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異世界恋愛系(短編)

雨上がりの虹に赦される。

「お母さま、今まで本当にありがとう」

「こちらこそ、私を母にしてくれてありがとう」

「お母さまがわたしのお母さまで、本当によかった」


 明日、結婚式を挙げる義娘のことを抱きしめながら私は安堵のため息を漏らしていた。

 ああよかった。私はちゃんと母親をやれていたようだ。これでようやく肩の荷が下りる。


「お母さまったらどうしたの?」

「だって本当に嬉しいのだもの」

「そんなにわたしが結婚するのが嬉しい?」

「ええ、もちろん。あなたが幸せになってくれることこそが、私の願いだったのよ」


 義娘への言葉に嘘はない。ずっと贖罪のために生きてきた。ようやくこれで、私の役割は終わった。この屋敷を出ていっても許されるだろう。そう思えたから。



 ***



 私には、前世の記憶がある。


 かつて私はとある上流階級の男の妻だった。ここから遠く離れた、生活様式も文化も何もかも違う異国が私の暮らしていた国だ。政略結婚だったが、私は結婚相手である夫を愛していた。けれど、夫には私の他に既に愛する女がいたのだ。身分の低さゆえに正妻にすることはできなかったため、夫と義両親たちは私を正妻に選んだらしい。


 本当に愛する女は妾として囲えばいいと考えたようだ。古いしきたりのあの国では、よくある話だった。だからこそ、そんなことに傷つく私がおかしいのだと周囲は誰も取りあってはくれなかった。もしかしたら私の母も、私が気が付かないだけで父の浮気に苦しめられていたのかもしれない。


 もちろん結婚生活は最初から破綻していた。夫は妾の家に入り浸り、本宅には帰ってこない。子どもが生まれれば何かが変わるかもしれないと思っていたが、なんと同じ時期に妾の女もまた子どもを孕んでいた。せめて私が跡取りを産んでいれば、まだよかったのかもしれない。だが、生まれた子どもはどちらも女の子。同じ性別なら、夫が妾の娘を可愛がるのは自明の理だった。


 だから私は、私の娘と妾の娘を入れ替えた。妾が死に、夫が妾の娘として私の娘を本宅に連れ帰ってきてからは、喜んで世話をした。馬鹿な夫は妾の娘として私の娘を可愛がり、私の娘として育てられた妾の娘は、誰からも顧みられることなく虐げられた。だが、そんな自分勝手な生活が長く続くことはなかった。私は、報いを受けたのだ。


 私が虐げた妾の娘は、辺り一帯を守護していた土地神に見初められた。そして土地神は愛した娘を虐げた私を許さなかったのである。土地神が去り、雨の降らなくなった責任を問われて私は雨乞いのための贄となった。まあ、私なんぞを贄に捧げたところで、天の恵みが戻ることなどなかったのだけれど。


 地獄に落ちることもできないままあの土地に縛られて暮らし続けていたはずなのに、どうして生まれ変わったのか。何か忘れているような気がしたが、何も思い出せなかった。



 ***



 終わりのない煉獄でずっと生きていくはずが、何の因果か私は生まれ変わっていた。かつての記憶を持ったままで。


 とはいえ新しい人生は、幸せとは言い難いものだった。生まれ変わった場所は、かつて暮らした国とは異なる海の向こうの国。新しい世界に私は静かに、けれど確かに胸の高鳴りを感じていた。まさか、私は許されたのだろうか。


 だが、そうではないとすぐに気が付いた。かつての記憶を持っているままだったことが災いしたのだろう。私は、些細なことで家族とのずれを生じさせてしまった。特別どこが変だと指摘することはできないけれど、どことなく気にかかる違和感があるのだそうだ。私自身にはわからないため、直しようがない。


『どこっていうわけじゃないんだけれど、なんかちょっと変』


 事実、私の存在は異分子のようなものだから、彼らのその評価はおおむね正しかったのだろう。


 その上私には、この国の高位貴族なら当たり前に持っているはずの加護がなかった。前世にて土地神の恩恵を受けていたように、この国は守護神の加護があるらしい。その力で、家と国が繁栄するのだとか。けれど神殿の神官によれば、私は呪いのような何か別の力をまとっているそうだ。その力のせいで、この国の加護を受けられないという見立てだった。


 ああ、土地神の呪いかと納得した。この国に生れ落ちてからずっと、どこか他人事のような感覚が抜けないのだ。水底から水面を眺めているような、そんな感覚。身体が重く、自由はきかず、音も光も何もかもが遠い。


