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CASE1:赤い靴

放課後、早くももうどっぷりと日が暮れて、職員室が仄かな明かりを放つ頃。生徒たちもまばらになった校内で、スズキはいつものように職員室の自分の机で小テストの採点をしていた。

職員室には教師たちが何人か残っているものの、皆スズキのようにそれぞれの仕事に向かっているため会話はなく閑散としている。そこに、「出た!出た!」とバスケ部の生徒たちが叫びながら足がもつれるばかりに駆け込んできたのは、異例の出来事だった。

「何が出たんだ。不審者か?」

鬼気迫る表情の二人を見て、不審者なら早くいかなければとスズキは立ち上がると、近くにたてかけてあった刺股を素早く手に取る。はあはあと荒い息を吐きながら、息も絶え絶えに一人の男子生徒が言うには、

「違います!幽霊です!体育館の二階の窓の外に髪の長い女がいたんです!」

「幽霊?」とスズキは思わず目を丸くした。

体育館の二階にはキャットウォークがあり、そこには窓がついていて、昼はその窓から陽の光を取り込んでいる。窓の外にはバルコニーがあり、キャットウォークから扉を介して人が体育館内外を行き来できるようになっていた。普通に考えたらそんな場所にいるのは幽霊ではなく不審者だ。

「受験勉強のしすぎで幻覚でもみたのか」と面倒くさがり屋なタナカははなから相手にしていない。そんなタナカにも二人の男子生徒は

「マジなんですって、マジ!俺ら二人とも見たんですから!あれは絶対幽霊ですって!」と必死に説明を繰り返していた。どうやら嘘をついているわけではなさそうだ。

「まあ、幽霊かもしれないが、不審者の可能性もあるからな。見てこよう」

そう言ってスズキは立ち上がると刺股を持って体育館に向かう。

「行くならお前一人で見てこいよ。俺は忙しいからな」

タナカが背もたれにもたれかかりながら、興味をなくしたように手元の物理の本に目を落としてそう言った。


懐中電灯を片手にキャットウォークからバルコニーに出る。日がすっかり落ちているため、辺りは帳でも降りたかのように真っ暗だった。これならたとえすぐそこに人がいてもその闇に溶け込んでしまうだろう。

涼しい風が顔に吹き付け、スズキの前髪を乱した。視界を邪魔する髪を払いのけ、スズキが口を開く。

「誰かいるのか?」

発した声が闇に溶ける。返事はない。誰かが動く気配もない。

男子生徒たちが幽霊を見たという辺りに懐中電灯をかざす。誰もいなかったが、その代わり何か赤いものが置いてあるのが見えた。

(なんだ……?)

ゆっくり近づいて見ると、それは靴だった。

少しヒールの高い、真っ赤な靴。光沢があり、いかにも丁寧に磨かれているのがわかる。その赤い靴が、きちんと揃えられて置いてある。

(誰の靴だ?)

そう思いスズキは首をひねった。男子生徒たちが目撃した謎の女が、これを履いていたのだろうか。だとしても、なぜ靴だけここに置いていくのだろうか。それとも、他の誰かの落とし物なのだろうか。

考えたが答えは出ず、スズキはしばらくそれを黙って見つめていた。


スズキが職員室に帰ってきた時には、生徒二人はもういなくなっていた。職員室にいる教師たちの数もスズキが体育館に行く前と比べてだいぶまばらになっている。

「とりあえず二人をなだめて、あまり遅くなると危ないから帰らせたよ」とタカハシが教えてくれた。

「そうか、ありがとう」とお礼を言うスズキの手元を、ヤマグチが見た。

「……で、スズキ。その靴は一体何?」

スズキは、例の赤い靴を職員室に持って帰ってきていた。

「生徒たちが幽霊を見たと騒いでいたところに落ちていた靴だ。誰かの落とし物かもしれないから、とりあえず持ってきた」

「ようそんなもの触ろうと思ったな」とワタナベが肘をつきながら呆れたように言った。

「本当だな。呪われるぞ」とタナカも同調する。

しかし、スズキはそんなことを一切気にしていなかった。元々幽霊や呪いやたたりなどといった類いの物に頓着のない男なのだ。

「とりあえずここに置いておこう。誰か持ち主がいて取りに来るかもしれない」

そう言い、床に新聞紙を敷くとその上に赤い靴を置いた。職員室の蛍光灯に照らされて、赤い靴はてらてらと光っていた。

その靴を教師たちは円を描いて並んで眺めていたが、ふとヤマグチが腕時計を見た。

「ま、とりあえずもう今日は帰ろうか。明日も学校があるしね」

そう言って肩をすくめる。

「そうだな」

スズキも頷くと、ヤマグチの声を鶴の一声としたように帰り支度を始めたタカハシたちに習って荷物をまとめ始めた。



その夜、スズキは夢を見た。

スズキは今、真っ暗な世界に閉じ込められていた。まるで、四方八方に帳をおろした暗室のようなところだ。

(ここはどこだ?)

