陰鬱な鉄籠の中で 2
早速、舞台は村へと移ります。
それから少しして、三人を乗せていた自動車は村の少し手前の位置で停止した。
故障したというわけでも、迷ったというわけでもない。ただ、白雪の携帯に会社から電話がかかってきたのだ。
白雪は、少し迷ったうえで、かごめとその母に許可を取り、車を路肩に停めた。
自分たち以外は誰も通りそうにもない山道なのだから、中心に停めてもいいのではと思ったが、それをしないのが姫川白雪という人間だった。
窓の向こうに見える白雪は、重々しい黒い長髪に陽の光を浴びて、艶やかに輝いていた。
山道を登り始めて、すでに二時間近くが経過していた。
こんなにも深い山があることを、かごめは知らなかった。
まさに、深山幽谷。
これだけ人の手から逃れた雄大な自然は、中々お目にかかれないだろう。
この山には何かがあるのでは…、という妄想めいた考えが頭の奥に浮上し、かごめは眉間に皺を寄せてから目を閉じた。
もう、こういうのはやめにすると決めたのに。
放っておくと勝手な空想を浮かべる脳髄を、忌々しく思った。
「いえ、それでは駄目です。期日は守らせてください。二度目はないと伝えているはずですから…。ええ、無理だというなら、他を探すと伝えて構いません。最初に約束を反故にしたのは相手方なのですから」
窓の向こうから、白雪が電話先と会話する声が聞こえてくる。
自分と話すときとはまるで違う。
別人のように冷たく、大人びた声。
それを聞いていると、白雪は自分といるときだけ、私の知っている『姫川白雪』を演じているのでは、と思えてくる。
ぴん、と伸びた白雪の低い背筋を横目にしていると、不意に母が静寂を破った。
「アンタ、まだ書いてるの」
呆れているというか、疲れているような声が癪に障る。
本当は尋ねるのも嫌だ、という気持ちがハッキリと言葉の隅々に表れている。
「どうでもいいでしょ」
「あのね、お母さんは――」
「ああもう、分かってるよ。…書いてないから」
「そう、それならいいの」と何となく安心したような呟きだった。「物書きなんて、ろくなものじゃないんだから」
ギロリ、と斜め後ろから母の顔を刺すように睨む。
外で電話している白雪に聞こえるかもしれない、などと考える間もなく、かごめは吐き捨てるように言った。
「パパはライターでしょ。それくらいも分からないの」
「同じよ、アンタと同じ。何かよく分からない、妖怪だ、幽霊だ、ってオカルトじみたものばっかりで…」
「ああもう、やめて。パパがかわいそう」
本当は、母がしっかりと理解してあげる必要があったのではないのか。
「かわいそう?二人残された、私たちのほうが可愛そうでしょうよ」
「私は…!」
かわいそうなんて思わない。哀れまれる必要なんて、ない。
そう力強く否定しようと思ったら、心配そうな顔をした白雪が運転席に滑り込んできて、話はそこで終わった。
「えっと…、どうかしたの?」
問いかけてくる白雪に、母は、何でもない、と愛想笑いを返す。
こちらにも確認してくるように視線を向けてきた白雪と、一瞬だけ目が合うが、それを拒絶するかのように、ふい、と目を逸らし、深い森の奥を見つめた。
父は、オカルトライターだった。
各地を巡り、古い伝承や怪談を収集し、それを売れるように記事にする。
そんな怪談話を聞きながら育った私は、自然とそういう類のものに興味を引かれるようになり、怪談を題材とした小説家を目指すようになっていた。
最初のうちは、子どものかわいい夢だった。
一般的にかわいいかどうかは別として、時間が経てば、ただの思い出話になるような、口だけの夢だったのだ。
それが本格的な夢となったのは、父が取材に出たきり帰って来なくなって、一年ほどしてからであった。自分がまだ、十代の半ばだった頃だ。
失踪した理由については、今も分かっていない。
それどころか、生きているのか、死んでいるのかも。
ただ、少し前にとうとう、戸籍上、父は死んだ。
父の存在が、時間によって明確に殺されたことで、私の中で燃えていた夢への情熱と渇望も消えた。
無意味だと思った。
母は父の仕事を快く思っていなかったし、それに伴って、父の背を追うようにして飛び出した私の夢にも否定的だった。
…私は、この夢を叶えれば、父がひょっこり顔を出すのではないかと本気で信じていた。
とっておきの怪談があるんだ、と昔みたいにある日急に帰ってきて、私と母を困らせるのではないかと。
間に合わなかったのかもしれない。
どうしてだか私には、父を助けられなかったという奇妙な罪悪感があった。いや、というよりも、私の何かが父を死なせたのでは、という感覚だ。
口の中に石ころを詰め込まれて、段々と呼吸が出来なくなっていく。
そんな途方もない、どうしようもない無力感と窒息感に責め立てられた私は、都会で死んだように、惰性で日々を過ごしていた。
そうして、父のことを思い出している間かごめは、母の非難めいた声も、白雪の遠慮がちな呼びかけも聞こえず、ただぼんやりと窓の外を眺めるばかりであった。
白雪が車を出発させてから十分。
ようやく三人は祖母の暮らしていた場所に辿り着いた。
村へ続いていた形ばかりの道は、深い谷に沿って連なる崖へと繋がっていた。
とてもではないが、車で通れる道ではない。
そのため、農業で使うのだろう大型機械や、山を下りるための旧式の車が、山の一部を削り取って作られたような駐車場に並んでいた。
アスファルトで舗装されることもなく、野ざらしになっている土の上に並ぶ車たちは、白雪のもの以外は全て、灰のようなものが降り積もっており、あまり使われている様子はなかった。
初めて訪れる祖母の地元は、およそ想像していた何十倍も、現代から隔離されているように感じた。
車から降り、夏だというのにやたらと涼しい風に目を細めたかごめは、隣に並んだ白雪がどこか不安そうにしているのを見て、つい減らず口を叩いた。
「熊でも出たりして」
「え、や、やめてよ…」
幼い頃みたいに、びくりと肩を震わせた彼女に、よく分からない安心感を覚える。
「ばか、冗談だよ」と半笑いで言った。
まるで役に立たない携帯のナビアプリを見つめていた母は、確信のない様子で崖沿いの道を指差し、二人に先導する形で進みだした。
こんな外国の映画でしか見たことのないような道を歩くなんて、と肩を竦めて母に続いたかごめの後ろで、ぼそりと白雪が声を発した。
「かごめ…」
ぴたりと足を止め、10m近く離れてしまった母から視線を移動させたかごめは、自分の名前を呼んだ白雪を怪訝に見つめた。
「何?」
「え?」
「え、じゃなくて。何?私の名前呼んだでしょ」
負けん気の強さがはっきりと現れている眼差しと語調でそう問いかけられた白雪は、慌てた様子で首を振ったかと思うと、ややあって、駐車場と崖沿いの道の間に立てられている道標を指差した。
「村の名前…」
尻切れトンボみたいに途絶えた声に、苛立ちを覚えながらも彼女のそばに戻り、かごめもその道標を確認した。
薄汚れた木の板に、カビかと見間違うような黒々とした文字で、『籠目村』と書き記されていた。
「かごめ村、だって」と普段よりもさらに小さい声になった白雪が、独り言みたいに言った。
じっと、ぼろぼろの道標を見つめていたかごめは、何か運命めいたものを確かに感じながらも、それを否定するかのように淡白な口調で言い捨てる。
「何か、気持ち悪い」
自分と同じ名前の村。
これがホラー映画や小説なら、私はきっとここに呼ばれてきたことになるのだろう。
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