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黒犬幻譚

分身

作者: ginsui

 

 雅人の通う弓道場は、この季節、落葉との戦いになる。

 八幡神社の敷地に建つ、五人立のこじんまりとした弓道場だ。すぐ傍にみごとな欅並木があるために、秋ともなれば野天の矢道に絶え間なく落ち葉が舞い落ちる。境内の楓や銀杏の葉だけなら風情もあるが、かさかさと乾いた欅の葉はうんざりするほどの量だった。

 会員なら道場はいつでも使用できるため、登校前に雅人が立ち寄る時には、もう朝稽古の老人たちが竹箒を手に矢道の落ち葉を掃き集めていた。雅人も彼らを手伝って、大きな袋に黄色や赤の交じった落葉を詰め込み、神社の隅に運んでいく。それから着替えも含めて一時間ほどの稽古、自転車に飛び乗って高校に向かうというのが最近の雅人の毎日だった。

「あんまり稽古ができないねえ、藤森くん」

 更衣室で気の毒そうに佐藤さんが声をかけてきた。頭がだいぶ禿げあがった、小柄な老人だ。

「いえ、朝だけでも引けるのはありがたいですよ。なにしろ高三の夏から部活は出入り禁止でしょう。学校終わればすぐ塾だし」

 佐藤さんはこくこくと頷き、ありきたりのことを言う。

「もう少しだ。がんばれ、受験生」

 雅人は笑って袴の帯をきゅっと締めた。

「はい」

 たとえ早起きしても、足袋を履き、道着に袴をつけて射場に立つ時間は、雅人にとってかけがえのないものだった。的に向かって弓を打ち起こせば清々しい気分が充ちてくる。矢が的に吸い込まれて小気味いい音を立てれば、志望校への偏差値が少々足りないことなど忘れてしまう。

 とはいえこの充足感も、しばし封印の時がきていた。まわりではすでに推薦入試が始まっている。自分もうかうかしてはいられない。来月になったらきっぱりと道場通いを止め、受験勉強にいそしむつもりだった。

 今日最後の一手にしようと弓矢を持って射場を向いた時、 矢道を囲む垣根の向こうから、こちらを眺めている人物に気づいた。

 道場を見物する人がいるのは、べつにめずらしいことではない。神社を参拝する人や、散歩の途中の人などが、よく立ち止まっては眺めて行く。

 いつもは気にとめないのだが、しかし、その時は違っていた。

 参道脇の古い銀杏の樹の下だった。

 半白髪の初老の男性が、黒い犬を連れて佇んでいた。男性は背が高く姿勢がいいので、ジーパンに革ジャケット姿がよく似合っている。種類のほどはわからないが、犬は短毛で尖った耳に、長い鼻筋。尾も長く、すらりとして大きかった。朝日に光る銀杏の落ち葉の上で、その毛並みはいっそう艶やかに黒さを増して見えた。

 雅人は目を細めた。もともと犬は好きなのだ。

 三年前、長年の相棒だったヨークシャーテリアが老衰で死んだ。こんどの受験がうまくいったら新しい犬を飼うことになっていたが、マンションなのでまた小型犬だろう。飼えないのがわかっているだけに、あんな大型犬にことさら憧れてしまう。

 しなやかで筋肉質な身体に両腕をまわし、存分に撫でてやったり、ドッグランで悠然と駈け回る姿を眺めるのはどんなに楽しいことか。

 男性が、犬になにか声をかけた。犬が首をもたげて自分を見たような気がした。

妙に印象深い犬と人だった。

 彼らの視線を感じながら、雅人は弓を引いた。

 意識しすぎたらしい。矢は二本とも的を外れて安土に刺さった。矢を取りに安土に行った時には、彼らの姿はすでになかった。

 次の日もまた次の日も、犬とその飼い主はやって来た。銀杏の樹の下で少しの間道場を眺め、行ってしまう。朝の散歩時間なのだろう、と雅人は思った。自分の稽古の時とちょうど同じと言うわけだ。これまでに見かけたことがなかったのは、散歩のコースを変えたか近所に引っ越して来たからなのかも。