状況を理解しようとあたりを見回せば、ふと、今日見つけた赤い靴が自分の手の中にあるのに気づいた。

(何故この靴が俺のところに?職員室に置いてきたはずなのだが……)

そう思って首をひねっていると、後ろから声が聞こえてきた。

『ちょうだい……ちょうだい……』

か細い女の声だ。それがいくつも聞こえてくる。声同士が響き合って不協和音と化しており、スズキは思わず顔をしかめた。

振り返れば、何人もの女が必死の形相でこちらに手を伸ばしながら這ってくるのが見えた。黒い絵の具で目の中を塗りつぶされたような異様に大きい目を持ち、骨と皮だけのような長く細い手をこちらに伸ばす彼女らを見て、さすがのスズキも異様さを感じて逃げようと走り出す。しかし、何故か思うように走れず、すぐに彼女らの伸ばす手の一つに足を掴まれて身動きが取れなくなった。

スズキの足にはいくつもの女の手が絡まり、スズキを捕らえた彼女らは我先に彼の上に這い上がるようにしてその靴に手を伸ばしてくる。

スズキは必死にその靴を両手に抱いて奪われまいとしていたが、流石に多勢に無勢だ。もうとられる、と思ったときに、目ざまし時計の音が聞こえ、スズキは弾かれるように飛び起きた。

目の前には見慣れた自室の風景が広がっている。どうやら少し汗をかいているらしく、シャツが肌に張り付いていた。

窓の外を見れば青々とした快晴の空が見えた。

(夢か……)

スズキは息をつくとベッドから起き上がり、洗面所へ向かった。


食堂に行くと、一か所に集まって朝食を食べていたタカハシたちに、さっそく先ほど見た夢について話をしてみた。

「へー、そんな夢を見るなんて、スズキは相当あの靴のことが気になっていたんだね」とヤマグチがトーストを食べながらのんびりという。

「そうみたいだな。お前たちはなにか赤い靴に関する夢は見なかったのか?」

そう言うとそれぞれが首を振った。

「見てないなあ」とヤマグチ。

「どんな夢を見たかさえも覚えてねえ」とタナカ。

「蟹をたらふく食う夢なら見たで」とワタナベ。

「別の怖い夢なら見たよ」とタカハシ。

「どんな夢なんだ」と尋ねられ、タカハシが口を開く。

「まだ化学の勉強範囲が全部終わりきっていないのに、明日がセンター試験になっている夢。『ちゃんと終わるように計画立てたのに、なんで!?』って思いながら寝ずに延々と授業をしていたよ。……ああ、思い出しだけでお腹が」

そう言ってタカハシがお腹を押さえた。顔色もどこか悪いようだ。

「そういう怖い話はやめてくれや」とワタナベが顔をしかめた。

とりあえず、赤い靴関連の夢を見たのはスズキだけらしい。

「そうか。変なことを聞いてすまない」

そう言ってご飯を口に運んだスズキを見ながら、タナカが口を開いた。

「まあ、あの靴を持って帰ってきたお前だけが呪われた可能性はあるな」

「確かに」とワタナベも頷く。

「ちょっと二人とも、適当なことを言わないの!」と本調子に戻ったタカハシが二人を注意する。

「スズキ、あんまり気にしないほうがいいよ。きっとそんな夢を見たのは偶然だと思うよ」

「そうだな。俺もそう思う。ありがとう、タカハシ」

タカハシの思いやりにスズキはお礼を言うと、味噌汁を飲み干した。

「鈍感なスズキがそういう夢を見たからこそ偶然っぽくなくて怖いんだけどなあ……」とヤマグチが人しれず小声でつぶやいた。


職員室の床に赤い靴が置いてあるのを見つけて、イトウは怪訝な顔をして足を止めた。

「あら?この靴、誰の?」

近くにいたヤマモトに話しかけると、ヤマモトも首をひねる。

「さあ……見たことのない靴ですね。誰のでしょう?」

そう言ってこちらに近づいてくると、イトウの隣に並んだ。

「スズキの机の近くにあるけど、まさかスズキのかしら?」

二人でスズキがこの靴を履いているところを想像する。朴訥でおしゃれに興味のない彼がいつもの無表情でこの靴を履いているのはいささか妙で、二人は思わず顔を見合わせ笑ってしまった。

「それにしてもきれいな靴ですね。ブランド物でしょうか?」

「そうかもね。装飾も一切ないけど、それが逆に気品がある感じがしてお洒落だわ」

イトウとヤマモトがそう言って口々に靴を褒める。

「……一体誰の靴なんでしょうね……」

「さあ……」

結局そこに話が戻ってきて、イトウとヤマモトが共に首を傾げたとき

「あ、それ……」

後ろからこちらに近づいてきたのはアイカワだった。驚いたように赤い靴を見ている。

「あら、アイカワ。この靴についてなにか知っているの?」

イトウに尋ねられて、アイカワは「いや……」と口を濁す。

「あ、それ、昨日、体育館のバルコニーに落ちていたらしいんだけど、三人のうちの誰かのものだったりする?」

ヤマグチが背後からひょこっと顔を出し、イトウたちの顔を見回して尋ねる。

「いいえ、知らないわ」

イトウの言葉にヤマモトも賛同する。しかし、アイカワだけは何も答えずじっと赤い靴を見つめていた。

「あれ?アイカワ、もしかしてお前がその靴の持ち主?」

ヤマグチに尋ねられ、アイカワはぶんぶんと首を振る。

「いや……違う。俺がこんな靴を履くわけがないだろ」

そうはなから否定するように言う。今のアイカワの言動は奇妙な部分が多いのだが、確かにアイカワがヒールを履くようなイメージは出来なかったので、イトウたちは疑問に思いながらも彼女の言葉に納得したのだった。



