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繊細な少女は鏡に出会った  作者: 荒里あゆむ
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国語の授業


 教室の引き戸が開いて背の高い痩せた男性が入って来た。白いワイシャツに紺のズボンという冴えない服装だった。クラスメートの間に申し訳程度の緊張が流れる。


「みなさん初めまして、鶴田先生の代わりに国語の授業を受け持つ宮井です。今日一日だけですが、よろしくお願いします」背の高い男性は教壇で丁寧にお辞儀をして挨拶をする。

 どの生徒もわずかばかりの興味を向けたが、その冴えない風貌を値踏みした結果、わずかに湧いた興味も緊張も急激に薄れて行った。


 しかし桃子だけはその教師の顔を見つめたまま固まっていた。

 宮井と名乗ったその教師の心には、教室にいる三十四人の生徒の心の色と形が漏れなく映っていた。桃子が普段感じている情景そのままに。


 その中に、桃子の心もあった。驚いた顔で宮井を見つめている桃子の心は、眼のような形をしたオレンジ色の輪郭として宮井の意識野に映り込み、その内側には桃子がリアルタイムで感じているクラスの生徒たちの意識が、不気味な単細胞生物の粒のように蠢いて見えている。


「鶴田先生からは遅れている古文を進めておくように言われています。では、教科書の十二ページを開いてください」

 生徒たちがのろのろと教科書を開く。


{めんど}《うざ》〔自習にしろよ〕〈アホくさ〉[キモつまらん〈ダル〉


 教室内に怠惰な空気が充満し、その空気が宮井の心にだらだらと流れ込む。

『この人は私と同じだ!』

 桃子の心臓が破裂するのではないかと思うほど激しく鼓動を打ち始めた。その心臓の動悸に同期して、宮井の心に映る桃子のオレンジ色の眼の形が伸縮している。


『先生! 私も、私も同じです!』

 桃子は立ち上がって叫びそうになるのを辛うじて抑え、心の中で必死に叫んだ。


(先生)(先生!)(応えて下さい)(私も人の心が分かるんです、先生、応えて!)


 しかし宮井は桃子の心の昂ぶりを淡々と心に映すだけで、表情一つ変えずに授業を進めていく。

「万葉集はみなさんご存知ですよね、今から千二百年くらい昔に編纂された和歌集です。どんな歌が入っているか、知っている人はいますか」


 文学趣味の女子が二人、一、二首を心に思い浮かべた他は、クラスのほぼ全員が完全に興味を失っていた。どの生徒も宮井を見下し、授業とは関係の無い自分たちの思考にふけっている。その怠惰な心の景色が宮井の心象にリアルタイムに投影されている。


 しかし、宮井の精神は驚くほど平坦だった。生徒の無反応にも桃子の動転した呼びかけにも、感情の起伏は全く見られない。

「では、この歌は知っていますか」宮井が一首の和歌を朗読した。


「あかねさす紫野行き標野しめの行き野守は見ずや君が袖振る 」


 桃子も聞いたことのある有名な歌だった。

 宮井の落ち着きのある芯の通った声が教室に響き渡る。宮井は単語の一つ一つに感情の陰影を持たせて、微妙な間を交えながらまるで心に直接語りかけるように歌を読み上げた。


 ふいに、どこか田舎の草原のような風景が、桃子を含めたクラス全員の頭の中に浮かんだ。

 その草原で平安の衣を着た女性が、笑顔で手を振る男性を見つめている。その女性の心には、男性に優しく抱かれて全身の隅々にまで幸福感が満ちている記憶が思い浮かんでいる。その記憶が、まるで自分が経験したことのように、桃子とクラスメートの内面に沸き起こる。


 生徒たちの思考が止まった。桃子の感情の昂りも収まっていた。


『これは・・・精神投影?』

 以前ネットで調べた時に、自分の思考を他人の心に映し出す超能力について書いてあったのを桃子は思い出した。そう思えるほど頭の中に浮かんだ情景は、あまりにも鮮やかだった。生徒たちはみな、唐突に頭に浮かんだ情景に驚いて、ポカンと口を開いて宮井に注目している。