 かつて私が妾の娘を虐げたように、私は実の家族に虐げられた。まあ、それはそうだろう。貴族の娘としての利用価値がなければ、家族からの扱いなんてこんなものだろうと思っていたから、私は泣くこともせず粛々と従うだけ。前世と同じように政略結婚の駒となり、妻のいない子持ちの貴族男性の元に嫁がされた。


『お前を愛することはない。俺に手間をかけさせるな。お前の仕事は、娘を育てることだと理解しろ』


 夫は当然のように、私との子どもはいらないと言った。新しく子どもができて、万が一にでも自分の娘が傷つけられたり、家を乗っ取られたりするようなことがあってはたまらないと。なるほど、これも土地神の考えそうなことだ。確かに前世の私の振る舞いを見れば、私に子どもを産む資格はないと判断するだろう。まあ、散々可愛がったつもりの前世の実娘は、私を憎み、呪詛をまき散らして死んでいったのだから、子どもを産めたとしても産むつもりなんてさらさらなかったのだけれど。


 ただ予想外だったのは、そんな夫があっという間に事故死してしまったことだ。この家の跡取りは義娘だが、ぼんやりしていれば強欲な親戚たちに財産を乗っ取られてしまうに違いない。今まで没交渉だったはずの義娘の母親の実家からもいろいろな打診がくるようになり、私は頭を抱えることになる。


 これは罰なのだ。前世で私は、浮気をした夫を憎み、妾を憎み、妾が産んだ子どもを憎んだ。だから、私は今世では実の家族に愛されず、結婚した夫に愛されず、義理の娘にも愛されない一生を過ごすに違いない。その上味方などいない中で、血の繋がらない義娘をたったひとりで守り、育てていかねばならない。それが私に科せられた贖罪なのだろう。



 ***



 血の繋がらない義娘は、とても育てにくい子どもだった。

 信用できる使用人が把握できておらず、義娘の世話をひとりでやらなくてはならなかったのも負担が大きい原因だったのだろう。


 幼児はいやいやを言うものだが、かつての私の娘とも、妾の娘とも異なる激しい気性に私は振り回されるばかりだった。さすがにこれはと、仲の良くない実家の母に助けを求めたこともあるが、お前の育て方が悪いのだと一蹴されるだけだった。私が来た時点でこの義娘にはみんな匙を投げていたから、私だけが責められるのはおかしいような気もするが、ひとというのはそういうもの。誰かが責任をかぶらなければならず、その相手に私のような人間はちょうどよかったのだ。


 義娘は一日中、泣き叫んでいる。おかげで、私が虐待しているのではないかと噂されたが、卑屈になればさらに噂がひどくなるだけだ。私はただ黙々と義娘の世話をした。人見知りの激しい彼女も、私にだけは感情を剥き出しにしてぶつけてくる。私の身体中、噛み跡と青あざだらけになったが、心はそれほど痛まなかった。生まれ変わってからの家庭環境で慣れ切ってしまっていたというのもあるが、そもそも私の心はこの世界では鈍感なのだ。


 怒りも悲しみも、喜びも嬉しさも、今の私には遠い感情だ。水に包まれた私の向こうにそれらはある。今の私には縁のないもの。おかげで最初は戸惑ったものの、最終的には義娘がどれだけ癇癪を起こしても、まあそういうものかと粛々と受け入れられたことだけは幸いだった。前世のように気性の激しい私なら、この小さい生き物を酷く打ってしまっていたかもしれないから。



 ***



 かつての私なら耐えられないような年数が過ぎ去り、義娘はすっかり大きくなった。けれど大きくなっても私は、義娘に嫌われていた。むしろ彼女が成長するごとに、さらに鬱陶しがられるようになったと言ってもいい。まあ、それは必要なことなのだろう。それに血の繋がりのない同居しているだけの女に、毎日あれやこれやと口うるさく言われていれば気分が悪くなるのは、私にだって理解できた。


 やがて、義娘に恋人ができた。見目麗しい、年頃の少女なら誰でも夢中になってしまいそうな男だ。けれど、彼には良くない噂があることを私は知っていた。男を歓迎しなかった私のことを、義娘は罵った。


『本当の母親でもないくせに!』

『本当の母親でも、ろくでもない男との結婚は認めないと思うわ』

『何よ、本当のお母さまなら、きっとわたしの気持ちをわかってくれるわ! 血の繋がりってそういうものよ!』


 義娘は何をどうやったのか、産みの母親とやらを連れてきた。私はてっきり実の母にあたる女性は早逝していたと思っていたのだが、他に男を作って蒸発し、死んだ扱いになっていたというのが事実らしい。