昼休み、スズキが購買で購入したお弁当を食べようと割り箸を割ったとき、

「わー、きれいな靴」と誰かが背後でつぶやいたのが聞こえた。

振り返れば、スズキが担任をしているクラスの女子生徒、日野が前傾姿勢になって赤い靴を見つめていた。視線をずらせば、同じクラスの水口も隣にいるのが見えた。

「その靴に見覚えはあるか?」

そう尋ねると二人が振り返って首を振った。

「いえ。今初めて見ました」

「もしかして誰かの落とし物なんですか?いいなー、誰も取りに来なかったら欲しいなあ」

どこまで本気なのかわからないが、そう水口がうらやましげに言った。

「たしかにね、私も欲しい」と日野も賛同する。

「まあ、この学校にいるかどうかすら分からないが、この靴の持ち主をもう少し探してみることにする」

スズキの言葉に彼女らは名残惜しそうな顔をしつつその場を離れた。


スズキが午後の授業をしに教室に行ったときには、すっかり赤い靴の噂が生徒の間で持ちきりになっていた。「あとから皆で見に行こう」という話を女子生徒がしているのが聞こえてくる。

(女子はやっぱりああいうおしゃれな物が好きなのだな)

そう思いながらスズキは数学Ⅲの教科書を開いた。


放課後、スズキが全ての授業を終えて心地よい疲労感を覚えながら職員室に帰ると、自分の席の辺りに人だかりが出来ているのが見えた。何かと思って近づくと、どうやらあの赤い靴の周りに人が集まっているらしいことが分かった。

(本当に友達同士で見に来たんだな……)

彼女らの行動力に感心しつつ遠巻きに見ていると、その集団にいた一人が振り向いた。それは水口だった。

「あ、スズキ先生」

水口の言葉にその場にいた全員が振り返る。よく見ると、そこにいたのは全員女子生徒だった。

「どうした?」

「いえ……、この靴、本当に綺麗だなあって」

そううっとりしたように水口が言うと他の女子生徒もうんうんと肯定を表すように頷いた。

「そうか……」

女子生徒たちがスズキの方を見たのは一瞬のことで、すぐに彼女らはスズキに興味をなくしたように赤い靴に視線を戻した。そして靴を鑑賞しながらガールズトークに花を咲かせている。

(そんなにこの靴に興味があるのか……)

スズキは彼女らのおしゃれ好きに、もはやある種の畏敬の念を抱いて、赤い靴を食い入るように見つめる彼女達の背中を眺めていた。


日が沈みかけた頃、仕事が一段落ついたスズキは人目もはばからず大きく伸びをした。ふと、何の気なしに後ろに目をやればヤマモトがこちらに背を向けて立っているのが見えた。何かと思って振り返ると、どうやら位置関係から察するに赤い靴を見ているようだった。しかし、ヤマモトの目線の先に、件の赤い靴はなかった。あるのは、赤い靴の下に敷いていた新聞紙だけだ。

「この靴、誰かが引き取ったのか?」

そう尋ねるとはっとしたような顔をしてヤマモトがスズキの方を振り向いた。それから罰が悪そうな顔をして、

「そうなんですかね?今見に来たらなくなっていたのですが……」と遠慮がちに言った。

「なくなった?」

そう目を丸くしたスズキの顔を、椅子に座っていたタナカがちらりと見た。と、同時にばたばたと大きな足音がして

「先生!また出た!」と昨日のバスケ部の二人が仰々しく職員室に飛び込んで来た。

「デジャヴかよ」とタナカが呆れた顔をする。

「出たって、あの女か?」

「そう、そうです!あの髪の長い女です!」と真っ青な顔をして二人が言う。

スズキは「分かった」と頷くと昨日と同じように刺股と懐中電灯を持って体育館に向かった。


体育館に入り窓の方を見上げると、確かに髪の長い女のシルエットが窓に映っているのが見えた。ついてきた生徒二人がそれを見て悲鳴をあげる。スズキは素早くキャットウォークに上がると、バルコニーに飛び出した。

真っ暗だった昨日と違い、空はいまだ夕焼けの色を残していた。辺りは少し薄暗いが、至近距離まで近づけばお互いの顔が見えるくらいには明るい。

スズキの目線の先には、紺に染まりゆく空をバックにまるでそこだけ黒く切り取ったかのように、影のような人物が立っていた。

慎重に近づくと、段々鮮明になってきたその人物の横顔はよく見知った知り合いのものだった。

「アイカワ?」

意外な人物にスズキが驚いたように声をかけるも、アイカワは振り向くことなく黙ったまま俯いている。様子が変だと思い、もう少し近づくと、彼女が両手に赤い靴を持っているのが見えた。

(あれは……)

どきりとして足を止める。何も言えずにその場で見ているスズキに構わず、アイカワがゆっくりとその靴を地面に置いた。まるで、壊れ物を扱うかのように丁寧な所作であった。

(何故あの靴をアイカワが?)