 やがて月がかわり、雅人は朝稽古をやめた。弓ともども、あの黒犬の姿が見られなくなるのは寂しかったがしかたがない。受験が終わっても、まだ飼い主が日課を続けていればいいのだが。そうしたら思い切って声をかけ、犬に触らせてもらおうなどと考える。

 十二月に入ると学校の授業も少なくなり、塾と図書館にいる時間の方が多くなった。

 街中はクリスマス一色で、サンタやツリーにあふれかえっている。二十五日を過ぎれば、これがたちまち鳥居や七福神や干支へ早変わりだ。見えないものにせつかれているような気分で商店街を横切り、図書館へ向かう。

 駐輪場に自転車を置いて顔を上げた時、しなやかに黒いものが視線をかすめた。

 駐輪場は図書館と隣の建物との間の細長い路地めいたところにあり、表通りと裏通り、二箇所の出入り口がある。その裏通りを歩く黒い犬の姿が、居並ぶ自転車の向こうに見えたのだ。犬は建物の陰にすぐに姿を消した。

 気づいた時には後を追っていた。裏通りは狭い雑居ビルが多くて、人通りはあまりない。歩道もないその道をゆっくりと歩いて行くのは間違いなくあの犬と飼い主だ。

 まさか呼び止めるわけにもいず、雅人はただ後ろ姿を見送った。また会えたことに満足し、踵を返そうとした。

 と、飼い主の男性がふらりとよろめいた。彼は傍らの電信柱に手をつき、うずくまった。リードが手から落ちたが、犬はその場を動かず飼い主の顔をのぞき込んでいる。

「大丈夫ですか?」

 雅人は彼らに駆け寄った。屈み込み、犬のリードを持ってやった。

「ああ。ありがとう」

 男性は顔を上げて弱々しく言った。

「少し目眩がしてね」

 雅人ははっとした。弓道場に来ていた時はもっと若い人だと思っていた。鼻筋通って整った顔に、深い皺が刻まれている。初老どころかすっかり老人だ。白髪も前に見たときよりもずっと多くなっているような気がする。銀杏の金の輝きが彼を歳よりも若やいで見せていたのだろうか。

「救急車を呼びましょうか」

「すぐに治まる。大丈夫だ」

 彼は眉を上げ、

「君は、弓の」

 雅人はちょっと笑った。顔を憶えてくれていたのか。

「時々お見かけしていました」

「このごろいないので、エルフが寂しがっていたよ」

 彼は犬の頭に手を乗せた。

「エルフと言うんですね」

 雅人が見ると、エルフはついと顔を寄せてきた。賢そうにきらめく目が、真正面から雅人を見返す。磨き上げた黒曜石のように美しい。

エルフの目に、雅人の顔は映らなかった。

 雅人はぎょっとした。エルフの目は、光を弾いていないのだ。赫きは、漆黒の双の目の深い底の底から発せられていた。その赫きにどこまでも引き込まれていきそうな気がして、雅人は一瞬身動きができなくなった。

 睫に冷たいものが落ちて、雅人は我にかえった。

 雪がちらついて来たのだ。

「家の人に連絡を」

「家族はこいつだけでね」

「じゃあ、よかったら送っていきますよ。エルフを連れて帰るのは大変でしょう」

「しかし」

「時間はありますから」

 雅人はリードを持ったまま立ち上がった。

「すまないな」

 老人も立ち上がりかけたので、雅人は手を貸した。コートの袖から出た手首はずいぶん痩せて筋ばっていた。ほんとうにあの時の人と同一人物なのだろうか、と雅人は訝った。背中も、だいぶ丸まっている。はじめて見た時は精悍な感じすらしたものだが。