『わたしは、彼と本当のお母さまと一緒に暮らすのよ! だから、偽者はさっさとこの家を出て行ってちょうだい!』

『なるほど、あなたの言い分はわかったわ。けれど、今のあなたにお金は渡せないの。あなたが成人になるまでは、どんなに嫌であろうとも私の保護下となるわ。それは法的にも認められていることよ。不服があるなら、裁判をしてもかまわないけれど、あなたを捨てて消息を絶っていたご母堂さまに、裁判をするお金は残っているのかしら』

『わたしは、あなたのそういうところが大嫌いなのよ!』

『そう、それは残念だわ』


 確かにとても残念だった。私はなんだかんだ言って、この義娘のことが嫌いではなかったから。生きる力にあふれた彼女を見ていると、何でもできるような気がした。前世は夫にすがり、道を誤り、今世は償いのためだけに生きている私とは違って、彼女は生を謳歌している。だからこそ、彼女の幸せのために泥をかぶってもかまわないと思えた。


 お金がなくても、愛さえあれば問題ない。血は水よりも濃い。そう言い切った義娘は家を飛び出し、数か月も経たないうちにすっかりやつれて我が家に舞い戻ってきた。こっそり護衛をつけていたから、売り飛ばされたり、怪しい金貸しと接触したりすることはなかったらしい。この国では、前世の故郷とは異なり、処女性に重きを置いていないことも私にとっては良い方向に働いた。


『どうして、あのひとたちがあんな最低な屑野郎だったって教えてくれなかったの!』

『教えたつもりだけれど、あなたが納得しなかったのでしょう? 自分の目で見て、自分で体験しなければ、納得できないことは多いのよ。頭で理解することと、心で納得することはまた別のことだと、私だって承知しているもの。痛い目を見て学ぶことだって大事よ』

『お母さまは、わたしのことなんてどうでもいいのね!』

『本当にどうでもよければ、小言など言わないわ。ひとを注意するのは、案外疲れることなの』

『お母さまは、何にもわかってないのね!』

『そうね。何をどれだけ繰り返しても、親子というのが一体何なのか、私にはわからないわ。結局のところ、私が他人だからなのでしょうね』

『何よ、それ。最低!』


 義娘の暴言など、今に始まったものではない。それなのに胸が痛むのは、私の頑張りを褒めてくれるひとが誰もいないからだろうか。贖罪だというのに、私の存在を認めてほしいだなんておこがましいことだ。こんな私だから、加護を受けることも叶わず、人間としてごく当たり前の呼吸のやり方もわからないまま暮らしているのだろう。だが、まあもう少しだ。義娘に家の仕事をしっかりと引き継ぎ、彼女がきちんとした身元の婿を取ったなら、私の役目はそこまでなのだから。



 ***



 恋人と実の母との生活が相当に堪えたのだろう。義娘は私の言葉に、耳を傾けるようになった。もちろんすべて従うということはない。けれど、私の話にも一理あるのだということに思い至ったらしい。これならば、もう大丈夫だろう。なに、かつては癇癪持ちだったが、根は優しい子なのだ。私以外の相手には、素直に接することができることも私は知っている。


「お母さま、今まで本当にありがとう」

「こちらこそ、私を母にしてくれてありがとう」

「お母さまがわたしのお母さまで、本当によかった」


 明日、結婚式を挙げる義娘のことを抱きしめながら私は安堵のため息を漏らしていた。

 ああよかった。私はちゃんと母親をやれていたのか。肩の荷が下りるようだ。


「お母さまったら」

「だって本当に嬉しいのだもの」

「そんなにわたしが結婚するのが嬉しい?」

「ええ、嬉しいわ。あなたが幸せになってくれることこそが、私の願いだったのよ」


 義娘への言葉に嘘はない。ずっと贖罪のために生きてきた。ようやくこれで、私の役割は終わった。この屋敷を出ていっても許されるだろう。そう思えたから。


「お相手にはできるだけ素直になりなさい。我慢しても、よいことなど何もないのだから。寂しいなら寂しい、悲しいなら悲しい、嬉しいなら嬉しいと、楽しいなら楽しいとはっきり伝えるしかないのよ。感情を押し殺すことが美徳だなんて、私はそうは思わないわ」