昨日、スズキがこの靴を見つけたところと全く同じ位置にアイカワが赤い靴を置いた。向きも、靴のそろい具合も変わらない。まるで、昨日からこの靴を一切動かしていないような錯覚にさえ陥る。

スズキは、地面に置かれた赤い靴を見つめたきり未だ何も言わないアイカワに近寄ると彼女の肩に手を置いた。

「アイカワ、どうしたんだ。何故ここにいるんだ」

すると、アイカワはまるで機械人形から人に戻ったかのように、はっとした顔をしてスズキの方を見た。どうやらアイカワの方もスズキに劣らず状況が飲み込めていないようだった。

「……スズキ?」

「ああ。アイカワ、大丈夫か?なんだかぼうっとしているように見えるぞ」

アイカワはスズキの言葉を聞きながら状況を理解しようと辺りを見回した。そして足下の赤い靴に目を留める。

「あれ?俺、どうしてここに?それに、どうしてここにこの靴があるんだ?」

「その靴は、今お前がそこに置いたんだ」

そうスズキが言うと、アイカワが目を丸くした。

「え?俺が?」

何を言っているのか分からないと言ったようにアイカワがきょとんとする。その直後スズキの背後からばたばたと足音がした。

「スズキ先生!大丈夫ですか!?」

「まさか幽霊にとり殺されて……ってあれ?アイカワ先生?」

バルコニーに飛び出してきたのはあのバスケ部の二人だった。剣道部から借りてきたのか、手に竹刀を持っている。戦う気満々だった二人はスズキだけでなくアイカワもそこにいるのを見つけてあっけにとられているようだった。

「アイカワ先生、どうしてここに?」

「というか、もしかしてアイカワ先生があの幽霊の正体?」

そう男子生徒が言うのを聞いて、(ああ、なるほど)とスズキはアイカワを見た。髪の長い女。確かにアイカワがあの窓に映っていた女だとするとしっくり来る。

「アイカワ。昨日もここにいたのか?だとしたら、ここで一体何をしていたんだ?」

そう尋ね、赤い靴に目を落とす。

「もしかして、これを見に来ていたのか?」

そう尋ねると「いや……」とアイカワが口ごもる。どうやら彼女自身もよく分かっていないらしい。

スズキとアイカワそっちのけで、生徒たちは彼らが見たものが幽霊ではないと分かって安心しているようだった。

「全く、アイカワ先生。おどかさないでくださいよ」

「というか、その靴は何ですか?うわ、なんだか真っ赤すぎて不気味な靴だなあ」

そう言って二人が顔をしかめる。確かに学校には似つかわしくない女物の、しかもやけに綺麗な赤い靴はなんとも違和感があり、それが奇妙に思えて恐怖感を煽るのかもしれない。

スズキはとりあえず生徒二人に帰るよう促すと、アイカワにも声をかけ、赤い靴をその場において職員室に戻った。

赤い靴が元の場所に戻ったということを話すとヤマモトは安心していた。アイカワと共に戻ってきたスズキを見てタナカは怪訝な顔をしたが、アイカワが赤い靴を元の場所に戻し、そのときに窓に映った彼女の姿が幽霊として見えていたということを説明すると呆れた顔をした。

「ったく、驚かせんなよ」

そうタナカに言われ謝りながらも、アイカワは何かを考え込んでいるようだった。そんな彼女の横顔をスズキは黙って見つめていた。



次の日、学校に着くとすぐに、スズキは赤い靴を見に体育館に向かった。バルコニーに出ると、赤い靴が一昨日や昨日と同じようにその場に置いてあるのが見えた。

もし先にアイカワが来ていたらどうしようかと思っていたため、誰もいなくてスズキはほっとする。しかし、そう思ったのもつかの間、後ろから足音がして、思わず体をこわばらせた。

「あ、スズキ。お前もその靴に興味があるの?」

そう言ってスズキの隣に並んだのはヤマグチだった。アイロンのかかった皺一つない綺麗な白衣のポケットに両手を突っ込んで、ヤマグチが赤い靴を見る。

「まあな」とスズキは、やってきたのがアイカワでなかったことに内心ほっとしつつ頷いた。

ヤマグチはちらりとスズキを見た後に口を開いた。

「ねえ、スズキ。この靴、変だと思わない?」

ヤマグチの問いかけにスズキは頷いてみせる。賛同を得られたことに満足したようにヤマグチが赤い靴を見つめたまま微笑んだ。

「この靴がいつからここにあるのか知らないけど、ここって太陽光も直に当たるし、雨風にもさらされる。こんなに野ざらしにされているのに少しも劣化していない。まるで誰かが毎日この靴を磨いているみたいに」

