07 平和荘 (3)
まずは制服を私服に着替えてから、荷物の片付けを始める。段ボール二個分しかないので、あっという間だ。収納スペースに対して荷物が少なすぎるから、どこもかしこもスカスカ。部屋の中がすっきりしたままで、とても気持ちがいい。空になった段ボールはそのままにしておけば後で片づけておくと、ブラウニー・アンが言ってくれた。
片付けを終わらせた後、私は「入学のしおり」を取り出してページをめくった。本当なら合格したらすぐに進学準備をするものなのだろうけど、伯父の家にいたせいで、まだ何も手がつけられていない。だから何を用意する必要があるのか、確認しておきたかった。
制服は指定のデパートで購入するらしい。購入する必要があるのは、制服一式、上靴、体操着、教科書、副教材。三月中に用意しておかなきゃ。
提出書類も結構ある。「誓約書」とか「個人情報取扱いに関する同意書」なんかは署名すればいいだけなので、簡単だ。書類の中でどうすればいいのかわからないのは、「家庭調査票」。家族構成って、何を書けばいいんだろう。
ステファンは私の保護者ではあるけれど、家族欄に名前を書いていいのかわからない。だって「家族」ではないような気がするもの。それとも同じ家に住むことになったから、家族扱いでいいのかな? でもステファンが家族なら、シェアハウスの住人が全員家族になってしまう気もする。
私が自分の家族だと思うのは、父と母だけだ。行方不明中でも、両親の名前を書くべきなんだろうか。二人とも行方不明中だなんて、あまり書きたくないんだけど。後でステファンに相談してみよう
「芸術科目選択票」なんてものもある。音楽、美術、書道のどれかを選択しなくてはならない。選択した科目は、一年生だけでなく二年生でも継続して学習することになるらしい。これの提出期限も、入学前。正直なところ、どれでもいい。けど、用紙の説明を読んで音楽にしようと思った。理由は単純で、年間費用が一番安いから。
書道なんて、費用項目に「コンクール出品料」なんて入ってる。書道はパスだ。
美術はアクリル絵具セットの購入が必須。それに比べると、音楽は気楽そうに見える。第一希望を音楽、第二希望を美術にして、「どちらでもよい」の項目にチェックを入れておく。
ソファーの上にだらしなく寝転がって書類を見ているうち、眠くなってしまった。卒業式があったのは今日の午前中のことなのに、何だかもう遠い昔のことのように感じる。疲れてるんだなあと思い、ちょっとだけ目をつむったつもりが、寝入ってしまっていたらしい。ブラウニー・アンの遠慮がちな声で目が覚めた。
「千紘さん、夕食の準備ができましたが、どうしますか。もう少しお休みになりますか?」
「あ、行きます」
「はい」
壁掛けの姿見で、寝癖がついていないかだけ確認して、部屋から出る。すると、ふたつ隣の部屋から若い男の人がちょうど出てきたところだった。その人は私に気がつくと、人なつこく笑みを浮かべて話しかけてきた。
「佐藤千紘ちゃんでしょ?」
「はい」
「僕はこの部屋の住人で、松本って言うんだ。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
挨拶を返しながら、松本さんに対して何とも言えない違和感を持った。理由はわからない。だけどこの人、日本人っぽくない。なんでだろう。
背は標準的な日本人の身長だし、目は切れ長の奥二重で、顔かたちは思い切りアジア系だし、名前は日本によくある名字だし、とても普通の日本語を話している。なのに、謎の違和感があるのだ。なんで?