 上流階級の常識では感情は秘するもの。それでも私は、義娘の良さを殺したくはない。せめて、夫君の前ではありのままでいてほしい。


「また、わたしのことばっかり」

「親というのは、そういうものなのよ」

「それじゃあ、願いが叶ったお母さまはどうするの?」

「そうね、今度はあなたの邪魔にならないようにどこか遠くへ引っ込むわ」


 さっと義娘の顔色が変わるのがわかった。ああ、心配しているのかと思い、私は慌てて説明した。


「大丈夫よ。あなたのお父さまの資産を持ち出したりなんてしないわ。再婚予定もないから、醜聞を撒き散らすこともないのよ。ただ、新婚夫婦の邪魔になってはいけないから、どこか田舎に引っ越すつもりというだけで」

「お母さまは、やっぱりわたしのことが嫌いなの? わたしがお母さまを試すようなことばかりしてきたから? だからわたしを捨てるの?」

「捨てるだなんてとんでもない。あなたは立派に自分の足で立てるようになったわ。私がここにいれば、あなたに迷惑をかけることがあるかもしれない。だから、出ていくのよ」

「何それ。お母さま、何か言われたの? わたし、お母さまのことを邪険にする男なんかと結婚なんてしないわよ!」


 どうしたことだろうか。どうも予想外の事態になってしまったようだ。



 ***



「信じてくれないかもしれないけれど、私には前世の記憶があるのよ」


 困り果てた私は、意を決して義娘に話すことにした。今までこのことを彼女に話さなかったのは、嘘だと思われることを心配していたからではない。信じてもらえても、もらえなくても、私はどちらでも構わないのだ。だが、頭のおかしい女だと思われれば何かあったときに不利になる。


 ただでさえ、女という性別は何かにつけて不利なことが多いのだ。これで正気が疑われてしまっては、憂慮すべき事態が起こったときに妄想や勘違いで片付けられかねない。だから、私は前世の記憶を語ることはなかった。だが、義娘が何か勘違いしているらしいのなら話は別だ。幸せな結婚をしてもらうためにも、懸念事項は解決せねばなるまい。ここまでくれば、私の気が狂ったと思われたところで、まあどうにでもなるだろう。


 私の話を聞いていた義娘は、どんどん顔色を青くし、けれど途中から怒りが込み上げてきたらしく顔を赤くしていった。


「そんなの、お母さまはちっとも悪くないじゃない!」

「いいえ、私が悪かったのよ。いくら結婚相手が妾を囲っていても、家庭を顧みなかったとしても、私は罪もない子どもに八つ当たりをしてはいけなかった」

「でもそれは、その当時の旦那さんが悪いのよ。相手の女の人だって、お母さまと結婚していることを知っているなら身を引くべきだった。そうじゃないなら、わきまえた暮らしをするべきだった!」

「確かにあの時の私はそう思っていたわ。それでもやっぱり、遺された娘を虐めてはいけなかったのよ。娘を遺して亡くなった彼女は、きっと苦しんだに違いないわ」

「じゃあ、お母さまはどうすればよかったの。冷たく当たったとしても、お母さまは妾の子どもをちゃんと育ててあげたじゃない。殺すことなく、生かしてあげたじゃない!」

「食べるもの、着るもの、住むところがあるだけでは、心は満たされない。それはあなたが一番よくわかっていることでしょう?」


 実の母は行方知れず、父も早くに失い、祖父母とは疎遠。新しい母親のことを信じられず、ありとあらゆる試し行動で、どんどん周囲の人々は離れていく。もがいて、もがいて、けれどどうにもできないまま水底に沈んでいく日々を思い出したのだろう。義娘が涙を浮かべた。


「でも、そんなのお母さまが可哀想すぎるわ。お母さまだけが我慢しなければいけないの? 誰にも愛されないのに、誰かを愛してあげないといけないの? そんなのお母さまが空っぽになっちゃうじゃない」

「母になるなら、それを呑み込まなくては。神さまはそれをお望みになったのでしょう」

「無茶苦茶だよ!」


 泣けない私の代わりに、義娘が泣いてくれている。これくらい私も自分の気持ちを誰かに訴えることができたなら、未来は変わっていたのだろうか。あの子のことを、憎まずに済んだのだろうか。心が遠いところに向かおうとしていたが、義娘に強く抱きしめられて我に返った。