ヤマグチの言葉に(確かにそうだ)とスズキは頷いた。そう思うと共に、急に寒気がして、全身に鳥肌か立つのが分かった。

二人はまるで凍り付いたかのように、しばらくの間その場に立ち尽くして赤い靴を言葉もなく眺めていたが、チャイムの音が鳴ると、授業の準備をするためにどちらからともなく職員室に向かった。


地理の授業をしにワタナベが教室に入ると、授業が始まる前だというのに生徒が数人いないことに気づいた。怪訝に思い、一番前にいた男子生徒に声をかける。

「なあ、今おらん奴は皆休みなんか?」

そう尋ねるとその生徒はきょとんとした後に後ろを振り向いた。それから不思議そうな顔をして

「いや?さっきまでいましたよ」と答えた。

「ほな、休みとちゃうか。どこに行ったか知らんか?」

そう問いかけるが生徒たちは首をひねるばかりだ。

どうやらいないのは皆女子生徒のようだ。しかし、今この場にいない彼女らは活発ではあるが授業をサボるような生徒ではない。何かあったのかとワタナベが表情を曇らせると、「あっ!」と誰かが大きな声でさけんだ。

一人の男子生徒が立ち上がり、体育館の方を指差している。その指先を目で追うと、バルコニーの所に数人の女子生徒が集まっているのが見えた。

「あれ、うちの女子たちじゃね?」とその男子生徒が問いかける。

「そういえばさっきの放課中、赤い靴を見に行こうって話をしていたような……」と一人の女子生徒が呟く。

「それほんまか?」

ワタナベが聞くと、その女子生徒がこくりと頷いた。

ワタナベは教室にいる生徒たちにワークの問題を解くよう指示を出すと、急いで体育館に向かった。


バルコニーに出ると、数人の生徒たちがこちらに背中を向けて立っているのが見えた。彼女らは、まるでその周りの時間が止まってしまっているかのように誰一人としてピクリとも動かなかった。ワタナベは彼女らを取り巻く異様な雰囲気に背筋が寒くなるのを感じながらも、教師としての責務を果たさねばと彼女たちに近づいた。

「おい。もう授業始まっとるで。はよ教室に戻るんや」

そう声をかけると、まるで石化が解けたように一人が顔をあげた。そしてはっとした顔をする。

「え?あ……、ワタナベ先生」

その一人の声に他の生徒たちも銘々に顔をあげる。そして腕時計の時間を見て慌て出す。

「え、わ!もうこんな時間!」

「ごめんなさい、ワタナベ先生!別にサボろうとしていたわけじゃ……」

そう言って慌てる生徒たちに笑いかける。

「まあ、別に怒っとらんから、はよ教室戻るで」

そう言うと生徒たちは皆怪訝な顔をしながらお互いの顔を見合わせ、ワタナベの後ろを大人しくついて行った。


昼休み、地理の授業前に赤い靴を見に行っていた例の生徒たちは狐につままれたような面持ちで、先ほどのことを話し合っていた。

「いつの間にあんなに時間が経っていたんだろうね」

「ねー、少しの間眺めていただけのイメージだったのに」

そう言い合う女子生徒二人の方を男子生徒が振り返る。

「なあ、あの靴を眺めて何が面白いんだよ?ただの靴じゃん」

男子生徒の質問に女子生徒が答える。

「あの靴を見ながら自分があの靴を履いているイメージをするのよ。どういう服に合わせて、どこに行くか。そうすると、長い間眺めていても飽きないの」

女子生徒の言葉に男子生徒が呆れた顔をする。

「いや、でも、ただの真っ赤な靴じゃん。装飾もないし、めちゃくちゃシンプルだし。そこまで心惹かれるか?」

そう言うと女子生徒が澄ました顔をした。

「分かってないわねー。あの飾り気のないのがむしろいいんじゃない!触り心地もよさそうだし、何より履きやすそう」

「分かるー!あの靴、本当に欲しいんだけど!」と隣の女子生徒も賛同する。

二人がキャッキャと赤い靴の話題で盛り上がるのを見て、「わからねえ……」と諦めたように男子生徒がため息をついた。


午後の授業中、教頭はいつものルーティンとして校内を巡回していた。生徒たちが授業を受けているのを穏やかな笑みを浮かべて見ていると、ふとどこからか騒がしい声が聞こえてきた。

視線を巡らせると、ある教室の中で生徒たちが好き勝手に話しているのが目に入ってきた。気になって窓から様子を伺うと、どうやら教師がいないようであった。特に黒板になにか指示があるわけでもなく、自習ではなさそうだ。

教頭は不思議に思いつつも、窓際にいた女子生徒に声をかけた。

「先生はまだ来ていないのですか?」

そう尋ねるとその生徒が振り向き、頷いた。

「はい。たった今、職員室に行ってヤマモト先生を呼びに行こうと思っていたところです」

級長らしきその生徒はきっちりとした言葉遣いでそう答えた。

真面目なヤマモトが何の理由もなしに授業をすっぽかすとは思えない。ということは、勘違いで授業があると思っていないか、忘れているかのどちらかかもしれない。

(どうしたのでしょうか)

