、見つめる自分、顔は見えない。
それらが脳裏に焼きつき、確かに“かつての現実”だったことを、否応なく理解させられる。
それは、故郷の、"日本"の景色。
だがそこには、僕自身と、僕の周りの人々の記憶だけがぽっかりと抜け落ちていた。
そして今分かったのだ、僕は"転生"した。
それも人では無い何かに。
誰だ