 エルフは老人の歩調に合わせてゆっくり歩を運ぶ。時おり、気遣うように飼い主を見上げる。

 賢い犬だ。雅人はエルフのリードを持ちながら感心した。自分が付き添うまでもなかったかな。

 老人の家は、弓道場近くの古い住宅地にあった。狭い道の両側に二階建ての家が建ち並ぶ袋小路の突き当たり。

 いささか錆び付いた鉄の門扉を開けて、老人は雅人からリードを受け取った。 

「助かったよ。入ってお茶でも飲んでいかないかね」

「いえ、これで。ゆっくり休んでください」

「そうか。エルフはきみが好きなようだ。いつでも遊びに来てやってくれ」

 エルフの黒い目が雅人を見上げていた。

「触っていいですか?」

「もちろん」

 雅人は屈み込み、エルフの頭を撫でた。ひやりと冷たい感触だった。エルフは目を細め、されるがままになっていた。

「じゃあ」

 雅人は立ち上がってぺこりと頭を下げた。

「ああ、また」

 老人は微笑んだ。

「待っているよ」

 老人の家に背を向けて歩き出したころから、雪は本降りになってきた。雅人はダウンのフードを深く被って、来た道を引き返した。

 はずだった。

 しかし、いくら行っても住宅地は終わらない。どの角を曲がっても、同じような道、同じような家の門扉が連なっている。

 道に迷ったのか。

 雅人は天を仰いだ。駅の方の建物も八幡神社の背高い杜も、雪に視界を遮られてまったく見えず、方向すらわからない。

 スマホを取り出して、地図を見ようとした。画面は暗いままだ。バッテリーが切れてしまった? 朝に充電したばかりだったのに。

 いったい、今何時なのか腕時計を見ると、秒針は止まっていた。これもまた電池切れか。

 運が悪すぎる。

 雅人はひきつった笑みを浮かべた。子供でもあるまいし、こんなところで迷子になってしまうとは。

 誰かに訊ねるにも、車一台、人っ子一人通らなかった。

 不安を追い払って、雅人はまた歩き出した。さほど広い住宅地ではないはずなのに、曲がり角がやたらと多かった。来た時はもっと簡単な道だったはずだ。まったく違う場所にに出てしまったのだろうか。