そう考え込んでいると男子生徒の一人がおもむろに口を開いた。

「なあ、ヤマモト先生、赤い靴のところにいるんじゃね?」

その言葉に生徒全員が一斉に黙り込む。異様な雰囲気に呑まれて、教頭も思わず息を飲んだ。

「赤い靴?」

「はい!体育館のバルコニーに置いてある謎の靴のことです!午前中に他のクラスの女子の何人かが授業も出ずにそこに行っているのが見つかったらしいんですよ!」

興奮したようにその生徒が言う。

「なんだかよく知らないんですけど、変な靴なんです!もしかしたらヤマモト先生もそこに……」

そうその生徒がいいかけると、一人の女子生徒が悲鳴をあげた。生徒全員が振り返ると、その女子生徒が体育館の方を見て青ざめているのが見えた。

目をこらせば、ヤマモトらしき人影がバルコニーにいるのが見える。

「ヤマモト先生、あの靴のところにいる!」と女子生徒が金切り声でさけんだ。

「なんなんだよ、あの靴!マジで気味悪い!」と生徒たちが口々にざわめき出す。

集団パニックのようになりかけている生徒たちをなんとかなだめた後、教頭は隣のクラスで授業をしていたイノウエの所に向かった。申し訳ないが、彼にこちらのクラスの生徒の様子も気にかけて貰うよう頼むと、狼狽しているものの彼は頷いた。それを見届けてから教頭は早足でその場を立ち去った。


バルコニーにいたのは、驚いたことにヤマモトだけではなかった。アイカワとイトウまでその場にいて、赤い靴を見つめていた。

教頭は目を見開き、思わず足を止めかけたが、立ち止まることなくゆっくりと彼女たちの所へ向かった。

「あの……」

恐る恐る三人に声をかけるも、誰も振り返らない。故意に無視をするような性格の三人ではない。

教頭は少し戸惑った顔をした後、もう一度彼女たちに聞こえるよう、ゆっくりと、かつ少々大きな声で話しかけた。

「ヤマモト先生、イトウ先生、アイカワ先生。何故ここにいるのですか?」

そう話しかけるとヤマモトとイトウがこちらを見た。しかし、アイカワだけは未だ赤い靴を見ている。

「あ、教頭先生……」

そう言ってヤマモトが目を丸くした。イトウが辺りを見回し、まだ赤い靴に目を落としているアイカワを見ると、彼女の肩をつかんだ。

「ね、ねえ、アイカワ……!」

そう焦ったように肩を揺らしながら言うと、アイカワがぱっと顔を上げた。そして教頭の顔を見た。どうやら三人とも、自分がこのバルコニーにいることが信じられない様子であった。

とりあえず反応があったことにほっとして、教頭が微笑む。

「やっとこちらを見てくれましたね。皆さん、こんなところで何をしているのですか?」

穏やかな笑みを浮かべて教頭が尋ねる。イトウがヤマモトとアイカワの顔を見ながら戸惑ったように口を開いた。

「職員室にいたら、なんだか急にあの靴が見たくなってしまって……。いても立ってもいられなくなったと思ったら、気づいたらここにいたんです。それで、この靴は見ているだけで心が満たされるので、ついここに長居をしてしまったみたいで……」

イトウたちの歯切れの悪い話を一通り聞いた後、教頭はとくに注意をすることもなく三人を仕事に戻らせた。一人になってからその赤い靴のほうを振り返る。赤い靴は日光に照らされて宝石のように明るく光を放っていた。しかし教頭には、その靴がなんだか妖しい雰囲気を醸し出しているように見えた。

教頭はその日は見回りをやめて、その場に残り、授業中にここに来る人間がいないか見張ることにした。しかし、教頭がここに立ってからというものの、放課後になって彼がその場を離れるまで誰一人として赤い靴を見に来る人間はいなかった。



放課後、教頭は至急教師たちを職員室に集め、ここ数日で赤い靴に関連して起こった出来事について、各々が体験した話を全て聞きだした。教師たちは情報を交換し合い、新情報に目を丸くしたり顔をしかめたりと百面相を作っていた。

「……というわけで、今後もこのようなことが続くと大なり小なり学校生活に支障が出ることが予想されます。皆さん、今までの話の中で何か気づいたことはありませんか?何かしらの対策をたてられるかもしれませんから、少しでも気になることがありましたらどんな些細なことでもいいので話してください」

そう言って教頭が教師たちに続きを促した。

しばらく教師たちは黙り込んでいたが、ふと、イノウエが恐る恐る口を開いた。

「ねえ、赤い靴が見つかる発端になった体育館の窓に映る幽霊というのは、結局『アイカワのことだった』ってことでいいの?」

イノウエの言葉に「多分……」とアイカワ本人も濁した返答をした。

「アイカワはスズキが赤い靴を見つけるずっと前からあの靴のことを知っていて、それでよくあの場所に行っていたということかな。その様子を生徒たちに窓越しに見つけられて、幽霊だと判断された……」