不思議でたまらなかったけど、もちろん、そんなことを口に出したりはしなかった。自分だって散々ガイジン扱いされて嫌な思いをしてきたのに、同じことをしたくない。
「食堂の場所は、もう知ってる?」
「はい。ステファンに教わりました」
「そうか。じゃあ、ひととおり案内してもらったのかな?」
「いえ、教わったのはダイニングだけです」
松本さんは「なら、ついでだから他も案内してあげるよ」と言って、先に立って階段を降りて行った。せっかくの申し出なので、私はありがたくその後ろからついて行く。
松本さんは標準的な青年の体格に比べると筋肉質で、骨太に見える。マッチョと言うほどではない。でも安定感があった。チノパンのサイドポケットに親指を引っかけ、タタン、タタンと弾むように軽やかな足取りで階段を下りていく様子は、今にも鼻歌を歌い出しそうに楽しげだ。
そして全身に、何とも言えず不思議で独特な雰囲気がある。たとえばハリウッド映画の登場人物だとしても少しも違和感がないような、そんな感じの雰囲気。
最初に案内されたのは、書斎のような、会議室のような部屋だった。
「ここは書斎というか、図書室。置いてある本は、好きに借りて読んでいいことになってる。特に貸し出し期限とかないから、ゆっくり読んで大丈夫だよ」
「はい」
壁面いっぱいに造り付けの本棚があり、隙間なく本が置かれている。日本語の本も置かれているけど、大半が洋書。よく見ると、英語じゃないものも混じっていた。
「どなたの書斎なんですか?」
「家主のなんだけど、今は留守だから共用スペースとして使っていいって言われてるんだ」
「そうなんですか」
次に案内されたのは、中央に大きな深緑色の布張りの台が置かれた部屋だ。
「ここはビリヤード室」
「はい?」
聞き慣れない言葉が出てきて、思わず聞き返してしまった。松本さんは、深緑色の表面を手の甲で軽く叩きながら説明してくれた。
「これ、ビリヤード台なんだ。ビリヤードは知ってる?」
「名前だけは」
松本さんは、壁際に置かれている長い棒の中から一本を手に取り、ビリヤード台の上で構えてみせた。慣れているのか、すごくポーズが決まっている。松本さんは目を丸くしている私のほうを見て眉を上げ、いたずらっぽく首をかしげてウインクしてから、また人なつこい笑顔を見せた。
うん、こういうところだ。
こういう表情やしぐさが、強烈に日本人っぽくない。
普通の日本人がやったらわざとらしくて鼻につきそうなしぐさなのに、不思議なほど自然で似合っているところが日本人らしくないのだ。表情の作り方から、首のかしげ方、ビリヤード台を叩いてみせるその手つきまで、あらゆるしぐさが日本人ぽくない。どうしてそう感じるのか、自分でも不思議なのだけど。
「ときどき住人が集まって遊んでるんだ。千紘ちゃんもやるなら、そのとき教えてあげるよ」
「はい」
実際に教わる機会なんて、あるんだろうか。そうは思ったものの、一応うなずいておいた。
その次に案内されたのは、これまで見た中で一番大きな部屋だった。
「ここがリビング」
「これがリビング……」
私の感覚でいくと、リビングって感じの場所じゃない。広すぎる。高級そうな布張りのソファーがいくつも置かれていて、まるでホテルのロビーみたいだ。
「プロジェクターが置いてあるから、映画なんかはここで見るといいよ。迫力がある」
白い壁面全体がスクリーンになるらしい。いかにも迫力がありそうだ。そう思いながら設備を眺めていると、松本さんは注意事項を話し出した。
「ここも共用スペースで、飲食禁止ではないから映画を見るのにスナックを持ち込んでももちろんかまわないんだけど、ひとつだけ注意点があるんだ」
「はい」
「ちょっとでも席を外したら、食べ物が消えていても文句を言わないこと」
注意事項を聞いて、私は吹き出した。共用スペースに食べ物を置いて席を外したら、誰に食べられたって文句なんか言えるわけがない。笑いながら「言いませんよ」と返事をしたら、松本さんも笑っていた。
残る共用スペースはキッチンだけ。それは食事のときに説明するということで、共用スペースめぐりを終えて、松本さんと一緒にダイニングに向かった。