「だから、お母さまはここを出ていくの? わたしのせいで、お母さまは空っぽになっちゃったの?」

「いいえ。あなたのお陰で、私の心は満たされたわ」

「じゃあ、どうしていなくなるの」

「それは、私のお役目が終わったからよ」

「まだ仕事があるならここにいてくれるの? わたし、子育てをちゃんとする自信がないよ。お母さまはわたしなんかのことを大切にしてくれたけど、同じことをわたしが自分の子どもにされたら、心が折れちゃうよ。ううん、折れるどころか、嫌になって子どもを捨てちゃうかもしれない。わたしの本当のお母さまみたいに。ねえ、お母さま。お願い、わたしのことを助けて。わたしが、ちゃんとお母さまみたいな母親になれるように、このままずっとここにいて」


 わんわんと義娘が泣く。零れ落ちる涙が晴れの日に降る雨粒のように綺麗で、その癖彼女の顔が迷子の幼子のように所在なさげで、私は何も言えなかった。



 ***



 結局私は、義娘が婿を取ったあとも屋敷に暮らしている。姑がいるなんて婿も気を遣うだろうと思ったのだが、婿は自分が留守のことも多いので、母親である私がいると安心できると言ってくれた。なんともできた婿である。


 その日も婿は仕事とやらで、家を空けていた。遊びたい盛りの子どもたちがお昼寝に入ってくれたこともあり、私と義娘は一息つくことにした。お茶のおともに選ばれたのは、なぜか私の再婚の話だ。


「お母さまって、再婚する予定とかないの?」

「何を言っているの。そんなことあるわけないでしょう」

「そうかしら。訳あり子持ちの男に嫁ぎ、相手の男はあっさり早死。死後離婚したってよかったはずなのに、お母さまはなさぬ仲のわたしを必死で育ててくれたわ。白い結婚だったことはみんなが承知している。そんな女性、人気がないわけがないと思うのだけど?」

「そんなことを言って褒め称えても、何も出ないわよ。だいたい私は、もうすっかりおばあさんなのだから」

「そんな深窓の姫君みたいな容姿をしていて、おばあさんだなんて。それに年齢から考えても、別におかしくなんてないわよ。むしろ、この年齢で嫁いだわたしのほうがこの国では珍しいのだから」


 前世が別の国の人間だったせいだろうか、海を渡ったつ国では、ずいぶん若く見えてしまうらしい。その上、違う国の記憶があるせいで私は気が付かなかったが、生まれ変わった私の実家も、嫁ぎ先も相当に古い考え方の持ち主だったようだ。進歩的な義娘からすれば、さぞかし私は頭がかたく、話が通じない人間だったことだろう。今さらながらに恥じ入るばかりだ。


「お母さまは、幸せになる気はないの?」

「私は今の暮らしで十分よ」

「前世の罪を償わなくてはいけないから?」

「……ええ」

「わたし、思うのだけれど」

「なあに?」

「その娘さんって、お母さまのことを許したいって思っているのではないかしら?」

「え?」

「そう簡単に、『許す』とは言えないとは思うの。許したいという気持ちと、許せないという気持ちが毎日入れ代わり立ち代わりやってくるだろうし。でももしもその娘さんが、今のわたしみたいに親になって、子育てをしていたら、いろいろ考えが変わることもあるんじゃないかしら。綺麗事だけで、育児はできないから」


 寝顔は天使のようだが、起きていると悪魔のように大騒ぎする子どもたちのことを考えているのだろう。義娘の表情は、なんとも甘く柔らかい。


「会いたいわけじゃない。とはいえ、不幸になって一生苦しめとは思わない。幸せになってくれてもいいけれど、自分の目の届かないどこか遠くにいてほしい。でも、自分のことは決して忘れないでいて。そういう矛盾するような気持ちってあるでしょう?」

「それはあなたの実母への想いと同じなのかしら?」


 義娘は曖昧に微笑んだまま、答えない。


「ねえお母さま。ここは、お母さまのかつての生まれ故郷ではないわ。土地神さまとやらがいる場所にはたぶん戻れない。それが、お母さまへの罰であり赦しなのよ。だから、お母さまだって、幸せになったっていいじゃない」

「流刑で手打ちにしてくれたってことなのかしら。あんなことをしでかしたのに?」

「土地神さまがどんなひとかなんて知らないけれど、愛妻家なら、奥さんの言うことには従うんじゃないの」

「確かに、ありそうな話だわ」


 彼女は優しい娘だった。決別する直前まで、私を母として慕ってくれていた。かつての私を愛してくれたのは、妾の娘ただひとりだったのだ。そんな彼女なら、私のことを憎みきれず、土地神に口添えしてくれることもありうる気がした。あの子は、幸せに暮らしているのだろう。あの土地神がいるのだから不幸になるとは微塵も考えてはいなかったが、彼女の幸福をしみじみと実感する。