タカハシの言葉に「恐らくそうなんだろうな」とアイカワが罰が悪い顔をした。

「それで、アイカワと同じように他の生徒や教員たちもあの靴のところに吸い寄せられているってことか。しかも、ほぼ無意識に」

タナカの言葉に「多分ね」とヤマグチが頷いた。

話を黙って聞いていたスズキがふと口を開いた。

「……なんだか、男と女で赤い靴に対する反応が随分と違う気がするな」

ぽつりとスズキが言った言葉に、皆がスズキの方を振り向いた。視線を受けながらスズキは話を続ける。

「男はあの靴をただの靴としてしか捉えていないが、女は生徒も教員も一様にあの靴を『きれいな靴』だと褒めている。それだけじゃない、あの靴に対して異常な執着心を持っている」

それは今までの女性陣の反応と、男性陣の反応をそれぞれ見るに明らかだった。

「うーん、たしかにね。男性の中でもおしゃれに気をつかっている人だと、ああいう靴を素敵だと思うこともあると思うんだけどね。でも、男性であの靴を『きれいだ』と言った人は今のところいないし、ましてや時間が経つのも忘れてあの靴に見入っていたって話は一切聞かない」

わりと男性陣の中では洒落っ気のあるヤマグチや教頭に何も影響がないことを鑑みると、おしゃれが好き云々より性別の方が大きなファクターのようだ。

ヤマグチが再び口を開いた。

「なんだか童話の『赤い靴』みたいだね」

そう言って肩をすくめる。

「『赤い靴』?」

「うん。俺も話の詳細はあんまり知らないんだけど、あれ、女性が赤い靴を履いて脱げなくなっちゃった話だろ?今のところは皆眺めているだけだったけど、もし誰かが履いていたらどうなっていたんだろうね」

ヤマグチの言葉に職員室が静まり返った。イトウたち女性教員はぞっとしたような顔をしている。スズキは、今まさに誰かがそれを試そうとしているのではないかと思うといても立ってもいられなくなりそうだった。

「……まあ、あの靴に女だけが惹きつけられているってのは分かったが、だとしたら全女子生徒と、全女性教員があの場所に惹き寄せられるはずだよな。でも、あの場所に行っていない人間と、行っている人間がいる。その差はなんだ?」

静寂を裂いたタナカのつぶやきにヤマモトが口を開いた。

「あの、もしかしてですけど、赤い靴を見た人だけがあの靴に惹きつけられているのではないでしょうか?」

ヤマモトの言葉になるほど、と教師たちは納得する。

「確かにね。サイトウも女性だけど赤い靴のところに行ってないものね」

イトウに話を振られて、サイトウが「赤い靴って何の話?」と小首をかしげた。サイトウの無邪気な様子になんとなく全員の緊張感がぬける。こんな状態なのだから赤い靴の存在さえも知らないのだろう。その状態ならたとえ性別が女でもあの靴に惹かれることはないらしい。

「目視したら発動するタイプの呪いなんやな」とワタナベがつぶやいた。


会議が一段落ついたところで、「で、どうしましょう」と今まで黙って話を聞いていた教頭が教師たちに意見を求めた。教師たちは黙り込む。

「あれを男の誰かが隠し持てばいいんじゃねえの?」とタナカ。

「隠したら怖いな。移動させても誰か女性を使って元の場所に戻しにくると思うし」

アイカワが赤い靴を元の場所に戻したことを思い出し、タカハシが言う。

「上に布でもかぶせておくか」とスズキ。

「無駄やろうな。そんなことしても見に来るやつは見に来るやろ」

ワタナベの言葉にスズキも押し黙る。

赤い靴に原因があるのは明白だったが、何故例の現象が生じているのか一切分からないために、これといった解決策は出そうになかった。しかし、このままほうっておくと、いつしか全女子生徒や女性教員が授業にでなくなるだろう。それは困る。

誰もしゃべらなくなって職員室内が静まりかえった。さらさらと校庭の大きな桜の木の葉同士が風で揺れてこすれる音だけが聞こえた。


不意にガラガラと職員室の扉が開いた。弾かれるように教師たちが振り返れば、ひょこっと校長が扉の向こうから顔を出した。

「皆して何の話をしているの?」

校長の顔を見てほっとしたイトウが、赤い靴のことを切り出した。

しばらく校長は椅子に腰掛けて相槌を打ちながら教師たちの話を聞いていたが、

「なるほどね」と言うとにわかに立ち上がった。

「校長?」と教頭が不思議そうな顔で尋ねる。

教頭を見て微笑んだ校長は、次の瞬間とんでもないことを言い出した。

「その赤い靴のところに、私を案内してくれない?」

それを聞いて教師たちは目を丸くする。

「駄目ですよ。校長まで魅了されたら困りますし……」

タカハシがそう言って止めるが、「大丈夫よ」と校長は言い、にっこりと微笑んだ。こうなると、校長は止められないのだ。そのことを長い付き合いで知っている教師たちは説得を早々に諦め、校長を赤い靴のところに案内することにした。