 雪はしんしんと降り続き、地面に足跡がくっきりと残るようになった。角を曲がると、自分の足跡があった。

 雅人はぞくりとした。同じところを巡っている。

 雅人は、ほとんど駆け足になっていた。どの道に出ても、自分の足跡を見つけた。しかし、この家並みの出口には行き着けない。

 雪はますます強く降ってきて、乱れた足跡を消していった。

 どのくらい時間がたったのだろう。吐く息は白く、道も空も、あたりの光景はすべて白かった。

 頭の中も真っ白だ。足をよろめかせ、雅人はその場にしゃがみ込んだ。

 と、白のただ中に一点の黒いものがあった。目の前の袋小路のつきあたり、開いた門の前にエルフが立ってこちらを見つめていた。

雅人はふらふらと立ち上がり、エルフに引き寄せられるように袋小路の道を戻った。


 エルフの後に老人が立っていた。

「道に迷ってしまって…」

 かすれた声で雅人は言った。

「寒いだろう。入りなさい」

 雅人は導かれるまま、老人の家に入った。

 玄関で濡れたダウンを脱ぎ、通されたのは昔風の応接間だ。隅に置かれた石油ストーブの上で、やかんのお湯がしゅんしゅんと煮えたぎっていた。

 雅人は革張りの長いソファにぐったりと腰を下ろした。

 老人が紅茶を二人分入れ、キャビネットから出したブランデーをたらしてくれた。

「飲みなさい。あたたまるよ」

 雅人は素直に紅茶を口にふくんだ。香りのよいブランデーは多めで、胃の底から熱さが広がるような気がした。

 老人が向かいのソファに座ると、エルフもその脇にうずくまった。

「わたしもエルフもこれが好きでね」

 紅茶を飲みながら老人は言った。

「だからお湯はかかせないんだ」

「エルフに紅茶を?」

「わたしたちの胃袋は同じなのでね」

 エルフは頭をもたげ、老人と眼差しを交わした。

 この人は、どこかおかしい。

 ようやく頭がはっきりしてきた雅人は思った。痴呆とも違う。なにか異質な感じがする。

 エルフもそうだ。あまりにも賢すぎる。

 だいたい、なぜ自分は道を迷ってあんなにも彷徨っていたのだろう。すべてを知っていて、出迎えるようにエルフが立っていたのはなぜなのだろう。

 エルフは、雅人の思いを見透かすような目をこちらに向けた。雅人は思わず顔をそむけた。

「ぼくは、もう帰らなくては」

 雅人は言った。

「道を教えていただけませんか。このあたりは、わかりずらくて」

 老人は答えず、涼しい顔で紅茶を飲んでいる。

 雅人は腕時計とスマホが動かないままなのを確かめた。

「いったい、いま、何時なのでしょう」

「そうやって、一生を時間に追われたいかね」

 ようやく老人は言った。

「きみは学業に追われ、生活に追われ、家族に追われ、やがては死に追われる。すべては限りある時のために」

「だって、それは…」

「人間だから、しかたがない」

 老人はティーカップを卓に置き、雅人をじっと見つめた。どうしたことか、雅人は身動きできなくなっていた。

「それで、満足かね」

 老人は言葉を続けた。

「きみが弓を引いている姿は美しかったよ。時に支配されていなかった。何ものにも囚われず、きみは自由だった」

 このまま老人の戯言を聞いているわけにはいかない。雅人は立ち上がろうとした。が、できなかった。動かない身体は、いっそう深々とソファにくい込んで行くようだ。

 紅茶に何か入れられたのか?

「帰してください」

 雅人はかすれた声でささやいた。老人は首を振った。

「わたしたちは、きみが気に入った。きみならエルフにふさわしい」

「エルフ…」

「わたしは病気だ。もう長くない」

 エルフは、老人を見やった。老人は、エルフの首の後に手を置いた。

「わたしたちは、ずいぶん長いこと生きてきたよ。死とは無縁のはずなのだが、どういうわけかわたしに老いがはじまってね。生まれた時から欠陥があったらしい。このままではいずれ干からび死を迎える。エルフも同じ運命をたどってしまう。そうならないためには、エルフがわたしを断ち切る必要がある」

 雅人は淡々と語る老人を見つめた。身体は動かなかったが、頭だけは冴えていた。

 この人は何を言っているのだろう。痴呆どころか、もはや狂気だ。

「エルフには、わたしの代わりになる者が必要だ。そこで、きみを見つけた」

「ぼくに…」

 やっとのことで雅人は言った。

「エルフを飼えということですか?」

「ちがう」

 老人はきっぱりと首を振った。

「きみは、エルフになるんだ」

 雅人はひきつった笑みを浮かべた。

「意味がわかりません」

「だろうな」

 エルフが言った。

 悲鳴すら出なかった。雅人は、ただ、あんぐりと口を開けた。確かに、エルフが発した言葉だった。老人の声より若く、深みがある。

 これは幻覚なのか。あの紅茶のせいか。雅人はめぐるましく考えた。ありえないことだ。

 犬が話すなんて。

「夢でも幻覚でもない」

 エルフは立ち上がり、雅人に近づいた。

「われわれは現実だ」

「いったい」

 雅人は声をしぼりだした。

「なんなんだ、おまえたちは」

「さあ」

 エルフは小さな笑い声のような音を発した。

「きみたちの世界においては異質のものだ。理解出来まい」

「昔すぎてよく憶えていないが」

 老人が言った。

「わたしたちは、生まれた時からひとつだった。互いが互いの分身なんだ。離れていてもエルフの感じるものはわたしも感じる。エルフが腹を満たせば、わたしも満たされる。もちろん、その反対もある。共有しないのは意識だけだ。仲違いすることもあるが、退屈しなくてすむ」

 老人はエルフのところに歩み寄り、雅人を見下ろした。

「わたしたちに、時間など関係ないと思っていた。これからもずっと、不死のままエルフとともに在りつづけるはずだったのに、できなくなった」

 エルフは深い黒い目で老人を見上げた。

「わたしが力尽きれば、エルフの命も終わる。そうはしたくない。人間は、悪い癌細胞を切除するだろう。それと同じだ。わたしをエルフから分離する。きみは、わたしの代わりにエルフと生きるんだ」