「でしょう? いっぱい話したら喉が乾いちゃったわ。ねえ、お母さま。わたしにお茶を注いでくださる」


 慌ててそばにいた侍女が、お茶の準備を始めた。私の手を煩わせるわけにはいかないと思ったのだろう。だが、義娘は納得しなかった。


「あなたたちには頼んでいないわ。わたしは、お母さまのお茶が飲みたいの。あなたたちは知らないかもしれないけれど、お母さまに注いでいただくお茶はとっても美味しいのよ。まあ、私が一番美味しかったと思ったのは、熱を出したわたしにお母さまが飲ませてくださったお水なのだけれど」


 にこりとはにかんだように笑った義娘は、初めて出会った幼い頃のまま変わらない。あのとき結婚の挨拶に来ていた私は、熱を出した彼女に水を飲ませてやったのだ。


『のどが、かわいたの。おかあさま』


 そう言って私の手を引っ張る彼女の身体は干からびてしまいそうに軽く、あまりに哀れ。感覚の鈍い私にさえわかるほど熱い。高熱で意識がもうろうとしている彼女に、せめて母親らしい温もりを与えてやりたかった。


 不意に思い出した。

 天にも昇れず、地獄にも落ちることもできない苦しい日々。井戸の底から照り付ける太陽を見上げて、ただひたすら雨が降るのを待っていた。かつて娘を虐げた私の元にやってきたのは、見知らぬ少女。姿をまともに捉えることもできないのに、手を握られている感覚は鮮明で、水が欲しいということだけはわかってとても心苦しかった。


 枯れた井戸には水がない。天の恵みもなければ、(かつ)えた少女に水を与えることすらできない。

 ただどうにかしてやりたくて、私は無心で祈りを捧げていたような気がする。あの時の少女が、今目の前にいる義娘だったのか。


 唐突に私を覆っていた、水の膜が消えた気がした。音が、匂いが、色彩が、私をとりまく何もかもが急激に鮮やかになる。その勢いに圧倒されて、私はへたり込みそうになった。のろいが解けたのか、まじないで守られていたのか。私にはまだ判断ができそうにない。けれどそっと触れた義娘の手は、泣きたくなるほど懐かしく温かい。


 ああ、義娘が私をここへ連れてきてくれていたのか。彼女が私を求めてくれたのか。

 愛されてもいいのだろうか。愛してもいいのだろうか。


「あなたが、私を母にしてくれたのよね」

「お母さま、またその台詞。お母さまってば、何かあるといつもそればっかり」

「だって、あなたのおかげだって気が付いたから」


 あとからあとから降り注ぐ雨のように、涙が止まらない。今までどんなことが起きても泣いたことなんてなかったのに、どうして感情を制御することができないのか。何もかもが理解できないというのに、不思議なことに涙を流す行為自体は不愉快ではないのだ。静かな部屋の中でひとり雨音を聞いているように、どこか心地よい。散々に泣き腫らした私が落ち着くのを待っていたのか、義娘が良いことを思いついたと言わんばかりに手を叩いた。


「ねえ、お母さま。前世のお母さまが生まれた国のこと、教えてくださる?」

「ここから行くのはさすがに難しいわよ」

「わたしが行くことは難しいかもしれないけれど、領地の特産物をいつか輸出することになるかもしれないでしょ?」


 どうやら義娘は領内で採掘される金剛石のことを言っているらしい。私が土地神に嫁いだ妾の娘に会うことはきっと二度とないけれど、いつか私の償いがあの子に届いてくれるかもしれない。そんな夢物語を想像することくらいは許されるだろう。


「……それじゃあ、お茶を入れ替えてからお話を始めましょうか。私の生まれた国は……」


 嬉しそうに話を聞いてくれる私の()は、雨上がりの虹のように輝いている。

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i000000 バナークリックで、同一世界観の作品を紹介している活動報告ページに飛びます。 ちなみに、同一世界観である『白蛇さまの花嫁は、奪われていた名前を取り戻し幸せな道を歩む~餌付けされて売り飛ばされると思っていたら、待っていたのは蕩けるような溺愛でした~』は、2023年5月31日、一迅社さまより発売されておりますアンソロジー『虐げられ乙女の幸せな嫁入り』2巻収録作品です。 何卒よろしくお願いいたします。
+注意+

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