赤い靴は相変わらず同じ場所にあった。イトウが率先して前に立ち、赤い靴の前で校長の方に振り返る。

「これです」

教師たちが固唾を呑んで見守る中、校長は赤い靴の前にしゃがみ込んだ。彼女はしばらくまじまじとその靴を眺めていたが、おもむろに右足に履いていた靴を脱ぎ始めた。

「校長?」

教頭が怪訝そうに尋ねる。教師たちの頭の中に(まさか)という言葉が浮かんだ。

そのまさかは的中した。校長は靴を脱ぐと、その赤い靴に足を伸ばし、みんなの前でその靴に足を通してみせたのだ。

「……どう?似合う?」

そう言って校長がいたずらっぽい笑みを浮かべる。一瞬状況が飲み込めなくてぽかんとした教師たちが口々に声を上げる。

「こ、校長先生!駄目です、呪われますよ!」とタカハシ。

「その靴が脱げなくなってしまうかもしれません!」とヤマモト。

「他の女性に嫉妬されるかもしれませんよ」とタナカ。

「校長先生が踊り出したら怖いなあ」とヤマグチ。

「校長、どうしてあなたはいつも相談もなしに……」と呆れたように教頭。

そんな教師たちを気にせず、校長は既にどちらの足にも赤い靴を履いていた。

そして、こちらにくるりと振り返る。

スズキは赤い靴を履いた校長をじっと見つめた。赤いカチューシャに、黒に近い檜皮色のプリーツドレス。襟元にあるカチューシャと同じ赤色のジャボは、桜のレリーフが彫られた金色のボタンで留められている。そこに黒いタイツと赤い靴という彼女のコーディネートは、おしゃれに興味がないスズキでも様になっているのが分かった。まるで、その靴が校長のためだけに存在していて、最初からその靴が彼女だけを待っていたのではないかと思うほどであった。

「ほら、よく見て。これ、ただの靴でしょ。そんなにうらやましがるほどきれいな靴ではないでしょう?」

そう言って校長が赤い靴を見せる。教師たちは黙り込んだ。

スズキには、履く前と履いた後とで、靴の見た目には特に変わりがないように見えたが、女性教員たちは銘々に頷いた。

「確かに、おしゃれな靴だとは思いますが、どこかで買うことが出来そうな靴のように見えます。授業を放り出してまで見に来たいとは思わないですね」

そうアイカワが言うと、「そうでしょう?」と校長が微笑んだ。

「え、ほんまに?」とワタナベが目を丸くする。

「あんなにあの靴にこだわっとったのにか?」

そう驚いたように尋ねると

「校長先生が履いているのを見たら、なんだかどこにでもあるようなありふれた靴に見えてきちゃって」とイトウが照れたように笑った。

「何だよそれ」とタナカが呆れる。

どうやらヤマモトも同じ感想のようだった。三人の心変わりにその他の教員は面食らいながらも、安堵していた。

「うーん、よく分からないけど、これで一件落着なのかな?」とタカハシが首をかしげる。

いまいち納得しきれていない教師たちのほうを校長が振り向いた。プリーツドレスの裾がふわりと膨らみ、赤い靴がキュッと音を立てる。

「来週の月曜日に、集会で生徒たちにも私がこの靴を履いているのを見せるわ。そうしたらきっと、誰もこの靴のことを気にしなくなるはずよ」

そう言って笑う校長を見てから教頭は教師たちの方に目をやった。

「とりあえず、先生方からも『あの靴は校長の私物だった』という話をしておいてくれませんか。一応、来週の月曜日までは私がここで生徒たちが来ないか見張っておきます」

そう言う教頭の言葉に頷きつつ、教師たちはその場を解散したのであった。


月曜日の朝礼で、全校生徒の前で校長が赤い靴を履いているのを見せると、女子生徒たちもすっかり赤い靴に興味をなくしたようだった。まるで初めから存在していなかったかのように一切赤い靴の話をしなくなった女子生徒たちに教師も男子生徒たちも奇妙な顔をしていたが、日々忙しない学校生活の中で次第に赤い靴のことは忘れられていった。



しばらく経ったある日、教頭が学校教育向上委員会からの書類を届けようと校長室に顔を出した。校長は来客用のソファに座ってあの赤い靴を柔らかそうな布で磨いていた。

教頭が彼女に近づき、その靴を見る。

「校長、あれからその靴について、何か異常はありませんか」

そう尋ねると校長が顔をあげ、微笑んだ。

「ええ、全く」

そう答えてから靴に目を落とす。

「この靴、まるで靴を履いていないように思えるほど軽くて、柔らかい触感の靴なの。この靴を履いてから、なんだか足が疲れにくくなった気がするわ。だから、感謝の気持ちを込めて毎日磨いてあげているのよ」

そう言って磨き終えた靴を履いた。校長の足下で赤い靴は誇らしげに光を放っていた。

「そうですか。まあ、それなら心配はいりませんね」

教頭はそう言ったきり赤い靴の話は切り上げ、持参した書類の話について校長と話し始めた。

(C)2022-シュレディンガーのうさぎ

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