「この歌は額田王という女性が別れた夫に贈った有名な歌ですね。昔の関係を愛しむと同時に、前夫を少しからかうような雰囲気がよく現れています。この歌を受け取った昔の夫の大海人皇子が返した歌がこちらです」


紫草むらさきのにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも 」


 宮井は今度は切ない表情を作って、焦がれる慟哭を秘めたような、絶妙の強弱で歌を読み上げた。今度は男性の視点で愛しい前妻との親密な思い出を懐かしむ感情と、相手を諦めきれていない恋慕の切ない感情が生徒たちの心に広がる。

 

「大海人皇子の返歌は額田王への未練が表現されてますね。いつの時代でも男はだらしがない」

 桃子は、これは宮井自身の記憶だと思った。宮井が額田王になり大海人皇子になって歌を詠んだ時の景色と、その時の感情の記憶を宮井は語ったように桃子には思えた。


 その感情は本能的な性欲から発してはいるが、桃子がいつも目にしている軽薄で刹那的な色ではなく、桃の実や桜の花びらを構成する分子がもともと持っている、奥行きと深みのあるピンク色をした共感だった。桃子はそんな心の色を初めて見た。不思議と気持ちが落ち着くのを感じた。


 宮井はそれから何首かの歌を読み上げた。そのたびに生徒たちの心に歌の情景が生々しく映し出され、みな一心に宮井の朗読に聞き入った。


 唐突に終業のチャイムが鳴った。その音は、まるで催眠術師がパチンと指を鳴らすように生徒たちの心に響き、みな夢から覚めるように我に返った。教室がいつもの猥雑なクラスの空気に戻った。

「今日紹介した歌は試験に出すと鶴田先生はおっしゃっていました。家に帰ったら復習しておいて下さいね。では、授業を終わります」宮井はぺこりとお辞儀をすると、教科書を手に足早に教室を出て行った。

 桃子は宮井の授業は今日一日だけだと言われたことを思い出す。つまりもう宮井に会う機会は無いということだ。桃子の心に急速に焦りの感情が沸き起こる。桃子は立ち上がり、宮井を追って廊下に走り出た。

「宮井先生!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。


 桃子はその時初めて、自分が泣いていることに気がついた。大粒の涙が後から後から目から流れ落ちる。共感と疑問と悲しみと、嫌悪と願いと救いが組み合わさった複雑な立体の形をした桃子の心が、宮井の心に映った。


(先生、)(私も心が)(なぜ人の心が)(私は病気)(嫌です、人間は汚い嫌い)(わたし)(教えて)(わたし)(どうすれば)


 桃子の心に大量の湧き水のように感情が溢れ出してくる。その無秩序な気持ちの洪水に、桃子はなすすべもなく立ち尽くしている。

 宮井が振り向いた。


(話をさせてください、聞きたいこと、はなしたいこと、たくさん、たくさん)


「安原桃子さん、落ち着いて」宮井が桃子の肩に手を置いてなだめるようにいう。桃子の荒れ狂う心を映す宮井の心は、真夜中の湖面のように平静だった。


<今日はこれから用事がありますので、来週の学園祭の日にまた来ます。その時に話しましょう>宮井が心で語りかける。

(嬉しい、ありがとう、ありがとう)


「だから」宮井は小声でささやくように続ける。「だから、今日は死ぬのはやめなさい」

 桃子ははっとした。


(死のうと思っていた心を知られていたんだ)(恥ずかしい)(ありがとう)(私、しにません)


 目からも心からも大粒の涙を流しながら桃子は(ありがとうありがとう)と何度も心の中で叫んだ。

 廊下を行き交う生徒が泣きじゃくる桃子を見てあっけに取られている。


「すみません、宮井先生の授業に感動してしまって」

 桃子の口から思わず、嘘と真実が半分ずつ混ざった言葉が出た。



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