「決めるな、勝手に!」

 雅人はようやく叫んだ。

「できるわけがない、そんなこと」

「簡単なことだ」

 老人は雅人の前にかがみこんだ。

「エルフがきみを呑み込む。きみは新しいきみとして生み出される」

 雅人は悲鳴をあげようとしたが、顔が強ばっただけだった。老人は、萎びた両手で雅人の頬を撫でた。

「きみはエルフのものになり、エルフはきみのものになる。きみは、エルフと永遠を手に入れる。もう時に追われることはない」

 雅人は、声も出なかった。

 ここにいるのは化け物だ。どうやって自分を呑み込もうと言うのか。

 限りある命を差し出して、化け物の一員になれということか。

 自分の運命を、彼らが握っていることは理解した。雅人の感情は恐怖を突き抜けて、もはや麻痺したようになっていた。しかし、妙に白々とした部分に、かすかな誘惑が首をもたげてきたのは確かだ。

 人間界のすべてのしがらみから解放されて、エルフとともに闊歩する永遠──。

雅人はきつく目を閉じた。

 時が止まったような気がした。

 ほんの二呼吸か三呼吸の間だったが。

「いやだ」

 ぽつりと言ったのはエルフだ。

 雅人は、はっと目を開いた。

 エルフが、老人の手にそっと前足をかけていた。

「もう止めよう」

「しかし」

 老人は驚いたようにエルフを見つめた。

「決めたことだ」

「やはり、わたしにはできない。このままでいい」

「だめだ」

 老人は語気を強めた。

「わたしがいなければ、おまえはこの先も在りつづけることができる」

「片割れを無くしたままでか?」

「だからこの子を見つけた。おまえも認めたはずだ」

「確かに」

 エルフは目を伏せた。

「だが考えた。誰であろうと、おまえの代わりにはならない」

「すぐに同化できるさ」

「いや」

 エルフは首を振った。

「わたしには、おまえだけだ」

 老人とエルフは、しばし見つめ合った。

 エルフの黒々とした目は、はっきりと老人を映していた。

 老人は、身じろぎした。

「後悔するぞ」

「人間じみたことを言うな。わたしたちが後悔したことなどあるか?」

「しかし…」

「わたしたちは、ひとつだ」

 エルフは静かに言った。

「ともに生まれた。ともに消える。それでいい」

 老人は、雅人から手を離した。

 呆けたように彼らの会話を聞いていた雅人は、自分を押さえつけていた金縛りが、ゆるやかに解けてくるのを感じた。

 彼らから解放されたのか? 

 ぐったりとソファに身をあずけ、雅人は考えた。

 ふつふつと怒りがこみあげてくる。勝手にこの場に引き入れ、さんざん人の心を揺さぶっておいて、こんどは用済みだというわけか。

 ほんの一瞬よぎった人外への誘惑は、手に入らないと知った瞬間、憧れに変わった。つかみそこねた永遠が、手招きしているような気がした。

「待てよ」

 震える声で雅人は言った。

「ぼくはどうなる」

「ああ」

 老人は、はじめて雅人に気づいたかのように眉を上げた。

「こんなはずではなかった。せっかくきみを選んだというのに」

「命は獲らないでおくさ」

 さらりとエルフが言った。

「詫びの代わりだ」

 雅人は、大声をあげて彼らの理不尽さを罵りたかった。ソファから腰を浮かしかけた時、エルフがつと雅人に顔を寄せた。

「すまなかった。忘れてくれ」

 エルフの息は、氷のように冷たかった。

 雅人は思わず目を閉じた。


 睫に冷たいものが落ちて、雅人は我にかえった。

 雪がちらついて来たのだ。

 目眩をおこした老人はもう立ち上がっていた。

「家の人に連絡を」

「家族はこいつだけでね」

 老人は、愛おしそうにエルフを見やった。

「じゃあ、よかったら送っていきますよ。エルフを連れて帰るのは大変でしょう」

「大丈夫だ。ありがとう」

 老人は雅人からリードを受け取り、軽く頭をさげた。

 エルフはちらと雅人を見上げ、すぐに背を向けた。

 並んで去っていく老人と犬を見送りながら、雅人は不思議なもどかしさを感じていた。

 どうしたわけだろう。

 なにか、大事なことを忘れてしまったような気がする。

 いったい、何だ?

 本降りになってきた雪の中に、雅人はぼんやりと立ちつくした。

 老人とエルフの姿は、とうに見えなくなっていた。



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