06 平和荘 (2)
ドアノブのついた普通の玄関ドアだから、自動ドアではない。にもかかわらず、ドアは自動的に開いたように見えた。実際、ドアの向こうには誰もいない。これが話に聞くスマートホームというものなのかな。初めて見た。
ステファンにうながされて先に玄関を通ると、そこはフカフカのじゅうたんが敷き詰められた玄関ホールだった。私がきょろきょろしている後ろから、ステファンが段ボールを抱えて入ってくる。玄関ドアは、ステファンの両手が塞がったままなのに、ひとりでに静かに閉まり、鍵がかかった。
何だか本当にホテルみたいなホールで、もちろん下足箱なんて置かれていない。これ、靴はどうするんだろう。
「靴はどこで脱ぐんですか」
「洋館だからね。基本は靴のままなんだ。脱ぎたかったら、自分の部屋でどうぞ」
確かに洋館とは聞いたけど「洋館っぽい見た目の家」くらいにしか思っていなかった。まさか本格的な西洋式とは。ホールの天井からは、きらきらしく立派なシャンデリアが下がっている。ますますホテルっぽい。ホールの奥には、洋画に出てきそうな感じの、手すりに見事な彫刻の施されている階段があった。
あっけに取られている私を見て、ステファンが笑いながら「部屋は二階だよ」と歩き出した。あわてて後ろからついて行き、階段を上る。廊下も階段も、毛足の長いじゅうたんが敷き詰められているから、歩いても大きな音がせず静かだ。
私の部屋は、二階に上がって左手奥の部屋だった。両手の塞がっているステファンのためにドアを開けようと思っていたら、その前に彼が口を開いた。
「ブラウニー・ベン、ドアを開けてくれ」
「はい」
返事とともに、部屋のドアが開く。ここもなのか。スマートホームって、すごいんだなあ。
「さあ、どうぞ。今日からここが千紘ちゃんの部屋だよ」
ステファンは開いたドアの脇に寄り、先に私を通してくれた。ドアを抜けて部屋の中を見回し、再び私は呆然とした。部屋の一角には高級そうな布張りの応接セットが置かれ、壁際にはこれまた高そうなアンティーク家具が置かれている。別の一角には、偉い人が執務で使いそうな感じの重厚な机が置かれていた。
言葉もなく立ち尽くしている私をよそに、ステファンは段ボールを部屋の隅に置いて、部屋の説明を始めた。
「置いてある家具は、好きなように使って。古いけど」
てっきり使い古された中古品という意味だとばかり思っていたのに、ステファンの言う「古い家具」はアンティークのことだった。洋画のセットみたいな、あるいは高級ホテルの一室みたいな部屋だ。本当にこんな場所でこれから暮らすのかと、不思議な気持ちになる。
呆然と部屋の中を見回しているうち、大事なことに気づいてしまった。この部屋、ベッドがない。
「ところで、どこで寝たらいいの?」
「ああ、それはこっち」
ステファンは部屋の奥の角にあるドアを開けてみせた。収納スペースだと思っていたそのドアの向こうには、上りのらせん階段があると知って驚く。そのままステファンが階段を上っていくので、後ろから追いかけて行った。
「ここが寝室だよ」
階段の先には、さきほどの部屋より小さめで、落ち着いた装飾の部屋が広がっていた。窓と反対側の壁際に大きなベッドがある。どう見てもひとり用じゃない。たぶんダブルベッド。もしかしたらクイーンサイズとかキングサイズとかいう大きさかもしれない。下の部屋より小さめとは言え、こんな大きなベッドがあっても部屋が小さく感じない程度にはゆったりと広い部屋だった。
ウォークインクローゼットがついていて、その中に引き出しも置かれている。
ステファンはクローゼットがあるのと反対側の壁のドアを開けながら、振り向いて説明した。
「この部屋は風呂とトイレつきなんだ。こっちね」
他の人たちの部屋にはお風呂はなくて、二か所ある共用のバスルームを使っているそうだ。
寝室から入ってすぐの場所は化粧室になっていて、造り付けの洗面台と化粧台がある。その奥にはドアが二つあって、それぞれトイレとお風呂に通じていた。洗面所だけでなく、浴室とトイレまで毛足の長いじゅうたんが敷き詰められているのには、びっくりだ。
湯船は、細長い大きなたらいに脚をつけたような形をしていた。浴室の引き出しには、白い厚手のタオルが大きさ別にきれいに収納されている。空いている引き出しには、パジャマや下着類を入れておくといい、とステファンが教えてくれた。
「日本式のお風呂と違うけど、使い方わかる?」
海外旅行は小さい頃に一度だけ経験があるものの、お風呂の使い方は自信がない。私が首を横に振ると、ステファンが説明してくれた。日本のお風呂とは違い、湯船の外ではお湯を流さないそうだ。まあ、じゅうたんが敷いてある時点で、そこは十分に予想ができていた。
浴槽の周囲にあるカーテンは、裾を湯船の中に入れて使う。シャワーを浴びたときに、水が周囲に飛び散らないようにするためのものだからなのだそうだ。これはたぶん、教えてもらってなければ外に垂らしたままで失敗してたと思う。
「お湯は自分で入れてもいいし、頼めば入れておいてくれるよ」
「え、誰に?」
私の質問には直接答えず、ステファンはにっこり笑って口を開いた。
「ブラウニー・アン、夕食が終わるくらいの時間までに、千紘ちゃんのお風呂を入れておいてくれる?」
「はい」
さっきドアを開けてもらったときの男性の声とは違う、優しそうな女性の声で返事があった。
「さっきは、ブラウニー・ベンって言ってたのに」
「うん。千紘ちゃんは女の人に頼むほうが安心だろうと思ってさ」
ベンだと男性の声で、アンだと女性の声で返事をするそうだ。
「そうそう、洗濯物はそこのかごに入れておけば、洗っておいてくれるからね」
そこのかご、と言いながらステファンは、浴室のチェストの横に置かれた金属製の縦長なバスケットを指さした。洗っておいてくれる、という言葉に反応して、私はつい反射的に質問した。
「え、誰が?」
「小人さんが」
ステファンは、にこにこと笑顔でふざけたことを言う。不信の目でにらみつけると、彼は声を上げて笑った。
「小人さんみたいな誰かがやってくれるんだよ。ブラウニー・アン、そうだろう?」
「はい。おまかせください」
アンが、まるで会話をしているように返事をした。目を丸くした私が「この家、ハイテクですごいですね」と心の底から褒めると、ステファンは笑顔のままなぜか微妙そうな表情になる。
「どっちかって言うとハイテクじゃなくて、ローテクを極めちゃった感じだけどねえ……」
何を言っているんだろう。これをハイテクと呼ばずして、何と呼ぶのか。
私が首をかしげていても、ステファンは肩をすくめるだけ。そして彼はその後、一階にあるダイニングの場所を案内してくれ、「疲れただろうから、今日はもう夕食までゆっくりしておいで」と言って、自分の部屋へ引き上げて行った。
私は自分の部屋に戻り、段ボールを開けながら、ふとつぶやいた。
「ブラウニー・アン」
「はい、何でしょう」
「今日からよろしくね」
「はい。こちらこそよろしくお願いします、千紘さん」
アンが話すときの抑揚には、不自然さが少しもない。やっぱり、すごくハイテクだと思う。