21 謎の男 (1)
家に帰っても、もやもやした気持ちはまだ消えていなかった。どこかささくれた気持ちのまま、まっすぐ二階の自室に向かう。すると階段を上がりきったところで、黒猫を抱えた男の人に出くわした。見るからに日本人の顔じゃない。背が高く、体つきはがっしりとしていた。
その人は私を見るとにっこりと笑顔を見せて、日本語で声をかけてきた。
「千紘ちゃん、おかえり」
「──こんにちは。どちらさまですか?」
知らない人から名前を呼ばれ、警戒心から眉をひそめる。
「もちろん、ここの住人だよ。しばらく留守にしてて、今日帰ってきたところなんだ。お土産のお菓子があるから、ちょっと部屋に寄って食べていかない?」
「いえ、結構です」
しおちゃんならともかく、知らない男の人から誘われて部屋に入るわけがない。
男が開けたドアの向こうには、私の部屋と似た雰囲気の部屋が見えた。テーブルの上に、お土産らしき包みが山積みになっていて、包装が開けられたものもあるようだ。でも誘いに乗る気がないので、あまり部屋の中をじろじろ見ることなく、私はさっさと男に背中を向けて自分の部屋に向かう。
後ろから男が「残念。またね」と声をかけてきてから、静かにドアの閉まる音がした。
その音を聞いて、ふと私は不思議に思った。あんなところに部屋なんてあったっけ? 足をとめて振り返ってみて、唖然とした。男の姿が消えているのは当然として、さきほど確かに見たはずのドアがない。思わず廊下を戻って、壁をまじまじと見てしまった。確かにさっきはドアがあり、男がいたはずなのに。
あまりのことに、しおちゃんと美奈が一緒にいるところを見てから感じていたもやもやが、八割方どこかへ消えてしまった。
夕食のとき、ステファンに男のことを話してみた。
「ねえ、ステファン」
「うん?」
「今日この家で、知らない男の人の部屋に『お菓子食べていかない?』って誘われた」
ステファンは私の話を聞くなり、眉間にしわを寄せて険しい顔になる。
「もちろん、断ったんだよね?」
「うん。そしたらね、手品みたいにドアも部屋も消えちゃった」
「そいつの名前は聞いた?」
「ううん。どちらさまですかって聞いたけど、名前は言わなかったよ」
思えば、なかなか失礼な人だった。私の答えに、ステファンは舌打ちをする。ステファンは、ドアが消えてしまったことは少しも気にする様子がなかったのに、男の名前は気になるようだ。
夕食の席には、ジョージ以外の全員がそろっていた。ジョージは学校の先生方と飲み会があるらしい。みんなは私とステファンの会話を聞いて、一様に難しい顔をしていた。「不思議な話」をしたつもりなのに、どうしたわけか「事件」扱いだ。何だか、思ってたのとみんなの反応が違って戸惑う。
それから口々に、男について質問された。
「何歳くらいだった? 着てた服とか覚えてる?」
「たぶん四十代かなあ。ステファンと同じか、もうちょっと上くらい。服は、三つ揃いのスーツだった。色は灰色がかった茶色で、織り模様が入ってて高そうな感じ」
おかしい。事情聴取めいてきた。
その後も容姿の特徴をこと細かに聞かれ、その後はドアから見えた部屋の中の様子も聞かれた。さらに食事の後には、ドアのあった場所まで案内させられた。みんなでぞろぞろと二階へ向かう。ドアがあったのは、松本さんの部屋の入り口より少し階段寄りだ。
松本さんは私が指し示した付近を、壁に手を当ててみたりしながら行ったり来たりする。その様子をしばらく見ていた後、ステファンが尋ねた。
「カルロス、どう? 何かありそう?」
「ダメだね。全く何の痕跡もなし」
「そうか」
松本さんだけでなく、ザイームとメアリーまでが壁を調べ始めた。いったい何をしているんだろう。
「何を探しているの?」
「タネとか仕掛けとか」
私の質問には、ひょうひょうとした笑顔で松本さんが答えた。
ひとしきり調べ終わり、ザイームが肩をすくめてみせると、ステファンは難しい顔のままため息をついた。ステファンは真剣な顔で私と目を合わせ、言い聞かせるようにこんなことを言った。
「千紘ちゃん、前にも言ったけど、絶対に部屋について行っちゃダメだよ」
「行きませんよ」
真面目な顔で何を言うかと思えば、あまりにもふざけた内容に、思わず吹き出した。
「笑い事じゃないんだけどな。本当に、絶対にダメだよ」
珍しくステファンが怖い顔をして、強い口調で言う。その真剣さに気圧されて、私も真顔になってうなずいた。うなずきはしたものの、実は冗談なんじゃないかという疑念が消えない。
だから、そっと他の人たちの表情をうかがってみた。でも松本さんもザイームも、全員がステファンと同じくらいに真剣な顔を私に向けている。みんな本気らしいとわかると、胃のあたりがひやりとした。
それ以上調べても何も出てきそうもないので、その場は解散してそれぞれの部屋へ散って行った。私も自分の部屋に戻る。何だか今日は、長い一日だった。お風呂に入って、本でも読んで、早く寝ちゃおう。
そう思ったところで、気づいた。お風呂を入れておいて、と頼むのを忘れたことに。でもブラウニー・アンは、毎日のことだと頼まなくてもやってくれてることがよくある。ダメもとで聞いてみよう。
「ブラウニー・アン、お風呂のお湯は入れてあったりする?」
「はい。お風呂は、もう準備ができています」
「さすがブラウニー・アン! 愛してる!」
「どういたしまして」
ブラウニー・アンの声は「どういたしまして」と言いながら、柔らかく笑っていた。うちのスマートホーム、人間味がありすぎる。
浴室に行くと、チェストの上にバスローブとバスタオルがたたんで置いてあった。バスマットも敷かれている。きっと高級ホテルだって、ここまで至れり尽くせりなサービスはないんじゃないかな。
「ブラウニー・アン、入浴剤なんてある?」
「はい、バスソルトがあります。どの香りにしますか?」
「どんな香りがあるの?」
「ラベンダー、ユーカリ、レモングラス、オレンジ、パイン、サンダルウッド、バニラ、ペパーミント──」
「ストップ!」
多すぎて、何を選べばいいのかさっぱりわからない。
「ブラウニー・アン、寝る前のお風呂にお薦めのバスソルトは何?」
「それなら『眠りのハーブ特製ブレンド』をどうぞ」
「ありがとう」
お礼を言ってはみたものの、どこに置いてあるんだろう。チェストの引き出しかな? そう思って振り返ると、視界の端に小さな人影が見えた。身長がドアノブの高さの半分ほどで、上品なメイド服を着たお人形みたいな人影が、浴室のドアの隙間からするりと出ていく。唖然としてる私の目の前で、ドアは音もなく閉まった。
まさか、あれが小人さん? いやいや。なら、幻覚……? それもちょっと考えられない。確かに今日は心身ともにぐったり疲れてるけど、幻覚を見るほどじゃないはずだ。気をとりなおしてチェストの引き出しを確認しようとして、私はまた固まった。
なぜならチェストの上に、さっきまでは絶対になかったはずの小さな籐製のかごが置かれていたから。そのかごの中には、「眠りのハーブ特製ブレンド」と印刷された藍色の袋入りのバスソルトが三つ入っていた。
独特でさわやかな香りのするバスソルト入りのお湯は、とても体が温まった。私はそのまま考えることを放棄してベッドに入り、バスソルトのおかげもあってか、枕に頭をつけた次の瞬間にはぐっすり眠りについていた。




